写経屋の覚書-なのは「戦後朝鮮人の集団不法行為はちょっとお休みにして、今回からは「東郷平八郎が李舜臣を讃えていた」という言説について見ていくよ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?それってかなり前にPolalisさんが論証してたよね?」

写経屋の覚書-はやて「せやなぁ。寧覇総督府弾薬庫に「東郷平八郎と李舜臣として載っとるし、tokoiさんのHPでもまとめられとったやんね。もう9年近く前の話になるんやねぇ…って、え?tokoiさんのHPなくなっとるよ!」

写経屋の覚書-なのは「そうなの。infoseekのHP提供サービスが廃止されたせいなんだよね。で、せっかくまとめられたのが見られなくなったのはもったいない話だし、作者なりにまとめ直して見ていこうっていうのが今回の趣旨なの」

写経屋の覚書-はやて「手抜き企画(ちゃ)うんw」

写経屋の覚書-なのは「そ、そんなことないよ。Polalisさんのまとめでは触れられてなかったものや省かれていたものとかも見ていくんだから」

写経屋の覚書-フェイト「そうなんだ。それでどう見ていくの?」

写経屋の覚書-なのは「そうだねぇ。じゃ、司馬遼太郎から見ていこうかな」

写経屋の覚書-はやて「司馬?東郷と関係あるいうたら『坂の上の雲』やね!」

写経屋の覚書-なのは「うん。まずサンケイ(現在の産経新聞)掲載時の文を見るよ」

写経屋の覚書-坂の上_新聞

司馬遼太郎『坂の上の雲』第1187回「抜錨(十三)」(1972年3月27日付サンケイ夕刊)
 余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
「李舜臣提督の霊に祈った」
 という記録を書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
 当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文堂刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
 もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、記述によるとどうやらこの時期水雷艇長をつとめていたようだが、そういった名の水雷艇長は東郷艦隊の編成には見当らない。あるいは水野広徳の筆名であるかもしれない。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。

写経屋の覚書-フェイト「水野広徳か川田功って人が、李舜臣に祈ったって書いてるっていうんだね」

写経屋の覚書-なのは「水野は海軍少佐、水雷艇第41号艇長として日露戦争に参加してるんだけど、川田も海軍少尉として水雷艇に乗っていたみたいなの」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、司馬は連合艦隊に編成されとった水雷艇の艇長に川田いう名前があらへんから、水野のペンネーム(ちゃ)うか?いうことも考えたんやね」

写経屋の覚書-なのは「新聞掲載の時点では川田功について調べきれてなかったか、別の理由かは分からないけど、川田と水野は同一人物じゃないかって一応考えたみたいだね。だから単行本に収録の際は川田についての記述を書き改めているの」

写経屋の覚書-坂の上_単行本

司馬遼太郎『坂の上の雲』第6巻(文藝春秋 1972)
 余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
「李舜臣提督の霊に祈った」
 という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
 当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文館刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
 もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。

写経屋の覚書-フェイト「川田と水野が別人だって分かったから、「記述によるとどうやらこの時期水雷艇長をつとめていたようだが、そういった名の水雷艇長は東郷艦隊の編成には見当らない。あるいは水野広徳の筆名であるかもしれない」を削ったんだね」

写経屋の覚書-はやて「なるほどなぁ。ほんならその川田の『砲弾を潜りて』の原文を見たいとこやね」

写経屋の覚書-なのは「はやてちゃん、それがね…川田功『砲弾を潜りて』(博文館 1925)の当該箇所っぽい箇所はこんな文章なんだよ。文吉というのは水兵の名前ね」

写経屋の覚書-川田207
写経屋の覚書-川田208


(前略)苦みを免れる為には死んだ方が優つて居るが、自殺は余りに卑怯な処置なのを如何しよう。彼は痛みに負けて居ないで、屈服させなければならないと考へ、上甲板の暗黒の中へ再び出て行つた。何をするのも大儀なので、海図筐の中へ首を突込んで現在の艇位は何処であるかを見た。云ふ迄もなく日本海の真中で、蔚山の東方に方つて居た。其処の港や街の名を辿つて居ると、何れも秀吉が朝鮮征伐をした時の古戦場たらざるは無い。此思ひ出は、当然世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させすには置かなかつた。彼の人格彼の戦術、彼の発明彼の統御の才、彼の謀、彼の勇、一として賞讃に価せざるものは無いが、殊に此時文吉を動かしたのは、李舜臣が日本から打つた弾丸で左肩をやられ、流血淋漓縷となつて踵に注いだのに、舜臣黙して痛苦を口にせず、戦罷みて後始めて刀を以て肉を割き、丸を抽出したが弾丸数寸の深さに入つて居つて、観る者面色墨の如くなつたのに、舜臣自若として談笑して居つたと云ふ事である。一度此事を思ひ出すと、文吉の忍耐力は十倍し、突剌して来る様な痛みに逢ふ毎に、彼は心の中で舜臣々々と呼んで、痛みに堪へる勇気を振起させた。偉大なる古英雄の遺業ではないか、三百年後の今日舜臣の名は文吉の痛みを軟げる力となつた。

写経屋の覚書-はやて「へ?文吉いう人が傷の痛みを(こら)えるために李の名前を呼んだだけなん?Polalisさんも「一水兵である文吉の「痛みを軟げる」のが「遺業」とされるとは、いくら李舜臣と雖も「お気の毒」な話である」って突っ込んどったけど、えらいしょぼい「名前を呼んで」やねw」

写経屋の覚書-フェイト「はやて、なのはと私の名場面が台無しだよ。えーっと、艇長が祈ったんじゃないし、鎮海湾を出るときでもないし…司馬さん、ほんとに『砲弾を潜りて』を読んだのかな?って言いたくなるよね。水野著作については出版社と出版年を明記して、しかも新聞掲載時に『戦影』の出版社を「博文堂」と誤記したのを単行本ではちゃんと「博文館」に訂正しているのに、川田著作の方は単行本の時点でも書かないままだし」

写経屋の覚書-はやて「もし、ほんまに読んでそう書いたんやったら、潤色とか誇張いうレベル(ちゃ)う捏造やし、読まんと書いたんやったら、「この「砲弾を潜りて」をみると」なんて書いたらあかん。なんぼ小説やいうても創作いう範疇を越えて詐欺師の行為か不誠実や。作者がいつもなら嫌論文や嫌本の著者へ対してやっとる批判を向けなあかんよ…」

写経屋の覚書-なのは「そうなの。小説は創作でいいんだけど、現実の文献を引用したってしているところはきちんと引用しなきゃね。そこで、Polalisさんは『坂の上の雲』掲載の半年前の著述に注目したの」

写経屋の覚書-街道をゆく67
写経屋の覚書-街道をゆく68

司馬遼太郎『街道をゆく』第33回「李舜臣」(『週刊朝日』1971年8月13日号)
 明治三十八年五月、バルチック艦隊が極東にやってくることに対して、東郷艦隊は釜山の西方の鎮海湾を借りて待ちぶせていた。いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章をかりると、
「……当然、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。かれの人格、かれの戦術、かれの発明、かれの統御の才、かれの謀、かれの勇、一として賞賛に価いせざるものはない」
 と、ある。明治期の日本の海軍士官が李舜臣という三百年前の敵将に対していかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。その後の海軍士官にもこの伝統があり、私の知っているかぎりでも元海軍大佐正木生虎氏、同山屋他人氏などもそうである。
「むしろ李朝以来、韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」
 と、私に語った韓国人もある。

写経屋の覚書-フェイト「司馬さんは、日本人の李舜臣称賛を韓国人に教えてもらったってことなのかな?」

写経屋の覚書-はやて「韓国人に、川田の著作にこんな話があるでーって言われて、自分でちゃんと裏取らへんまま書いたんか、自分の知っとった話とごっちゃにしてしもたんかもしれへんね。せやから川田が水野と同一人物かもしれへんいうまちごうた推測してもおたんと(ちゃ)うんかな?」

写経屋の覚書-なのは「そういうことなの。つまり、司馬に東郷の李舜臣称賛を教えた韓国人がいる、そして、そもそもその称賛言説の生成、伝播には韓国人或いは戦前の朝鮮人が関与している疑いがあるってことなの。1970年代初期の司馬と韓国人との交友関係がわかれば、伝播経路についても情報が得られるかもしれないんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「金達寿とか姜在彦あたりかなぁ。でもこの人らやったら、司馬も名前書くやろうしなぁ。やっぱりそこまで付き合いの深くない別の韓国人から聞いたんと(ちゃ)うかな?直接金素雲から聞いたいうことはちょっと考えにくいし」

