東インド会社 | 雷神トールのブログ

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世界で最初の「株式会社」、オランダの「東インド会社」。
当時の日本も含め国際政治・経済情勢にとても重要なのでもう少し詳しく見てみましょう。

 


「東インド会社」は単に商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権 など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。 アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたのでした。

資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれ、銀行もメンバーでした。 本社はアムステルダムに設置され、支店となるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれました。


以下、設立の背景から、香辛料欲しさに現ニューヨークと東インド諸島のラン島を交換するところまでウイキペデイアによります。

16世紀後半、スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されたことで、リスボンを通じた香辛料入手も困難になっていた。

こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島との往復に成功を収めると、 いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。

しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。

 

さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。

こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。6つの支社から構成され、アムステルダム、デルフト、ロッテルダムなどに置かれた。

つまり当初は香辛料貿易を目的に設立されたんですね。

マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦いながら、1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地としました。

スペイン、ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。 そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社もユダヤ人が関係しています。

ジル・ドウルーズはスピノザが破門を言い渡されたユダヤ教団のメンバーの多くは「東インド会社」の株主だった、と書いています。

1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島と得撫島を発見した。そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をした。

1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島(東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島(香辛料貿易)とニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。

以上が、ウイキペデイアによる「オランダ東インド会社」の要約です。

 

国際関係はひとまず置き、国内の政治的事情はどうだったのか? ネーデルラント(低地地方)がなぜスペインに支配されていたのか? に遡ってみます。

15世紀にネーデルラント(現在のベネルクス)はブルゴーニュ公国の一部となる(ブルゴーニュ領ネーデルラント)。この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、ヘント(ガン)、アントウェルペン(アントワープ)などの富裕な都市を生みだした。

1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死すると、一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領となった。ブルゴーニュ公でありネーデルラント領主でもあったフィリップ美公はカステイリヤ女王ファナと結婚し、その間に生まれたのが皇帝カール5世(スペインではカール1世)。

神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行った。

カール5世はフランドル地方(現在のベルギーのヘントGent、フランス語発音でガン)に生れ、この地方に生涯愛着を持ち続けた。

1516年にスペイン国王を兼ね、また 1519年にはフランス王フランソワ1世と争って神聖ローマ皇帝に選出されカール5世と呼ばれた。

1556年には健康を損ね統治に疲れたのを理由に退位、息子のフェリペ2世にはネーデルラントとスペインを、弟のフェルデイナントに神聖ローマ帝国を譲った。このためハプスブルグ家は、スペイン・ハプスブルグとオーストリア・ハプスブルグとに分裂した。

カール5世が生まれ育った土地とその地方の言葉に愛着をもち、専制君主ながらネーデルラントの人々に親しまれていたのに反し、息子のフェリペ2世はスペイン生まれでスペイン語しか話せず、ネーデルラントでは嫌々滞在し、ただ税金を搾り取り支配するための領主として住民の反感を買ったようです。

宗教改革以降、プロテスタントの勢力がカトリック国スペインの支配に抵抗し、ネーデルラントの北部7州は八十年戦争を経て、1648年にヴェストファーレン条約によってスペイン・ハプスブルク家の支配から独立します。北部7州は連邦制・共和制(ネーデルラント連邦共和国)を採っていました。

 

さて、スピノザとヤン・デ・ヴィットの関係について書こうと思いながら、前置きが長くなりました。次回の投稿をお約束して、今日はひとまずこの辺で……。