写経屋の覚書-なのは「今回も闇市の取締が原因で警察署を襲撃した事件を見るよ」

写経屋の覚書-フェイト「大阪じゃなくて別の都市の話ってことなのかな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。長崎市で1946年5月13日に起きた長崎警察署襲撃事件なの。早速、長崎県警察史編集委員会『長崎県警察史 下巻』(長崎県警察本部 1979)のp1051~1061を見るよ」


写経屋の覚書-長崎1051
写経屋の覚書-長崎1052
写経屋の覚書-長崎1053
写経屋の覚書-長崎1054
写経屋の覚書-長崎1055
写経屋の覚書-長崎1056
写経屋の覚書-長崎1057
写経屋の覚書-長崎1058
写経屋の覚書-長崎1059
写経屋の覚書-長崎1060
写経屋の覚書-長崎1061

       第八節 闇市取締に伴う長崎警察署襲撃事件
一、事件の概要
 日本の敗戦により、戦勝国となった当時の中国人と、日本の領域から開放された当時の朝鮮人は、一朝にして主客転倒し、敗戦国として沈淪する日本民族に対し、専横な態度を示すものも少なくなかった。
 一方、日本人の復員・引揚者は、敗戦の祖国に帰ったものの、途端に生活の道に窮し、生きるためには、あえて不法な手段も構じ、混乱に拍車をかけた。
 なお、国内の物資不足と、思想の変動は深刻を加える一方で、治安上にも由々しい状態が、終戦とともに相当期間続いた。
 このようなとぎ、日本の復興を度外視した一部の日本人・中国人・朝鮮人等は、世上の混乱を利用して、わが国が物資の安定、インフレ防止を図ろうとする国策を無視し、いわゆる闇市場に進出して、不正物資の隠匿・贓物故買を常習的に行うことはもちろん、暴力行為等もあちこちに頻発したが、これは全国的な傾向であった。
 長崎県警察では、こうした不法事案の徹底的取締の先鞭として、昭和二十一年(一九四六)五月十三日、長崎市内の各警察署、警察部共同の下にニ八○名の検挙隊を編成して、長崎市浜町の闇市場に対し、一斉取締を行い日本人一五〇名、中国人六名、朝鮮人二六名を検挙した。この検挙に端を発し、警察に対抗しようとする中国人・朝鮮人の暴徒数一〇〇名は、長崎警察署襲撃の挙に出て、十数名の重軽傷者を出し、巡査花岡重吉は重傷後遂に死亡し、警部宮野勝利は頭蓋骨骨折の重傷を受け、今なお、後遺症に呻吟するという、一大不祥事件が発生した。
 この事件の鎮圧については、当時、長崎に駐屯する占領軍の各機関の力があったことはいうまでもない。
 暴徒の検挙取調にあたってば、第三国人の集団のため、氏名不詳・犯行後逃走所在不明者も多く、また、披疑者の取調に当ってば、犯行の否認に終始したため、困難な点が多かったが、警察では徹底究明の方針をもって、長崎地方検察庁検事の出動と県刑事課員、長崎市内及県下各署の捜査員を中心とした活動により、一ケ月間にたる捜査の結果、騒擾事件として中国人七名は逮捕の上、占領軍に引渡し、朝鮮人検挙者六〇名は、同年六月十三日送致し、事件は一応落着した。
 その後、朝鮮人間には、まだ日本に取締権限のあることを認識させたが、中国人の居留する長崎市新地町での贓物の隠匿、中継地的な特色は、この種犯罪の捜査に困難を生じた。
 しかし、時日の経過によりやや小康を得て、二十二年中は特異な事案は起きなかった。
 ちなみに、長崎市浜町闇市一斉取締によって起きた中国人・朝鮮人による長崎署(派出所を含む)襲撃は、いわゆる「長崎警察署襲撃事件」と通称された。             (「捜査課関係書類」)

二、知事名による事件報告
 長崎警察署襲撃事件は、連合軍の占領治下、しかも、闇市等経済取締には重大な関心が払われていたとき、非日本人による騒擾事件の発生であり、進駐軍各機関の援助による点の大きかった地方的には特色のある事件であり、知事は内務省、各県知事あて、次のように事件の真相を申(通)報している。


二十一公第二二六〇号
  昭和二十一年五月二十日
                                  長崎県知事
                                   (長崎県警察部長)
 内務省警保局長
 九州山口各県知事 殿
 (管下各警察消防署長)
   中華民国人朝鮮人の騒擾事件に関する件
 五月十三日長崎市西浜町所在自由市場の一斉取締を敢行し日本人朝鮮人中国人の違反者を長崎警察署に引致して取調をしたところこの措置に憤激した朝鮮人中国人等が約百名位大挙して長崎警察署外巡査派出所を襲撃し警察官に暴行を加へ又は器物を破壊して逃走した事件が発生し目下騒擾事件として取調中ですが状況左記の通でありますから報告(通報)致します
 (管下警察署にありては執務の参考に資せられ度い)
          記
一、日時  昭和二十一年五月十三日午后二時三十分頃
二、場所
 1、長崎市江戸町   長崎警察署       2、長崎市東浜町   東浜町巡査派出所
 3、長崎市湊町    湊町巡査派出所     4、長崎市銅座町   中央劇場
三、原因及事件の概要
 長崎市西浜町所在長崎自由市場は最近主要食糧の販売価格違反、煙草専売法違反等半公然と行はれるに至って事実上闇市場の有様となり市民の興論は早急に之等違反行為を粛正しなければならぬと言ふ強い要望かおり、本県警察部で断呼取締を決行することに方針を定め長崎駐屯憲兵司令官並に長崎地方裁判所検事局とも打合せをして長崎市内長崎・梅香崎・稲佐・長崎水上四警察署、県警察部共同して二百八十名の取締検挙隊を組織して五月十三日午前十時三十分一斉取締を実施して犯罪容疑者、日本人百五十名、中国人六名、朝鮮人二十六名合計百八十二名を引致取調を開始したところ、自由市場に於て違反行為(闇行為)の取締は自由市場の自然消滅を招来する虞があること、自由市場が消滅すれば長崎在住の朝鮮人、中国人に多数の失業者を出す結果となること現在中国人・朝鮮人の過当な職業がないこと等の理由の下に、朝鮮人聯盟及中国人華僑維持会幹部十数名長崎署に出頭し朝鮮人並に中国人被疑者の即時釈放方を長崎県警察部長(当時検挙指揮の為在署せり)及長崎署長に陳情したので、同部長は取調終了後は考慮するが事前には応じ難いと事理を尽して説得した処一部の幹部は了解したが一部は頑迷で即時釈放を強硬に主張する内、午後二時三十分頃中国人・朝鮮人被疑者の即時釈放が困難と察知するや、中国人・朝鮮人約百名は、各自に梶棒・鉄棒・野球用バット等携帯し、突如長崎警察署を取巻き石煉瓦等を手当り次第硝子窓に投げ付け一部は階下行政室及中庭に乱入し器物破壊の限りを尽し居合せた警察官に次の通り暴行傷害を加へた。
 重 傷  長崎警察署警部  宮野 勝利    〃    〃   巡査    花岡 寅吉
                                       (花岡巡査は五月二十六日 死亡)
 〃    長崎水上署長警視  藤本惣四郎   〃    〃   巡査部長  山口 安美
 軽 傷  長崎警察署長警視  吉田吉十郎   〃    〃   警部    内野 菊次
 〃    〃   巡査部長  古川清太郎   〃    〃   巡査    脇崎  豊
 〃    長崎水上署警部補  徳島 春雄   〃    〃   巡査    江頭  勇
更に此の余勢で東浜町巡査派出所を襲撃し器物を破壊し勤務中の警察官に暴行を加へ、同派出所勤務巡査 田場 盛範に重傷を負わせた外、梅香崎警察署管内湊町巡査派出所を襲ひ警察官不在の同所に乱入して器物窓硝子を破壊し逃走したのである。
四、事件の見込
 五月十三日長崎警察署襲撃事件直後、長崎市内の警察官を召集し集団警備力を強化したのに対し朝鮮人聯盟に於ても県下各支部に連絡を執り之に対抗しようとする気配を示していたが、長崎駐屯占領軍海兵第二師団第十聯隊長より集団行為「デモンストレーション」を禁止されたので事態は平静に帰し再度の襲撃は当分ないものと思われる。
五、措置
 五月十三日中国人・朝鮮人暴徒が、長崎警察署を襲撃したので長崎警察署長は直ちに長崎駐屯占領軍憲兵司令官に連絡すると共に県警察部に報告し応援を求めたので、即時MPが出勤した為暴行半にして暴徒は逃走した。同時に警察部では警察官の非常召集を行って長崎・梅香崎両署に警察官を急派し警備力を強化し長崎地方裁判所検事局と連絡し、暴徒に対しては騒擾事件として検挙取調を開始することに方針を決定、警察部長・経済防犯課長・刑事課長を第十聯隊、軍政府に出頭させ其の諒解を求め捜査を進めた処五月十四日、第十聯隊長クラーク大佐より警察部長に対し、別紙の通り覚書を手交ざれたので、其の線に添って捜査取調を続行中である    (前掲「捜査課関係書類」)
(注)第十聯隊長より警察部長に対する覚書は詳かでないが、以下に掲げる善後措置は、警察部から、進駐軍当局に敬意を表し報告したものと思われる。

   騒擾事件ノ善後措置ニ付テ
一、去ル本月十三日長崎市浜町ニ於ケル自由市場ノー斉検挙ヲ実施シ日本人約一五〇名、朝鮮人三四名、中国人九名ヲ検挙ノ対象トシ現場ニ於テ逃走セルモノヲ除キ大部分ヲ長崎署ニ同行シタ処、同日午後二時頃相当多数ノ朝鮮人、中国人ガ長崎警察署等ヲ襲撃シタル事件ガ発生シタコトハ寔ニ遺憾トスルトコロデアル。
二、私ハ事件ノ善後措置ノ為屡々軍政府ニ出頭シ事件ノ経過ヲ報告スルト共ニ軍政府ヨリ充分ナル協カヲ得タ
三、クラーク大佐以下聯合軍当局ノ御指示ト中国人及朝鮮人聯盟会長ノ協力ニ依リ事件ハ目下左ノ如ク順調ニ解決ノ方途ニ向ヒツヽアル
 1、暴動ノ際混乱ニ乗ジ逃走セルモノハ既ニ長崎警察署ニ復帰シ日本警察ニ依リ完全ナル取調ヲ受ケタ。
 2、暴動ニ参加セル中国人ハ聯合軍憲兵隊ノ手ニ依リ逮捕セラレ長崎警察署ノ特別留置場ニ監禁セラレMP監視ノ下ニ憲兵隊ノ取調ヲ受ケテヰル。
 3、暴動ニ参加セル朝鮮人ハ日本警察ニ依リ逮捕セラレ長崎警察署ノ特別留置場ニ監禁セラレMP監視ノ下ニ日本警察ノ手ニ依リ取調ガ進メラレテ居ル。
 4、右取調ガ終了シタル場合ハ中国人ハ聯合軍ノ軍法会議ニ於テ裁判セラレ朝鮮人ハ聯合軍ノ指令アル場合ノ外日本側ニ於テ裁判セラルヽコトヽナルノデアル。
 5、日本人ニシテ暴動ニ参加セルモノ一~二名アルヤノ風聞アルニ付目下厳重調査ヲ進メテヰル。
 6、自由市場ハ十六日迄閉鎖ヲ命ジテヰタガ市場代表ニ対シ厳重ナル警告ヲ発シタル上十七日ヨリ再開ヲ認ムルコトヽシタ。
四、今回ノ事件ハ右ノ如ク聯合軍当局ノ指示並ニ中国人及朝鮮人聯盟会長トノ協力ニ依リ迅速且ツ円滑ニ善後措置ガ講ゼラレ事態ハ全ク平静ニ帰シタノデ再ピカヽル不詳事件ハ発生シナイモノト認メラルヽカラ私ハ特ニ一般般市民ノ方々ニ個人的ニモ集団的ニモ絶対ニ中国人及朝鮮人ニ対シテ報復行為等ニ出ザル様切ニ希望スル次第デアル。
  又一般市民及関係業者ニ対シ今後明朗健全ナル市場ノ建設ニ協カシテ貰フ様特ニオ願スル次第デアル。
五、今回ノ事件ノ善後措置ハ全ク聯合軍第十聯隊司令官クラーク大佐、憲兵司令官サンダース中佐、軍政官ブラグナー大尉及ライツトソン大尉ノ指示及努力ニ依ルモノデアツテ寔ニ感激ニ堪ヘナイ次第デアル。
  又警察官負傷者ノ治療ニ関シ聯合軍当局ヨリ寄セラレタル絶大ナル御援助御同情ニ対シテハ全ク感謝ノ言葉ヲ知ラナイ処デアル。
  尚今回ノ事件解決ニ関シ中国人及朝鮮人聯盟会長ノ協力ニ関シテモ感謝ニ湛ヘナイ処デアル。


三、その他聞速記録等
 長崎警察署襲撃事件に関しては、新聞その他別に報ずるものがあるが、その中から四記録を次に掲げる。
 ちなみに、以下に掲げるものの「闇市の手入と警察署襲撃」の筆者久世耕二は元警察官(故人)で、文中、けん銃の問題が提起されている。
 なお、本事件発生前の昭和二十一年五月六日現在、本県警察は在長崎占領軍から、県経済部管理課を通じ、けん銃八〇一挺、弾丸一五、〇〇〇発が譲渡されており、(第五編第二一章第二節参照)本事件のため直接出勤した警察官が、けん銃を携帯したことは相違ないが、しかし、けん銃の取扱に関しては同二十一年三月二十四日内務省から「けん銃取扱規程」が制定されていたばかりで、事実上出勤者全員がけん銃の操法に通じていたのではなかった。ましてや、本事件の現場に臨んでは、全員実弾を装填、あるいは所持することなく、けん銃のみ携帯していたため、暴徒からは、単なる威嚇と軽視されたことも事実のようである。


  長崎警察署襲撃事件 (一)
 終戦後、物資不足にともない、物価統制令違反事件がひん発し、目にあまるものがあったため、長崎警察署は昭和二十一年五月十三日、長崎市西浜町の自由市場における闇商人の一斉取締りを強行し、物価統制令違反等の嫌疑で朝鮮人約三〇名、日本人約一五〇名、華僑一〇名を検挙した。ところが朝鮮人の間に不平不満の念を抱く者が多く、ことに在日朝鮮人連盟長崎県東部総務部長ら数名の役員は、直ちに長崎警察署に赴き、詰問し、強硬に朝鮮人の即時釈放を要求した。また、華僑の一部も検挙には反対の態度をとり、銅座町付近の街路上で日本警察官と小ぜりあいを演じた。憤激した華僑数名は、同日午後長崎警察署へ押しかけ数名の警官に暴打を加える挙にでた、そして、華僑らに煽動され押しかけてきた朝鮮人の一団と、朝鮮人連盟幹部の指示による一団及び、この事を伝聞して集ってきた者など約二〇〇名が、長崎警察署に投石、モの他乱暴狼籍をはたらいた。さらに、暴徒の一団は同居から、自由市場事務所、東浜町巡査派出所、湊公園巡査派出所等各所を襲い器物を損壊するなど暴動化し、警察官の職務執行を妨害し、警官に重軽傷を加える騒擾事件をひき起こした。
 しかし、事件はほどなく鎮圧され、検挙された主要人物二六名が長崎地方裁判所で起訴され、犯情にしたがい一五年から一年の懲役刑、最も軽いものには、罰金刑が言渡された、(前掲「長崎市制六十五年史」)

  長崎署襲撃事件 (二)
 事件の起きた二十一年五月十三日、長崎市西浜町電停から思案橋にかけての空地(今の春雨通)にできていた自由市場(ヤミ市)の一介手入れは、これまでにない大がかりなもので、同日朝、長崎・稲佐・水上・梅香崎署各署員と県警本部員二八〇名の警官隊が、立山町の元防空学校前グラウンドに集合……
 長崎署長吉田吉十郎の指揮で、トラック四台に分乗、市場へ向かった、……
 米軍の刀剣狩りで、ほとんど丸腰同然だった警察官には、このときピストルが渡されたがタマは入っていなかった。警察隊は一八二人を検挙し、押収した禁制品と一緒にトラックで長崎署に連行した。手入れは約二時間で終り、警察隊は東浜町派出所に三〇人を残して、午前十一時頃には引き揚げた。それから約二時間後に、第三国人の不穏な動きを伝える報告が入ったのである。……(襲撃事件の状況につき重複するので省略)この襲撃事件に米軍も出動して警戒に当たり、翌十四日、海兵隊第十連隊長、大佐クラークが「デモ禁止令」を出してようやくおさまった。…                     (毎日新聞社編 長崎県の戦後後史」激動二十年)

  闇市の手入と警察署襲撃 (三)
 昭和二十一年五月十三日午前十一頃、私は浜屋(百貨店)を裏に技けて闇市場の方へ出ると、拳銃を携帯した警察官が数十名で闇市場を取り囲み、浜屋の裏には「かんころ団子」やその他主要食が積み重ねてあるのを見て、初めて警察の手入が行われていることを知った。
 更に百数十名の警官が、貨物自動車幾台かに乗って来て直ちに外部を警戒する者と、市場内を検索する者の二手に分れ、数十名の違反者を検挙して、そのトラックに乗せ警察署に運んで行った。
 これまで第三国人は勿論、日本人の中にも、この市場は治外法権だといった横柄な態度が暴利をむさぼっていたが、この手入れによって初めて「警察は健在なり」という感を深くすることができた。
 ところが、これまで武装した警官を見たことのない私は「これは脅しのための拳銃だ」と直感した。何となく借り物のようで、ぴったり身についていない。私は、これ等武装警官は拳銃の操法を知っているのであろうか、また、実砲の一発でも装填してあるのであろうかと疑った。
 かくて、市場の線を越えて銅座町に行くと、一人の中国人と警戒の警官が押問答をしていたが、警察官はこれを検束するため連行しようとした。勿論周囲には野次馬が集まっている。この有様を遠目に見ていた他の中国人が、新地に駆けつけて行って、これを仲間に注進すると、新地では一戸一人づつ出ろと同志を糾合して、検束されようとする自国人を奪還しようと駆けて行くのであった。更に梅香崎町に入ると、元の梅香崎署跡にある朝鮮人連盟では多数の朝鮮人が集まっていて、外に出るな、出るなと何か協議しているようであった。かくて、朝鮮人と一部日本人或は中国人も交って、午後二時頃には「長崎署を襲撃」して、警察官を傷害し、また署内の机や椅子、窓硝子など器物を損壊し、その他暴行を働くという事件を起した。この場合、警察官は武器を有しながら、暴漢を傷つくることなくこれを取り鎮めることに努力したのであった。
 この隠忍の結果は、寧ろ民主警察としての真価を高め、民衆の同情を得、後山本刑事の殉職事件(発生 同年六月三日 殉職 〃六月七日)によって、一層警察の信頼を高めたのであった。
 もしこの事件に於てピストルを発射するとか、暴漢を傷つけるようなことがあっていたら、その後の武器携帯に支障を来たしたであろうと思われる。……五月の闇市場の手入後、市内の警察官は拳銃を帯びて街頭の交通整理にも立ち、その他勤務の場合武装せる警察官の姿を見るようになり、見る眼に力強さを感ずるのである。……                    (「長崎市の闇市取締とその犠牲」久世耕二集一四)

