最近、ふと思ったことがあって、自分の中で深く向き合ってみました。
テーマは「自己責任」と「孤独」。

 

私たちはつい、答えや扉はどこかに用意されていると思いがち。
でも、実はその扉を見つけるのも、開けるのも、進むのも止まるのも、自分自身でしかできないことなんだと気づいたんです。

 

 

数日前、自己責任について深く紐解いていた。

その時、私は自分の可能性の扉を見つけるのも、自分自身でしかないことを知った。

 

「扉は用意されているものだと思っていた」

その思い込みが崩れた瞬間、依存の体質が根本まで浸透していた自分を認めざるを得ず、軽やかではあるが深い絶望が訪れる。

 

扉を開けるも開けないも、一歩踏み出すも止まるも、すべて自分の責任だ。

助言や背中を押されることはあっても、決めるのは私だけ。

 

その選択を、誰も責めない。誰もとがめない。

 

ただ、「選んだね」「選ばなかったね」という事実があるだけ。

 

この孤独の感覚もまた、現実の重さとしてやってくる。

 

どんな人でも、この孤独を完全に消すことはできない。

私の人生は、私しか生きられないという事実を、体の奥でじんわりと感じる。

 

このことをノートに書いていたら、胸の奥の鳩尾から子宮にかけて、暗闇の中に光の点が灯った。

 

この光は、私が自分で自分を生かす力の象徴であり、暗闇の中で生まれた覚悟の証。

 

 

孤独の自覚は、悲しみではなく“完全性”の自覚へと変わる。

 

「私の人生は私しか生きられない」その一点に立ったとき、初めて人は全体と繋がる準備ができる。

 

自立(律)の果てにあるのは分離ではなく、共鳴。

 

 

今回感じている絶望は、安堵感の中で感じているので、重さや湿度を伴わない。

軽やかで、静かに、しかし「覚悟」という言葉の重みはしっかりと土台に刻み込まれた。

 

 

頭で理解していた「自分の人生を創造する」という言葉の本質に、初めて体で触れる。

 

外に求めていた宇宙が、私の内側に反転した感覚。

もう遠くの宇宙ではなく、自分の中に広がる 宇宙=全体そのものを感じた。

 

「私は、私自身を通して宇宙を創造している」

その感覚が、呼吸や胸の奥、全身の温度として確かに在る。

 

言葉で説明しようとすると消えてしまいそうなほど繊細だけど、でも確かにある。

 

自分の中にすべての可能性の源があることを知る。

そこから「所有しなくていい」という感覚もうまれる。

 

自分の内にあるけれど、自分のものではない。

流れてきたら受け取り、去っていったら見送る。

 

「なくなる=失う」ではなくて、

形を変えて、別の姿で在り続けることを知っているから、所有しようとしなくていい。

 

 

ここに立ち、呼吸を感じ、胸の奥の光を見つめると、私は自分の道の真ん中に立っている。

絶望も孤独も光も、すべてが私の一部で、すべてが宇宙の中にあることを体感する。

 

 

自分の道の真ん中に立ったとき、あなたは何を感じますか?

 

 

 

自己対話アーティスト とも

 

 

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますようにキラキラ