言葉だけを聞いてジャッジをする人って、その言葉だけを認識する。
そして、自分とは違う解釈や意味づけをしていると、それは違うと否定したり、受け入れなかったりする。

自分の解釈は間違っていないから。

間違っていたくないから。

こういう人って基本、本質の成長はしない。
 

なぜなら、自分に問うことをしない、できない。
「私は間違っていない」が前提としてあることに気づいてない。

 

気付いたとしても、認めるのが怖いから、そのままそっと横に置いておく。

問い=修正、訂正、もしくは否定として捉えていることが多い。
問いが“脅威”に感じられ、それが、成長を止める小さな鎖になっている。

そして、もっともらしい正当化や言い訳、理屈を並び立てるのが上手く

自分自身をそのもっともらしさで本質に触れないように、誤魔化し続ける。



でも、問い、自分を疑うってことは、より成長したいという“魂の声”。
疑うことが怖くないのは、根底に「私は大丈夫」という安心からの自己信頼が確立しているから。


この思いって本当?
この頑なに手放したくないものって、そんなに大事?
この反応って、何を大事にしてるってこと?

アイデンティティの恐れって、現状維持が崩れること。
内側の変化が大嫌いで、いままでが心地いいのだ。

内側を見直さず、外側ばかりを変えようとしても、結果はいつも、自分が本当に描いている世界には届かない。
そして、頑張る→届かない→頑張る・・・そんなループに気づいたとき、はじめて本当の変化が始まる。




言葉を言葉通りではなく、
その周りにまとっている“その人のエネルギー”として受け取れる人は、
自分の中での自問自答が確立している。

自分の内側にしか答えはないことを、自覚しているし、確信している。


ジャッジじゃなくて、いまのあるがままを感じる。
「あぁ、いまのそれがあなたの事実なんだ」——以上。

自分には
「これはいまのわたしの事実なのね。」以上。
そして問う、

「どうしたい?」
「どうありたい?」




言葉にも成長(層)があると思っていて、
今まで使っていた言葉が、なんかしっくりこなかったり、
「こっちの方が今の私にはフィットするな」というのがある。
それは、意識の器が広がったサイン。

言葉が合わなくなるのではなく、自分が深まったからこそ合わなくなる。

 

 

問い力=傾聴力。

自分に問いかけて、自分の声を聴く。
自分の声を聴ける人だけが、他者の声の奥にある“沈黙の響き”を聴ける。


私はそう確信している。
 

静けさの中で、問いがまたひとつ、生まれていく。

 

 

*自己対話アーティスト とも*

 

 

 

 

 

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますキラキラ