「戦後朝鮮人の集団不法行為はちょっとお休みにして、今回からは「東郷平八郎が李舜臣を讃えていた」という言説について見ていくよ」
「あれ?それってかなり前にPolalisさんが論証してたよね?」
「せやなぁ。寧覇総督府弾薬庫に「東郷平八郎と李舜臣として載っとるし、tokoiさんのHPでもまとめられとったやんね。もう9年近く前の話になるんやねぇ…って、え?tokoiさんのHPなくなっとるよ!」
「そうなの。infoseekのHP提供サービスが廃止されたせいなんだよね。で、せっかくまとめられたのが見られなくなったのはもったいない話だし、作者なりにまとめ直して見ていこうっていうのが今回の趣旨なの」
「手抜き企画
「そ、そんなことないよ。Polalisさんのまとめでは触れられてなかったものや省かれていたものとかも見ていくんだから」
「そうなんだ。それでどう見ていくの?」
「そうだねぇ。じゃ、司馬遼太郎から見ていこうかな」
「司馬?東郷と関係あるいうたら『坂の上の雲』やね!」
「うん。まずサンケイ(現在の産経新聞)掲載時の文を見るよ」司馬遼太郎『坂の上の雲』第1187回「抜錨(十三)」(1972年3月27日付サンケイ夕刊)
余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
「李舜臣提督の霊に祈った」
という記録を書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文堂刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、記述によるとどうやらこの時期水雷艇長をつとめていたようだが、そういった名の水雷艇長は東郷艦隊の編成には見当らない。あるいは水野広徳の筆名であるかもしれない。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。
「水野広徳か川田功って人が、李舜臣に祈ったって書いてるっていうんだね」
「水野は海軍少佐、水雷艇第41号艇長として日露戦争に参加してるんだけど、川田も海軍少尉として水雷艇に乗っていたみたいなの」
「せやけど、司馬は連合艦隊に編成されとった水雷艇の艇長に川田いう名前があらへんから、水野のペンネーム
「新聞掲載の時点では川田功について調べきれてなかったか、別の理由かは分からないけど、川田と水野は同一人物じゃないかって一応考えたみたいだね。だから単行本に収録の際は川田についての記述を書き改めているの」
司馬遼太郎『坂の上の雲』第6巻(文藝春秋 1972)
余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、
「李舜臣提督の霊に祈った」
という記録が書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料にあったのか容易にみつからなかった。
当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍中佐」という匿名で「戦影」(大正三年・金尾文淵堂刊)という本を書き、またこれより前、明治四十四年刊で、「此一戦」(博文館刊)という著者名を明記した本を書いている。この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。
もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この「砲弾を潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。
「川田と水野が別人だって分かったから、「記述によるとどうやらこの時期水雷艇長をつとめていたようだが、そういった名の水雷艇長は東郷艦隊の編成には見当らない。あるいは水野広徳の筆名であるかもしれない」を削ったんだね」
「なるほどなぁ。ほんならその川田の『砲弾を潜りて』の原文を見たいとこやね」
「はやてちゃん、それがね…川田功『砲弾を潜りて』(博文館 1925)の当該箇所っぽい箇所はこんな文章なんだよ。文吉というのは水兵の名前ね」
(前略)苦みを免れる為には死んだ方が優つて居るが、自殺は余りに卑怯な処置なのを如何しよう。彼は痛みに負けて居ないで、屈服させなければならないと考へ、上甲板の暗黒の中へ再び出て行つた。何をするのも大儀なので、海図筐の中へ首を突込んで現在の艇位は何処であるかを見た。云ふ迄もなく日本海の真中で、蔚山の東方に方つて居た。其処の港や街の名を辿つて居ると、何れも秀吉が朝鮮征伐をした時の古戦場たらざるは無い。此思ひ出は、当然世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させすには置かなかつた。彼の人格彼の戦術、彼の発明彼の統御の才、彼の謀、彼の勇、一として賞讃に価せざるものは無いが、殊に此時文吉を動かしたのは、李舜臣が日本から打つた弾丸で左肩をやられ、流血淋漓縷となつて踵に注いだのに、舜臣黙して痛苦を口にせず、戦罷みて後始めて刀を以て肉を割き、丸を抽出したが弾丸数寸の深さに入つて居つて、観る者面色墨の如くなつたのに、舜臣自若として談笑して居つたと云ふ事である。一度此事を思ひ出すと、文吉の忍耐力は十倍し、突剌して来る様な痛みに逢ふ毎に、彼は心の中で舜臣々々と呼んで、痛みに堪へる勇気を振起させた。偉大なる古英雄の遺業ではないか、三百年後の今日舜臣の名は文吉の痛みを軟げる力となつた。
「へ?文吉いう人が傷の痛みを
「はやて、なのはと私の名場面が台無しだよ。えーっと、艇長が祈ったんじゃないし、鎮海湾を出るときでもないし…司馬さん、ほんとに『砲弾を潜りて』を読んだのかな?って言いたくなるよね。水野著作については出版社と出版年を明記して、しかも新聞掲載時に『戦影』の出版社を「博文堂」と誤記したのを単行本ではちゃんと「博文館」に訂正しているのに、川田著作の方は単行本の時点でも書かないままだし」
「もし、ほんまに読んでそう書いたんやったら、潤色とか誇張いうレベル
「そうなの。小説は創作でいいんだけど、現実の文献を引用したってしているところはきちんと引用しなきゃね。そこで、Polalisさんは『坂の上の雲』掲載の半年前の著述に注目したの」
司馬遼太郎『街道をゆく』第33回「李舜臣」(『週刊朝日』1971年8月13日号)
明治三十八年五月、バルチック艦隊が極東にやってくることに対して、東郷艦隊は釜山の西方の鎮海湾を借りて待ちぶせていた。いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき、当時水雷司令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章をかりると、
「……当然、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。かれの人格、かれの戦術、かれの発明、かれの統御の才、かれの謀、かれの勇、一として賞賛に価いせざるものはない」
と、ある。明治期の日本の海軍士官が李舜臣という三百年前の敵将に対していかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。その後の海軍士官にもこの伝統があり、私の知っているかぎりでも元海軍大佐正木生虎氏、同山屋他人氏などもそうである。
「むしろ李朝以来、韓国人のほうがわすれていて日本人のほうが李舜臣につよい敬愛と関心をもちつづけてきたのではないか」
と、私に語った韓国人もある。
「司馬さんは、日本人の李舜臣称賛を韓国人に教えてもらったってことなのかな?」
「韓国人に、川田の著作にこんな話があるでーって言われて、自分でちゃんと裏取らへんまま書いたんか、自分の知っとった話とごっちゃにしてしもたんかもしれへんね。せやから川田が水野と同一人物かもしれへんいうまちごうた推測してもおたんと
「そういうことなの。つまり、司馬に東郷の李舜臣称賛を教えた韓国人がいる、そして、そもそもその称賛言説の生成、伝播には韓国人或いは戦前の朝鮮人が関与している疑いがあるってことなの。1970年代初期の司馬と韓国人との交友関係がわかれば、伝播経路についても情報が得られるかもしれないんだけどね」
「金達寿とか姜在彦あたりかなぁ。でもこの人らやったら、司馬も名前書くやろうしなぁ。やっぱりそこまで付き合いの深くない別の韓国人から聞いたんと
「でも、誰に照会すればいいんだろう?」
「分かるとしたら関川夏央あたりかなぁ…しかも司馬は『坂の上の雲』より15年以上後の『「明治」という国家』(日本放送出版協会 1989)のp209-210では、「バルチック艦隊が迫っているというときに、水雷艇の艇長だった水野広徳という若い士官は(中略)対馬の湾に自分の水雷艇とともにひそみながら、李舜臣の霊に祈ったといいます」と、川田じゃなくて水野が祈ったって書いちゃってるんだよ」
「司馬さんの中では、海軍軍人の誰かが祈ったことで固定されちゃったんだね…」
「記憶もあいまいなまましゃべったんを文字起こしして通したんやろね。とりあえずの結論としては、司馬は韓国人の受け売りか、いろいろごっちゃにして書いてもおたけど、李舜臣の霊に祈った海軍軍人の存在は証明でけへん、ってことやね」
「そんなところだね。じゃ、今回はここまでにして、次回は東郷言説と韓国人、朝鮮人との関係を見ていくね」














