望郷詩人のつぶやき  ~佐藤春夫記念館だより~
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9月の休館日:7日、14日、23日(水)、24日(木)、28日
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  • 22Sep
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(13)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(13)

      ・父の医学修業と新宮での開院(4)森佐五右衛門は、明治26年5月から翌年の4月まで新宮町長を務めています。わずか1年間だけでしたが、そのことが早い目の隠居生活につながるのかもしれません。森の隠居所は「千種葊(あん=庵)」と言い、新宮町の西側の隅、相筋(あいすじ)にあり、本邸は下馬町(しもうままち)にありました。相筋は明治の末に遊郭が設置される、三本杉があって、丸池があった、そのほんそばでした。森は明治34、5年頃から糖尿病に悩まされ、38年の9月に養生を兼ねて京都に移住したようです。森の母親は京都生まれで、森は青少年時代からしばしば京都に遊んだと言うことです。明治39年豊太郎は見舞いのために上洛します。森は「はるばると渡り来ましし紀の海のそれより深し君がなさけは」という和歌を詠んで歓待してくれました。医業も忙しかろうが骨休めも兼ねしばらく滞在してはということで、10日間ほど滞在するうちに、森は急に「脳症を起され溘焉(こうえん・人の急な死)として長逝された。噫(ああ)其永別の悲磋(ひさ・悲しい嘆き)誌さんとして筆進まず几上に俯して歔欷(きょき・むせび泣き)これを久うす。時に夜窓秋雨瀟々(しょうしょう・寂しき雨)。/さびしくも閨(ねや)の窓うつ秋の雨ふりにしことをしのぶ夜すがら」と、豊太郎は万感の思いを込めて記しています。「ふりにし」は、雨が降ると「古い昔の思い出」との掛詞です。京都で逝去した森を偲んで書いた「森朗路翁を憶ふ」という文章(「南紀芸術」第2編第10冊・昭和9年1月)の結語に当たる個所です。蕙雨山房主人(佐藤豊太郎)の「森朗路翁を憶ふ」が載る『南紀芸術』。表紙装幀は星野古陵画、題字は蕙雨山房主人。その書き出し部分では、「翁の老友玉潔和尚は義気に富み且つ進歩主義の人で、私が開業した頃まだ西洋流の医者が少なかつたので私を鞭撻し又保護して下され、書生風を脱するには茶道を学ぶがよいと申され其初歩を授けられた」と書いています。豊太郎は森の周辺の文化人、知識人と親しくなり、漢学的な素養に磨きをかけました。のちに新宮中学開設に尽力し、春夫の中学時代の後見役にもなる漢学の大家小野芳彦との交流もそんななかで生まれたようです。小野は豊太郎よりも2歳年長、下里の高芝の地で明治10年代に小学校の教員をしたとき、佐藤家と縁のある佐藤源兵衛宅に止宿、のちにその養女を妻として、やがて生地の新宮に帰ってきて馬町に住みました。新宮中学で長く教鞭を執り、南方熊楠に資料等 を提供するとともに、郷土史の大家となります。死後刊行された浩瀚な大著『小野翁遺稿 熊野史』(昭和9年3月新宮中学同窓会刊)はその成果です。死の直前まで書き継がれた膨大な日記(明治大正昭和に亘る40数冊・昭和7年2月9日書き終えて床に就き明くる早朝、脳溢血で倒れ不帰の客となりました。享年73)は、新宮中学の歴史を辿るのに利用され、一部「新宮市史資料編下巻」に引用されているものの、研究が手つかずのまま眠っているのはいかにも惜しい。春夫が父豊太郎の恩人森佐五右衛門に多く言及しているのは、最晩年の作品『わが北海道』の第4章「わが父のこと」です(「わが北海道」は昭和39年1月から3月「北海タイムス」に74回に亘って連載。6月新潮社から刊行されますが、春夫急逝後のことでした)。実家から飛び出す形で見も知らずの地、新宮で開業した豊太郎にとって「その時の地獄の佛、親切な家主さんが、父の患者の第一號ともなつて生涯わが父をこの上なく信頼し愛して父の力強い後援者ともなつた」と言います。「維新後も町内屈指の豪商であつた。偶然にもかういふ人を患家の第一號に持つた人の、醫者としての信用は町でも重きをなして、わが父の醫者としての信用の絲口はここにひらけたものであつた。」とも言います。さらに、この森の援助が「この病院ばかりではなく、父がかねての夢を知つてかどうか、北海道へ進出にあたつても後援者となつたのは實にこの森老人であつた。」とも述べていて、豊太郎の北海道開拓の機縁も森を通してのものだったようです。日清戦争後、木材を主とする新宮の商売人たちが、植民地となった台湾や朝鮮半島への注目から、そちらへ進出するものが多かったなかで、森が目を付けたのは北海道だったことで、豊太郎もすっかり意気投合したようです。かれらの先達として、大水害で被災した十津川村民が大挙北海道開拓に活路を見出そうとしたこともひとつの励みになったことでしょう。明治2年(1869)に、明治政府は蝦夷地を「北海道」と改め、開拓使という役所を置きました。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者を募って移住させました。北海道の開発に伴い、先住民のアイヌ民族は従来の土地を失います。また、政府はアイヌに対して同化政策を強制、アイヌの風習の多くは否定されていったのです。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを強制されていったことも忘れてはならないことです。

  • 10Sep
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(12)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(12)

      ・父の医学修業と新宮での開院(3)豊太郎が「懐旧」の中で「和歌山の医学校」と「の」を表記しているのは、きわめて正確です。このころまだ和歌山医学校は誕生していなくて、豊太郎が卒業した年の明治15年7月「和歌山医学校」が成立しているからです。豊太郎が入学した明治12年4月は、和歌山病院と称していて、もともと明治7年11月和歌山市7番町4番官邸の敷地・建物の払い下げを受けて医学校兼小病院として開設されたものが、明治9年2月に和歌山病院と改称され、東京医学校から院長を迎え、和歌山県病院条例、入学生徒通則・教則といった制度面も整えられて発足したものです。生徒通則によれば、正則と変則とに分かれ、正則は14歳以上で定員は30名、就学年限は5年で、他府県出身者は授業料年1円を徴収されたと言います。3年で課程を終えた豊太郎は変則で学んでいたのでしょうか。そうすると、以後の東京の順天堂への遊学はすでに折り込み済みのことであったのかも知れません。「和歌山医学校」に改称されるのは明治15年7月、豊太郎の卒業後で、設備・体制を整えて翌16年2月の「和歌山医学校規則」によれば、早くも甲種医学校の認可を受けています。明治15年5月に公布された「医学校通則」によれば、甲種医学校の修業年限は4年、入学資格としては初等中等科卒業以上の学力が要求され、卒業生は無試験で医術開業免状が交付されました。明治17年で府県立医学校30校のうち甲種医学校は13校でした。しかしながら明治19年4月の「中学校令」の公付は、医学教育界をも大きく変貌させ、全国5ケ所に設置されることになった官立高等中学校の医科を中心に再編成されることになり、「和歌山医学校」は閉校を余儀なくされるのです。明治20年4月から付属病院だけが和歌山県病院として県の中核病院であり続けますが、それも日露戦争による財政難のために明治37年度限りで廃止となり、38年4月には日本赤十字社和歌山支部病院に引き継がれ、日赤和歌山病院は明治43年5月小松原4丁目に新築移転、7番丁の跡地は和歌山市役所となるのです。(和歌山県立文書館だより」9号参照)『和歌山県文書館だより』9号より転載豊太郎は明治19(1886)年3月14日、和歌山の医学校に通学した時、下宿した竹田家の長女政代と結婚しました。竹田家の下宿から医学校までは城のお濠を前にして、ごく近い距離でした。政代は豊太郎より1歳年長でした。懸泉堂の実家とは齟齬(そご)を来たしていましたから、新宮でのささやかな新婚生活の始まりとなったことでしょう。この年4月1日町村制の実施によって、新宮は、新宮横町他23町村の名称を廃止して、新宮町が誕生し、戸長役場が廃止され、新宮町役場が置かれました。この年10月には紀州勝浦沖でイギリス船ノルマントン号が遭難、英人乗組員27名は全員ボートで脱出しますが、船内に放置された日本人乗客23名や中国人、インド人の火夫は溺死します。英国の領事裁判で、船長への判決が獄3ヶ月であったことなどをめぐって、わが国の世論が沸騰して、大問題になってゆくのです。鹿鳴館での舞踏会等にうつつをぬかし、西洋文化礼賛だけの姿勢への批判に拍車がかかり、欧米との不平等条約改正を進めつつあった政府も、その内容が漏れたりして一頓挫をきたし、井上馨外務大臣は辞任にも追い込まれてゆきます。国会開設を間近かにして、自由民権運動が次第にしめつけられてくる中で、その後の社会的動向にもおおきな影響を与える事件でした。ノルマントン号事件「ドバエ」1887年6月15日(牧原憲夫著『民権と憲法』岩波新書より転載)巷(ちまた)では、1番は「岸打つ波の音高く・夜半(よわ)の嵐に夢さめて・青海原(あおうなばら)をながめつつ・わが兄弟(はらから)は何処(いずく)ぞと」、4番は「ついうかうかと乗せられて・波路(なみじ)もとおき遠州(えんしゅう)の・七十五里もはや過ぎて・今は紀伊なる熊野浦(くまのうら)」など、全部で59番まである歌として、軍歌「抜刀隊」のメロディーに乗せて歌われたのです。わが国の権威はどこにあるのかと問う内容は、時節柄もあって国民のナショナリズムを高揚させ、不平等条約の改正要求が一段と強まったのです。漢方医ではなくはじめての西洋医としての豊太郎の新宮での開業は、そんな世論の中でしたが、豊太郎を庇護し、その後交流を深めたのは、豪商森佐五右衛門という人です。森は藩政の頃から藩の御用を務めた商人で、50歳前に家業を長子に譲り、すでに隠居、時の藩主水野忠幹から「朗路(さえじ)」の名を撰せられていました。諸芸に優れ、ことに茶道、生け花、和歌に堪能であったと言います。豊太郎は和歌の道を学んだということです。森が隠居していた邸宅を借りて開業したことが、知遇を得る縁になりました。