写経屋の覚書-フェイト「でも、誰に照会すればいいんだろう?」

写経屋の覚書-なのは「分かるとしたら関川夏央あたりかなぁ…しかも司馬は『坂の上の雲』より15年以上後の『「明治」という国家』(日本放送出版協会 1989)のp209-210では、「バルチック艦隊が迫っているというときに、水雷艇の艇長だった水野広徳という若い士官は(中略)対馬の湾に自分の水雷艇とともにひそみながら、李舜臣の霊に祈ったといいます」と、川田じゃなくて水野が祈ったって書いちゃってるんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「司馬さんの中では、海軍軍人の誰かが祈ったことで固定されちゃったんだね…」

写経屋の覚書-はやて「記憶もあいまいなまましゃべったんを文字起こしして通したんやろね。とりあえずの結論としては、司馬は韓国人の受け売りか、いろいろごっちゃにして書いてもおたけど、李舜臣の霊に祈った海軍軍人の存在は証明でけへん、ってことやね」

写経屋の覚書-なのは「そんなところだね。じゃ、今回はここまでにして、次回は東郷言説と韓国人、朝鮮人との関係を見ていくね」

写経屋の覚書-フェイト「今回も警察署襲撃事件を見るのかな?」

写経屋の覚書-なのは「違うよ。今回はね、テキヤとの衝突抗争事件を見るの」

写経屋の覚書-はやて「テキヤいうたら祭りの露店とか出しとる人やんな。で、どんな事件なん?」

写経屋の覚書-なのは「津別事件って言ってね、北海道の東部、網走市の隣にある津別町で起きた事件なの。じゃ、北海道警察史編集委員会『北海道警察史(2)昭和編』(北海道警察本部 1968)のp773~777を見るね」

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 第二 津別町におけるてきやと朝鮮人の抗争事件

てきやの結束 終戦後の道内各地に暴動事件を引き起こした華人・朝鮮人等は、年末までに大半が送還されて平穏を取り戻しつつあったが、昭和二十二年になると、残留した華鮮人が、各地祭典等の露店を荒すなどの事件を起こすようになった。これに対して露店側でも敗戦国民のあきらめもあって、その都度親分が子分をなだめて謝罪するというように、下手に出て事の拡大を防止して来た。
 しかし、全道各地の夏祭りが盛んとなり、その都度行なわれる華鮮人の横暴に対し、てきや側の憤りは頂点に達していた。すなわち、「このような横暴に対し断固一撃を加えなければ、一般民衆も恐れをなして露店に集まらなくなる」ということから、てきや親分の安達久蔵・関久保・山本律之助・出村増次・吉村良治・小高竜湖等が集まり、本道の祭典の最後である津別神社の秋祭りに反撃するということを謀議し、これには全道のてきやはもちろん、内地のてきやも呼んで大挙露店を張ることとして、津別神社の秋祭りを迎えたのである。
津別神社内での小ぜり合い 昭和二十二年九月十日の津別神社祭典は、かつてないほどの露店が立ち並び、町民の出も多く盛況をきわめていた。昼近くになって人出も増した午前十一時三十分ころ、渡辺吉夫(二二)の針回し遊技場に酒気を帯びた朝鮮人三名が現われ、遊戯料を支払わずに遊んだうえ、露店をひっくり返したのである。その場に居合わせたてきや数名は、その三名を捕まえて袋叩きにしたことから、大事件に発展することが予想されたが、その場はてきやと朝鮮人の両代表が中に入り、両者話し合いのうえ落着することとなった。
 しかし、これに憤慨した朝鮮人側では、さっそく朝鮮人連盟北見支部に連絡をとり、応援を求めたのである。そのため津別町内には「朝鮮人が復讐のため多数来町し、街を焼き払う」とのうわさが流れ、これを聞いたてきや側では全部の露店をたたみ、約百名が集まって北見からの朝鮮人を迎え撃つ気構えを示し、不穏な形勢となった。
警備措置 当時津別町には巡査部長派出所があり、巡査部長・巡査の二名が配置されていたが、祭典当日は隣接駐在所から巡査一名と美幌警察署から巡査四名の計五名を派遣し、七名が祭典中の取締りに当たっていた。しかしこれだけでは、万一てきやと朝鮮人の出入りが発生した場合に対処し得ないので、本署司法主任の川村松正警部補以下制服員七名、私服員二名の計九名を派遣、現地七名と合流して警備に当たることとした。また、地元消防団員七十名の応援も得て、これを三班に編成し、一班はてきやの集結場所、一班は応援朝鮮人の来町阻止に配置、他の一斑を予備隊として有事に備えた。
両者の衝突 連絡を受けた朝鮮人連盟北見支部では、同胞約二十名を集め、トラックに乗車して同日夕刻北見を出発し、途中美幌町市街で竹槍・棍棒等を積込み、さらに同胞を集め二台のトラックに分乗した約五十名が、午後七時三十分ころ津別へ向かった。この連絡を受けた川村警部補は、これを阻止すべく美幌に向かい、上美幌小学校付近で朝鮮人のトラックと遭遇したので、状況を説明して引き返すことを勧告した。朝鮮人は「同胞の負傷者を収容するために来た。見捨ててはおけない」と主張して譲らなかったが、結局「負傷者は警察が収容する。てきやの代表と会談して円満に解決するように」との川村警部補の提案を了承した。
 一方、てきや側では、警備員の阻止をもきかず津別町市街から約千五百メートル離れた通称五十八番踏切付近まで前進し、ここに待ち伏せて朝鮮人を迎え撃つ準備をしていた。かくて朝鮮人のトラックが現場に到着するや、てきや側ではトラック目がけて殺到しようとした。警戒中の警察官・消防団員がかろうじてこれを食い止め、川村警部補が中に入って双方から各三名の代表者を出して交渉させることとした。
 てきや側から上州寄居一家の関久保(旭川)、源清田大国玉一家の山本律之助(名寄)、武田義雄の三名、朝鮮人側から長谷川某、友田某、坂本某の三名を出し、互いに約五十メートルの距離をおいて交渉に入ったが、意見が対立したまま交渉は進展せず、午後十時三十分ころになった。白鉢巻をしたてきや側は、所々に焚火をし酒で気勢をつけている。午後十時五十分ころ、津別町消防団では全消防団員の非常召集と町民に対する警戒のため、サイレンを吹鳴したところ、てきやが「朝鮮人が町に火をつけた」と言い触らしたため、現場はさらに喧騒をきわめた。そこで警察では、最後の解決策として暴行朝鮮人三名に謝罪させ、破壊した露店を弁償させることとし、朝鮮人三名を選定して一時間以内に前記三名を連行することを条件に津別町市街に向かわせた。このころ、町民も続々と現場につめかけ、その数およそ三百名に達し、朝鮮人の平素の横暴をなじり、今にも朝鮮人のトラックに打ちかからんばかりの形勢であったが、警察官・消防団の制止により大事が食い止められていた。
 かくて津別町市街から朝鮮人の来るのを待つうち、午後十一時二十分ころ、朝鮮人側から「バン!」という音が聞こえ、打ち上げ花火のようなものがトラックの上を飛び越えててきや側の方に落下した。これを朝鮮人の挑戦とみたてきや側では突然騒然となり、警察官等の制止もきかず喚声をあげてトラックに迫って包囲し、後方の町民もこれに加勢して石を投げつけた。これに応戦すべくトラックから降りた朝鮮人は、片っぱしから棍棒を見舞われ、逃げる者はてきやの袋叩きにあった。
 乱闘は約三十分間に及び、警察官・消防団員・てきや親分等の制止によって、午後十一時五十分ころようやく収まるに至ったが、この衝突で朝鮮人側に死者二名、重傷者十三名、軽傷者六名を出し、てきや側では軽傷者六名を出した。
事態の収拾 翌十一日、美幌警察署は朝鮮人・てきや双方の関係者を調査し、五十三名を騒擾罪および殺人罪で検挙したが、てきや側はなおも市街地に集結し、全道各地のてきやに連絡をとり、また、朝鮮人側も、全道の朝鮮人連盟支部等に連絡するなど、全道的事件に発展しそうな不穏な形勢となった。
 しかし、警察側では警備警察官を増員して警戒に当たる一方、両者の説得に努め、進駐軍に連絡した結果、旭川の進駐軍から飛行機四機が出動し、約二時間にわたり津別上空を超低空飛行したので、双方とも恐れをなし、さしもの事件も全く鎮静するに至った。