  重傷を受けた警察官の証言 (四)
 私は当時、長崎警察署の司法主任(警部)で、あの事件に関して、ある新聞に掲載された点で間違いの部分を記す。
 新聞の記事では在署中の私は、暴漢からけん銃を奪われ、制服をはぎ取られ逃げ廻ったとされているが、これは誤りで、当時私は私服で、けん銃は携帯していなかった。私等三、四人にはけん銃が足りなかったので、後で貸与されることになっていた。負傷した時の状況は、私は長崎署の玄関口で襲撃して来た三人の暴徒と対決して二人を逮捕したが、外の一人が棍棒の様なもので私の頭部を殴りつけ、その一撃でフラ〱しながら、逮捕した二人と押しつ押されつ、署の中庭まで来て力尽きて倒れ、人事不(ママ)になったところを、その時、吉田署長を訪間中の藤本水上署長が助けてくれたとのことである。
 私は頭蓋骨骨折で意識不明の目が長く続き、再起をあやぶまれながら十年近い日を経て、後遺症を残し、現在軽労働程度ならできるくらいになっている。(宮野勝利氏書簡)


(注)この証言は、昭和四十二年三月五日付書簡を以て、本史編集委員会に提供されたもので、該新聞社には事実を曲げ、名誉を傷つけたものとして、抗議し、訂正記事で終らせたとのことである。
 (本人の現住所は、佐世保市山手町二四―三)


写経屋の覚書-はやて「警官の方に死者も出とるし、いろんな派出署も襲っとるんやね。曽根崎警察署襲撃事件よりひどいやん…」

写経屋の覚書-フェイト「進駐軍の協力と援護で検挙取調が進んで、中国人は連合国軍の軍事裁判、朝鮮人は日本の裁判に付されたんだね。でも、在日本朝鮮人連盟幹部も襲撃犯に加わってたのに「中国人及朝鮮人聯盟会長トノ協力ニ依リ迅速且ツ円滑ニ善後措置ガ講ゼラレ事態ハ全ク平静ニ帰シタ」と書いてるよね。いったいどういうことなのかな?」

写経屋の覚書-なのは「逃走した容疑者の引き渡しとかで警察に協力したってことじゃないかな。もっとも、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』のp236~237では青年自治隊員も襲撃犯に加わっていたと書いているんだけどね」

(二)朝連員の長崎警察署襲撃事件

 五月一六日ヤミ市場の取締で、朝鮮人三〇名と日本人百余名を警察署に連行したところ、朝連幹部丁奎鳳、朴善奎らは青年自治隊員百余名とそのその他中国人など総勢約二百名で同署を襲撃し、暴行破かいをおこない警察官に負傷させた。


写経屋の覚書-はやて「結局、朝連は進駐軍の指令かその援護を受けた日本官憲の要請を受けて、容疑者を庇いきれへんようになって、引き渡さなあかんかったいうこと(ちゃ)うのん?」

写経屋の覚書-フェイト「積極的じゃなくて消極的、仕方なくの「協力」ってことだね。そりゃ同胞を引き渡すのは嫌だろうけど、進駐軍の支持を得た官憲には逆らいにくいし、朝連の組織そのものにダメージがあったらよけいにまずいことになるしね」

写経屋の覚書-なのは「ま、そんなところだろうね。この事件は1946年6月3日付CLO2644 Assaults of Koreans and Chinese on Nagasaki Police Station 朝鮮人及び中国人の長崎警察署襲撃の件でGHQにも報告されているだけど、報告書そのものは別添文書ってことで収録されてないから確認できないんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「それは残念だけど、警察史の方で詳細が分かるからあまり痛手じゃないね」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。この長崎警察署襲撃事件も『朝鮮進駐軍』の実在の証拠とならないものだと分かったしね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件

 渋谷事件

写経屋の覚書-はやて「今回も集団不法行為を見るん?」

写経屋の覚書-なのは「うん。だけどその前に七条署襲撃事件の記事があったから追加で見ておくよ」

写経屋の覚書-460128朝日(大阪)

1946年1月28日付朝日新聞(大阪版)
七条署事件の真相
既報=二十四日京都七条署附近における紛擾事件は今後の日華鮮提携にとりまことに悲しむべき不(ママ)事として問題の円満解決に努力が払はれてゐるが、京都華僑青年隊(ママ)日本朝鮮人聯盟京都本部では事件の発端、経過を次のやうに発表した

一、京都駅に掲出の「旅日京都華僑聯合会出張所」「(ママ)日本朝鮮人聯盟京都本部出張所」の看板が十九日夜に取外されたが、待合室にゐたものゝ証言により、七条署員の行為なることが明らかなので二十一日小寺署長に三日間の猶予をもつて調査方を依頼し 二十四日午後一時回答を求めたが、所長は前日に比し態度横暴不遜をきはめ、その上看板外しを否定したので難詰したところ署長は非常ベルを鳴らし待機せしめてゐた部下のみならず暴力団を呼んだ

二、彼らは兇器を手にして署長室に乱入、われらは馮手のためなす術もなく たゞ彼等のなすまゝであつた

三、暴力団は署長が彼ら不良徒輩を使嗾し協力を求めたことは「親分頼むぞ」の一言を((発カ))したことと、検束は当方のみに限つたことをもつても明らかである

四、駅前に回答の結果をまつてゐた当方一同のものは、事態の危□をみて救援に赴かんとするので辛うじて抑制し阻止した

五、四時半頃また〱暴力団が白鉢巻で日本刀、竹槍、鳶口、棍棒等を振回し「支那人、朝鮮人をやつつけろ」と呼号して来り七条署附近にゐる中華人、朝鮮人に危害を加へ来り重ねて事件をひき起す結果となつた


華僑青年隊□□□山氏談 今回の事件はまことに日華提携のため□((憤カ))の至りで、そも〱当青年隊は東洋民族が仲良く手を握り平和の為に□を除去し、治安を維持する一方、自分達身辺をも省みて正しく歩み日華友好をはかるため結成したもので、終始平和的解決に努めたにかゝはらず、治安確保の第一線に立つべき署長が暴徒の力を頼り、かゝる事件を惹起したのは憤激に堪へない、われらは当日何一つの武器をも持たなかつたことを明言する、当青年隊は(一)暴力団の解消(二)死傷者に対する賠償(三)留置人の釈放(四)使用兇器の押収(五)責任者の厳重処罰を要求する

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮人・台湾人のほうの言い分というか説明なんだね」

写経屋の覚書-はやて「朝鮮人・台湾人側の正当な調査要求に対して警察は不誠実な態度を取り、そればかりやなくて、暴力団を援軍に呼んで一方的に武器も持たない朝鮮人・台湾人に暴行したって言うとるんやね。えらい被害者ポーズやねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「30日付の朝日新聞(大阪版)の「従来流布された事□には事実と多少の相違点があり」の流布された事実っていうのは、やっぱり警察と暴力団が組んだことを指すのかな?」

写経屋の覚書-なのは「多分ね。まぁ、警察側が暴力団の応援を呼んでいたのは事実っぽいけど、その他の凶器不所持とか一方的な被害者であるっていうのはかなり怪しいよね」

写経屋の覚書-はやて「だいたい「四時半頃また〱暴力団が白鉢巻で日本刀、竹槍、鳶口、棍棒等を振回し「支那人、朝鮮人をやつつけろ」と呼号して来り七条署附近にゐる中華人、朝鮮人に危害を加へ来り重ねて事件をひき起す結果となつた」って言うとるけど、なんで台湾人・朝鮮人の集団がその時間に七条警察署附近に集まっとったんやろねぇw ほんで襲った側にも死者が出とるのはなんでやろねぇw」

写経屋の覚書-フェイト「凶器を持たず一方的に襲われたのにね。凶器を奪い取って反撃したと言ってもおかしいよね」

写経屋の覚書-なのは「だよねぇ。じゃ、今回のお題の1946年3月13日に大阪で起きた曽根崎警察署襲撃事件に入るよ」

写経屋の覚書-フェイト「曽根崎警察署襲撃事件?初めて聞く事件だね」

写経屋の覚書-なのは「一応『大阪府警察史』には載ってはいるんだけどね、誰もきちんと読んだり調べなかったんじゃないかなw じゃ、まず大阪府警察史編集委員会『大阪府警察史 第3巻』(大阪府警察本部 1973)のp110~111を見るよ」

写経屋の覚書-大阪府110
写経屋の覚書-大阪府111

第三国人の犯罪 犯罪の一般的増加と凶悪化、集団化という終戦直後の特異な現象はすべて終戦という結果がもたらすものであった。またこれら犯罪者の多くは外国人(非日本人)とされた朝鮮人、台湾人等のいわゆる第三国人であったことも特質のひとつといえよう。
 特に東京・大阪・神戸・横浜などは第三国人が多数居住していた関係からそれが最も顕著にあらわれたのであった。これらの第三国人の犯罪取締りについては、のちにGHQから刑事裁判権の付与、警察権等が明示されたが、終戦直後の取締りは容易でなく、「ヤミ市」や土地の不法占拠等のほか集団的不法事犯があいつぎ、ついには警察署が襲撃され留置中の被疑者が奪還されるなどの事件が発生した。
 これらの集団による警察署襲撃事件としては、二〇年の市岡署襲撃事件をはじめ被疑者奪還を企画した二一年一月ニ八日の西淀川署襲撃事件、同年三月一三日の曽根崎署襲撃事件、同年一二月額田署に対する留置人即時釈放要求などがある。
 なお、二一年三月、大淀区田辺製薬工場で発生した集団強盗犯人の逮捕に際し、犯人の銃撃によって大淀署八田信吉巡査が殉職した。

① 二一年三月一三日、曽根崎警察署はヤミ市場の一斉取締りを実施中、第三国人七人を検挙したが、直ちに、約一六〇余人の朝鮮人・台湾人・中国人らが被疑者奪還を企て、けん銃・こん棒などを持ち同署を襲撃した。制圧にあたった警察官一八人が全治三週間の重軽傷を負った。



写経屋の覚書-はやて「曽根崎警察署いうたら梅田のど真ん中、阪急前交差点のとこにある警察署やね」

写経屋の覚書-なのは「市岡警察署や西淀川警察署、額田警察署の襲撃事件は後で説明するんだけど、曽根崎警察署襲撃事件については、大阪・焼跡闇市を記録する会『大阪・焼跡闇市:かつて若かった父や母たちの青春』(夏の書房 1975)のp34~35にこんな証言があるの」

写経屋の覚書-大阪闇市34
写経屋の覚書-大阪闇市35

         桜橋・産経新聞社裏
                    泉大津市 花野久治(四八歳)
 三食たべさせてもらえるという魅力で、敗戦直後上阪、大阪・桜橋の建築現場に三年間住み込んだ。産業経済新聞社のウラ手にもう一カ所輪転印刷の工場を新設する仕事だったが、ある日、周囲がにわかに騒然とした。新聞記者やカメラマンが色めきたって飛びだしていく。「なんや、事件か」と、仕事をほうり出してあとを迫うと、曽根崎署が朝鮮人や台湾省民に包囲され、小石やレンガを投げこまれていた。警官は六尺棒(警杖)をもつだけで丸腰。手をこまねいて見ている。どうなることかと思っていると、ほどなく進駐軍のジープや装甲車が到着した。ただちに付近の道路は全面通行禁止。装甲車は曽根崎署前の十字路に位置を構えると、上部の入口から兵隊が顔をのぞかせ、ゆっくりと機関銃を一巡させる。かたわらを、五、六人で一組になった日本人警官が六尺棒をかついで走っていく。その緊迫した空気、威圧感にブルッとふるえたものだが、どうしたわけか、この出来事があとになって報道されたという記憶がない。カメラマンのフラッシュは、あれほどあちこちでたかれていたのに……。

写経屋の覚書-フェイト「え?「どうしたわけか、この出来事があとになって報道されたという記憶がない」って、新聞には載らなかったってことなの!?」

写経屋の覚書-はやて「せやけど、個人の証言やで。鵜呑みにはでけへん」

写経屋の覚書-なのは「だから朝日新聞(大阪版)と毎日新聞(大阪版)を調べてみたんだけど、載ってなかったの」

写経屋の覚書-はやて「ほんまに載ってへんねや!」

写経屋の覚書-なのは「どういう理由で記事にしなかった、あるいはできなかったのかまでは分からないけどね…でも、日本政府からGHQへの報告にこの事件のことが載っているの」