  • 02Sep
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(11)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(11)

      ・父の医学修業と新宮での開院(2)順天堂医事研究会は、明治18年から起こり毎月2回の集会を持ったといいますが、明治20年1月には「順天堂医事研究会報告」第1号が出ていますから、豊太郎は明治25年末か26年初めに上京して発表を行ったのでしょう。明治30年に野口英世が順天堂に職を奉じてこの雑誌の編集に当たったということです(「順天堂の歴史」小川鼎三・順天堂創立125周年記念講演「順天堂医学雑誌」)。豊太郎は明治15年優秀な成績で和歌山の医学校を卒業した後、さらに医術を学ぶべく東京に遊学して順天堂に学んでいます。順天堂は1838(天保9)年、佐藤泰然によって江戸の薬研堀に開塾された蘭方医学塾が始まりで、5年後「順天堂」と命名されて、現在の順天堂大学に及んでいます。天保14年には泰然は下総の佐倉藩に見込まれ、江戸を引き払っています。佐倉藩は他藩に先駆けていち早く西洋医学を採用した藩です。豊太郎の「昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが」とあったのは、幕末の佐倉時代ということで、明治になってからは豊太郎のが最初の誉れということになります。『閑談半日』 所収の「熊野と応挙・蘆雪」は初出が未詳。「老父のはなし」も収められています。佐倉では長崎で学んだ佐藤泰然の養子佐藤尚中が、江戸では実子の松本良順(明治以後、順を名乗ります)がそれぞれ活躍し、幕末の医学教育の総元締めの役割を果たしています。明治2(1869)年の冬、紀州熊野浦高芝の船人で豊太郎の母方の中地屋(なかじや)の一族である佐藤治右衛門(21歳)らが乗っていた船「住吉丸」が漂流、太平洋を漂っているところをアメリカの補助機関船に助けられるという出来事が起こっています。サンフランシスコに上陸すると、佐藤百太郎(ももたろう)という在留の日本人少年が通訳に出てきました。治右衛門は望郷の念に駆られ、2ヶ月くらいで帰国するのですが、その際百太郎の母堂宛の手紙を託され、届けたのを大変喜ばれたということがありました。その日本人の少年佐藤百太郎は、順天堂の2代目佐藤尚中の長男でした。手紙を届けた親切が幸いして、順天堂では紀州高芝の者と云えば好意をもってくれていたということです。百太郎は医科の道に進まず、実業家として日米貿易の先駆者となり、日本における百貨店の創設者ともなるのです。百太郎は明治4年には、岩倉使節団一行の通訳も務めています。豊太郎が東京に遊学して順天堂で学ぶのも、治右衛門と百太郎の関係がきっかけになったからだったと言われています。(「熊野懐旧録」佐藤良雄著の「熊野漂流民佐藤治右衛門と順天堂百太郎のサンフランシスの出会いについて」参照)。豊太郎が順天堂で外科を志して師事した松本順が、明治23年春、田辺から中辺路を経て本宮に入り、瀞峡を見学して、新宮にやってきたことがありました。新宮からは豊太郎が案内して那智、勝浦、下里、古座を巡り、串本の無量寺で丸山応挙、長澤蘆雪の絵を鑑賞しました。それらの絵にいたく感動した松本は、応挙と蘆雪の子弟関係の機微について豊太郎に話し、国宝級のこれ等の絵を一般閲覧に供しているのは危険で、紙質の保存上も良くない、複製品の代え襖を作るのが良いと言って、寄付のノート帖を作らせて、最初に「松本順」と記したということです(春夫の「熊野と応挙・蘆雪」・『閑談半日』昭和9年7月所収)。松本は日本最初の陸軍軍医総監で、後に森鷗外もこの職に就きますが、わが国の衛生学の基礎も築き、マスク使用の有効性を初めて主張したとも言われています。この年9月、勅撰の貴族院議員にもなっています。遡って「懐旧」によれば、豊太郎が地元の太地や那智で漢学の基礎や科学的知識を学んで、医学修業のために郷関を出るのは、明治11年3月、17歳の時でした。親戚宅に滞在し東京へ出て大学予備門に入るつもりだったようですが、まもなく重い脚気病にかかってしまいます。脚気は明治3年、4年にかけて大流行し、以後毎年6500から1万5千余の死者を出していた難病で、当時は原因が不明で、結核と並ぶ二大国民病でした。病原菌説や中毒説など種々論じられましたが、帝国陸軍では白米供給を頑なまでに貫き、日清・日露の戦役では多くの戦病死が脚気によるものだったのです。豊太郎も志を果たせず、故郷帰還を余儀なくされます。幸い回復しましたが、遠方に行くことは許されず、和歌山の医学校に翌明治12年4月入学し、1年後主席を占め、3年の課程を経て卒業しました。郷関に帰ってしばらく医科を為したようですが、上京の念は消えがたく、譲渡されるべき資を当てに上京、順天堂で学んで医業を積み、主に外科学を修得して明治18年夏帰郷、23歳になっていました。やがて和歌山滞在中の下宿の娘との「自由結婚」を巡って、養父母らと齟齬を生じてゆくのです。

  • 25Aug
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(10)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(10)

