地獄に堕ちるわよ
 

愛犬・ティアラが姿を消し、広い邸宅を探すラストにゾワりました。
 

(細木)(部下に向かって)そこの荷物は積んじゃって。ティアラのキャリーは新しいやつにしてね。
(川谷)連れてくんですか? ハワイに?
(細木)二週間も離れ離れじゃ、寂しくて死んじゃうからね。
(川谷)そっかぁ、ティアラちゃん、繊細ですもんね。
(細木)違うわよ、死んじゃうのはあたし。

――『地獄に堕ちるわよ』 Episode 7より


細木数子の小説を出版する(はずだった)編集者との会話。これは伏線でした。この時はそうとは気付かないレベルの。この実にさりげない伏線が、ラストで回収されます。
序盤~中盤にかけて物語の「語り部」であった「現代」の細木数子の愛犬として、Episode 1から登場し続けていたティアラちゃんが、『ゴッドファーザー』みたいなことになってしまったのでしょうか!?

その結末は描かれなかったのですが、それだけに一抹のゾワゾワ感を抱えたまま、物語は幕を下ろします。細木数子の哄笑を残して……。

 

 

本人役として出演したレーザーラモンHGの、ドラマと実際の番組の裏話を興味深く拝見しました。このひとが『ズバリ言うわよ!』に出演したのは、「プレバト!」での絵画の特待生としても知られる現在の彼とは違う、まだブレイクしたばかり、「住谷くん」の素顔なんて知られていない、ガチ・ハードゲイ設定の頃でしたからねぇ(笑)。
ドラマ視聴者の皆さんには、オフトークとしてもオススメです。

他にもこのドラマ配信を契機に「本当はもっと怖い細木数子」的な動画が散見されますが、実在のモデルを主人公にした「フィクション」が、「美化」増し増しで描かれるのは世の常です。大河しかり、朝ドラしかり。

主演の細木数子役に戸田恵梨香、彼女の小説を書くべく取材する作家役に伊藤沙莉。二人は云わずと知れた朝ドラ主演女優。加えて、市川実和子、中島歩、そして三浦透子――。
彼女らのキャスティングに、「ネガ」としての「朝ドラ」への「意識」を感じてしまうのは、ワタシの勘ぐり過ぎでしょうか。ほかにも杉本哲太や土村芳など、朝ドラ出演俳優を挙げていけばキリがなく、小さくない確率によるただの偶然かもしれませんが。

三浦透子さんは『カムカムエブリバディ』でのヒロイン(三代目)の親友役でなじみ深い女優ですが、彼女の演じる島倉千代子が素晴らしい。剛力彩芽のフライングニールキックに比肩する再現ぶりに感動しました。

前夫に騙され、背負わされた巨額の負債。それを肩代わりし、以後の芸能活動のマネージメントに尽力した細木は島倉にとり大恩人であり、実の姉のように慕っていました。
しかし、借金などとうに完済しており、金のなる木として食い物にされているのだと知った彼女は、細木に報復します。実に女らしい、やり方で……。


ふたりは袂を分かちますが、そこで挿入される劇中歌が島倉千代子の代表曲『人生いろいろ』なのです。

お千代さん、こんなバックボーンがあって、この歌を歌っておられたのでしょうか……。
――いろいろ過ぎるわ。

原曲と聴き比べましたもん。こっちのほうが島倉千代子らしい(笑)。頭でイメージする「島倉千代子像」に、島倉千代子ご本人以上に寄っていると云いますか。

島倉千代子のパートを境に、伊藤沙莉は取材相手を細木本人から彼女の関係者に替え、物語は様相を一変させます。

終戦後は飢えに苦しみ、ミミズまで食べた。高度成長期に美貌と商才を武器にのし上がり、そして騙され、食い物にされた。それでも運命の男と出逢い、救われ、這い上がった。朝ドラのヒロインのような半生――。
しかし、関係者の証言の数々から浮かび上がるのは、そんな自身の談話とはまるで異なる、細木数子の人間像でした――!?

