スピノザ その21 エテイカ15 ポンム(りんご)について | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

まず、前回言及された「想像力」という言葉について。

定理 十七の 系 に述べられた 「ものの像 imago 」と「精神が想像している imaginari 」という言葉は現代的な意味での「想像力」とは違い「身体の変様の観念」、つまり感覚的認識のことを指している(と中央公論社版のエテ
カには注記されています)。

 

 

定理 十八

 

このことは定理 十八に続けて述べられています。

「もし人間の身体が、二つあるいはそれ以上の物体からかつて同時に刺激されたとしたら、精神がのちにそのうちのあるものを想像するとき、ただちにまた他のものを想起するであろう。」

定理 十七 と 十八に述べられている「想像」と外部の物体による刺激との関係を「人間身体の流動的な部分」、「身体の柔らかい部分」という表現を使って展開しているのですが、われわれはすでに慣れてしまっている「想像」と「想像力」について先入観をもって読むために、なぜこのような説明の仕方をするのか? よくわからない、腑に落ちない思いから免れることが出来ません。しかし、ここでスピノザが述べていることが現代的な意味での「想像力」とは異なり、日本語版訳者の注にあるように「感覚的認識」のことを指していると知ってはじめて納得できるのでした。


定理 十八 の「注解」は、「記憶」について触れ、さらに「言葉の認識と現実の物との認識には何の関係も共通点もない」という現代言語学に通じる非常に興味深い観察を記述しています。

 

「このことからわれわれは、記憶とは何であるかを明瞭に理解する。なぜならそれは、人間身体の外部に存在するものの本性をふくむ諸観念のある連結にすぎないからである。そしてこの連結は、人間身体の変様の秩序と連結に応じて精神の中に生じてくる。

(途中略)

第二に私は、この連結が人間身体の変様の秩序と連結に応じて生じてくると言う。それはこの連結を知性の秩序――この秩序のもとで精神はものをその第一原因から知覚する、そしてその知性の秩序はあらゆる人にとって同一である――に応じて生ずる諸観念の連結と区別するためである。

さらにこのことからわれわれは、精神がなぜあるものの認識からただちにそれとは似ても似つかない他のものを認識するかにいたるかを、明瞭に理解するのである。たとえば、ローマ人はポームム(リンゴ)ということばの認識からただちに果物の認識にうつるであろう。この果物は、あのポームムという発音に似ても似つかず、また共通性ももっていない。ただ同じ人間の身体が、この二つからしばしば刺激されていたにすぎないのである。すなわち、その人がその果物を見ていたとき、同時にしばしばリンゴを表すポームムということばを聞いたにすぎないのである。」

 

ここでスピノザは「ポームム」という発音(音の連鎖)と「ポームム」という音が表す言葉の概念は表裏一体となって結びついているが、その結びつきは「恣意的」なもの(この果物は、あのポームムという発音に似ても似つかず、また共通性ももっていない)だと指摘しています。
 


この項を読んだ時、めのおはただちにソシュールの「一般言語学講義」を思い出しました。

 

 

 

つまり、「ポームム」という発音(音の連鎖)がソシュールが言うところの「シニフィアン」であり、「ポームム」という音が表す言葉の概念が「シニフィエ」にあたり、このふたつ(シニフィアンとシニフィエ)の結びつきは「恣意的」なものである、という指摘です。

「ポームム」はラテン語の「 pomum 」の発音を日本語のカタカナ表記したものでしょう。ラテン語の「 pomum 」は辞書には「りんご」というよりもっと一般的に「くだもの」「果樹」( fruit, arbre fruitier )の意味が記されています。

フランス語の「 pomme 」は pomme de terre 「じゃがいも」の意味にも使われるほか、形が丸くりんごに似ているスポーツカーのシフトレバーの頭とかシャワーとかじょうろの口とか広く使われます。



フェルデイナン・ド・ソシュール Ferdinand de Saussure は1857年にジュネーヴで生まれたスイスの言語学者で、20世紀の言語学に決定的な影響を与え、構造主義言語学の祖とも呼ばれています。

「一般言語学講義」はソシュールがジュネーヴ大学で行った講義を教え子たちがソシュールの死後編集して出版したものです。

その冒頭には 確か arbor (フランス語の arbre、ラテン語の「木」の意味)という言葉(音の連鎖)と「 arbre」という言葉の概念の間にはなんの共通性も関連もない、つまり「恣意的」だという指摘から言語に関する考察を展開してゆきます。

17世紀オランダの哲人スピノザは、ソシュールに先立つこと2世紀に、すでにこうした観察を「エテイカ」に書いていたのでした。

 

 

     o(^▽^)o