写経屋の覚書-フェイト「日本政府からGHQへのの報告?このブログ以前に作者がHPで見ていたCLOのことだね」

写経屋の覚書-はやて「あー、日本政府とGHQの間で連絡調整をやっとった終戦連絡中央事務局(Central Liaison Office)の文書のことやな」

写経屋の覚書-なのは「うん。じゃ、1946年4月1日付CLO1505 Korean-Formosan-Chinese Attempt to Free their Arrested Compatriots:鮮・台・華人等の集団的犯人奪還事件発生に関する件から事件概要について日本語訳を見るよ」

3. 大阪府曽根崎警察署から報告された事件の概要について、以下の通り提出する。
 a. 発生日時:3月13日午後4時40分ごろ
 b. 場所:大阪市曽根崎警察署
 c. 事件概要:主食販売の管理強化を目的として、約40人の警官隊が曽根崎署員から動員された。大阪駅前の青空市場で任務を遂行するうちに、米飯1杯を10円で販売していた7人(ほぼ朝鮮人)を逮捕し、警察署に拘引した。
   すると、150人以上の朝鮮人、台湾人及び中国人が逮捕された仲間の奪還を企図して拳銃と棍棒で武装し、警察署を襲撃した。暴徒と侵入を阻止しようとする警察官の間に混戦が生じ、その結果およそ18人の警察官がひどく負傷した。
   しかし、幸いなことに、大阪市配備の進駐軍憲兵の協力によって、警察官は発砲で暴徒を威圧し、暴徒60人を逮捕することができた。現在彼等は近辺の警察署に拘留され取調べ中である。

写経屋の覚書-フェイト「うーん、あまり詳しくないねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよね。実はこのあとに詳報があるんだよ。5月27日付CLO2566 Korean-Formosan-Chinese Attempt to Free their Arrested Compatriots:鮮・台・華人等の集団的犯人奪還事件発生に関する件から事件の詳細についての日本語訳を見るよ」

2. 参照覚書で概要を報告した主題の事件に関して、大阪地方裁判所検事局は更に審理を行ない、その結果、後述の項目aに記された6人を拘置し、「暴力その他の行為の罰則に関する法律」の罪状で起訴し、裁判書類が大阪地裁で作成されている。容疑罪状に関する状況は以下の通り。
a. 容疑者
   台湾人 コウエンセン(27)
   同じく ゴウテンフク(28)
   同じく チョウテンテイ(25)
   朝鮮人 リエイフ(32)
   同じく 金本一郎(25)
   同じく リンケンソウ(29)

b. 容疑事項
1946年3月13日午後0時30分ごろ、大阪府の曽根崎警察署は主食商人の大検挙を開始して、規則に違反して肉野菜のごった煮露店などを大阪市のいわゆる梅田自由市場で保有していた台湾人カク□他10人を逮捕した。詳細は以下の通り。
(1) 同日午後1時ごろ、コウエンセンは10人以上と共に警察署長室に無理に押し進み、「逮捕された仲間を即時釈放しろ。さもなくば警察署を焼き払う」「友人たちの面子を潰した以上、お前にも手錠をかけて市場に引き出してやる」等々の恫喝的な言葉で山口コウタロウ署長を脅迫した。
(2) 午後3時ごろ、コウエンセンは30人以上を連れて署長室に突入し、逮捕された同胞を直ちに解放するよう要求した。署長はきっぱりと拒否し、彼等は隣室に入って偶々そこに居合わせたタカダトシイチ防犯部長の襟をつかみ頬を殴打した。他の数人は情報担当警官のヤマネタツジロウを囲んで腕を激しくねじあげた。
(3) 午後5時ごろ、暴徒の力で逮捕者を奪還するため、6人の容疑者は何百人もの仲間と警察署を包囲し、暴徒の頭目となったコウエンセンは数人の仲間と共に署長室に突入し署長を脅かそうとして、署長を取囲んで声を張り上げて脅迫し激しく圧迫した。他の容疑者金本一郎とチョウテンテイは多くの仲間と警察署に入って机上の本を警察官に投げ電話線を切断するといった暴動を行なった。さらに他の容疑者、ゴテンフク、リエイフ及びリンケンソウは、何百人もの仲間と協力して警察署外部から投石し、窓ガラスと備品に損害を与えた。

c. その他の情報
(1) 事件発生直後、曽根崎署員は進駐軍憲兵の協力で50人以上の容疑者を逮捕し、直ちに到着した検事による尋問が行われた。
(2) 主要な暴徒は6人と推定され、他の者は釈放された。
(3) 事件の主要な発起人とみられる台湾人のチンバイハ及びタンスイロは、その場から約200人の仲間と共に逃走したが、彼らの逮捕は難しいと考えられる。

ふぇ:闇市の取締で逮捕された仲間を奪い返そうとして台湾人・朝鮮人が押しかけたんだね」

写経屋の覚書-はやて「ほんで代表者ら30人が署長室に乗りこんで恫喝したり暴行したりして、外におる他の連中は曽根崎署に石を投げたんやね。そこへ進駐軍の憲兵隊が駆けつけて曽根崎署員と合同で逮捕したいう展開なんか。『大阪・焼跡闇市:かつて若かった父や母たちの青春』の記述とほぼ(おんな)しやね」

写経屋の覚書-フェイト「で、日本の裁判所で審理しているみたいだけど、判決はどうなったのかな?」

写経屋の覚書-なのは「それがね、続報が無いから分からないの」

写経屋の覚書-はやて「なんや、しまらへん話やなぁ…」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよねぇ…この事件だけじゃなくて、市岡警察署、西淀川警察署、額田警察署の襲撃事件も新聞には載ってなかったし、追いかけようがないんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「全ての事件が新聞に載るというわけでもないしねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「うん。そういうわけで消化不良の感じもするけど、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件

 渋谷事件

写経屋の覚書-なのは「今回見る首相官邸デモ事件も、前にちょっとだけ触れている事件なの」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、『朝鮮進駐軍』動画テキストの検証(3)でちょっとだけ見てるんだね」

写経屋の覚書-はやて「あー、武装した朝鮮人2,000人が首相官邸を襲撃とかいうヨタの話で、結局この首相官邸デモ事件を誇張して捏造した話やったね」

写経屋の覚書-なのは「そうそれだよ。そのときは概要と史料名だけあげてたから、今回はその史料本文も見るの。じゃ、警視庁史編さん委員会『警視庁史』第4巻 昭和中編上(警視庁史編さん委員会 1978)のp514~516を見るよ」

写経屋の覚書-警視庁史514
写経屋の覚書-警視庁史515
写経屋の覚書-警視庁史516

       第五 外事関係事件

         一 朝鮮人集団の首相官邸乱入事件

 昭和二十一年十一月十日、在日朝鮮人が糾合して「在日朝鮮人生活権擁護委員会」を結成し、生活物資の優先配給を要求して、中央、地方の関係機関に対する波状的集団闘争を展開していたが、これらの者は、同年十二月二十日午前十一時三十分から、皇居前広場において在京及び近県の朝鮮人一万余を結集のうえ「朝鮮人生活権擁護全国大会」を関催した。
 その主たる目標は生活権擁護に向けてはいたが、同時にこれを倒閣運動にも向けていたことは、その掲げるスローガソで激しく政府を攻撃していたことからも明らかであった。

(一)在日朝鮮人生活権擁護全国大会の状況
 当日、大会においては、応援のため壇上に立った日本共産党の徳田球一らが、倒閣運動への結集を強調し、終始政府を攻撃して大会を扇動した。次いで、各地区朝鮮人代表者らによって生活権擁護の決議文と「在日朝鮮人の処遇改善」「朝鮮人に対する警察の差別的不法取締りの撤廃」等五項目の要求を採択し、これを首相官邸、国会、連合国軍最高司令部へ陳情することを決定して、午後一時ごろ閉会した。
 そして、午後一時三十分から「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」等のプラカードを掲げてデモ行進に移った。

(二)デモ隊首相官邸に乱入
 デモ隊は、在日本朝鮮民主青年同盟荒川支部を先頭に、午後二時ごろ首相官邸付近に差し掛かったが、指定路線を無視して官邸正門方向に向かったため、警戒中の麹町警察署員がデモ隊の進行を規制したところ、彼らはスクラムを組んで気勢を揚げ、警戒線を突破しようとした。
 そこで、警戒員は、急ぎ官邸正門を閉鎖しようとしたところ、デモ隊約二千人が喚声を揚げて正門に殺到し、投石し、プラカードを振るって警戒員に襲い掛かり、邸内に雪崩込んだ。
 午後二時三十分、急を知って出動した米軍憲兵の協力によって、暴徒を門外に排除したが、暴徒は官邸周辺に座り込んで動かなかったので、警戒員と米軍憲兵が協力して、午後二時五十分ごろ全員を解散させた。
 この際、警察官二十三人が全治四か月から二週間の重軽傷を負ったほか、けん銃二丁を奪取された。

(三)事件処理
 事件発生の報告を受けた捜査第二課では、課員全員が現場に急行し、警戒員と協力して李秉哲朝鮮人生活権擁護委員会委員長ほか九人を暴力行為等処罰ニ関スル法律違反被疑者として逮捕し、米軍東京憲兵司令部に身柄を引き渡した。
 同憲兵司令部は「右十人は、氏名不明の約一万人の群衆とともに暴動を起こし、暴力と武器を持って、非合法又は暴動的行動をした。そして、狂暴かつ激烈なる方法によって混乱を起こし、日本政府の財産たる首相官邸に侵入して、不法かつ暴力的に佐川文夫及び日本東京警視庁警備警察官を襲撃して、麹町区民を恐怖
と混乱の中に陥れたことは占領目的の違反行為である」として起訴し、第八軍の軍事裁判に付し、同年十二月二十六日、全員に重労働五年等の刑を言い渡した。

写経屋の覚書-はやて「ただの生活擁護運動やなくて、共産党も一枚かんで政府攻撃・吉田茂内閣打倒の端緒にしようとしとったいうんやな。戦後の騒乱には日本共産党・在日朝鮮人っちゅうんがセットになったもんがお決まりになってくるしなぁ」

写経屋の覚書-なのは「互いに利用し合ってたって感じもするけど、共産党の方針や指導で在日朝鮮人団体が先兵を務めるっていうのが、労働争議や1950年代前半の反政府武装闘争では定番になるんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「この事件の場合は共産党が協力煽動してて朝鮮人のほうが主役なんだね。「指定路線」って書いているから、デモ行進自体はちゃんと手続を踏んだ合法的なものだったってことだよね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。デモ行進自体は違法じゃないよ。だけど指定されてるルートを無視して首相官邸に押しかけようとしたから事件が起こったんだよ。警察庁刑事部捜査課『刑事警察資料第33巻 戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)のp52~53も見ておくよ」

写経屋の覚書-集団概況52
写経屋の覚書-集団概況53

 二 朝鮮人デモ隊の首相官邸乱入事件  (東京)
(一)当時の客観情勢
 戦後の悪性インフレと極端な食糧不足は、労働者階級を窮迫へと追い込み、年末を控えての越年闘争と相挨つて生活権獲得、危機突破等の各種闘争が展開され情勢は楽観を許さないのみたらずなかでも在日朝鮮人にあつては民族的偏見から日本政府の無為無策によるものであるとして、同志を糾合し反政府闘争を開始するに至り、昭和二十一年十一月十日在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成して全国的に本闘争の展開を図り、さらに同年十二月二十日午前十時より宮城前広場において、在京及び近県の朝鮮人一万余を結集の上「在日朝鮮人生活権擁護全国大会」開催を決定する等の状況の下にあつた。
(二)在日朝鮮人生活権擁護全国大会の状況
 昭和二十一年十二月二十日午前十一時三十分より宮城前広場に朝鮮人一万余名が参集して大会を開催した。一方日本共産党徳田球一等は、本大会をして倒閣運動への結集を策し、激烈なる反政府攻撃の烽火を挙げ大会を煽動した。
 大会は各朝鮮人代表等の生活権擁護の決議文を採択し「在日朝鮮人の処遇問題」「警察官の差別的不法取締」等五項目の要求を可決の上、首相官邸、国会、連合国総司令部等への陳情を決定して閉会、続いて午後一時三十分より「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」等のプラカードを揚げてデモ行進に移つた。
(三)事件の概要
 デモ隊は民主青年同盟荒川支部を先頭にして、午後二時頃首相官邸附近に到着したのが、このデモ隊が指定コースに従わないため警戒中の麹町警察の署員が指定のコースに従わすべく交通遮断を行つたところ、デモ隊はスクラムを組み気勢を挙げ、事態は急迫を告げるに至つたので首相官邸正門の閉鎖を行つた。
 これを察知したデモ隊約二〇〇〇名は、喚声を挙げて正門に殺到し、暴力をもって正門を開き、邸内に雪崩れ込み、警戒員を包囲して暴行を加え乱闘となつた。
 午後二時三十分頃この暴徒を鎮圧すべく麹町警察署及び警視庁ではMPの協力を得て出動し、一時暴徒を邸外に排除したものの暴徒は官邸周辺に坐り込み解散しなかつたので午後二時四十分頃実力行使により漸く解散させ、季康哲(ママ)外九名を逮捕した。
 なお、この鎮圧解散に当り、けん銃二挺実砲一〇発を強取されたほか麹町警察署長外二二名が夫々重軽傷を受けた。
(四)事件の措置
 本件は暴力行為等処罰に関する法律違反現行犯人として逮捕し身柄を東京憲兵司令部に引渡した。
 1 軍事裁判所の起訴及び判決の状況