小説を完成させた伊藤沙莉は誰よりも(出版社よりも)早く、細木数子にゲラを渡します。

独り最初の読者として彼女の小説を読む、細木の頬を伝う涙の意味は、感動だったのか、それとも――?
売れた小説はデビューの一作きり、パートで生計を立てるシングルマザー、吹けば飛ぶような木っ端小説家と、巨万の富を得た最も有名な占い師、マスコミの寵児にしてヤクザも顎で使う現代の女傑が、クライマックスで対峙する――!


彼女の実像はこんなもんじゃない――それはそうでしょう。そうであるとしても、朝ドラでは到底描き得ない人物を題材に、ここまで彼女の暗黒面に迫った攻めた「フィクション」であるこのドラマをワタシは支持します。

 

 

NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
1983年4月15日発売


現在、この写真集は電子書籍で購入することが可能です。水着写真集の名作といってもいい本書をプレミア価格の古書でなく、安価に観賞できるのは有難い。
この写真集が出版された当時、以前に申し上げたことを繰り返しますが、ワタシは奈保子さんのファンであることをやめていました。

なので当然のことですが、ワタシがこの写真集を観賞するのは、これが初めてです。なのですが――
ぜんぜんはじめて見た気がしない(笑)。

ブルーのストライプ、白地のドット柄、ピンクに黒――
水着写真のことごとく、どこかで見た覚えがあるどころじゃない。よく御存知の、おなじみの写真の数々。

NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4(マスク1) NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4(マスク2) NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4(マスク3)

ああこの写真、この写真集が出典だったんだな――そう、感慨をあらたにしました。
こうしてネットにガンガンアップされまくってしまうのも、この写真集が名作であることの証左でしょう。

ちなみにこの写真集での水着姿は、オールビキニ。
奈保子の水着はビキニ。この公式は彼女が二十歳を過ぎたあたりから変わってくるはずなのですが、この時はまだ19歳。次期シングル『エスカレーション』で「アダルトな奈保子」の新ステージが幕を開けますが、それは目前の六月に迫っています。河合奈保子芸能史の序盤、奈保子ちゃんを「奈保子ちゃん」と呼べた、彼女の「少女」時代のラストを飾った写真集と云えるかもしれません。

ではここで一曲、お聴きください。
多摩市・カナメさんからのリクエスト、ライブアルバム『LIVE』より河合奈保子『Can't Stop The Music』。

河合奈保子『LIVE』
YouTube

この写真集に、5日間におよぶタイロケの日記があります。その中で見物に訪れたパタヤ名物のショーで歌われていたのが、奈保子ちゃんのカバー曲としておなじみの、ビレッジ・ピープルのこの歌だったという一幕があるのです。
タイ語のカバーだったのでしょうか?
奈保子ちゃんが歌うカバーは、メロディ以外影も形もない見事なアイドルソングでしたが(笑)、タイ語カバーではどうだったのでしょうね。

奈保子ちゃんのビキニ写真はネットにアップされまくってますが、もちろん、そんなページばっかりではありません。奈保子・イン・タイランドな着衣、前述の日記を含むモノクロ頁など、初見の内容も盛り沢山。読み応えたっぷりであっことは申し添えておきます。どうぞ安心して、ポチッとしてください。

NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
こうして見開きの頁が「フラット」に観賞できるのも、電子書籍の魅力。

※まだまだ工事中

1980年 1981年 1982年 1983年 

HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション 大阪地区大会
 
1980年2月10日
阪急ファイブで開催。石野真子「春、ラ!ラ!ラ!」を歌う(決勝大会も同じ)。定数は1名であったが、特別に2人目の代表として選出される。
日記
 
HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション 決勝大会
 
1980年3月15日
中野サンプラザで開催。西城秀樹の強い推薦により優勝。
 
大きな森の小さなお家
 大きな森の小さなお家
 
1980年6月1日
詞/三浦徳子 曲/馬飼野康二
B面/ハリケーン・キッド
詞/三浦徳子 曲/馬飼野康二
日記
 
ヤング・ボーイ
 ヤング・ボーイ
 
1980年8月25日
詞/竜真知子 曲/水谷公生
B面/青い視線
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
 
