写経屋の覚書-なのは「今回は渋谷事件っていうのを見るよ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?前にもたしか『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(2)でちょっとだけ出てきたよね?」

写経屋の覚書-はやて「あ、警察側と台湾人側の両方に死者が出たんやったね。でもこれって、朝鮮人やなくて台湾人の起こした事件やから、取り上げへんだかてええん(ちゃ)うん?」

写経屋の覚書-なのは「うん。けど、せっかく『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(2)で少しだけ見たし、一応詳しく見ておこうかなって思ったの。朝鮮人の起こした事件じゃないから、テーマは「戦後朝鮮人の集団不法行為」じゃなくて「雑記」のほうに入れておいて、警視庁史編さん委員会『警視庁史 第4巻 昭和中編上』(警視庁史編さん委員会 1978)のp722~727を見るよ」

写経屋の覚書-警視庁史722
写経屋の覚書-警視庁史723
写経屋の覚書-警視庁史724
写経屋の覚書-警視庁史725
写経屋の覚書-警視庁史726
写経屋の覚書-警視庁史727

         二 渋谷事件
(一)事前の情勢
 敗戦直後の一部の在日朝鮮人、台湾人は、都内の主要商店街、盛り場等で統制品である食料、衣料品類を公然と販売し、また、これらの場所では、日本人の露店商との間に出店場所をめぐる紛争等が統発し、日がたつに従ってますます拡大する情勢にあった。
 中でも、渋谷駅の周辺には、台湾人経営の衣料品、ゴム製品、食糧品等、いずれも統制品ないしは禁制品を扱う業者が密集し、その乱脈ぶりは日に余るものがあった。所轄渋谷警察署では、この事態を黙視し得ず、数回にわたり取締りを断行したが、彼らは反省することなく、遂に警察の取締りに深い恨みを抱き、ますます反抗的態度を示した。
 土田渋谷署長は、上司からの特命もあって、その徹底的取締りを決意し、昭和二十一年七月十七、十八日の両日、一斉取締りを断行し、闇価格にして約三十万円の繊維品、ゴム製品などを押収し、悪質な台湾人等二十八人を検挙した。
 これに対し、五十余人の台湾人が喚声を揚げ、投石するなどして反抗し、これを制止しようとした警察官に暴行を加え、八人を負傷させた。

(二)松田組と台湾人の紛争
 昭和二十一年六月十一日、台湾人の一部集団が、省線新橋駅前広場に日本人露店商松田組が建築したマーケットに出店を申し込んだところ、要求した店舗が多過ぎたため、松田組は拒絶した。
 これに端を発して両者間に紛争が生じ、双方死者各一人と数人の負傷者を出すなどマーケットの利権をめぐる争いは、一層激しくなっていった。
 殊に、七月十六日、松田組一派が、けん統、日本刀などを携行し、自動車で渋谷区宇田川町所在の台湾人経営の喫茶店を襲撃して、居合わせた台湾人約五十人と乱闘し、台湾人六人と取鎮めに出動した警察官ほか二人を負傷させるという事件が発生した。この事件で、双方の関係は更に悪化し、阪神から約一千人の台湾人が応援に上京し、都内の一部台湾人と合流して松田組を襲うという風評が流れた。
 その後、新宿の露店商尾津組が松田組と台湾人側の間に立ち事態収拾のあっせんに乗り出し、交渉を始めたが決着を見なかった。
 こうして、双方とも不穏な動向を示すに至ったので、関係署は全力を挙げて情報の収集に努めた結果、入手した情報は「同月十八、十九の両日にわたって台湾人約一千人が新橋松田組事務所、警視庁、渋谷警察署等を襲撃する」というものであった。
 この情報は、十八日渋谷署の禁・統制品の一斉取締りに示した彼らの反抗から見ても軽視できないものがあったので、警視庁は、管下主要警察署に対し、台湾人の動向並びに言動の視察内偵と警備の万全を期するよう指令した。
 渋谷警察署では、前日の禁制品等の一斉取締実施後、不測の事態発生に備え、隣接各署から台わせて百数十名の応援を得て厳重な警戒態勢を整え、翌十九日には緊急警戒を発令し、午後六時から総数三百七十二名の警察官を動員し、恵比寿、渋谷駅間に通ずる道路等に自動車検問隊を配備するなど、署内外の警戒警備を
厳しくした。
 一方、十八日、尾津組が仲介した交渉は決裂し、松田組と台湾人の全面衝突はもはや必至の形勢となった。
 すなわち、松田組側では台湾人の襲撃に備え、十九日午後三時ごろには都内の露店商ら約一千人を新橋市場付近に集結させ、更に、午後五時ごろには約一千五百人が芝琴平町の松田組事務所など数か所に分散たむろして、待ち受けた。
 これに対し、台湾人は、午後七時ごろ、約三百人が八重洲口の昭和国民学校内の華僑連盟本部を、乗用車十台、トラック五台に分乗して出発、午後七時十五分ごろ新橋駅付近に到着し、更に他の一隊約百人はトラック三台に分乗して琴平町の松田組の事務所に襲い掛かる形勢を示した。これに対し、松田組は、屋上にす
えた機関銃で威嚇発射した。驚いた台湾人はなんら応戦することなく、いち早く現場から引き揚げてしまい、全面衝突には至らずにすんだ。
 台湾人の集団が新橋付近から立ち去ったという情報は、時を移さず渋谷署にもたらされた。しかし、彼らの行く先は不明であった。

(三)渋谷警察署襲撃の状況
 同日午後九時ごろ、恵比寿方面から渋谷方向に向かって、ジープ、乗用車、トラックなど七台に分乗した台湾人約百五十人が、渋谷区中通り三丁目一八番地渋谷警察署前道路に進行して来た。これを認めた警察官が検問のため停止を命じたところ、彼らは「台湾人をなぜ検問するのか」と反抗し、検問員との間に紛争が生じた。警戒中の渋谷署長は、台湾人の説得に努めるとともに、行き先を尋ねたところ、彼らは「本日、京橋方面に集結した者の一部で、麻布の中華民国弁事処に紛争解決のあっせんと、警察取締りの緩和を陳情しての帰途である」と申し立てたが、その挙動に不穏の気配が感ぜられたので、軽挙盲動を慎しむよう注意のうえ進行を許した。
 ところが、第三両目のトラックが署長の直前にさしかかった瞬間、車上から署長目掛けてけん銃三発を発射した。その弾が署長の傍らにいた芳賀巡査部長ほか一人に命中し、芳賀巡査部長はその場に倒れた。続いて進行して来た車上からもけん銃が発射されたので、署長は、警戒員にけん銃の使用を命じて応戦中、最後尾のトラックが道路沿いの菜園に突っ込み停車した。警戒員は、これを包囲して、乗車していた台湾人ら二十八人を逮捕したが、他の車はいずれも逃走してしまった。この事件による死傷者は、次のとおりであった。

警察官
 死亡 渋谷警察署巡査部長 芳賀弁蔵
     (即日二階級特進)
 重傷 目黒警察署巡査   村上義弘
 軽傷 渋谷警察署警部補  西尾成美
 〃  〃    巡査   対島秀作
台湾人
 死亡 范姜利康ほか四人
 軽傷 姜烘楷ほか十四人

(四)捜査の経過
 現場で逮捕した被疑者は、台湾人の中華民国慈善服務団第三分団長蔡竜塗ほか二十七人で、いずれも公務執行妨害、傷害現行犯人として留置し、被疑者らが乗車していたトラック内及び現場付近の菜園の中から捜索発見した十四年式けん銃、コルト式大型けん銃、シムソン小型けん銃各一丁、実包三十発、棍棒、鉄棒各四本、ジャックナイフ一丁、ガソリン入りサイダーびん一本を証拠品として押収した。
 警視庁は、刑事部に捜査本部を設置し厳重に取り調べたが、芳賀巡査部長を直接射殺した被疑者は発見できなかった。けれども、その後の捜査で、関係被疑者十余人を検挙して、同年七月二十六日、事件を米軍東京憲兵司令部に引き渡し、その後の直接捜査は憲兵司令部が行い、警視庁はその補助として捜査に当たった。
 連合国軍最高司令部法務局は、審理の結果、同年九月三十日、被告人蔡竜塗ほか四十人を有罪と確認し「在日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したことに因る」という理由で起訴して軍事裁判(警視庁第一会議室)に付し、その後四十五回の審理を重ねた結果、同年十二月十日、次の判決があった。
 刑名、連合国軍の占領目的を妨害する諸行為を犯したるに因る罪
  判決(確定判決)
  懲役三年重労働    朱徳高
  懲役二年重労働    蔡竜塗ほか三十七人
 なお、この事件の直接の動機となった新橋マーケットは、事件直後の七月二十日、米軍東京憲兵司令部から閉鎖を命ぜられ、二十三日までに取壊しが完了した。

写経屋の覚書-はやて「台湾人と松田組いうとことの闘争が発端やねんな」

写経屋の覚書-フェイト「松田組って、露天商って書いているけど、やっぱりやくざとか暴力団なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「そうだよ。この年の6月に組長が組員に殺されて、その奥さんが女親分として跡目を継いで新橋の闇市を仕切っていたんだけど、警視庁史にあるようにそこへの出店を巡って台湾人グループと抗争してたの」

写経屋の覚書-フェイト「そこに警察の闇市取締がからんでくるから事態が複雑になるんだね」

写経屋の覚書-はやて「七条警察署襲撃事件みたいに、松田組とかのやくざ組織が警察に加担したとする言説もあるみたいやね。まぁ確実な裏は取れへんやろけど」

写経屋の覚書-フェイトウィキを見てるとそんなことを書いているね。えーっと、参考文献の山平重樹って『残侠』の作者だったよね」

写経屋の覚書-なのは「それと、所謂朝鮮進駐軍言説で第三国人が機関銃等を使用したとかいう記述があったけど、逆に松田組の方が機関銃を射撃しているのは笑えるところかもしれないね」

写経屋の覚書-フェイト「この事件の捜査は日本の官憲からGHQに移管されているんだね。「在日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したこと」が理由とされているけど…」

写経屋の覚書-なのは「んー、死者が5人も出る大規模な事件で、治安を極度に乱し占領目的を阻害することになったって扱いなのかな?GHQに特別な思惑があったかどうかはちょっとわからないけど。事件概要については警察庁刑事部捜査課『刑事警察資料第33巻 戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)のp51~52にも載っているの」

写経屋の覚書-集団概況51
写経屋の覚書-集団概況52

三国人関係
 一 渋谷事件  (東京)
(一)事件発生の経緯
 戦後の混乱に乗じた在日朝鮮人台湾人等のいわゆる第三国人は商店街、盛場等において統制品である食料品、衣料品等を販売しまたこれらの場所では日本人経営の露天商との間に出店割込等の紛争が発生し、これに対す(ママ)警察の取締に対しては戦勝国民であるという優越感から不当な圧迫であるとして、常に反抗的態度を示す状況であつた。
 中でも東京都内の渋谷警察署管内では、台湾人経営の衣料ゴム製品食料品等統制品乃至禁制品業者が密集するに至つたので、昭和二十一年四月及び七月の数回に亘つてこれが取締を行い、七月十七・八両日の取締に際しては繊維品、ゴム製品等闇価格約三〇万円を押収した外、台湾人二七名を検挙した。
 一方同年六月には、日本人露天商松田組の国鉄新橋駅前広場のマーケットの利権を繞つて台湾人との間に紛争を生じ、七月十六日松田組一派の約一五名の者がけん銃、日本刀、棍棒等を携行の上自動車三台に分乗して、渋谷区宇田川町六〇番地台湾人経営の喫茶店を襲撃、居合せた台湾人約五〇名と乱闘し、警察官一名一般人二名、台湾人六名に夫々傷害を加えるという事件が発生した。
 右乱闘事件後、台湾人等は約二〇〇〇名を集結して松田組事務所警視庁渋谷警察署を襲撃するという情報が乱れ飛び、不穏な動向を示していた。
(二)事件の概要
 昭和二十一年七月十九日午後九時頃台湾人はジープ二台、乗用車一台、トラツク三台に約一五〇名が分乗して、渋谷区中通り三丁目一八番地渋谷警察署前道路から恵比須方面から渋谷方向に進行して来たので、警察官が停車を命じたところ、乗車中の台湾人は「台湾人を何故に検問するか」と反抗して紛争を生じ折柄警戒中の渋谷警察署長が台湾人の説得に努め行先を尋ねたところ、台湾人等は「本日京橋方面に集結し、麻布所在の中華民国弁事の処え行き松田組との紛争解決の斡旋並びに警察取締の緩和等について陳情を行いその帰途である。」と申立てたが、挙動が不審であつたので注意の上進行を許した。
 ところが第三輌目のトラツクが前記署長の前を通過の瞬間、車上より署長に対しけん銃三発を発射し、同所に居た芳賀巡査部長外一名に命中、芳賀部長はその場において昏倒した。さらに続いて進行して来た車上からも同様けん銃を発射したので、同署長は警戒員にけん銃使用を許可して応戦中、最後尾のトラツクが道路傍の畑に乗り込み停車したのでこれを包囲の上乗車中の台湾人二八名を逮捕したほか、一四年式けん銃ほか三挺、実砲三〇発その他棍棒等を押収したが他はいずれも迯走したものである。
 本件による警察側のけん銃発射数は二四二発で、警察側重傷二名(内一名死亡)軽傷二名、台湾人側重傷二名(何れも死亡)軽傷七名を出すに至つた。
(二)(ママ)事件の措置
 本件の被疑者蔡竜塗外二七名を公務執行妨害及び傷害の現行犯人として逮捕し取調を行つていたが、七月二十六日東京憲兵司令部との話合により七月十七八日検挙した者とともに同司令部に引渡した。
(三)(ママ)連合国軍総司令部法務局における公判状況及び判決の状況
 1 公判の状況


 連台国総司令部法務局においては、同年七月二十六日以降審理の結果四三名を有罪と確認し、同年九月三十日警視庁第一会議室において、裁刊責任者米第八軍司官アイケルバーカー中将裁判官バーグ大佐ほか二名、検事エリオツト少佐ほか二名、弁護人、バーマンマークイほか一名によつて、被告蔡竜塗ほか四二名を「日本国占領軍の占領目的を阻害する諸行為を犯したるに因る」という起訴理由によつて、軍事裁判所を開廷し、爾来四五回に亘つて審理を行つた。

2 判決の状況

 本件については、同年十二月十日連合国占領目的を妨害する諸行為を犯したるによる罪として次のような判決があつた。
 無罪 洪聡仁外三名
 懲役二年重労働 蔡竜塗外三七名
 本国送還 本国の送還の日を以て重労働を免除す
 連合軍日本占領中は再渡来することを許可せず。
 懲役三年重労働 朱徳高
 本国送還、本国送還を以て重労働を免除する。


写経屋の覚書-フェイト「警察の拳銃発射数とか判決とかの細かい点についてはこっちの方が詳しいね」

写経屋の覚書-はやて「へー、いちおう本国送還で重労働は免除になってるんやねぇ。ほんで再来日は禁止と」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、対して突っ込むところもないし、ちょっと短いけど今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件
大滝事件
富坂警察署襲撃事件
七条警察署事件
直江津事件
坂町事件
新潟日報社襲撃事件

写経屋の覚書-フェイト「今回は新潟日報社襲撃事件っていうのを見るって言ってたね。えーっとウィキにも載ってるんだね」

写経屋の覚書-はやて「参考文献は『新潟県警察史』と『在日朝鮮人運動』やね、たしか坂町事件のせいで起こった事件やって言うてたね」

写経屋の覚書-なのは「うん。じゃ、まず新潟県警察史編さん委員会『新潟県警察史』(新潟県警察本部新潟県警察史編さん委員会 1959)のp1056~1058を見るよ」

写経屋の覚書-新潟1056
写経屋の覚書-新潟1057
写経屋の覚書-新潟1058

 新潟日報社襲撃事件  前記坂町事件は、意外な進展ぶりを示した事件であつたが、さらに、その報道記事にいいがかりをつけた朝鮮人一味は、ついに新潟日報社を襲撃するという事件にまで発展した。
 昭和二十一年九月二十三日付新潟日報夕刊は、前記坂町事件を取り扱い、「MPも出動坂町で深夜の乱闘」と題し、「朝鮮人三〇名からなる買い出し部隊が、やみ米一五俵(約九〇〇キロ)を輸送しようとしたのに対し、警察官が取り締つたところこれに反撃を加えて乱闘となり、警察用自動車を破壊し駐在所の電話線を切断、警察官側に負傷者を出したが、MPがかけつけ、一四名が検挙された』という記事(要旨)を掲載し、翌二十四日の朝刊にも報道した。読売新聞もまた同様の記事を掲載した。
 当時朝鮮人は、全国的な組織として朝鮮人連盟を結成して団結し、各地における個々のできごとに対しても、常に連盟の名において介入し、一方的に彼等の立場のみにおいて解決しようとしていた時代であつた。
 九月二十六日、朝鮮人連盟新発田支部委員長(尹建)以下一五名、韓国僑民会総務部長(蕭泰栄)ほか一名が新潟日報社を訪れ、読売新聞社代表をも呼んで両者代表と会見し、「坂町事件は、朝鮮人が主体でひきおこされたものでなく、新聞発表は事実と相違している。これは日・鮮離間を企図したものであり、朝鮮人の名誉をき損した。よつて社説で朝鮮人連盟と韓国僑民会に対し陳謝するとともに、即時ラジオ放送を通じ、代表責任者から県民にむかつて新聞報道は事実無根であつた旨の声明を発表せよ」と迫つた。日報社側は、社長不在を理由として即答をさけ、「二十九日まで猶予されたい」と答えて了解を得たが、その後新聞社側では、和解する必要を感じて僑民会幹部を通じ、約束の日の前日(二十八日)同会董総務部長ほか二名の幹部を新潟日報社に招いて話しあつた。その際読売新聞社側は、不確実な記事であつたことを認め、社説的な謝罪記事を掲載することで話しあいがついたが新潟日報社側は、「すべては事実が決定することであり、真実がわかりしだいそれによつて取り消すべき点があれば取り消すし、謝罪の必要があれば謝罪する」と、留保の態度に出たため、僑民会幹部は、「事実はすでに明白であるにかかわらず、解決をひきのばすことは誠意のないことだ」として、和解を拒否した。
 翌二十九日、朝連新発田支部長尹建以下一八名は、前回約束のとおり新潟日報社を訪れ、松井編集局長外三名の代表者と会見し、二十六日の返答を求めた。これに対し日報社側は、「警察当局と進駐軍情報部について調査中であるから、その結果に基いて善処する」旨を答えたところ「事実は明白なことである」として譲らず、両者の意見が対立し、交渉が長引く形勢になつたため、朝連側の一人がいきなり松井編集局長に向かつて茶わんを投げつけたのを合図とし、いつせいに
日報代表者に暴言を浴せ暴行を加えようとして室内は騒然となつた。この物音で、社外に待機していた残余の朝鮮人も社内の各室に乱入し、いすをなげつけ電話機をたたきこわし、活字ケースをけとばすなど暴行の限りをつくし、見積り額三〇余万円に及ぶ損害を与えたほか、松井編集局長を新潟市内の僑民会事務所に連行したので、所轄新潟警察署においては進駐軍とも連絡し、一味全員を暴力行為等処罰に聞する法律違反の現行犯として逮捕した。
 この事件は、終戦以来各地で朝鮮人などの横暴が重なつていた折でもあつて、社会的にも大きな反響を呼んだ。
 二十二年三月四日、新潟地方裁判所において、暴行した一味のうち九名に対し、暴力行為等処罰に関する法律並びに業務妨害罪により、辛鐸升に対しては懲役十月、他の八名に対しては懲役六月(いずれも執行猶予三年)の判決が言い渡された。