 憲兵司令部では「被疑者季康哲(ママ)ほか九名は、日本東京において一九四六年十二月二十日又は二十日頃、氏名不詳の約一〇、〇〇〇名の群衆と共に暴動を起し、暴力と武器を持って非合法又は暴動的行動をした。而して狂暴と激烈たる方法で混乱を起し、日本政府の財産たる吉田首相官邸に侵入して、不法とそして暴動的に佐川文夫及び日本東京警視庁警備警察官を襲撃して麹町区民を恐怖と混乱の中に陥し入れた」という理由をもって占頷目的の違反行為として、第八軍の軍事裁判に附し、裁判長グレデリン中佐、検事ダンボース大尉、弁護人布施辰治外数名立会の下に公判が開廷され、同年十二月二十六日次のような判決があつた。
 重労働五年罰金七万五千円 季康哲(ママ)ほか九名

2 判決の要旨

 本裁判の重要な目標は二つある。
 第一は首相官邸にて暴動をなし、又、日本政府客各を傷害して器物を破壊したことである。
 第二はデモストレーシヨンの暴動化したるに対し、マツカーサー元帥の声明に違反したことは重大なる責任がある。
 但し裁判所は一万人が暴動を起したと云うのは無罪と認定する。
 然るにデモ行進に際して暴動を起さないという約束に違反したのに対しては責任があり、各被告は指定した刑務所にて五年の重労働に服し、罰金七万五千円を支払わなければならない。
 罪名昭和二十一年二月十九日連合軍最高司令部より日本政府宛覚書「刑事裁判権の施行に関する件」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?逮捕者の名前が李秉哲じゃなくて季康哲になってるよ?」

写経屋の覚書-なのは「判決結果の新聞記事を見ると李秉哲になってるから、たぶん書き間違いだろうね」

写経屋の覚書-461228朝日(東京)_官邸デモ判決

1946年12月28日付朝日新聞(東京版)
五年の体刑
 朝鮮人生活擁護でも主催者らに
去る二十日の朝鮮人生活擁護全国大会デモのさい首相官邸前で警察官と衝突騒ぎを起し、不法侵入暴行で起訴された同大会主催者李秉哲(三九)同代表金奎成(三一)呉修三(三九)金錫範(三一)解放新聞編集員長劉宗煥(三二)宗性澈(三三)鄭文玉(三六)民主青年同盟組織宣伝部長李盤石(二九)、在日朝鮮人連盟東京本部委員長朴斎爕(三四)同中央総本部常任委員河宗煥(三七)に対する公判は二十七日裁判長、クレンデル中佐、検事ダンホース大尉係りで警視庁第一会議室で行われ、ク裁判長から李代表以下十名に対し各々懲役五年、罰金七万五千円ずつの判決が下された

写経屋の覚書-はやて「朝連とか民青の連中もおるんやね。そら日本共産党もかんどって当然って感じやな」

写経屋の覚書-なのは「普通にデモだけやっていれば問題なかったんだけどねぇ。

写経屋の覚書-はやて「誰かが煽動してコースを曲げたんかな?それとも盛り上がり過ぎて暴走したんかな?」

写経屋の覚書-なのは「んー、事件の経過から見ると偶発的に暴走しちゃったって感じだよね。あと、布施辰治が弁護人をしているのが興味深いね」

写経屋の覚書-フェイト「布施辰治?」

写経屋の覚書-なのは「戦前から労働争議や共産主義者・朝鮮人運動家の裁判弁護を積極的にしていた弁護士だよ。韓国では「日本のシンドラー」って言われているらしいけど、ちょっと盛り過ぎじゃないかな」

写経屋の覚書-はやて「信念と職務に従って弁護活動をやったんは立派やろけど、韓国人が自分らをユダヤ人に擬しとるのはちょっとどうかと思うでw」

写経屋の覚書-なのは「我々は常に迫害を受ける東洋のユダヤ民族だ!っていう論調はたしか大韓帝国期の言論雑誌でも見た記憶があるんだよ。ともかく、この首相官邸デモ事件は朝鮮進駐軍言説が言うように完全武装の朝鮮人2,000人が襲撃したわけでもなく、銃撃戦があったわけでもないってことだよ」

写経屋の覚書-フェイト「前にも見たことの再確認になったね。当然朝鮮進駐軍の実在を担保するものでもないし」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。あと篠崎平治『在日朝鮮人運動』(令文社 1955)のp264にも載ってるから一応見ておくよ」

昭和二十一年
十二月二十日
東京都千代田区永田町首相官邸首相官邸デモ事件(生活権擁護人民大会)宮城前広場において朝鮮人約二、〇〇〇名が生活権擁護人民大会を開催、終了後首相官邸にデモ行進を行つたがその際一部デモ隊は官邸に不法侵入せんとしたのでこれを阻止せんとした警備警察官と衝突、大乱闘となり警察官二十三名が重軽傷を負い拳銃二挺、実包十発を奪取されたこれが為武装警官三五八名、MP二十名が応援出動し拳銃四発を発射するなどして漸く鎮圧、首謀者十五名を検挙し身柄は進駐軍憲兵隊に引渡した。

写経屋の覚書-はやて「逮捕者が15人になっとる他は変わらへんね。せやけどこの事件も渋谷事件と(おんな)しで、GHQの方で裁判になったんやね。やっぱり大規模な騒擾になったせいってことなんやろか?」

写経屋の覚書-なのは「うーん、渋谷事件もこの事件も日本官憲に取締権限があることが明確にされた後の事件だし、そう考えるのが妥当かな」

写経屋の覚書-フェイト「結論は急がずに、いろんな事件を見て推論の材料を増やしていけば分かってくるんじゃないかな?」

写経屋の覚書-なのは「それもそうだね。今最終的な結論を出すこともないね。じゃ、今回はここまでにするよ」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件

 渋谷事件