LOVE
 LOVE
 
1980年10月10日
アルバム
収録シングル/大きな森の小さなお家、ヤング・ボーイ
日記1日記2
 
愛してます
 愛してます
 
1980年12月10日
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
B面/そしてシークレット
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
日記
 
LIVE
 LIVE
 
1980年12月10日
ライブアルバム
1980年10月14日、東京・芝・郵便貯金ホールにて行われた1stコンサートの模様を収録。
日記
別冊近代映画 河合奈保子特集号
 
 
1981年1月15日
ムック
日記
夢・17歳・愛 心をこめて奈保子より
 
 
1981年3月1日
エッセイ
日記1日記2
17才
 17才
 
1981年3月10日
詞/竜真知子 曲/水谷公生
B面/キャンディ・ラブ
詞/竜真知子 曲/水谷公生
日記
 
TWILIGHT DREAM
 TWILIGHT DREAM
 
1981年5月10日
アルバム
収録シングル/愛してます、17才
日記1日記2
スマイル・フォー・ミー
 スマイル・フォー・ミー 
1981年6月1日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/セレネッラ
詞/櫛田露孤、伊藤アキラ 曲/川口真
日記1日記2
 
音楽専科臨時増刊 河合奈保子 そよ風のメッセージ
 そよ風のメッセージ
 
1981年6月26日
写真集
日記
 
近代映画増刊 河合奈保子 フォトメッセージ
 奈保子フォトメッセージ
 
1981年8月5日
写真集
日記
 
DIARY
 DIARY
 
1981年8月10日
アルバム
収録シングル/スマイル・フォー・ミー
日記
 
ムーンライト・キッス
 ムーンライト・キッス
 
1981年9月1日
詞/松本礼児 曲/馬飼野康二
B面/あなたはロミオ
詞/松本礼児 曲/江戸光一、松本礼児
日記1 日記2 日記3
 
セリ穴落下事故による重傷 1981年10月5日
NHKホール「レッツコーヤング」収録リハーサル中、舞台昇降装置を設置したセリ穴に四メートルの高さから落下、「第一腰椎圧迫骨折」の重傷を負う。
日記
 
ときめきのメッセージ NAOKO ON TUOR 河合奈保子写真集
 ときめきのメッセージ
 
1981年10月15日
写真集
日記
 
退院、記者会見 1981年11月16日
渋谷病院を退院。コロンビア・レコード本社で記者会見。
 
Angel
 Angel
 
1981年11月25日
ベストアルバム
収録シングル/ヤング・ボーイ、大きな森の小さなお家、愛してます、17才、ムーンライト・キッス、スマイル・フォー・ミー
日記
 
ラブレター
 ラブレター
 
1981年12月5日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/No No Boy
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
Naoko in Concert
 NAOKO IN CONCERT
 
1982年2月25日
ライブアルバム
1982年1月6日に日本青年館ホールで行われた、新春コンサートの模様を収録。
日記
 
愛をください
 愛をください
 
1982年3月10日
詞/松宮恭子、伊藤アキラ 曲/松宮恭子
B面/春よ恋
詞/伊藤アキラ 曲/馬飼野康二
日記
 
ほほえみ・ステップ
 ほほえみステップ
 
1982年3月27日
写真集
日記
 
夏のヒロイン
 夏のヒロイン
 
1982年6月10日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/ゆれて-あなただけ
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
別冊近代映画 河合奈保子スペシャルPART3
 別冊近代映画 河合奈保子スペシャルPART3
 
1982年7月1日
ムック
日記
 
SUMMER HEROINE
 SUMMER HEROINE
 
1982年7月21日
アルバム
収録シングル/ラブレター、夏のヒロイン
日記
 
さまーひろいん
 さまーひろいん
 
1982年8月1日
写真集
日記
 
けんかをやめて
 けんかをやめて
 
1982年9月1日
詞/竹内まりや 曲/竹内まりや
B面/黄昏ブルー
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
河合奈保子全曲集
 河合奈保子全曲集
 