写経屋の覚書-はやて「新潟日報と読売新聞の坂町事件についての報道に対する異議申し立てが発端やったんやね」

写経屋の覚書-フェイト「たしかに前回見た坂町事件の警察史の記述だと「大阪市吹田区旭町二丁目居住の中国人、元料理店主、慕金英(三七)など一一名及び朝鮮人一名、計一二名を検挙」ってあるから、尹建たちの「坂町事件は、朝鮮人が主体でひきおこされたものでなく、新聞発表は事実と相違している」って抗議は正当と言えそうだよね」

写経屋の覚書-はやて「ってことは、警察史にあるような「いいがかりをつけた」とは言えへんってことなんかな?」

写経屋の覚書-なのは「ま、この時点で新聞社側が逮捕者の内訳を正確に把握できていたかどうかって問題はあるんだけどね。読売新聞の記事は」

写経屋の覚書-はやて「かんじんの新聞記事はあらへんの?」

写経屋の覚書-なのは「残念だけど、東京の国会図書館に行かなきゃ確認できないんだよねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「それは残念だね。抗議の結果、読売新聞の方は謝罪記事を載せることにしたけど、新潟日報の方は返答を引き延ばしたんだね」

写経屋の覚書-なのは「そうなの。それでついに朝鮮人側がキレて暴行・破壊をしてしまったって流れだね」

写経屋の覚書-はやて「んー、たしかに新潟日報側のやり方はええこと(ちゃ)うって思うけど、せやから言うて手ぇ出したらあかんやろ」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね。先に手を出した方が負けになるんだし」

写経屋の覚書-はやて「それに、「社説で朝鮮人連盟と韓国僑民会に対し陳謝」はええとしても「即時ラジオ放送を通じ、代表責任者から県民にむかつて新聞報道は事実無根であつた旨の声明を発表せよ」って、なんぼなんでもちょっと調子乗り過ぎやで」

写経屋の覚書-なのは「そうだよね。嵩にかかって過剰な要求をしてるんじゃないかって思うよ。ま、そういうわけで朝鮮人たちは暴力行為等処罰に関する法律・業務妨害罪で逮捕されて、懲役刑が言い渡されたの」

写経屋の覚書-はやて「坂町事件と(ちご)て日本の司法官憲が取調・裁判・処罰までやっとるんやね」

写経屋の覚書-なのは「前回も言ったけど、坂町事件が特異なんだよね。どうして軍政部員が取り調べたのかよくわからないし。そうそう、『在日朝鮮人運動』と『在日朝鮮人運動の概況』も見ておくよ」

篠崎平治『在日朝鮮人運動』(令文社 1955)p264
附録第一
  重要特異事件一覧表

昭和二十一年
自九月二十二日
至九月二十九日
新潟県岩船郡金尾村及び新潟市新潟日報社襲撃事件
(主食取締)
岩船郡金尾村において所轄警察署が中国人及び朝鮮人が関係する主食取締を行つた処中国人一五名、朝鮮人約五十名がこれを妨害し警察官七名に軽傷を与え更に巡査駐在所に侵入して器物毀棄等の暴行をなしたので警防団、隣接警察署、進駐軍等の応援によりこれを鎮圧し被疑者十五名を検挙した処同月二十九日朝鮮人十九名が新潟日報社を訪れ記事の内容が事実に相違すると記事の取消と謝罪を要求したが納得のゆく回答を得られなかつた事に憤激し新聞社員三名に軽傷を与え窓ガラス、椅子等多数を破壊する暴行をなしたので全員検挙した。


坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』(法務研究所 1959)p237
(三)新潟日報社襲撃事件

 九月二二日岩船郡重尾村で、警察官の主食取締を中国人一五名と朝鮮人約五〇名が妨害し、警察官七名を負傷させた。さらに駐在所を襲撃して暴行破かいをおこなつたので、警防団や進駐軍の応援で鎮圧し一五名を検挙した。ところが二九日、朝鮮人一九名は新潟日報社におしかけ、この事件の報道記事は事実に反するから取消せと迫り、社員三名に暴行の上暴行破かいをおこなつたので、その全員を検挙した。


写経屋の覚書-フェイト「あれ?事件発生場所が『在日朝鮮人運動』だと「金尾村」、『在日朝鮮人運動の概況』だと「重尾村」になってるよ?正しくは金谷村だよね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。どういう経緯で間違ったのかは分からないけど、おかげでネット上の坂町事件や新潟日報社襲撃事件についての記述の引用元が分かるんだよ」

写経屋の覚書-はやて「?あー!金尾村って書いとるサイトは『在日朝鮮人運動』から引用、重尾村って書いとるサイトは『在日朝鮮人運動の概況』から引用しとるってことやな」

写経屋の覚書-なのは「そういうこと。他のサイトのコピペってこともあるんだろうだけど、遡っていくとどの参照元に行きつくかわかるってことなの。古典文学や史料の研究と同じ手法なんだけどね」

写経屋の覚書-フェイト「それってどういうこと?」

写経屋の覚書-なのは「『平家物語』や『太平記』のような古典って、基本的には写本で受け継がれていくんだけど、写本を繰り返すうちに誤字や脱字、写し間違いとか追記、改竄される事が多いの。だからその誤字等の有無で、いつの時代に写本されたかとか、どの写本を写したかとかが分かったりするの」

写経屋の覚書-はやて「伝播史いうか系統が分かるってことやね」

写経屋の覚書-フェイト「へぇ。そんなことがわかるんだ」

写経屋の覚書-なのは「研究の基本なんだけどね。それはともかく、この事件も朝鮮人組織を代表した集団の暴力行為、不法行為だけど、新聞記事への正当っぽい抗議が発端になったものだし、よく言われる横暴とは少し違うってことは分かったよね」

写経屋の覚書-フェイト「結果的に暴力行為に訴えた点はダメだけどね。あと過剰気味な要求も」

写経屋の覚書-はやて「せやな。それに言うまでもあらへんやろけど、朝鮮進駐軍とも何の関係もあらへんね」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件
大滝事件
富坂警察署襲撃事件
七条警察署事件
直江津事件
坂町事件

写経屋の覚書-なのは「今回も前回に引き続いて『新潟県警察史』を見るよ」

写経屋の覚書-はやて「ってことは、他にも事件があったんやね」

写経屋の覚書-なのは「うん。坂町事件って言ってね。ヤミ米の買出し取締がきっかけなの」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、それってウィキにもあったよ。参考文献は『新潟県警察史』と『在日朝鮮人運動』って書いてるね」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。じゃまず新潟県警察史編さん委員会『新潟県警察史』(新潟県警察本部新潟県警察史編さん委員会 1959)のp1053~1056を見るね」

写経屋の覚書-新潟1053
写経屋の覚書-新潟1054
写経屋の覚書-新潟1055
写経屋の覚書-新潟1056

 坂町事件  終戦後満一年を経た昭和二十一年九月二十二日、羽越線坂町駅においてやみ米輸送の取締りをめぐり、警察官と中国人及び朝鮮人との間に乱闘を演じたいわゆる坂町事件が発生した。
 戦時中国内の労力不足から、その対策として内地に移入された中国人・朝鮮人その他従来から日本内地に住みついていたこれらの者は、終戦とともにその態度を一変し、警察力の不足と国内法令が彼等に適用されるかどうかの解釈が確立されていない間げきに乗じて、米のやみ取引・酒の密造などを公然と行い経済取締りの〝癌〟となつた。しかし、取締法令適用の点が明確でなかったが、現実には取締りが必要であったため、取締りに当っては常に物議をかもし、結局相互の力関係でその場がきまるという、全く実力闘争の時代であつた。
 当時、県下下越方面には、新発田市に朝鮮人連盟の事務所を置き、その勢力下に岩船郡保内村・金屋村・北蒲原郡乙村を根拠として約二〇〇名くらいの朝鮮人が住みつき、坂町・平木田両駅を中心に山形県方面及び岩船郡下のやみ米を集荷中継して関西方面へ列車輸送し、全く人もなげな態度であつた。一面、国内食糧事情は極度に悪化し、食糧の配給統制は、進駐軍の命令によって戦時中以上に強化され、供米完納は至上命令として警察もその一翼を負わされ、全力をあげてその供出を督励した。
 当時、坂町駅からは一日五〇俵のやみ米が流れるといわれ、これを徹底的に阻止しなければ管内の供米はとうてい完納することができないと認められた。よつて村上警察署においては、警察部の通達もあつて徽底的な取締りに乗り出した。
 事件当日(二十一年九月二十二日)午前○時五十分ころ村上警察署の加藤巡査部長は、署長の命によつて巡査七名を指揮し、羽越線と米坂線が合流する管下の坂町駅構内においてやみ米輸送の取締りに当つた。そのとき、大阪行列車に乗車すべくホームに待つていた鮮・華人四・五〇名は、取締員の姿を見ると大部分が姿をかくした。加藤部長は、これに目を止めながらも、中ホームの先端に、中味が米と認められる荷物七・八個を積んだ運搬車を発見したので、ホームの待合人に「これはどなたのものか」と尋ねると、一五名くらいの一団の中の一人が「おれのものだが、おれは中国人だ」と答えた。さらに身分証明書の提示を求めたところ、他の者はいきなり〝なぐれ!!たたけ!!〟と叫びながら、加藤部長にとびかかつてきた。加藤部長は素手でこれを防ぎながら電灯の近くへ導いたので、これを知つた斎藤巡査が援助し、二人で制止しようとつとめているとき列車が到着し、その列車から二〇名あまりの鮮人が下車して彼等に加勢し、加藤部長と斎藤巡査は警棒まで奪われて乱打された。彼等はさんざん暴行を加え、列車の発車まぎわに全員が飛び秉つて逃げてしまつた。加藤部長らは傷を負いながらも鮮人二名を逮捕し、本署に引き揚げてこの状況を署長に報告した。
 村上警察署では、このにがい取締経験にかんがみ陣容を強化してこれに対処するため、取締計画を再検討していたところ、その日(二十二日)の午後になつて、坂町と金屋の両駐在巡査(いずれも坂町駅周辺の駐在)から「朝鮮人と中国人がやみ米を運搬している」との報告が本署にもたらされた。これによつて本署からは、河津警部補以下一〇名の私服警察官が午後四時ころ坂町駅前におもむき、やみ米がかくされたと認められる丸屋旅館の各室を臨検した結果、精米三俵分(約一八〇キロ)をリュックや麻袋に詰めてあるものを発見、在宿中の中国人二名(内一名は女)に所有者を尋ねたところ、「その者は金屋村方面に出ている」と答えた。そこで、同駐在巡査からのさきの報告の件とも関連があるものと認め、その中国人をも自動車で任意同行して金屋村にむかつた。
 金屋村では、かねてから鮮華人と連結を待つやみブローカー高橋兼太郎が注目されていたので、これをおとずれ承諾を得て屋内を検索したところ多量のやみ米を発見したが、いずれも「中国人からの預り品だ」と主張する態度に出た。このとき戸外が急に騒がしくなったので出て見ると、朝鮮人と中国人一四・五名がまきや棒を手にして、「君達はわれわれ中国人を取り締まる権限をもつているか」とか「丸屋にあった米をなぜ待つてきたか」などとくちぐちにののしりながら襲
いかかってきた。警察側は彼等に傷害を与えることをさけるため極力防御の態度に出たところ、彼等は勢いに乗つて警察官を駐在所前に追いつめ自動車を破壊し、警察官の警察手帳をとりあげ、なぐるけるの暴挙に出たうえ、やみ米を他の自動車に積みかえて河津警部補ひとりを坂町駅前丸屋旅館へ連行し、「殺してしまえ」と意気まく始末であったが、河津警部補は責任者として取締りの必要性を明確に述べたうえ、話し合いのうえで解決した。
 一方、河津警部補が連れ去られた金屋駐在所では、加藤部長以下がはぎしりしながら本署へ状況を報告し、朝鮮人並びに中国人の検束を要望したが許されなかった。金屋村警防団では、警鐘を鳴らして団員を召集し警察を援助するため出動したが、あくまで控え目の態度にある警察官の制止によって手が出せず、かえってとびぐちや木刀類を彼等にとりあげられ、そのうえ彼等は駐在所に侵入し、施設・備品を打ちこわすという破目になってしまった。こうした状況を見かねた金
屋村の遠山医師は、電話で進駐軍の新潟軍政部へ米軍の出動を要請するなどのせつぱつまつた情景も見られ、事態はますます険悪化してきたとき、河津警部補から「話は解結したから坂町駐在所へ全員集合するよう」に、との電話指示があつて警察官全員は引き揚げた。
 事が意外に拡大したという報告をうけた石井署長は、全署員を召集して午後五時過ぎ坂町駐在所にいたり、徹底的取締りを行うべく県本部と連絡を続けながら対策をねり、新発田警察署から二〇名の応援警察官を得て待機していると、進駐軍新潟部隊から情報部長のほか軍政部係官が到着したので情況を報告し指示を乞うたところ、情報部長一行は、朝鮮人と中国人のたむろしいている丸屋旅館にいたつて彼等に対し、「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければなら
ないこと、警察官のやみ米取締りを拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を告げ、石井署長に「責任をもつて取り調べるよう」にと指示して帰任した。連合国軍から取締りの直接指示を受けた警察官は、確信に満ちたものとなり、なおも反抗の挙に出る彼等と乱闘の場をくりひろげながらも、大阪市吹田区旭町二丁目居住の中国人、元料理店主、慕金英(三七)など一一名及び朝鮮人一名、計一二名を検挙して彼等の根拠を破壊することができた。
 彼等の身柄は、その後村上署から新潟署に移され、軍政部員が取調べに当つたが、県外追放と再び本県内でやみ米の買い出しを行わないという誓約だけで釈放された。

写経屋の覚書-はやて「中国人と朝鮮人のヤミ米買出し集団やったんやね」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?『在日朝鮮人運動』のほうは見ないの?」

写経屋の覚書-なのは「『在日朝鮮人運動』はね、次に起こった新潟日報社襲撃事件の項目に概略を書いてるだけだからね、ここでは触れずに、新潟日報社襲撃事件に触れる時に紹介するよ」

写経屋の覚書-フェイト「新潟日報社襲撃事件?」

写経屋の覚書-なのは「うん。この坂町事件の結果起こった事件なの。詳しいことは次回見るよ。で、この坂町事件は新聞記事にも載ってるの」

写経屋の覚書-460924朝日(大阪)

1946年9月24日付朝日新聞(大阪版)
買出部隊また暴れる
【新潟発】十二日午前零時四分羽越線大阪行列車が坂町駅につくや集団買出部隊約五十名が米十五俵をもつて乗り込まうとしたので村上署員が出動、取締りに当つたところ彼らは駐在所などを□□、電話線を切断、乱闘となり警官二十名が負傷したが首謀者十四名を検挙した

写経屋の覚書-なのは「十二日とあるのは二十二日か廿二日の間違いだろうね。こっちでは逮捕者は14名になってるけど、何人(なにじん)かまでは書いてないんだよ。『在日朝鮮人運動』では逮捕者は15人になってるんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「警察は進駐軍軍政部から逮捕取締の承認が出るまではえらい弱気いうか低姿勢なんやなぁ…それに結局逮捕はできたけど、取調や処罰は軍政部でやっとるんやね。「県外追放と再び本県内でやみ米の買い出しを行わないという誓約だけで釈放」されるなんて甘いん(ちゃ)う?」

写経屋の覚書-フェイト「え?2月に出たSCAPIN756 Execise of Crimnal Jurisdiction:刑事裁判権の行使SCAPIN757 Review of Sentences Imposed Upon Koreans and Certain Other Nationals:朝鮮人及びその他の国民に言い渡された判決の再審理で、日本官憲が朝鮮人・台湾人に対する取締権限があるって明確になってるのにおかしくない?」

写経屋の覚書-はやて「あ!ほんまや!どういうことなんやろ?」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよねぇ。次回見る新潟日報社襲撃事件や8月に起こった朝鮮人の強盗事件だと、警察が最初から逮捕を躊躇してないし、処罰も日本の裁判所がやっているのに、どうしてこの坂町事件に限って軍政部が取調と処罰をしたのかよくわからないの」

写経屋の覚書-フェイト「経済事犯だからってことでもないよね?」

写経屋の覚書-なのは「うーん…他のヤミ米買出しの取締と逮捕は警察がやってるから違うと思うの」

写経屋の覚書-はやて「結局分からへんねんなぁ…まぁ、自治体によっていろいろ事情や状況が(ちゃ)うっていうんはあるんやろねぇ」

写経屋の覚書-なのは「うん。今度また触れると思うけど、兵庫県の場合、1946年1月16日付のSCAPIN605 Armament of Police Force in Japan:日本警察の武装の発出より早く、1945年12月30日に拳銃武装の許可が出てるしね。それと各自治体と軍政部の関係にもよるだろうしね」

写経屋の覚書-フェイト「軍政部が自治体の姿勢を評価していたり、中の人たちの仲が良かったら、連絡や意志疎通もスムーズに行くし好意的な措置を取ってくれるもんね」

写経屋の覚書-はやて「新潟の場合はそのへんがどうやったんかは分からへんけど。ま、何にしても、この事件も朝鮮進駐軍とは関係あらへんね」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。じゃ、今回はここまでにして次回は新潟日報社襲撃事件を見るよ」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件
大滝事件
富坂警察署襲撃事件
七条警察署事件
直江津事件