      ・父の医学修業と新宮での開院(1) 春夫の作品「老父のはなし」(昭和8年10月「文芸春秋」)は、春夫が生まれた年、明治25年の出来事として、父から聴いた話です。1月のこととありますから、まだ春夫は誕生していません。木村元雄(げんゆう)という老医の手紙をもっての往診依頼、長雄友諒という知り合いの手紙をもった往診依頼、ふたりの依頼が鉢合わせになってしまいました。「木村の方は熊野川を三四里日足(ひたり)まで泝(さかのぼ)つてそれから又山道を二三里登つて那智山のうしろに出る大山(おおやま)といふ大雲取・小雲取の間の小村。長雄の方は那智山下の井関村でこれは新宮から俥(くるま)で往ける五里足らずである。」結局、大山から険峻を越えて、井関に回ることにして出かけます。舟旅で句を案じつつの行程ですが、患者宅に着いたのは深夜の1時半。「患婦は三十五歳で三回分娩した位はまづわかつた。望診上体格は無論悪くはないが多少衰弱して血色もよくない。/先づかたの如く脈を診たりしてから腹帯を解かしめ、覆うたガーゼを去ると、あツと驚いた。患婦の臍の上右に小さな手がニユーと突き出て生へて居るではないか。はて妙だなと夢心地に自分の眼を疑ひながら松明りを近づけさせて見るやつぱり手には違ひない。真つ青でまるで蝋細工のやうではあるが触れてみると細工ものではない。あまりに不意で途迷うた。わしは臆病な男だから山中の一つ家しかも夜半若しや狐にばかされたのではあるまいか、今飲んだ酒もへんな匂ひがすると思つた。」とあります。大雲取・円座石(わろうだいし)熊野川町・大山(現新宮市)のすぐ近くにある。 (写真提供:新宮市)夜が明けて冷静になってきて、これは子宮外妊娠かなと思ったということです。家族との会話で「勿論病気です子宮外妊娠と謂うてね、子ぶくろの外へ子どもが宿つたのです。それが出るところがないから破れて来たといふ様なわけと見えるね。まあ破れたのが為合せだね。」とあります。明け方、木村老医もやってきて打ち合わせ。新宮まで連れてゆくわけにもゆかず、手術の準備を整え「腹壁を開いて胎児を取り出して見ると能く発育した男児で胎盤はもう腐爛に傾いてゐた。跡は腹壁を縫合して術を終つたのは午前九時であつた。」まさに不眠不休のまま、後事を木村医師に託して険峻な大雲取を那智山方面に向かいます。初めての大雲取越えです。「前方は渺茫(びょうぼう)無限の太平洋その雄大には言葉を呑んで驚いたまま自分免許の俳人終に一句も出ぬ。」状態。大海原の広がりは、疲労困憊の体躯には絶好の癒しになったことでしょう。川関の患者はあまり心配いらぬ病状で、その日のうちに新宮に帰還しました。「翌年わたしは上京したので順天堂医事研究会席上これを報告し会報にも掲載された。四五年後婦人科雑誌に昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが、明治になつてこの術を行うたのはこれがはじめてであると書いてある、と友人宮本一郎氏から聞いた事がある。尤も自分のこの手術は破れて胎児の手が出てゐるのを見て已むを得ずした施術で一向手がらにはならぬ。その行き方が普通でなかつたのと、お前が生れる直ぐ前の出来事で印象が深かつたのが近ごろ方哉の誕生のことや何かから思ひ出されて来たので記憶にあるままを話したわけである。」とあるのは、終わり近く。明治26年6月「順天堂医事研究会報告」に掲載されている「腹腔妊娠治験」が、それに当たります。ちなみに木村元雄医師とは、戦時下、「横浜事件」という不当な言論弾圧事件で逮捕された雑誌編集者木村亨(とおる)の祖父に当たる人です。木村亨は戦後も、冤罪事件の犠牲者として、国の責任を追及して再審請求などで戦い続けるのです。

  • 19Aug
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(9)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(9)

      ・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(5)「自分は今はこの懸泉堂で父祖の仏に仕へて余命を過してゐるが、明治十九年から大正の十一年まで新宮で医者をしてゐたはお前も知つてのとほり。」と「老父のはなし」(昭和8年10月「文芸春秋」)は書き始められています。途中、北海道に渡ったりして、熊野病院を他人に貸し与え、閉院した時期もありましたから、ずっと新宮で病院を続けていたとは言い難いのですが、豊太郎の意識の中ではこの期間が新宮での滞在時期と言うことになるのでしょう。大正11年3月、61歳になった豊太郎は、新宮の家督を春夫に譲り、自身は懸泉堂の家督を相続します。大正13年3月4日付の小野芳彦の日記には、豊太郎が下里に帰るので挨拶に見えたという記述が見えます。その要旨を辿ると、「(佐藤氏、最近、徐福町に新宅を建築せられしが)同氏の義父百樹大人すでに八十二歳とて同氏の帰園を待望せられること切なるものあり、もとの本宅に接し立派な二階建一棟を新築せられたりしが、今日豊太郎氏は、近々帰任せられるとかで、(小野氏宅に)挨拶に見えらる。氏は新宮にて開業せらるること三十九年に及び、地方医界の一大成功者なり。氏の創設経営せられ居りしもとの熊野病院は岡順二氏に譲渡され、徐福町の新宅には、令孫(新中生龍児君、高女生智恵子さん)と竹田義妹さんを置かるる由なり」とあります。義妹とは竹田熊代で、竹田家は熊代が相続しています。また、春夫が北海道の十弗から出した大正13年8月14日付の平泉中尊寺の絵葉書は、「東牟婁郡下里村高芝 佐藤豊太郎様」あてになっています。婿養子で百樹を名乗り懸泉堂を守り続けた鞠峯は、昭和5年11月89歳で亡くなります。豊太郎は、懸泉堂を守り、悠々自適な余生を望んだはずですが、必ずしもそれは実現できたとは言えませんでした。紀伊半島を巡る紀勢線の鉄道敷設は大正時代から進められていて、和歌山から鉄路は延びてきますが、難工事の連続でなかなか進捗せず、新宮を起点とする中間起工が実行されることになります。田原・下里間が、急きょ路線変更になり、懸泉堂の一画も含まれてくるのです。のちに利権が絡んでいたことなどが判明します。昭和7年6月佐藤豊太郎他3名が、鉄道大臣他宛てに歎願書を提出したりしますが、鉄道省は昭和8年7月から土地収用法を適用して強制収用に乗り出します。強制的な割譲要請に対して、豊太郎側では裁判闘争を開始します。和歌山市の南紀芸術社を主宰した猪場毅(いばたけし・のちに永井荷風の作品を盗作したとして問題になります)らが、古来歌枕の地玉之浦海岸の景観保全と由緒ある懸泉堂の破壊への抗議から、全国の文化人に呼びかける運動を展開します。地元の八尺鏡野(やたがの)区連名のものや、懸泉堂同窓会からの保存の嘆願書なども残されています。しかしながら、嘆願や運動が功を奏することはなく、鉄路が懸泉堂の庭を削り、玉之浦海岸すれすれを通ってゆくのです。懸泉堂には、「鉄道問題」に関する大量の書類や書簡類が残されていますが、夏樹から父宛ての書簡には、「収用法ははなはだシャク」などの文言も見えます。鉄道建設で破壊された玉の浦(南紀風物誌掲載)南紀風物誌(西瀬英一著・昭和9年8月 竹村書房)西瀬は、大阪毎日の記者として、懸泉堂保全への情報を発信した。佐藤春夫も「熊野路」(昭和11年4月刊)や「ふるさと」(昭和15年12月刊)という作品で、この「鉄道問題」に触れていますが、父の寿命をあきらかに縮めさせたのは間違いがないと述べています。豊太郎にとって懸泉堂の強制割譲は、その余生をすっかり狂わせるものになり、神経をすり減らす日々を余儀なくされるのです。昭和17年3月、すでに妻政代に先立たれていた豊太郎は(政代は昭和14年 6月29日、79歳で亡くなっています、この時谷崎潤一郎は熊野の地まで弔問に訪れています。)、孫の竹田龍児と谷崎の娘鮎子との間に生まれた女児百百子(ももこ)の顔を見るために上京します。戦時下で交通事情もままならないなか、機帆船朝日丸での上京でしたが、東京湾には防潜網が張られていて入港かなわず、伊豆の下田で下船しなければならなくなり、バスで天城越えをしてほうほうの態で関口町の春夫の家にたどり着きます。強行な旅の疲れが災いして春夫宅で風邪をこじらせ床に就き、肺炎を併発して24日、81歳で亡くなるのです。その前年、昭和16年10月25日、医師として期待をかけた息子秋雄を43歳で亡くしていました。