写経屋の覚書-はやて「最初に酔っぱろた朝鮮人3人が、お金払わんと遊んだ上に店ひっくり返しよったんで、みんなで袋叩きにしたんやな。で、朝鮮人とテキヤの代表者が介入して話し合うことでとりあえずその場は収まったと」

写経屋の覚書-フェイト「でも、朝鮮人側は朝連支部から応援を呼び寄せて襲撃の用意をしたんだね。テキヤの方もそれを迎え撃つ用意を始めて、警察も衝突を防ごうと手配をしたってことかな」

写経屋の覚書-なのは「うん。警察の制止で何とか衝突は阻止されながら、朝鮮人とテキヤの代表者同士の話し合いが続いていたんだけど、朝鮮人側から花火のようなものがテキヤ側に打ちこまれ、ついに乱闘になったの」

写経屋の覚書-はやて「…どうせ、テキヤ側からの挑発があったとか、これを口実にしてテキヤ側が先制攻撃をしてきたとかいう言説があるんやろなぁ。「本道の祭典の最後である津別神社の秋祭りに反撃するということを謀議」っていうさかい、テキヤ側が襲撃計画を練っとったとか言うて」

写経屋の覚書-なのは「それがほんとにあるんだよね。林白言『じゃがいもの花』(北海道新聞社 1976)って本なんだけどね。それはほっておくとして、祭りのたびに朝鮮人たちが露店に横暴を働くということで、テキヤの方も津別神社の祭りにあたって反撃する準備はしていたのは事実だろうね」

写経屋の覚書-フェイト「警察や消防団、テキヤの親分がテキヤ・町民と朝鮮人の乱闘を何とか制止したけど、朝鮮人側には死者が出たし、テキヤ・朝鮮人両方とも逮捕者が出たんだね」

写経屋の覚書-はやて「ほんでその後、警察は警戒を厳重にして両者の説得を行ない、進駐軍も警戒飛行をしたから事態は鎮静化したってことやけど…そんなに簡単に収まるもんなんかなぁ?」

写経屋の覚書-なのは「実は、進駐軍軍政部の司令官室で、司令官と警察署長の立ち会いのもとで朝鮮人代表者とテキヤの大親分が手打ちをしたっていう話はあるんだけどね…」

写経屋の覚書-フェイト「けど?」

写経屋の覚書-なのは「ソースが『実録○○』の類の週刊誌なの」

写経屋の覚書-はやて「あー、暴力団の記事ばっかり載せとる週刊誌やね。ちょっと前まではコンビニにも置いとったなぁ」

写経屋の覚書-なのは「うん。作者が2年ほど前に、時間潰しに寄ったコンビニでふと見つけて立ち読みしたら、戦後の親分特集の記事の中にその話があったの」

写経屋の覚書-フェイト「警察史にも出ている上州寄居一家の関久保、源清田大国玉一家の山本律之助、武田義雄あたりの話なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「作者もはっきりとは憶えてないんだけど、たしか源清田大国玉一家の山本の兄貴分か親分筋の人物だったように記憶してるの」

写経屋の覚書-はやて「まぁ、有りそうな話かもしれへんけど、裏は取れへんしなぁ」

写経屋の覚書-なのは「もちろん。この事件は当然『朝鮮進駐軍』と関係もないんだけど、前回定義した『戦後朝鮮人の集団不法行為』の範疇に入るか少し微妙といえば微妙なんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「あ!そっか。祭りのトラブルから発生した集団抗争で、官憲への反抗でもないし戦勝者意識による横暴な行動でもないもんね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことなの。まぁ、朝鮮人の関与した事件だというのは事実だし、とりあえずテーマは『戦後朝鮮人の集団不法行為』にしておくよ。じゃ。今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件

 渋谷事件

写経屋の覚書-なのは「今回も警察署襲撃事件を見るよ」

写経屋の覚書-はやて「今回はどこの県の話なん?」

写経屋の覚書-なのは「山形県の尾花沢派出所が襲撃された事件なの。じゃ、山形県警察史編さん委員会『山形県警察史 下巻』(山形県警察本部 1971)のp948~951を見るよ」

写経屋の覚書-山形948
写経屋の覚書-山形949
写経屋の覚書-山形950
写経屋の覚書-山形951

四、闇米買い出しの朝鮮人による尾花沢巡査部長派出所襲撃事件
 終戦後間もない昭和二二年(一九四七)一〇月二〇日午後三時ころ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人七名が、楯岡警察署管内の尾花沢巡査部長派出所を襲い、窓ガラスその他を破壊した上、警察官三名に重傷を負わした事件が発生した。
 当時、本県警察部においては、食糧事情のひつ迫と新米期の出廻りに伴う米の買出しを強力に取締っていた。
 そのころ、尾花沢町(現在市)には約六〇名の朝鮮人が定住していた。これらの朝鮮人は定職とてなく、いわゆる闇商売をして生活していたが、尾花沢町を中心とした各村は米の生産地であったから、これら地元朝鮮人と連絡をとり、京阪地方や京浜地方の朝鮮人が米の買出しに多数入り込んだ。その数は次第に増加し、常時五、六十名、多い時には一〇〇名に達することもあった。時の楯岡警察署長は警視安達六郎で、尾花沢には巡査部長派出所があり、巡査部長清野伊勢司(三〇)が、巡査堀兵之助(五二)、同小林富士夫とともに勤務していた。必要に応じて近くの駐在所を繰り上げ、数名の集合勤務の態勢をとっていたが、多数の朝鮮人の買出し部隊を取締るには手薄であった。
 昭和二二年二月一日山形県訓令第六号による改正県警察官定員表によると、事件当時の楯岡署の定員は次のとおりである。

 警視一、警部二、警部補五(保安一、経防一、司法一、公安一、神町一)、巡査部長一六(署二、派出所三、保安一、経防一、司法一、会計一、公安一、神町五)、巡査一〇九(外勤三二、保安一、経防三、司法四、会計二、内勤五、公安二、神町六〇)、合計一三三名。

 右のように定員の上では多数であるが、なにせ神町警備隊に半数の警察官がさかれるので、他の派出所はどうしても手薄になっていた。
 こうした警察官の手薄に乗じ、日ごろのうつ憤を晴らそうと、前記昭和二二年一〇月二〇日
        本籍 朝鮮慶尚北道安東部八総面四の二七六
        住所 山形県西置賜郡小国町 金達俊事  近藤正雄(二六)
ほか六名は、尾花沢町の飲食店戸田屋こと戸田常蔵方で、酒を飲みながら派出所襲撃を相談し、同日午後三時ころ、右七名は派出所に行った。丁度その時清野部長らは外出し不在であったが、彼らはこれを奇貨として派出所内に侵入し、窓ガラス、椅子その他の器物を破壊し、派出所の門標を取り外して奪いいったん引き上げた。その後午後三時五分ごろ清野部長と堀巡査が帰ったが、右の状況を見て驚き、ただちにこの状況を本署に報告した。丁度そのころ前記七名の朝鮮人が再び派出所にきて、清野部長に対し「一〇月一一日尾花沢駅で米の取締りの際、鮮人に対しぐずぐず言うものはけん銃を撃ってもよいと部下に激励したのは何事か」と詰問し、ののしった。この時尾花沢町在住の朝鮮人三十数名も派出所に集り、口々にこれを声援した。そのうち興奮した鮮人林善沢は、机の上にあった小火鉢を清野部長の顔めがけて投げつけるなどの暴行をはたらき、事態は拾収できないような混乱状態におちいった。
 急報に接した楯岡署では、全員の非常召集を行ない、公安主任高橋勇警部補以下七名を第一陣として尾花沢に向け出発せしめ、鎮圧に当たったが、その間経済防犯係巡査小山精司が暴行鮮人のため胸部打撲傷を受けた。ついで第二、第三陣を貨物自動車で出発させる一方、隣接新庄警察署の応援を受けこれが鎮圧に当たった。さらに事態の険悪化に件い神町進駐軍のMPに応援を求めて容疑者の逮捕に当たり、二九名を進駐軍の命令によって逮捕した。
 これらの被疑者は留置取調べの上、暴力行為等処罰に関する法律違反・傷害・器物毀棄・公務執行妨害被疑事件として、同月二三日送検した。
 この事件で警察の受けた損害は、次のとおりである。

前頭部長さ一〇センチ、深さ骨膜に達する割傷、右大腿部打撲傷および後頭部打撲傷(全治一か月)
                  巡査部長  清野伊勢司(三〇)
右拇指打撲傷(全治三週間)     巡  査  堀兵之助 (五二)
胸部打撲傷(全治三週間)      巡  査  小山精司 (二二)
 派出所器物の損害状況
   木製椅子    一基    一五〇円     硝子戸    七枚 五〇〇円
   窓硝子    四九枚  六、四五〇円     警察署の門牌 一枚 三〇〇円
   瀬戸火鉢    一個    一五〇円      計      七、五五〇円
                                (村山警察署沿革誌による)

 この事件に対し、時の県警察部長藤本好雄は次のような談話を発表し、この種事犯に対しては断固取締る旨の所信を明らかにした。

 「警察としては、こういうような集団的威力で警察の執行や施設を破壊するものは徹底的に取締る。警察は集団威力に対しては決してビクビクしない。どれだけの人数をくり出してもやる。この事件を契機として米の買出しをするものを絶滅することにする。売る人もこれからないように協力してもらいたい」       (昭和ニ二年一〇月二二日付山形新聞)


写経屋の覚書-フェイト「この事件も闇米買出しの取締、没収が発端なんだね」

写経屋の覚書-なのは「1947年10月22日付朝日新聞(東京版)にも事件の事は載っているけど、内容はほぼ同じだから省略するよ」

写経屋の覚書-はやて「「神町警備隊に半数の警察官がさかれるので、他の派出所はどうしても手薄になっていた」ってあるんけど、「神町進駐軍のMP」って出てくるから、進駐軍警備のことなんかな?」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。で、闇米を没収された朝鮮人たちが派出所を襲ったってわけ」

写経屋の覚書-フェイト「東北は米の産地だから、どうしてもこの手の事件が多くなるんだね。でも日本人だって闇米の買出しはしてるよね?」

写経屋の覚書-なのは「当然だよ。人口比から見ても日本人の方が多いよ。ただ、朝鮮人・台湾人は取締や没収に対して抵抗したり、この事件のように復讐や米奪還のために警察を襲ったりするってことなの」

写経屋の覚書-はやて「日本の支配から解放されたし、日本の法律や官憲がなんぼのもんや!って意識があったんやろね」

写経屋の覚書-なのは「法秩序についての強制力を持つ官憲の権威が揺らいでいたわけだからね。この『戦後朝鮮人の集団不法行為』シリーズでは、そういった終戦によってもたらされた地位や意識に基づく事件を取り上げて、一般的な犯罪事件は取り上げないんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「『戦勝者意識による暴虐事件』っていうやつだね。一般的な犯罪、凶器を使用しての集団強盗や殺人事件は別に『戦勝者意識』を持ってなくても起こるし、終戦直後の特殊事件じゃないってことなのかな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。優越意識に起因する各種犯罪、官公署襲撃・集団押しかけ・要求、警察権類似行為、朝鮮半島の南北抗争に関係する朝鮮人同士の抗争、闇物資の買出し・販売取締への抵抗、大規模酒類密造の取締への抵抗ってあたりを『戦後朝鮮人の集団不法行為』と定義してるの」

写経屋の覚書-はやて「ん?優越意識に起因する各種犯罪ってどんなんなん?」

写経屋の覚書-なのは「たとえば朝鮮人が「敗戦国民のくせに生意気だ」なんて理由で日本人を殺害したり物資を奪った場合だね。先に見た直江津事件があてはまるよ」

写経屋の覚書-はやて「そういうことなんか。なのはちゃん、わたしなぁ、このシリーズ入ってから、その朝鮮人の不法行為ってやつの定義について、どうもすっきりせんかったんよ。これではっきりしたわ」

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮人の犯罪=『暴虐事件』じゃないってことだね。そりゃ、よく考えれば日本人だって一般的な犯罪事件を起こしているわけだし、朝鮮人の一般的な犯罪を見ても意味がないよねぇ」

写経屋の覚書-なのは「そういうこと。『朝鮮進駐軍』なんてヨタじゃなくて、実際に朝鮮人はどんなことをしていたのか?を見たいわけだからね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
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 渋谷事件