人の言葉をそのまま真に受けること。
それはその人を信頼しているようでいて、
実は、信頼はしていない。
信頼したいとしているだけ。
なぜなら、自分と繋がっていないから。
自分の感覚に自信を持てていないから、
相手ではなく、相手の“言葉”にフォーカスを当てて、真に受けてしまう。
その言葉の裏にある暴走したエゴや、
隠しているなにかへの正当化の匂いを感じながらも、
「それでも信じてあげよう」とする。
「相手がそう言っているから」と理由をつけて、その場に居続ける。
これは、相手や自分への優しさのつもりで、
ちゃんと感じている自分の感覚を置き去りにしているということ。
そして、自分で考えることも放棄しているということでもある。
信じてあげたい。
そう思っていたのは、自分が感じている違和感を認めたくなかったから。
自分の信じたいことが実は違っていたっていうのを認めるのが怖かったから。
それを認めると、自分の感覚に責任を持つことになるから。
真に受けるとは、
自分との信頼関係が築けていない状態。
だから、相手(外側)の言葉を“信じてあげよう”とする。
本当は違和感があるのに、見ないふりをして。
そこは信頼関係と見せかけた、上下、優劣、支配と服従。
不足・欠乏、不安がベースになっていた世界。
私はその世界にどっぷり浸かっていた。
その世界は巧妙だ。
支配しているようでいて、支配されている。
服従しているようで、服従させている。
お互いの都合で立場が入れ替わる相互依存の世界。
騙されたんじゃない。
騙されていたいという世界にいた。
——そこからもう出なよ。もうわかっているでしょ。
そう、私の中の声が言っていた。
信じてあげたい。
でも、その時の私はまだ自分を満たせていなかった。
だから枯渇した。
自分を満たす世界を知り、いまは私を満たしている。
合わせなくていい。
合わせてあげなくていい。
私は、私の感覚を、私の感じていることを生きる。
真に受ける——
信じてあげたいというその行為で、
罪悪感を感じずにいたかったのかもしれない。
空虚感を埋めたかったのかもしれない。
けれど、それはすべて幻。
そんなことで、感じないことはないし、埋められるはずもない。
違和感があるなら、
おかしいと感じたのか分かったなら、
そこにいる必要はない。
自分のために、そこから静かに距離を置けばいい。
そこに居続けることは、自分や相手への優しさではなく、
自分の感覚を信じようとしない、
自分の才能や能力に責任を持たないあらわれ。
いつも真に受けて、信じてあげたいと思っていた私がいた。
その思いの裏で、自分の感覚を置き去りにし、相手の言葉に寄り添いすぎていた私もいた。
それはある種、自作自演の自己犠牲。
だから枯渇し、信じ切れなくなった。
自分を無視できなくなった瞬間から、私は少しずつ、自分に還ることを選べるようになった。
そして今、私は、私の感覚を信じる。
私の中の“わかる”を生きる。
今日も自分に還る。
そして私は、私を生きる。
*自己対話アーティスト とも*
最後まで読んで下さり
ありがとうございます
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますように