スピノザ その22 時代背景 | 雷神トールのブログ

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スピノザが生きた時代のオランダはどんな時代だったのだろうか?

 

政治・経済・文化・科学などの主な事件を拾い年表を作ってみました。

ひと言で言うならば、17世紀の前半はオランダの黄金時代でした。

それについては、次回に述べるとして、まず年表から。

1602.3.20 オランダ東インド会社設立。世界初の株式会社といわれる。本社がアムステルダムに。

1609 平戸にオランダ商館開設。1641には平戸から長崎の出島に移転。

     同年東インド会社に雇われた探検家英人のヘンリー・ハドソン、現ニューヨークを発見。

1614 現ニューヨークを占領。ニューネーデルランド領土宣言。

1618 ルネ・デカルト(1596年生まれで22歳)オランダに移住。翌年デンマーク、ドイツを転々。

     ドイツを中心に30年戦争勃発。

1620 デカルト、オランダに戻り1633年末にはアムステルダムに移住。

1626 マンハッタン島にオランダ植民地「ニューアムステルダム」

1625 ヤン・デ・ウイット生まれる。

1629 ホイヘンス生まれる

 

  

 

1632.10.31 ヨハネス・フェルメール、デルフトに生まれる。 
  
 同年  11.24 ベントー・スピノザ、アムステルダムに生れる。

 同年  レンブラント 「テユルプ博士の解剖学講義」を描く。

 

 

 

 

 

1633 ガリレオ・ガリレイ、宗教裁判で有罪の判決を受け自宅監禁される。

1637 デカルト「方法序説」

1648 ウエストファリア条約締結。オランダ(北部7州)の独立が認められオランダ共和国誕生。

 同年 ~ 1653年まで、フランスで「フロンドの乱」。ルイ14世は幼少のためマザランが実権を握った。

1649 デカルト、スウエーデンのクリスチナ女王に哲学講義のためストックホルムに移住。

1650 デカルト、早朝(午前5時)講義と寒さのため健康を損ね、ストックホルムで死去。

1653 ニューアムステルダム、正式に市の資格を与えられる。

1655 ホイヘンス、自作の望遠鏡で土星の惑星タイタンと「環」を発見。

1656. 7. 25 スピノザ破門宣告を受ける。

 

 同年 7. 26 (スピノザ破門の翌日) レンブラントに破産宣告

1662 ニューアムステルダム、第2次英蘭戦争の結果、イングランドに割譲され「ニューヨーク」となる。

1665 スペイン王フェリペ4世死去。ルイ14世の王妃マリー・テレーズはフェリペ4世の娘のため、カルロス2世より継承順位が高いとして1667.5月、ルイ14世軍南ネーデルランド(スペイン領)に侵攻。 「ネーデルランド継承戦争」の開始。(ルイ14世の覇権主義の始まり)

1667 フランス軍の侵攻によりオランダは英国との戦争を終わらせ、指導者ヤン・デ・ウイットが英公使ウイリアム・テンプルと協力、68年1月にはスウエーデンと3国同盟を結び、フランスと対峙、5月アーヘンの和約により講和。フランスはオランダを孤立させる外交を展開。英国王チャールズ2世と秘密条約(ドーヴァーの密約)を交わし、スウエーデンとも仏瑞同盟、神聖ローマ帝国諸侯とも同盟・中立条約を結び、1672年仏蘭戦争を開始する。

1672.3月「第3次英蘭戦争」英国による海上封鎖とフランス軍の侵攻によりオランダは窮地に立たされた。オランダの経済は疲弊し、民衆は政治的指導者だったデ・ウイットに不満を抱き、22歳のオラニエ公ウイレム3世を支持、兄のコルネリス・ウイットは逮捕されハーグの監獄に収監された。民衆はヤンとコルネリスを監獄から引きずり出し、虐殺した。ヤン・デ・ウイットのためにエテイカの執筆を中断し「神学・政治論」を書いたスピノザはデ・ウイットの横死に慟哭し、「汝ら野蛮人の中でももっとも陋劣なる者ども」という書き出しの声明文を凶行の現場にはりつけようとした。「神学・政治論」を出版した友人がスピノザが現場に行けば殺されることは明らかなので扉に鍵をかけかろうじてこれを止めた。

次回はこの事件についてもう少し詳しく書き、スピノザが「エテ
カ」を書いた時代背景がどんなものだったかを知るように努めたいと思います。

 

 

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