  • 12Aug
    • こかこらの話

      暑い日が続いています。今日は「こかこら」の話。こんな日にはよく冷えたコカ・コーラをぐっとあおりたくなりますね。春夫はコカ・コーラが好きだったようです。青空文庫にも「飲料のはなし」というのが収録されていまして、ここに「日中は冷蔵庫にたやさずに置くコカコーラを愛用してゐる。」との一文があります。 ※青空文庫「飲料のはなし」「飲料のはなし」の前にもコカ・コーラに言及している雑編がありまして、それが昭和27年10月の『三田文学』に掲載された「こかこら」です。臨川書店の定本佐藤春夫全集34巻にも載っています。こかこら……文中では“コカコラ”とカタカナなのですが、タイトルは“こかこら”とひらがな表記です。炭酸飲料かどうか疑わしいフワフワ感のある字面ですね。なんとも味わいのある字面に思わず「こかこら祭りがしたい」と職員さんの前で口走ってしまったスタッフMですが、佐藤春夫記念館で開催する意義やゴミの回収方法など、企画段階でいい具体案が出せず、現状は「こかこら祭り」という楽しげなフレーズを夏に思い出すのみとなっております。「昭和十八年九月マニラのホテルでコカコラを飲んで以来、この飲料ははなはだ吾輩の嗜好に合った。」(「こかこら」より)春夫とコカ・コーラとの出会いは昭和18年(春夫51歳)だったようです。「飲料のはなし」を書いたのが昭和31年(春夫64歳)ですので、これまで馴染みのなかったものを好んで飲んでいるのが面白いですね。それほど「はなはだ吾輩の嗜好に合った」のでしょう。熊野速玉大社の駐車場にコカ・コーラの自販機があるので(コロナ禍の影響でしばらく販売中止になっていたのですが、今は販売再開しています)1本購入しました。私にとっては子供のころからの馴染みの味です。「飲料のはなし」には「これも日本ではあまり喜ぶ人が多くないやうだから今にジンジャーエールのやうな運命にならなければよいが。」とありますが、すっかり定番の飲み物になりましたね。【M】

  • 04Aug
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(8)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(8)

      ・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(4)春夫にとって「懸泉堂」は、父祖伝来の地、そこを歌った作品の代表としてまず挙げられるのは「故園晩秋の歌」です。散文詩風な表記で、文語の長歌形式を取り、短歌形式の「反歌」が添えられています。春夫自筆の「故園晩秋の歌」初出は大正13年1月号の「婦人之友」で、副題に「水墨集の著者に」とあります。「水墨集」は北原白秋が前年の6月に刊行した詩集で、代表作「落葉松(からまつ)」などが収められ、日本的東洋的な枯淡を目指しているとして話題になりました。この作品は、4月新宮で刊行された文芸雑誌『朱光土』にも「古園晩秋の歌」として再録されています。「故園晩秋の歌」は大正15年3月に第一書房から刊行された「佐藤春夫詩集」に収められています。なお、「南紀芸術」2号(昭和6年11月)にも転載されますが、それぞれの表記には異同があります。「佐藤春夫詩集」から引用してみると(意味上、アキを作ってみました)、「ふる里のふりたる家のあはれなる秋のまがきは人ありてむかし植ゑにししらぎくのさかりすぎたり あれまさる桑のはたけは人ゆかぬ畔(あぜ)のかたみち釣鐘の花かれにけり  古井戸の石だたみには人しらぬ鶏頭の花うつぶせにたふれさくなり ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひうつつなる秋の胡蝶をあはれみてわがたたづめば山ちかみくるる日はやし 反歌ふるさとのふりたる家の庭にして晝(ひる)なく蟲(むし)をきけばかそけし   」懸泉堂はすでに使命を終えた佇(たたず)まいで晩秋を迎えています。初出では、「白菊の花さかりなり」であったのが、「さかりすぎたり」になり、「釣鐘の花生ひにけり」が「かれにけり」になり、初出にはない「ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひ」が挿入されています。佇まいの荒廃ぶりや寂寞(せきばく)がより増して表現されていると言えます。そうして、長歌の最後は「山ちかみくるる日はやし」は、山が近いので日が暮れるのも早い、の意です。初出では「山近み」となっていました。この山は、懸泉堂の西側にある大丸山と呼ばれるさして高くない山でしょう。山裾から椿が植えられていたことから「椿山」という号が生まれ、婿養子で入った駿吉は、「大鞠山」の漢字を当て、自身も「鞠峯」と号したのです。鞠峯(二代目百樹。明治45年冬撮影)ところで、「くるる日」の「る」がひとつ欠落した「くる日」となって、ミス表記したのが、昭和7年1月刊行の改造社版「佐藤春夫全集」第2巻でした。以後、講談社版全集(昭和41年4月)、臨川書店版全集(1999年3月)にも誤りが踏襲されています。春夫には、「懸泉堂の春」という文語調の短文もあって(大正15年1月「婦人之友」)、病後を養う老父が素描されています。春夫がこの頃、父や懸泉堂を描いたのは、父が懸泉堂の家督を継ぎ、懸泉堂に隠居して、春夫は帰省のたびにここが滞在先となることが多かったためです。

  • 28Jul
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(7)

      ・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(3)「砧」に描かれているのは、幕末に起こった世直しのための蜂起、天災や飢饉で困窮する庶民を見るに見かねて起こした大坂奉行与力であった大塩平八郎の乱、その余波が熊野に居る椿山の身をも巻き込んだのです。椿山の教え子で親族関係にもあった湯川麑洞(げいどう・新、浴、幹、民太郎、君風、清斎などと名乗っています)は、伊勢に遊学中、大塩平八郎(号中斎)に見込まれ、大坂の中斎の塾・洗心洞で学び、まもなく塾頭に抜擢されています。大塩が「洗心洞箚記(せんしんどうさっき)」上下2巻を上梓する時、入門1年足らずの麑洞にその跋文を書かせているほどです。しかしながら、大塩らの挙兵を察した麑洞と、同じように学んでいた弟周平(しゅうへい・号は樗斎・ちょさい)とは、蜂起の事前に父親の病気にかこつけて塾から脱走するのです。脱走した友人の彦根藩の宇津木共甫(うつききょうほ)は仲間に斬り殺されています。まさに危機一髪の脱出で、麑洞兄弟は堺の宿で火の手の上がる大坂を眺めています。その後の大塩の乱の残党狩りは厳しいものがあったようです。麑洞兄弟も在所の下里で逮捕され、和歌山に送られてゆきます。この時椿山も、「お上」から相当に絞られ、骨身に堪(こた)えたようです。春夫が父から聞き出したこととして、「砧」には描かれています。結局、麑洞兄弟は無罪放免となります。向学心旺盛な麑洞はその後、江戸に出て幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)でも研鑽を重ねてゆくのです。「砧」が収録されている大正15年4月改造社刊行の「まどひらく」の箱「砧」と言う作品が重要な問題をはらんでいるのは、椿山親子に与えた、お上に楯突いた大塩の乱のトラウマが、豊太郎親子における知人の医師大石誠之助を刑死に追いやった「大逆事件」のトラウマと重ねて深読みできる点です。「砧」には、「大逆事件」に関する言及はただの一言もないのですが。そうしてそれは、つまり「大逆事件」は「大塩の乱」から63年後のことだったのです、世代間で忘却の彼方に追いやられるには、まだまだ早すぎる期間だったと言えます。鏡村の急死に伴い、椿山の落ち込みようは目に余るものがありましたが、鏡村の妹百枝に天満の宮本家から駿吉を婿養子に迎え、鞠峯(きくほう)と号して懸泉堂を継がせます。温厚な性格で教養も積み、豊太郎にも素読を教え、地域の信頼も繋ぎました。佐藤春夫夫妻や弟秋雄、さらには両親が眠る下里の墓地には、春夫の祖父鏡村(惟貞)の墓石もあり、若死にした鏡村の業績をたたえる湯川麑洞の賛辞が三方の側面にぎっしりと刻み込まれています。「懐旧」(活版本)の「石碑」の項には、碑文の全文(漢文・なお昭和13年刊の「下里町誌」には読み下し文が記載)が記されています。大塩の乱後であろう、麑洞が故郷で蟄居し清貧に甘んじている間、20歳ほど年下の鏡村は、麑洞の学問を学びながら身の回りの世話をしていたと言うことです。鏡村の夭折を惜しむとともに、生まれた男児(豊太郎)がまるで似姿の如く、将来への期待も叙せられています。湯川麑洞には嘉永年間に記された「懸泉堂記」という全文漢文の文もあって(「下里町誌」には読み下し文)、懸泉堂の地勢を述べ水の重要性を指摘、そこで育まれた椿山の徳も称えられています。墓碑銘と言い、この懸泉堂記と言い、先師椿山からの依頼に麑洞が応えたものでしょう。麑洞の学識を見込んだ領主水野忠央(ただなか)は、洋学の柳河春三(やながわしゅんさん)、国学の山田常典、漢学の湯川麑洞を召し抱えます。麑洞には藩校の督学(学長)をも命じています。その後忠央が新宮に蟄居を命じられると、常典、麑洞ともに新宮入りしています。明治の世となって、学制が頒布され新宮小学校が開校されると、麑洞は教授に任ぜられ、名誉校長として県下では最高の35円の俸給で遇せられたと言います。教授手伝いとして真砂長七郎(まなごちょうしちろう)、その後地方の教育界を担う山田正、松田魁一郎(まつだかいいちろう)も麑洞に学び、漢詩人、俳人として名を成す福田静処(せいしょ・把栗・はりつ)も幼少の頃学んでいます。麑洞は明治7年60歳で病没します。椿山は明治3年4月10日、71歳で逝去しました。ちょうど生誕の日と同じでした。64歳で息子鏡村を亡くし、「一時は狂気したかとまで思はれた」(「懐旧」)と言います。明治5年太陰暦が廃止され太陽暦が採用になりました。11月3日が新しい年の幕開けとなり、早い正月の到来で、11歳の豊太郎は喜びのあまり友達に触れ回ったと言うことです(「懐旧」)。

  • 14Jul
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(6)

      ・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(2)豊太郎の父鏡村(有伯、又百、諱(いみな)は惟貞)は、「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」という詞を座右の銘にしていたと言います。「文久元年、学成りて郷に帰り未だ年久しからざる或る日、程近き港に米利堅(メリケン)の黒船来ると聞きてこれを見ての帰るさ熱病を得て遂に起たず。(略)青雲一抹の煙、壮心一椀の土のみ。」と、春夫は父豊太郎への思いを偲ばせながら述べています(「蕙雨山房の記」・大正11年12月・東京朝日新聞)。この座右の銘は「天下国家の事を口に出して言ってはいけない、心を穏やかにして古人の書いた物を読むべきである」という意味で、政治的行動への参加を厳しく戒めたものですが、「懸泉堂」の柱に、竹製の軸に彫られたものとして架けられていたということです。いまでも懸泉堂に残る、家訓の竹製軸椿山は京都の地で学んでいた若者たちが、幕末に尊王攘夷の「新思想」に感化されて、過激になりがちなのを察知し、息子もそうなるのを恐れて熊野に呼び戻し、「懸泉堂」を継がせようとしました。鏡村が望んだ江戸行きも許されず、熊野に帰る身となったのです。「鏡野隠逸」などとも名乗っていたようです。一族につながる「卯(とみ)」(「富」という表記も)という女性と結婚します。豊太郎の母です。しかしながら、知的好奇心が旺盛な鏡村には、田舎の知的環境にはなじめないものがあったのではないでしょうか。ペリーの「黒船」来港の様子が、「風評」として飛び交っていたらしく、「当十日ニ浦賀ニ入舟之評も御座候貴地ハ此砌(みぎり)風評如何ニ御座候哉」と、鏡村宛ての書簡も残されています。ペリーが2度目に浦賀に来航するのは、嘉永7年1月16日です。異国船の黒船はまた、攘夷の象徴であるとともに、西洋への窓口でもありましたから、田舎の若者たちの知的な興味も掻き立てられていたことが分かります。それから約7年後の文久元年10月、いわゆる「黒船」が、隣の集落の浦神(うらがみ)の入り江に停泊していました。これはアメリカ船ではなくイギリス船で、「南紀徳川史」が記している、紀州の沿岸を測量して勝手な振る舞いをしたと言う記事に照合するものであろうと言うことです(「熊野懐旧録」佐藤良雄著)。鏡村は友達4、5人と許可を取り、小舟を近くまで漕ぎつけ大きな黒船を何刻にわたって観察しました。夕方帰る途中大雨に襲われ、草鞋(わらじ)掛けでの山道踏破であったことなどから、翌々日から発病、高熱に悩まされるようになりました。京都で修業した時のこと、世間のこと、家のことなど譫言(うわごと)を残して数週して息絶えたのです。傷寒(チフス)が死因であったと言います。この「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」の箴言(口を緘して言ふ勿れ天下事 懐(おもひ)を放つには且(しばら)く古人の書を読め・春夫の読み)は、おそらく椿山が鏡村に与えたものであろうと、豊太郎は春夫に語っています。そのことを述べて、この詞の由来を詳しく説明しているのが、春夫の作品「砧(田舎のたより)」(きぬた)(大正14年4月「改造」)という短篇です。戦後、春夫は「世界のネジ釘」(昭和26年6月「三田文学」)のなかで、この箴言、処世訓から書き始め、自分も時局などには拘わらず、佐久の山中で陶淵明でも読んでいるべきであろうが、しかし、日本の今後は「東洋平和のため」「世界平和のため」に「世界のネジ釘」の役目を果たさねばならない、「このネジ釘はむやみにきつくしめすぎればそれ自体がこわれる仕組になつてゐるが、と云つてあまりにゆるめたりうつかり取外したりすれば東洋の平和、世界の平和はこのネジ釘のあたりから怪しくなることも確実なのである。」と述べています。

  • 12Jul
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      旧西村家住宅と旧チャップマン邸訪問

      西村記念館こと旧西村家住宅が修復を終え6月26日より公開となりました。スタッフMも7月10日に行ってみたので、旧チャップマン邸とあわせて簡単にご紹介します。とりあえず新宮駅から。新宮駅を出るとこんな感じです。都会だと出口がいくつもあって混乱することがあるのですが、ここでは迷う心配はありません。駅から出てまっすぐ行くと、観光協会、バスターミナル、徐福公園があります。オレンジ色の屋根らしきものが、徐福公園の門です。今回はまっすぐ行かずに駅から出て左へ。交番、ローソンなどがあります。ここは駅前商店街ここで右に曲がります。足元に案内が出ています。おしゃれ。佐藤春夫記念館にもこういうの欲しいです。曲がるとすぐに旧西村家住宅が。駅から5分もかからないかと。ここは長らく「西村記念館」と呼ばれており、地元民の私もついつい西村記念館と呼んでしまいます。間違いではないのですが、修復後は重要文化財となり旧西村家住宅が正式名称となっている模様。入館料は大人220円です。開館時間は9:00~17:00休館日は毎週月曜。月曜日が祝日の場合はその翌日。祝日の翌日、年末年始……休館日は佐藤春夫記念館とほぼ同じですね。外から見える白塗りの壁ですが、一部色が違っています。これは手抜き工事ではなく意図したものなんだそう。新築時の再現ではなく、しばらして修理が入った後の状態に修復したらしいです。おしゃれです。床板がとても凝ってます。館内は撮影できますが家具などには触れられません。エアコンなどは設置できないようですが、代わりに網戸をはめこんで風通しを良くしていました。ちなみにトイレは一般開放してないそうです。窓から旧チャップマン邸が見えます。こちらも設計は西村伊作。移動しましょう。階段の先に玄関が。旧チャップマン邸は無料で入館できます。開館時間は9:00~17:00月曜日が休館です。歴史民俗資料館もそうですし、この手の施設は月曜休みのところが多いですよね。ここは貸し館業務も行っているため、運次第で入れない部屋があるかもしれません。まぁ無料で入館できますので、その時は「しゃーないなぁ」の精神で。旧チャップマン邸には一般開放しているトイレもありますし、飲食物の持ち込みもできます。事務室にある自販機でコーヒーを買って館内でくつろぐことも可。旧チャップマン邸から見た旧西村家住宅とその駐車場。ちなみにこれが旧チャップマン邸の駐車場。立札のあるスペースが来館者用駐車場です。ここは月極駐車場となっており広いのですが、立札のスペース以外は他の人が借りていますので駐車できません。重要文化財である旧西村家住宅。こちらは旧チャップマン邸。旧西村家住宅の上の写真と似た雰囲気の場所を切り取ってみました。ここに座って飲食できます。内部写真はあえて控えめにしました。どちらかだけでは勿体ないので、是非とも両方に足を運んでみてくださいね。そして佐藤春夫記念館もお忘れなく。【M】

  • 25Jun
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(5)

