自由になる「救いたい」と、枯れていく「救いたい」
両極の「救いたい」を見た世の中で語られる救いの多くは、人の苦しみから始まる。苦しんでいる人。可哀想な人。困っている人。そこを起点にして、「手を差し伸べること」「助けること」が善として語られる。それ自体は、決して悪いことではない。善意であり、優しさであり、多くの場合、社会的にも賞賛される。これは、「救いたいと思うこと」を否定する話ではない。むしろ、その志を本気で生きようとした人にこそ、向けている。「可哀想」という前提について私は、この世界に「可哀想な人」はいないと思っている。いるのは、可哀想であるという“状況”を生きている人。そしてその状況を、無自覚なまま、そうせざるを得なかった人。そこには必ず、メリットがある。可哀想な状況にいることで、責任を引き取らなくていい。決断を誰かに委ねられる。考えなくていい。立たなくていい。一方で、困っている人を救いたい側にも、同じようにメリットがある。必要とされる。価値を感じられる。上の位置に立てる。「良い人」でいられる。多くの場合それは、誰かの役に立ちたい、という純粋な願いから始まっている。救いが構造になる瞬間こうして「困っている人」と「救う人」は引き合う。この関係性は、お互いが理解した上で役割として選んでいるのなら、それも一つの形として、私はそれでいいと思う。問題が起きるのは、それを無自覚にやっているとき。救う側が無自覚なままだと、相手が自立する瞬間に、関係性が揺らぐことがある。救われる側は、救う人がいなくなると困る。だから囲う。だから従う。これは支え合いではない。共依存だ。以前、私は自分は可哀想だという状況に身を置いていたので、その不自由さや潤いがないのを充分に知っている。この構造は、形を変えた宗教と同じだと思っている。ここで言う宗教とは、信仰そのものではなく、「救う/救われる」という役割が固定された構造のこと。この関係性の最大のデメリットは限られた範囲内での自由しかないこと。関係性の中の循環なので、不足や欠乏感が生まれる。結果として、気が付かないうちにお互いが自己犠牲に陥る。正しさが、人を分けるとき「清廉であろう」「正しくあろう」「私は清廉潔白であろう」と無意識に力が入っている人ほど神のあり方を志しているはずなのに、実際にはその逆になってしまうことがある。私が想う神のあり方とは善も悪も光も影も加害も被害も裁かない。すべてを「我」として含んでいる。容認ではなく、包括して統合しているあり方。悪いことをした人が罰を免れる、という話ではない。外側で裁かれなくても、人は自分から逃げきれない。やったことは、必ず内側に残る。罪悪感として違和感として空虚さとして麻痺としてそれをも感じない、という選択をすることも含めて裁きは起こる。「清廉であろう」「正しくあろう」とする人は悪いとされているものを自分の中に見つけた瞬間、それを感じてはいけないものとして切り離し、なかったことにしてしまう。あるのに、ないものとする裁き。それは統合からかかけ離れた、分離するあり方。本当は・認めれば終わる・素直になればほどけるそれを、どこかで知っている。でも同時に・自分は正しい位置にいたい・負けたくない・上に立ったまま癒されたいこの両取りの欲が、苦しみを長引かせる。だから素直にはならないでもモヤモヤは吐きたい癒されたい理解されたいその矛盾のまま、出口を探し続ける。だから多くの人が苦しんでいる。その苦しみを出したいけれど、正しい自分でありたいが故に、その奥にあるものの大半は「悪いもの」として見ようとしない。結果として、そのないものにされている存在の様々な感情が鬱積する。いくら、外側からアプローチをしたとしても素直さを伴わない吐露は、その瞬間には出せても、また元に戻る。「私は正しい位置にいたまま、でもこのモヤモヤは吐き出したい」この矛盾を、どうにか自分の中で成立させたい。無自覚に成立しないのがわかっているから、自分では引き受けることができない。それが怒りとなり、噛みつきという形で外に出る。震えた「救いたい」これを踏まえて、次に触れた「救いたい」という在り方に、私の心が震えた。相手の未消化な怒り、抑圧された感情、分離した痛みが、噛みつきという形で現れるその噛みつきに、真正面に立つ人がいる。そして、噛みつきなさいと自分の腕を差し出す人がいる。可哀想を前提にしない。変えようとしない。導こうとしない。囲わない。依存させない。教える人じゃなく、自分で気づかせる人。相手の奥にある本質に触れ急所=構造を見抜いて躊躇なく突ける人。その言葉は、命中する。説明しない。なだめない。包まない。ただ、命中させる。だから、命中した側に起こるのは痛み。そして防衛反応。言い訳正当化回避責任転嫁「私は間違っていない」という主張それが再び、噛みつきとなって返ってくる。そのやり取りを繰り返すうちにはっとする人と、噛み続ける人がここで分かれる。気づく人は、自分の内側に視線が戻る。気づかない人は、外側に向けて自分の正しさを吠え続ける。それは見捨てることでも、突き放すことでもない。自分も相手も壊さないための、最終的な選択だ。だから気付けない人は、噛みつきたいだけ噛んでくる。臨界点まで達しても超えられないのなら、身を引く。これは諦めや冷たさじゃなくて、現実的な見極め。引き際を間違えると、共倒れになるだけ。時間は有限なのだ。「可哀想だから❝救いたい❞」ではなく、「本質に触れているからこそ響く❝救いたい❞」その人の心の奥深く響く「吐き出してしまいたい」という叫びに触れ、気のすむまで噛みつきなさいと自ら目の前に立つ。吐き出した奥の、情熱に可能性が見えているからこそその底の叫びに応え、救いたいと立つ。そのあり方を目の当たりにしたとき、私はおののき、魂が震えた。「こんなことができる人がいるんだ」って!!そして同時に思った。これは、今すぐ誰にでもできる話ではない。自分自身の未消化と、とことん向き合い続けた先に、ここに立つと、自分自身が確信をもてるときようやく立てる場所である。私は、人の苦しみを起点にした救いの中に実際に身を置き、そして、本質に触れた結果として立ち上がる救いを、目の前で見るという体験をした。いい/わるいではなく、正しい/間違いでもなく、同じことをする/しないでもなく、ただ、まるっきり質の違う「救いたい」の両極を体験した。本質の救いたいとは自分の何を基準に、救いたいと思うのかそれは本質からなのか、条件があるのか誰しも人は誰かを救いたい、役に立ちたいと思う。それはとても素晴らしいし、尊い想い。ただ、それをしている自分は自由なのかその違和感は、必ず身体が先に知っている。その“救いたい”は、今のあなたを少しでも自由にしているだろうか?少しでもどこかに苦しみがあるのなら自分のあり方を見つめ直す必要がある。最後まで読んでくれて、ありがとうございます。これは答えではなく、問いとして置いています。*自己対話アーティスト とも*