写経屋の覚書-はやて「今回も東郷の李称賛言説について見ていくんやね」

写経屋の覚書-なのは「うん。実はね、金泰俊って韓国人が、『日本における李舜臣の名声』「比較文学研究」第40号(東大比較文学会 1981 訳:李応寿)って論文を書いているの。ちょっと長いけど引用するね」

写経屋の覚書-金泰俊21
写経屋の覚書-金泰俊22

p21-p22
 Ⅱ日本における李舜臣の名声
  (1)李舜臣崇拝
       ――明治海軍の例――
 日本の著名な小説家、司馬遼太郎氏の韓国旅行記『街道を行く』の第二巻には、「李舜臣」と題された一章がある。この章には、釜山の龍頭山公園を訪問し、李舜臣の銅像を見学した日のことが描かれているのだが、司馬氏はその中で、李舜臣の優れた人柄に対する敬意、高雅清潔な性格と、しかも死に至るまで民族の大難のために挺身した。その武勇に対する尊敬の念、さらにはその簡潔で謙抑な文章への賞讃の念、などを語っている。また司馬氏は、同じ章で、明治時代になお残っていた、日本国民の李舜臣に対する敬意の一端を紹介している。
 ――維新後、海軍を創設してまだ自信のなかったころの日本海軍は、東洋が生み出した唯一の海の名将として李舜臣が存在することに気づき、これを研究し、元来が敵将であった彼を大いに尊敬した.一九〇五年(明治三十八年)五月、極東に回航してきたバルチック艦隊の出現に対して、海軍大将東郷平八郎麾下の日本国聯合艦隊は、釜山西方の鎮海湾を借りて持ちぷせていた。いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章を借りると、


――当然、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。彼の人格、彼の戦術、彼の発明、彼の統御の才、彼の謀、彼の勇、一として賞讃に値いせざるものはない。


と、ある。明治期の日本の海軍士官が、李舜臣という三百年前の敵将に対して、いかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。その後の海軍士官にもこの伝統があり、「壬辰の乱以来、むしろ韓国人のほうが忘れていて、日本人のほうが李舜臣に強い敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」と言う人もあるほどである。龍頭山の頂上に聳えている李舜臣の銅像は、中国風の甲冑を鎧い、左手に大剣を持ち、はるか南方をにらんでいる。南方とは言うまでもなく日本であり,李舜臣はまぎれもなく韓半島(朝鮮半島)の守護神にちがいない。――
 また、李舜臣の銅像が立っている場所が、むかしの対馬藩の倭館の構内であり、対馬藩が屋敷神としてたてた金比羅宮の敷地であったことを知って、きわめて微妙な感情を持ったとも司馬氏は書いている。この文章からも、今日に至るまで日本人の心に連綿として続いている畏敬の心を読み取ることができるであろう。
 一方、東郷平八郎がパルチック艦隊を撃破して凱旋したとき、日本の朝野が一堂に会して盛犬な戦捷祝賀会が催されたことがあった。その席上、東郷平八郎は数々の讃辞に答えてこう語った。


不肖東郷を或はネルソンに喩へ、或は李舜臣に擬して賞讃されましたこと、身に余る光栄です。然しながら、ネルソンはいざ知らず、李舜臣になぞらへたのは当たりませぬ。不肖東郷如きは、李舜臣の足元にも遠く及ぶ者ではありませぬ。


 このように、李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである。

写経屋の覚書-フェイト「え?これって、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』掲載の話によく似ているよね?そこから引用したのかな?」

写経屋の覚書-なのは「注釈がないから分からないの。ただ、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』掲載そのままの文章じゃなくて、文語体になっているし、修辞も過剰じゃないから、『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』からの引用じゃなくて、それに先行するものを参照している可能性はあるんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「ほんまや。ネルソンの扱いとか下士官云々やなくて足元やとか、修辞がだいぶ変わっとるよね。この記述が先行文献にあって、安藤らの誰かと金泰俊が別個にそれを見て書いたいう可能性はあるやんね。せやけど、典拠についての注釈もないからたどりようがあらへんよ。もったいない話やねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「何にしてもこの祝賀会場の話の典拠は分からないってことなんだね…」

写経屋の覚書-なのは「あとこの金論文だと『街道をゆく』の方を取り上げているんだけど、正確な引用とまではいけてないんだよね。「むしろ李朝以来、韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」と言った人の箇所を原文では「と、私に語った韓国人もある」なのに「と言う人もあるほどである」になっているのは論旨に影響が出てくるかもしれないんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「言うたんが韓国人なんやったら、「李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである」っちゅう結論に対する担保として(よわ)なるから、日本人が言うたような感じに引用を改竄したんか、単に韓国語版の『坂の上の雲』がそこを誤訳したんか、李応寿が訳する時にまちごうたんかは分からへんけど」

写経屋の覚書-フェイト「小説家の書いたことを典拠を調べないまま引用したり、典拠自体の不明な話を元にして「李舜臣に対する日本海軍の敬意は、ある一つの固定した信仰のようなものだったのである」って結論を出すこと自体どうかと思うけどね…」

写経屋の覚書-なのは「だよねw それじゃ現時点で分かっていることをまとめるよ」

写経屋の覚書-李A
写経屋の覚書-李B

写経屋の覚書-フェイト「李舜臣に祈った海軍軍人の実在は証明できない。日本海軍が李に敬意を払ってたことは有り得そう。東郷の李称賛言説は典拠も来歴も不明、現時点で分かっているのはこの3つなんだね」

写経屋の覚書-はやて「Polalisさんの9年前の調査の時点からほとんど進んでへんねんなぁ。東郷が李について触れたことがなかったとも断定でけへんけど、基本的には、東郷が李を称賛したという証拠を出して証明するんは私たちやなくて、そういう言説の存在を肯定して主張する方のお仕事やよ」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね。もし、その証拠が提示されたらそれはそれでおもしろいよね。検証する楽しみが増えるわけだし」

写経屋の覚書-なのは「うん、はやてちゃんとフェイトちゃんの言うとおりだね。とりあえず調査はここまでにしておいた方がいいかな」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、Polalisさんが「むしろ、東郷を媒介として喧伝される、という当たりにもの悲しさを感じるw」って言うたはったんやけど、東郷やネルソンを引き合いに出したり担保にして喧伝せなあかんいうんは悲しい話やよね」

写経屋の覚書-フェイト「あー、そっか。李単体で称賛されるんじゃなくて、東郷がネルソンよりすごい!と言ったという形だもんね。有名人が取り上げたから注目される、って構造なんだね」

写経屋の覚書-はやて「せやねん。朝鮮の近現代史やその研究には「日本人が評価した」「日本人の著作に拠った」が正当性の担保、裏打ちというか、「日本人に認められた」「日本人のお墨付き」みたいな感じで一つの権威みたいになっとることが多いんよ。あの李泰鎮も日本人学者の研究を引用したり、東大の講演に毎年招かれてたんを自分の権威づけに利用して成功しとったもんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「バファリン作戦までは成功してたんだけどねw じゃ、李舜臣称賛言説についてはこれでおしまいにするね」

東郷平八郎と李舜臣(1)
東郷平八郎と李舜臣(2)
東郷平八郎と李舜臣(3)