何気なく目にした動画や言葉、ニュース、誰かの発言。
その瞬間、心に小さな反応が湧くことはありませんか?
それは偶然ではなく、あなた自身の内面が映し出された「鏡」です。
鏡の法則は、私たちに日常の中で何度も問いかけてきます。
「これは私なのか?」と。


鏡の法則って、人だけじゃない。
見るもの、聞くもの、触れるもの、全部が自分の鏡になる。
ニュースや動画、誰かの言葉、何気ないストーリーもそう。
ふと目に入った瞬間、それは私の内側を映し出す。

私は思う。
向き合いたいテーマがある時、ふとした情報に反応するのは偶然じゃない。
でも多くの人は、その瞬間、自分とその情報を切り離す。
「これは私じゃない」と。
私も以前はそうしてきた。

問いかける。
なぜ私はそれを見たのか?
どこに、なぜ反応したのか?
その真理を探らない限り、鏡の本質は見えてこない。

でも、それは痛い。
認めることは痛い。
私がその情報の持ち主と同じ感覚を持っていると認めることは、私の中の知らない部分(特に醜い部分や洗練されてる部分)を見ること。

だから、私たちは正当化(言い訳)をする。

不思議なのは、情報は感覚で受け取っているのに、向き合いたくない部分には急に「現実的」な理由を持ち出すこと。

私はその国の人間じゃない
私はその文化の中に生きていない

私は男性じゃない
そもそも私はこの人じゃない・・・等々。

これは、向き合わないための言い訳。
見た目や状況の違いを理由に、自分との距離をつくってしまう。

気づく。
その言い訳は、自分を欺くこと。
向き合うことから逃げること。
繰り返せば、自己信頼は薄れていく。

だから私は問い続ける。
「これって私だよね?」と。
「違う」と信じたい私と、「同じだ」と感じる私。
その揺らぎを、そのまま受け止める。

そして私は問いかける。
「じゃあ、私はどうありたい?」と。
その選択の連続が、私を私へと戻していく。



鏡の法則は、私に「認める勇気」を問い続ける。
その勇気を持てた時、私の成熟(変化)は加速する。

認めずに逃げれば、同じテーマが繰り返し現れる。
だけど鏡の質は、少しずつ落ちていく。

私はこう思う。
向き合うことは、怖い。
でも、それが私の成長であり、自己対話アーティストとしての道でもある。

鏡は静かに、でも確かに私を映し出す。
その映像は、時に痛みを伴う。
でも、その痛みこそが、私を深く、強く、自由にする。

鏡に向き合う瞬間、それは「わたしを生きる」ということの本質に触れる時です。