黑いチューリップ スピノザ その23 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

19世紀フランスの劇作家・歴史小説家アレクサンドル・デユマ(ペール=父)の晩年(1850年作)の小説に「黒いチューリップ」がある。

 

  

 

デユマの小説は日本では黒岩涙香の翻案で「巌窟王」と題された「モンテクリスト伯」、ダルタニアンの「三銃士」、「二十年後」、「王妃マルゴ」など歴史を題材にフィクションを織り交ぜた読んで面白い 作品が多い。

さて、「黒いチューリップ」はスピノザの時代のオランダ、まさに今日語ろうとしているデ・ウィット兄弟が登場する小説。

 

あらすじ。主人公のコルネリウス・ファン・ベルルはコルネリウス・デ・ウイットが名づけ親。隣家にチューリップ園芸家アイザック・ボクステルが住んでいる。

ハーレム園芸協会が黒いチューリップの品種開発に10万ギルダーの賞金を懸けた。コルネリウス・ファン・ベルルは黒いチューリップを作り出すのに情熱を傾ける。

ついにファン・ベルルは黒いチューリップを作り出すのに成功し、球根3個を得た。

隣に住むアイザック・ボクステルは毎日ファン・ベルルの動向を望遠鏡で観察し、黒いチューリップ開発成功を嗅ぎつけ、なんとか球根を手に入れようとする。

宰相ヤン・デ・ウイットの兄コルネリウス・デ・ウイットはフランスと交わした密約書を隠すためファン・ベルルに預ける。

その場面も望遠鏡で盗み見ていたアイザック・ボクステルは球根を手に入れるため、コルネリウス兄弟を国家反逆罪の廉で告発する。

コルネリウス兄弟が群衆の憎悪を買っていた日々、密約書を預けたファン・ベルルにも危険が及ぶと察知したコルネリウスは密約書を中を見ずに焼却するよう召使に手紙を託した。コルネリウス・ファン・ベルルは手紙を読む暇もなく連行されてしまうが、とっさにその手紙に球根3個を包んで持ち出した。コルネリウスは死刑を宣告され、収監先のハーグの監獄で獄吏の娘ローザ・グリフュスに球根を渡す、という筋書き。

 

ヨハン・デ・ウィットは1653年7月23日に28歳でホラント州の法律顧問に選出され、以後1668年まで
5年ごとに再選された。ホラント州法律顧問の地位は、無総督時代のオランダ共和国において事実上、政権の最高指導者だった。

デ・ウィットは、その数学的才能を発揮して財政再建を進め、第一次英蘭戦争での敗戦を教訓に海軍力を増強した。1668年、フランス王ルイ14世のネーデルラント継承戦争を阻止すべく、イングランドの駐ハーグ大使ウィリアム・テンプルと協力してイングランド・オランダ・スウェーデンと三国同盟を締結した。結果、アーヘンの和約が結ばれたが、1670年にルイ14世はチャールズ2世とドーヴァーの密約を結び、スウェーデンとも1672年に仏瑞同盟を締結、三国同盟は崩壊してオランダは孤立した。

第三次英蘭戦争では、1672年3月にイングランドがオランダに宣戦布告し、続いてフランス王国も4月6日に宣戦を布告した(オランダ侵略戦争)。このため、オランダは海と陸から攻撃を受けるという国家的危機に瀕した。

6月下旬にユトレヒト州もフランス軍の手に落ち、オランダ政府は堤防を決壊してホラント州を洪水線で覆い防御を固めた。しかし、民衆は無為無策の共和政府への怒りからオラニエ公ウィレムをオランダ総督にすべく動き出し、7月に当時22歳のウィレムは民衆の支持でオランダ総督ウィレム3世として選出された。一方で民衆は共和政府への非難を高め、指導者コルネリス・デ・ウィット、ヨハン・デ・ウィット兄弟を憎悪するようになった。

7月24日に兄のコルネリスが逮捕され、ハーグのヘバンゲンポールト(現ハーグ監獄博物館)に収監された。ヨハン・デ・ウィットは、拷問を受けて衰弱し追放処分を受けることとなったコルネリスの求めに応じて、ヘバンゲンポールトを訪れた。デ・ウィット兄弟がいることを知ってヘバンゲンポールトを取り囲んだ群衆はヘバンゲンポールトに乱入し、兄弟を引きずり出して虐殺してしまう。

 

スピノザとヤン・デ・ウィットとの交流がどの程度のものだったかは明らかではない。ただウイットは1670年から「神学・政治論」を一部所有していた。そしてスピノザの考えを彼の政治に反映させた、といわれている。いずれにしても、デ・ウィットはスピノザの思想に共感を寄せ、一方キリスト教会からもユダヤ教団からも危険思想の持ち主として敵視されていたスピノザはヤン・デ・ウィットを強力な保護者と感じていた。

1672年、海からの英国による海上封鎖と陸からのフランス軍の侵攻により窮地に立たされたオランダの民衆は、デ・ウィット兄弟を国を裏切ったとの猜疑心から監獄を襲い虐殺してしまうのである。

 

監獄を襲った群衆はデ・ウィット兄弟を棍棒で殴り、短剣で刺し、絞首台まで引きずって行った。絞首台に着いた時は二人の兄弟はすでに息絶えていた。興奮した群衆はふたりの衣類を剥ぎ取り裸にして頭を下に逆さ吊りにした。屠殺した牛を解体する要領で死体は四肢と胴体をばらばらに切り離され、肉の小片が記念品として売られ、群衆の哄笑の中で買った肉を生のまま、あるいは焼いて喰う者までがでた。

虐殺の現場はスピノザが屋根裏部屋を間借りしていた画家のファン・デル・スピックの家からそう遠くない所だった。民衆によるこの虐殺は科学者や思想家を衝撃でおそった。ライプニッツは恐怖にかられ、パリに居たホイヘンスも衝撃を受けた。スピノザは「最も陋劣なる蛮行」と書いたプラカードを作りデ・ウィット兄弟の遺骸の傍に貼り出しに行こうとした。

 

幸い、家主のファン・デル・スピックが危険を予知してスピノザの部屋のドアにカギをかけ出て行けぬようにした。常に感情を抑制しどんな状況にも冷静を保ち落ち着いた穏やかな対応をした知性の人、スピノザが生涯でただ一度、この時は激情に駆られ号泣した、と伝えられている。

 

 

    。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。