      ・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(1)春夫の父豊太郎が書いた「懐旧」という作品は、「蕙雨山房主人稿」と表題に記され、春夫の手によって2度刊行されています。最初は昭和8年、豊太郎の古稀の賀に際してのもので、活版で160部が私版され、関係者に配布されました。受け取ったひとりが春夫の師永井荷風で、賞賛する読後感を春夫宛てに送ってきます。2度目は昭和17年、父の中陰明けに知友に配られたもので、亡父の自筆清書稿の印影本として、父の手書きを活かし、その序に当たる部分に、荷風の自筆書簡を差し挟む体裁を取っています。娘保子(春夫の姉)の求めに応じなどと注記もありますが、刊本に先立って一部は、同人誌「脈」(正木不如丘・ふじょきゅう・編)大正13年12月号などに掲載されたようです。さて、「懐旧」は豊太郎の5歳の時の悲しいつらい記憶から始まっています。1862(文久2)年生まれの豊太郎は、父親の顔を知らないままこの世に誕生しました。誕生する約3ケ月前、父はもうこの世の人ではなかったからです。享年28歳でした。20歳で後家となった母は、やがて豊太郎を残して他家に嫁いでゆき、豊太郎はしばらく里子に出されています。だから「懐旧」の内容は、さながら父母恋しの記述で溢れていると言えます。母とも別れざるを得なかった豊太郎にとって、父母恋しの傷跡は、終生ついてまわったようです。下里懸泉堂(2014年撮影)豊太郎が生まれた「懸泉堂(けんせんどう)」の家(下里村大字八尺鏡野(やたがの)678)は、山側に滝が落ちていたことから名づけられたと言われ、土地の者たちは「ケンセ」と呼称していました。江戸時代から代々の医家で、祖父椿山(道敏・百樹、以後代々百樹を名乗る)は医業とともに家塾も営みながら、地域の興産にも貢献しました。廃池を修復して田地への水路を確保したり、養蚕を奨励したり、種痘も実施しました。幕末、天然痘が全国的に流行し、天保時代、熊野の地でも流行、ジェンナーが牛痘ウィルスによる免疫法を発見、オランダ人によって日本にも伝えられます。椿山は京都でもその方法が伝授されると聴いて出かけています。天然痘の予防ワクチンの作製では、白浜出身の小山肆成が著名で、私財をなげうって研究用の牛を買い集めたと言われていますが、椿山と同じ時期だけに、情報交換などがなされていたのかもしれません。玄関に掲げてある看板。(2019年撮影)椿山は同じ地の伊達(だて)家の「峨洋楼(がようろう)」で学んでから独立しましたが、両塾は江戸期から明治期にかけて多くの逸材を輩出し、下里は学問の地としても名を馳せました。椿山は、春夫をして「懸泉堂文学の祖」と言わせた国学者中村維順の娘よね(米子)を妻として迎え、夫妻で和歌の贈答をするなど、夫婦して子弟も教え、「懸泉堂歌集」などが編まれています。春夫が谷崎潤一郎の夫人であった千代と結婚した折、千代に一時「米子」を名乗らせて、その教養にあやかろうとさせた時期があります。中村維順も晩年青木勇蔵と改名して紀州藩に仕え、京都や江戸で在勤したと言いますが、京都では国学者・歌人として著名な富士谷御杖(ふじたにみつえ)、江戸では南画家谷文晁(たにぶんちょう)とも交流するほどの教養人でした。絵本小説「峯の吹雪」5冊本を書いたりもしています。春夫が「懸泉堂文学の祖」と位置付けるのも宜(むべ)なるかな、と納得させられます。豊太郎の回想によれば、稽古場という1棟があり、14、5歳を頭に7、8歳までの子供が50人ばかり、別に母屋の一室では同じ歳頃の女子が14、5人学んでおり、さらに青年も4、5人、学んでいたと言うことです。豊太郎も7歳の春からここで素読などを学び始めたと言います。「懸泉堂塾則」には、日常生活における細かいしつけに係わることと共に、「貴賤貧富親疎之差別を論ぜず」とあって、「朋友は、相互に世話をし合い睦まじくすること」を求め、さらに上席の者は年下の者への気配りもするように求めていたりします。明治5年の学制発布により塾は廃止となりましたが、父母たちの懇請によって明治9年高芝小学校が開校するまで続けられ、半世紀余の歴史を刻み続けたのです。

  • 20Jun
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(4)

      ・春夫の誕生(4)春夫が幼年時代を回想した「わが生ひ立ち」と題した文はふたつあります。大正8年7月8月、大阪朝日夕刊に連載されたもので「幾つかの小品から成り立つ幼年小説」と副題が付されたものと、大正13年8~10月の「女性改造」に連載されたものです。大正15年1~11月の「新潮」に連載された「回想 自伝の第一頁」では、「はしがき」に「全く僕は、今までにも「わが生ひ立ち」を二度も企てて中絶してしまつてゐる。/ままよ、僕はもう一ぺん始める。」とあります。新宮市船町にある生誕跡地の表示側面には父豊太郎が詠んだ「生誕の句」が(揮毫は春夫)焼失した生家に係わるものに関しては、3歳の折、熊野川で溺れかけた話。家からほんの近くに河原へ下りてゆく道がありました。7歳の姉が泣きながら自宅に帰り、春さんが川へ這って入って行ったという。慌てて駈けつけてみると、幸い辺りにいた人に救いあげられていたということです。親は死にかけた話としてよく語った、と言うことです。5歳の春に行われたという新築の家への移住については、記憶は飛んでいると、春夫は語っています。その年の秋、姉に連れられて生家を見に行きました。「見たところごく有りふれた同じ造りの二階家が二三軒、軒を連ねてゐたのは、恐らく同じ持主の借家ではなかつたらうか。思ふに、父がその後すぐ病院を建てるに当つてM―といふ、当時、町で第一と云はれてゐる材木商の持家でもあつたらうか。」(「追懐」・昭和31年4~5月「中央公論」)と述べています。この家での断片的な思い出として繰り返されているのは、庭でウサギを箱から出してしまい、倉と隣家の隙間に逃げ込まれて往生した話、それに近所の子が「ぬすんだのじゃない!」と大声で泣き叫び、巡査まで出入りした大騒動。「その狂ほしく泣き叫ぶ声が、恐怖を私にまで感染させた。」経験でした。「私はこの家の二階と梯子段とのありさまを、暗のなかの仄明りに認めるがごとくに思ひ浮べ得る。」(「一ばん古い記憶」・「わが生ひ立ち」所収)とも述べています。さて、登坂に建てられた父の病院、及び自宅は、「父の病院は町の東にある。城山の山麓の荒地を拓いて建てられた。土地は北に山を負ひ南は城のお濠の一部がまだ残つて池になり、池のぐるりには竹藪や桜の堤、黄櫨の古木の夕もみじなどがあつて、自らに南窓の四時の眺めは自然の庭園になつてゐた。(略)山麓を切り拓いた土地は崖によつて山に接してゐたから崖下の庭は山につづいて自らに山中の趣があり、山鳥が去来した。」(『日本の風景』の「(2)父の家」)という環境で、春夫は幼いころから自然と共に、自然の中で育ったのです。俳人でもあった父豊太郎は、春夫に幼い時から自然を眺め、観察することの大切さを教えた、と言います。春の初めころには、「初かわず」を聞きに行こうと散歩に連れ出したりしたそうです。カエルの泣き始めです。俳句と言うものは、ものの始めと終わりを喜ぶものだとも教えたということです。春夫の小動物や鳥などへの興味も幼いころから育まれました。「さるまわし」の猿を譲り受けることを望んだ稚(おさ)ない春夫に、それが失敗し、ぐずられる話などもあります。猿回しのさるは生活の糧であるがゆえに譲ってもらえないのだということを悟らせる話にもなっています(「さるまわし」・「こころに光を 四年生」昭和33年6月・全集未収録)。登坂の家は、「蕙雨山房(けいうさんぼう)」とも称されていますが、おそらく豊太郎の命名で、「恵雨」、恵みの雨、慈雨にちなんで、「蕙雨」とは、草の香りを運んでくる雨と言う意味を込めた造語とも言えます。「山房」とは、山の中の住居、山荘の意と共に、書斎の意味もありますから、ここでは「書斎」の意です。夏目漱石の「漱石山房」の名がまず浮かびますが、漱石を敬愛してやまない豊太郎にとっては、しかも書幅を所有し、書簡を何通か受け取っている豊太郎としては(最新版「漱石全集」(2019年9月、11月)には、書簡番号1535、1554、2453、2527の4通が紹介)、十分に意識していたに違いありません。春夫に「蕙雨山房の記」(大正11年12月・東京朝日新聞)のある所以でもあります。

  • 16Jun
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(3)

      ・春夫の誕生(3)春夫の回想文などには、「火事で焼け出されて」熊野病院に転居を余儀なくされたという記述がほとんどないところから、すでに熊野病院内に転宅してから、生家が焼失したことになります。「五つまで住んでゐたその家は、私たちがゐなくなつて間もなく町の大火事で焼けた。」(「わが生ひ立ち」・大正13年8~11月「女性改造」)と記されています。豊太郎の知人であった小野芳彦の日記に、明治27年9月3日熊野病院が登坂に開院されるという記述がみえます。城山の南麓、登坂の地に竹藪を切り開いて建設した病院は、「熊野病院」と名付けられたようですが、そのとき名称変更したのかどうか判然しません。時に「佐藤病院」とも呼ばれていたようです。紀州徳川家の付家老の水野氏の居城であったお城は、明治維新後たちまちに取り壊され、いち早く民間に譲渡されていますから、薩長の藩閥政府の支配下で、世情を察知した人々は荒廃に任せるままの状態だったのです。民間所有であった関係から、城跡に展望塔が出来たり、動物園が出来たり、おそらくわが国では唯一、城下を鉄道トンネルが貫通しています。春夫の回想文を参考にすれば、明治29年春、病院棟横に自宅を建設して転居、7棟になったと言うことですが、その年の秋、姉に連れられて、焼失前の生家を訪れています。いまでは、ほんの目と鼻の先の距離に当たるのですが、当時はお濠の土堤が残り、小山の八幡山がありました。この大火の直後、発刊されたのが「熊野新報」紙です。「新宮市史年表」では、12月1日発刊とありますが、それだと12月2日の大火の記事は載っていないことになります。現存する2号(12月22日付)から推察すれば12月15日付創刊で、毎火曜日の刊、医師でもあった宮本守中が社主、「丹鶴叢書」の編纂者で国学者山田常典の息山田正(号は菊園)が主筆、創刊号は大火の被災を大きく報じる内容だったはずです。その痕跡は2号にも刻まれています。町政の「改革派」と言われた人々の拠り所となった同紙は、豊太郎らも志を同じくするものでした。後に宮本は「改革派」の人々に推されて町長を務めています(明治38年3月30日~39年2月28日)。佐藤春夫(右)と弟夏樹(左)(明治34~35年ごろ)春夫の生誕前後、新宮の町は二つの大きな災害に見舞われ、その復興の槌音がこだましている環境だったと言えるのです。そうして国家的な大事としては、明治27、28年の日清戦争を挟んでいますが、春夫にとっては、年齢的にもまったく記憶にはなく、ただ日清戦争実記という雑誌の合本や日清戦争画報という本の裏などに、その後春夫は、墨で縦横に軍人の絵などを描いていたようで、長く蔵の隅にそれらが残されていたということです。(「わが生ひ立ち」)

  • 10Jun
    • 館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(2)の画像

      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(2)

      ・春夫の誕生(2)明治22年の大洪水は、十津川水系の山塊が大きく崩壊、本宮神社が流され、奈良県十津川村も大被害を被って、多くの住民が北海道移住を余儀なくされた大惨事でした。未開の地であった北海道での開拓の労苦で「新十津川村」が作られてゆく経緯は、いくつかの書物で語られています。この時、新宮でも未曽有の洪水被害に見舞われました。町全体が浸水し、町民は高台に避難していたのですが、いったん水が引き始め一段落と思って安堵していた折、第二波の水が押し寄せてきたと言います。幸い昼間で、死者等は出なかったようですが、十津川の山山の大崩壊で堰き止められていた水が、再び押し寄せてきたのです。浸水被害の状況などは「新宮市誌」(昭和12年刊)に詳しく記されています。千穂ケ峰の山際、清閑院の石垣上には、その時の水位を表示した標が作られています。瑞泉寺鐘楼(2020年5月撮影)清閑院石垣(2020年5月撮影)春夫は、後年(昭和28年10月「群像」)「洪水のはなし」を書いていて、自身が生誕する直前、父の体験談や聞き取った話を記述していますが、そこに清閑院の隣、瑞泉寺(ずいせんじ・通称大寺)の鐘楼に避難した男床辰の話も出てきます。妻子を裏山に逃がし、腰にぶら下げた瓢箪から、酒をちびりちびり傾けていると、眼下に泥水が押し寄せてきました。また、春夫の生家をも焼失させた明治29年の大火については、「明治廿九年十二月二日午後十二時新宮道下(どうげ)町某洗湯屋より火を発し、折柄西北の強風に煽られ、火は四方に延焼し火元の道下町は勿論のこと、南して別当屋敷(べっとうやしき)、横町を焼き尽して龍鼓橋(りゅうこばし)畔に至り、西北するものは雑賀町(さいかまち)より下本町、上本町、御幸町(ごこうまち)、上船町等を焼きて下船町に及び森家に至り、付近各町村よりの消防隊の尽力にて翌三日午前七時に至りて鎮火せり、焼失戸数八百十戸、納屋八百〇八戸、土蔵二十五棟に及」んだ(「新宮市誌」)と言います。この時、薬師町にあった丹鶴山東仙寺も焼失、その後一帯は、大王地の花街として生まれ変わってゆくのです。石造りの龍鼓橋までは、町方(まちかた)、それから外は地方(じかた)といわれましたが、旧城下に当たる町方の多くが焼失区域でした。焼失区域のうち一番東北に当たる区域が、下船町の「森家」の一画で、その辺が春夫の生誕の家であって、敷地面積2畝26歩(86坪)、明治24年11月豊太郎が坪井亀之助から購入したものとなっていますが、もともとは坪井が森家から手に入れたものと思われ、豊太郎一家は、それ以前から住み続けていたものと推測されます。ところで、龍鼓橋から西側の山、千穂ケ峰の岩肌を落ちるのが龍鼓の滝です。父豊太郎は隠居して、龍鼓の滝の下あたりに山荘を構えたいとの望みを持っていたようですが、それはかないませんでした。春夫の『日本の風景』(昭和33年1~12月雑誌「心」)の「(2)父の家」には、次のように述べられています―「父は、また町のはづれ王子ケ浜の王子権現の祠(ほこら)のうら手にある松山の小さな盆地のなかに芋畑(いもばたけ)をつくり柿やみかんを植ゑて晩年はこの地に隠居して松琴鼓濤(しょうきんことう)の間に老いたいと云つてゐた。父の空想してゐた隠居所はもうひとつ西山のほとんど中央にある竜鼓滝(りゅうごのたき・ママ)の渓流(けいりゅう)に沿つた竹林のなかにもあつた。この方は毎日、診察室の窓から滝を眺めてはその下の土地を想望(そうぼう)して心に清閑(せいかん)を楽しんでゐる様子であつた。」

  • 04Jun
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      館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(1)

      はじめに― コロナ禍も先行きが不透明なまま、記念館も3月から休館状態が続き、ようやく6月2日から細心の注意をしての再開となりました。かって、「館長のつぶやき」として、「断章を拾う」「台湾行」を連載したことがありましたが、今回からしばらく、「佐藤春夫の少年時代」を連載します。蟄居同然のなかで、書き始めたものです。新宮中学を卒業して、上京するまでの春夫の姿を、春夫の回想文などを交えながら、素描してみます。明治時代の新宮の町の様子などにも触れてみたいとも、思っています。【2020年5月 辻本雄一 記】***・春夫の誕生(1)佐藤春夫が和歌山県東牟婁郡新宮町船町119番地に、呱々(ここ)の声を上げるのは、1892(明治25)年4月9日早朝でした。父豊太郎、母政代の長男として、です。近くにあった新宮郵便電信局で電信為替事務を1日から始めたばかりで、豊太郎がさっそく利用したものかどうか。医師として開業していた豊太郎は、鏡水(きょうすい)と号して俳句をたしなみ「よく笑へどちら向いても春の山」と詠(よ)んでいます。熊野の山桜がこんもりと目立ち始める頃でした。1932(昭和7)年10月27日、東京で春夫の長男方哉(まさや)が生まれたとき、春夫は下里の懸泉堂(けんせんどう)に居る父宛てに「マスラヲウマル」の電報を打ち、下里郵便局で受信して豊太郎に届けたのは、下里出身で東京で出版業に携わり、晩年那智山郵便局を営んだ田代均の父で、父はいつまでも語り草にしていたということです。春夫は33(昭和8)年1月号の「婦人公論」に、「マスラヲウマル―父となるの記」を寄せています。豊太郎にも長男誕生への期待が大きなものがあったろう、と想像されます。何せ、まだまだ家制度が重かった時代、長男の地位は特別なものがありました。春夫の兄弟姉妹では、姉古萬代(こまよ)は幼くして亡くなり、4歳上に姉保子(やすこ)が生まれています。1895(明治28)年7月には弟夏樹が生まれ、豊太郎は「思ふさま茂れやしげれ夏木立」と詠んでいます。98(明治31)年6月には3男が誕生しましたが、「春・夏」と名付けた関係から、秋雄と命名、「行くさきにこぼれ物あり秋の雞(とり)」と詠みました。一時、保子の子龍児に「冬樹」を名乗らせようとして、断られたというエピソードが残されています。明治40年頃の本町通り。現速玉大社大鳥居から丹鶴城址方面を望む。正面突き当りに、豊太郎の「熊野病院」があった。春夫が生まれた年の新宮町は、戸数2538戸、人口1万838人の記録があります。本町通りの改修計画に16円33銭9厘の予算が計上されていますが(「明治二六年六月事務引継書」・「新宮市史資料編下巻」)、速玉神社から新宮城跡へのこの本町通りは、当時の町のメインストリートで、1889(明治22)年8月20日以降の熊野川大洪水の爪痕がまだ色濃く残されていました。この通りは、やがて煉瓦を砕いたような渋土の赤土が敷き詰められ、外から来た人は、まず道の明るさに目を見張ったということです。赤土の道は、豊太郎の病院横の登坂の切通しから熊野地の方まで延びていました。もちろん舗装などはまだない時代ですし、登坂の道ももっと狭い、自転車が辛うじて通れるほどの幅で、豊太郎がタヌキと格闘したと噂された道でもありました。春夫の作品「私の父が狸と格闘をした話」(大正10年8月「婦人公論」)は、まさに狐につままれたような話のなかに、少年の不安が仄見える雰囲気を醸し出している童話的な作品と言えます。登坂の道が、今に近い幅で掘り下げられ、拡張されたのは、お濠が埋め立てられて丹鶴通りが出現(大正11年11月)してから後のことでした。

  • 30May
    • 開館のお知らせ

      6月2日より開館予定の佐藤春夫記念館です。3月に入ってすぐに臨時休館となりましたので、ようやく開館できることをうれしく思います。尚、今後の感染状況により再び休館の措置を取る場合があるますのでご了承ください。さて、感染対策をした上での再開ということで、入館時のお願い事項が増えております。各お願い事項を簡単にまとめると・発熱や風邪のような症状が出ている方の入館自粛・マスク着用と設置しているアルコールでの手指消毒・咳エチケットの徹底・ソーシャルディスタンスとそれに伴う入館制限・入館者名簿作成へのご協力願いなどとなっております。館内案内や展示説明も当面の間は行いません。(簡単なお問い合わせなどには対応いたしますので、聞きたい事がありましたら受付までお気軽にどうぞ)清掃の回数は増やす予定ですが、飛沫が付着していることが多い展示ケースには手を触れないようにお願いします。無意識のうちに手をついてしまう人も多いので、意識して触らないようにしてくださいね。ほか、受付に飛沫防止カーテン・アルコール消毒液を設置した他、定期的にドアノブや手すりなどを消毒するという対応を取ることにしています。受付スタッフもマスクを着用し、これまで手渡ししていたパンフレットやチケット・釣銭などもトレーを介してのやりとりとなります。また、スタッフや入館者の中から感染者が出た場合に備え、濃厚接触者となる方と連絡を取るために入館者名簿を作成することになりました。皆様のご理解ご協力をお願いいたします。

  • 14May
    • 春光柑の画像

      春光柑

      写真は、熊野速玉大社すぐ近くのみかん屋さんに甘夏を買いに行った際に紹介してもらった「春光柑(しゅんこうかん)」というみかんです。このみかん、どうやら佐藤春夫が命名したみかんとのこと。参考:みえ熊野古道商工会御浜支所実は、何年も前に春光柑の命名が春夫であると裏付けする資料が記念館にないか問い合わせがあったそうです。調べてみたものの該当する資料は見つからず、記念館では資料を持っていないとしか答えられなかったそうですが……とは言え、春夫が名付けたみかんなのだと思いながら食べる春光柑は趣深いものです。他のみかんと比べて皮の色が薄いのが特徴。果肉も白っぽい黄色をしています。皮に包丁を入れるとレモンにも似た香り。食べてみると酸味がかなり薄く、ほんのり甘味があって爽やか。みずみずしさが引き立つ味です。酸っぱいものが苦手な方にもお勧めしたいみかんですね。一部地域でしか流通していないレアみかんという点が少し残念……春光柑のシーズンもそろそろ終盤のようですが、見かけたら佐藤春夫のことも思い出してくださいね。【M】

  • 07May
    • 臨時休館期間延長のお知らせ

      5月6日まで臨時休館の予定となっていた佐藤春夫記念館ですが、このたび臨時休館の期間が延長となりましたのでお知らせいたします。臨時休館期間3月2日(月)~6月1日(月)※休館期間については、今後の状況を踏まえ、予告なく変更させていただく場合がございます。あらかじめご了承くださいませ。新宮市の発表では臨時休館は5月31日までとなっておりますが、6月1日は月曜日のため休館となります。

  • 07Apr
    • 通販方法変更のお知らせ

      佐藤春夫記念館で取り扱っている通販が、本日受付分より前払いとなりました。通販の流れなどは記念館公式サイトのグッズ・刊行物のページに載せていますので、詳しくはそちらでご確認をお願い致します。流れを簡単に説明すると、まずメールなどでお申し込みをしていただき、こちらから返信で入金額をお知らせ、その後入金の確認がとれ次第発送させていただく形となりました。メールはフリーメール(Gmail)を利用することになりました。FAXやお電話もご利用いただけます。以前と比べて手間がかかるようになってしまいましたが、よろしくお願いいたします。通販可能な資料に「佐藤春夫と谷崎潤一郎 離れえぬ縁(えにし)」の企画展図録が追加されましたので、ぜひご利用くださいませ。臨時休館中も通販の受付をしますが、不在の時も増えると思いますので、お電話の方は改めてご連絡をお願いします。メールやFAXは返信に2~3日かかることがあるかもしれません。出勤日は通販業務を優先的にやっていきますので、よろしくお願い致します。◇『―佐藤春夫記念館 30年のあゆみ』を入手したい方へ。通販をご利用の方で、『―あゆみ』を希望される方には同封いたします。通販お申し込みの際に同封希望の旨をお伝えください。お一人様1冊まで。『―あゆみ』だけ欲しいという方は、佐藤春夫記念館にお問い合わせください。『―あゆみ』の在庫を確認した上で、送料分の切手と(できれば)宛名カードを記念館まで封書にてご送付いただく方式で『―あゆみ』のみの配布を行います。※宛名カード:名刺サイズくらいの紙に申込者様の郵便番号・住所・お名前をご記入したもの。冊子発送時に封筒に張り付けて使用します。

    • 臨時休館期間延長とイベント中止のお知らせ

      ※4月7日に休館期間とイベント情報を更新しました3月24日まで臨時休館の予定となっていた佐藤春夫記念館ですが、このたび臨時休館の期間が延長となりましたのでお知らせいたします。臨時休館期間3月2日(月)~5月6日(水)※休館期間については、今後の状況を踏まえ、変更させていただく場合がございます。あらかじめご了承くださいませ。休館期間の延長に伴い、4月9日の春夫生誕日無料開放と5月6日の御供茶式・無料開放を中止させていただきます。併せてご了承くださいませ。