人と話していたり、聞いていたりしている時、ふと気がつくと「すごいなー」「そんなことがあるんだー」「わたしもそうなりたいなー」と思うことがある。
これが傍観者。

「私の中の出来事や体験だったら、どんなことだろう?」
そうやって私でいるのが、主人公。

「わたしにはそれはない」ではなく、「私で例えるとなんだろう?」とか、「私なら」っていう問いに変え、自分の中にあるを見出す。

 

前提として、その話を聞いているということは、その本質の体験をすでに自分の中に持っているということ。


たとえ I am(わたしは)でいたとしても、
人と話をしていて「すごいなー、わたしもそうなりたいなー」と思った時点で、
I am(わたしは)からズレてしまう。
主語が「あの人が」になる。


その人を自分の舞台にあげて、
自分の舞台で話しているその人を客席から眺める私になってしまう。


私はこの状態でずっと生きてきていたので、そのクセが今もある。
昨日もそうだった真顔


気づいたら戻ればいい。

 



常に主人公である。
I am でいるのなら、その人の体験を私の中の体験に置き換えて「これだ」と見出す。

これこそが、人の話を“その本質の響きで受け取る”ということなのかもしれない。

つまり、
話の中の“装飾”(ものや現象)を受け取るのではなく、
その人が体験している“命の振動”を自分の中で感じ取る——。



自分の中にあるのに、
その話の装飾(華やかさ・煌びやかさ・豪華さ)にフォーカスがすり替わってしまって、
「私には(そんな装飾は)ない」としてしまう。


その話の外側の装飾に惑わされると、
自分の中に“ある”を見失い、
新たに作り出そうとして苦しくなる。


けれど、すでにある。


あるを見出し、それを育む。

それをどんな装飾にしたいかは、見出し育んだ先の話。



人の話の外側の装飾に惑わされると、話の本質を見失い、自分自身も見失う。



今日も私は、自分の舞台で生きていく。
降りてると気づいたら、またそこに立ち還る。

 

 

*自己対話アーティスト とも*

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますキラキラ