循環の話
すでに、(愛は)ある〈放つ責任〉 → 必ず誰かやどこかに届いている、受け取っている。
還ってきたものを受け取る〈受け取る責任〉 ← そしてまた、それを還していく。
愛は行って、還って、また巡る。
私たちはその循環の中で生きている。
放つ責任
自分で放っているという自覚を持つこと。
きっかけは誰かの言葉だったとしても、
決めたのはいつだって自分。
「言われたから」「させられたから」という
正当化も、言い訳もない。
自分が選択し、決断したことに責任を持つ。
自己責任。
受け取る責任
すでに放っている。
そして、それは必ず還ってきている自覚を持つこと。
タイムラグはあっても、
その流れは止まらない。
だから、自分が放って還ってきたものを
「受け取る責任」を持つ。
これも自己責任。
放つ責任と受け取る責任ーー
この二つは一対であり、すべては自己責任として巡る。
たとえ、ままならないものだったとしても、受け取る。
そのままならなさは、
自分の纏っているものや溜め込んでいるものを見直すサイン。
見直すのは、他人ではなく、
自分の質や純度。
他者は変えられない。
コントロールできないというのは、こういうこと。
愛の本質
「そんなもの放ってる覚えはありません」と思うかもしれない。
けれど、生きている限り、
常に愛を放っている。
愛には善悪がない。
愛は、ただ愛のみ。
そこに乗っているのが、感情という波。
喜怒哀楽。
たとえば、
いつもイライラして文句ばかり言っている人から何かを言われたとする。
その人は愛を放っている。
私はその人そのものの愛は受け取る。
けれど、イライラはそっくりその人にお返しする。
余裕が生まれてきたら、そのイライラを愛で包んでお返しする。
そのイライラの感情は、その人のものであって、
私のものではないから。
受け取っている私は、イライラしていないのだ。
循環の勘違い
「ない」から出発しているとき、
流れは止まりやすい。
どこかから何かをもらう → (私が)受け取る → ・・・・・
・愛という“なにか”
・お金
・崇めている存在や信仰
・SEX
など、“満たされるもの”
先にもらわないと、与えられないという思考になっている。
でも、もらうものがいつでも手に入るとは限らないし、沢山でもない。
だから、与えることも滞っていく。
「なくなってしまう」「減るのが怖い」から、
手にしたものを自分だけに確保しようとする。
このもらった範囲の中で与えようとするのを
「チャレンジ」だと勘違いしていることもある。
だから苦しいし、持続しないし、枯渇する。
私はいいやって自己犠牲にもなる。
だって、この制限している中で、
自分を満たし、人にも与えようとするのはどう考えても無理がある。
循環とは
先に放つことから始まる。
(わたし)放つ → 受け取る → 還す → また放つ・・・・
永遠に続き、人から人へ拡大し続ける。
円のように、静かに、やさしく巡る。
その円の中心にあるのは、いつだって “わたし”。
そして、その“わたし”からまた、愛が巡りはじめる。
これは、一人ひとり、誰もが同じなのだ。
*自己対話アーティスト 鈴木 友美*
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