1982年9月21日
ベストアルバム
収録シングル/「大きな森の小さなお家」~「夏のヒロイン」までの全シングル。
※カセットテープのみのリリース。
 
ブリリアント~レディ奈保子 イン・コンサート~
 ブリリアント
 
1982年11月21日
ライブアルバム
1982年10月17日に東京・芝・郵便貯金ホールで行われた秋のコンサートを収録。
日記
 
BRILLIANT -Lady Naoko in Concert-
 BRILLIANT -Lady Naoko in Concert-
 
1982年11月21日
映像ソフト
上記コンサートの映像ソフト。
日記
 
Invitation
 Invitation
 
1982年12月1日
詞/竹内まりや 曲/竹内まりや
B面/木枯らしの乙女たち
詞/尾関昌也 曲/尾関昌也
日記
 
アイドル百科3 河合奈保子
 アイドル百科3 河合奈保子
 
1982年12月20日
ムック
日記1 日記2
 
あるばむ
 あるばむ
 
1983年1月21日
アルバム
収録シングル/Invitation、けんかをやめて
日記
チェリーピンクのプチハート
 チェリーピンクのプチハート
 
1983年2月23日
写真集
日記
 
ストロー・タッチの恋
 ストロー・タッチの恋
 
1983年3月1日
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
B面/若草色のこころで
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
日記
NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
 NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
 
1983年4月15日
写真集
日記

 
エスカレーション
 エスカレーション
 
1983年6月1日
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
B面/恋のハレーション
詞/秋元康 曲/筒美京平
日記
SKY PARK
 SKY PARK
 
1983年6月1日
アルバム
収録シングル/なし
日記
UNバランス
 UNバランス
 
1983年9月14日
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
B面/リメンバー
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
日記
素敵な時間
 素敵な時間
 
1983年10月20日
写真集
日記

 
HALF SHADOW
 HALF SHADOW
 
1983年10月21日
アルバム
収録シングル/エスカレーション、UNバランス
日記
疑問符
 疑問符
 
1983年12月1日
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
B面/冷たいからヒーロー
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
日記
プリズム(AngelⅡ)
 プリズム(AngelⅡ)
1983年12月21日
ベストアルバム
収録シングル/UNバランス、ラブレター、夏のヒロイン、Invitation、エスカレーション、愛をください、ストロー・タッチの恋、けんかをやめて
 

 

工事日記 2024.01.05
公開しますが、工事中です。第一期工事としては主に1980年にリリースされた作品をまとめました。音楽に限らず、映像ソフトや写真集・エッセイなどの出版物も取り上げていくつもりです。
今後の日記で奈保子史に触れる際などにリンクして使用するほか、ワタシ自身のスケジュール表として(笑)使っていきたいと思っています。
工事日記 2024.06.09
更新をサボっていたら、セカンドアルバムが出てました。マメにメンテしないといけませんね。
81年末までのシングル、アルバム、出版物をアップしました。奈保子さんの芸能人生のなかでも最大の、激動のシーズンに差し掛かろうとしています。
工事日記 2025.01.01
第三期工事では1982年発売の作品を中心に、河合奈保子史に記録すべき大きな出来事も記載しました。今年も盛り沢山です(>今年じゃないけどな)。怪我はいまだ癒えず、腰にコルセットを着けてではあるものの、仕事に復帰。紅白歌合戦への初出場を果たしました。河合奈保子のいわゆる「アイドル」時代の、後半期とワタシは思っています。歌手人生の転機となった竹内まりや作詞作曲『けんかをやめて』が、今年は控えています(>今年じゃないけどな)。
工事日記 2026.01.03
第四期工事では、1983年発売の作品を記載しました。河合奈保子歌謡史では「転機」となる年ですが、自分史を振り返ると現役時代のこの頃、ワタシは「ファン」であることをやめていました。四年目を迎える「四〇年遅れの推し活」は、「思い出」という補助ぬきの、未知の奈保子ワールドへの旅路がいよいよ始まります。

これまでのあらすじ

 

 

(1)ツブヤイターX


プロのクリエーターはともかく、ファンが「腐される」ことなんてあるの? それがあるんです。それがネット社会。プロのクリエーターの作品など多くの関心が寄せられる話題について何か云おうものなら、ただの素人の一般人のそれであっても、それもまた批評の対象になり得るのです。時には「腐される」ことだってあります。怖いですね。
ワタシにも経験がありますが、特に掲示板などの「ファン同士のコミュニケーション」において、一般人同士の論争(口喧嘩)や、一般人による一般人へのバッシング、といった行為は日常茶飯事です。時にはその掲示板の枠を超え、×ちゃんねるにスレッドが立ち、名指し同然に批判されることもあります。
そうした行為の是非については、ここでは置いておきます。この節では、それがあるという「現実」に、どう「対処」するかを述べていきたいと思います。
ワタシは前節でこのように述べました。

 

あなたがそのクリエーターにとり赤の他人――一介のファンに過ぎないのなら、それはやめておくことをお勧めします。繰り返しますが、それは時間の無駄です。あなたの出る幕ではないのです。
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。
そんな役割は、彼が信頼を置く身近な人物や、仕事の関係者にまかせておきましょう。


本節で主張するのは、ちょうどこの裏返し。
赤の他人の批判など、耳を貸すのはおやめなさい。――そういうことです。

堂々と、こう云いましょう。
――ワタシ、そういうの読まないので。
(テーマ曲挿入)群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、岸〇田のとなりで生まれ育ったイチビリの精神と柄の悪さだけが彼の武器……。


(2)「ミュート」のススメ

また前節ではこうも云いました。

 

賞讃であれ、酷評であれ、ネット芸者たるファンライターにとり、それは自身の作品なのです。
作品づくりをするモチベーションが抑えられないのです。したがって、その情熱を止めることはできません。
クリエーターへの働きかけなど実は二の次、自分の意思など通りはしないことは承知の上、それでも自分はこれを云いたい、云わずにはおれない、その衝動こそが第一なのです。

 

繰り返しますが、こうした行為の是非について、この場で論じるつもりはありません。
問題はこういう人達を黙らせる、有効な手段はないということです。
「暴力的威圧」による牽制ないし報復はお勧めしません。それを自らの流儀としている方には、おやめになることを強くお勧めします。それは少なからぬ傍観者から嫌悪され、軽蔑され、評判を落とす、支払いが高くつくやり方です。そのくせそれほど効き目はなく、費用対効果で云えば割に合いません。

 

何もなかった、何も見なかった、そう思えてきます。「それ」は存在しなかったのです。

 

ここで序節《イントロの巻》で取り上げた平井和正のお言葉に、あらためて登場いただきます。やはり、これに尽きるのではないでしょうか。
世の中から「悪口」を失くすことはできません。でも、それを「読まない」ことはできるのです。現実に、いますぐに、しかもいとも簡単に。
SNS時代を迎えて、それはより容易になりました。そういった不愉快発言をする相手を個人が、自分で「ブロック」ないし「ミュート」することができるようになったからです。これは「掲示板」時代にはできなかったことです。かつては誰が見ても明らかなレベルの暴言を、管理者が管理者だけが持つ権限で削除するなどの対処しかできませんでした。

特に「ミュート」は有効です。「ブロック」はそれをした相手にそのことが知られてしまいます。しかし、「ミュート」はただ、自分のタイムラインからその人の発言を非表示にするだけ。相手側にはそうされたことすらわかりません。
相手に知られることなく、その人を「消して」しまえるのです、自分の「世界」から。

考えてみてください?
「黙れ!」「失せろ!」――などと吠えたところで、そんな言葉に何の効き目もありません。彼は黙らないし、自分の前から去ってもくれません。所詮はささやかな憂さ晴らしでしかなく、しかも、その憂さは大して晴れません。当然です。問題は何ひとつ解決はしていないのですから。
彼という動かし難い「定数」に対し、「変数」である自分にできることはなんでしょうか? それは彼の発言を「読まない」こと、それに尽きるのではないでしょうか。それによって、あなたは合法的に彼を「消せる」のです。あなたの「世界」から。道義的にもまったく問題なし。素晴らしいと思いませんか?

もちろん、彼はこの世には存在し続けていて、これからもあなただけではない多くの人に迷惑行為を続けることでしょう。が、その問題意識、社会正義的なことは、とりあえず置いておきましょう。まずは「自分」です。自分を守りましょう。自分を救いましょう。それで自分に他人を助けるだけの余裕ができたら、あらためて彼を監視するなりして、彼の悪行から守りたい人を守ってあげてください……。

ストーカー的粘着エネミーの一番の養分は、相手の「反応」です。「反撃」は反応の最たるものですから、実は相手を一番よろこばせています。
逆に一番嫌がるのは「無反応」です。これこそが実は最大の反撃であり、防御でもあります。これはワタシの実体験に基づく実感です。


(3)「毒」と「免疫」

 

本当の事を言うのは、いつも敵か悪なんだよ――

本当の事を言うのは、いつも敵か悪なんだよ――
――『ザ・ファブル』(南勝久)第10巻より


『ザ・ファブル』の悪玉・宇津帆氏の金言です。これは真理です。
あなたの親しい人=「味方」は、あなたを傷つけ、気分を害することをあなたに云うことは極力避けるでしょう。あえて指摘するとしても、オブラートに包んだ、優しい気を遣った云い方をしてくれるはずです。
その点、「敵」はストレートです。実に冷酷に、容赦なく、ハッキリ物を云ってくれます。彼らはあなたが傷つき、ダメージを負うことが嬉しくて仕方がないからです。
だからといって、「バ〇」だの「〇ね」だの、そんな品性知性の乏しさ全開、ワルモノ感丸出しの暴言は、できればしたくありません。あくまでも己れに正当性のある正義の拳でぶん殴りたいのです。よってそういう人は、あなたがボロを出す、失言やミスをしでかすチャンスを鵜の目鷹の目で伺っています……。

ゆえに皮肉にも、彼らの指摘は往々にして正しく、的を射ています。動機が「悪意」だからといって「無価値」ということにはなりません。
もし、自分のメンタルの強さに相当の自信があるのでしたら、そうした「敵」の批判に耳を傾け、反省の材料とすることは、この上ない収穫になるでしょう。
これは「毒」と「免疫」の関係に似ていると思います。軽度の「毒」に適度に触れることは、自分の「免疫」を鍛えてくれます。しかし、その「毒」が強過ぎたり、浴び過ぎたりすると、その「毒」にやられ、傷つき病んでしまうことになります。

ワタシは自分に対する評判・評価は、親しい友人のリアクションに耳を傾け、赤の他人のそれは気にしないことにしています。
間違っても「エゴサーチ」などして、見ず知らずの赤の他人のコメントを探して回るような真似はしません。それはポジティブな反応であれば嬉しいですし、それを知りたいのは山々ですが、それ以上にリスクが高いと思うからです。ネガティブな反応があり、それが正当であればヘコみ、打ちのめされてしまいますし、不当であればムラムラと頭に血が上り、どうしてくれようかと頭がそれに占められてしまいます。なにより、それが一番よろしくありません。

そういうものに「公然」と反論するのは「みっともない」とわきまえています。それについては、次章で述べます。
分別によってそれを表立って口外するのは堪えたとしても、自分のこころの中で吹き荒れる嵐は鎮まりません。それを鎮めるには「儀式」を必要とします。それは誰も読むことのない、誰にも見せられないテキストを何時間もかけて書いたりすることで、たかが何時間といっても、ワタシもこう見えて勤め人ですので、時間の合計だけで云えば「何時間」でも、期間で云えば「何日」も「何週間」も費やしているのです。発表できないテキストにですよ? 時間の浪費そのものですが、それをしないでは自分の気分が鎮まらず、本来書くべきテキストに取り掛かることもままならず、前に進むことができません。
結果、赤の他人の評判を知ることは、「見てはもらえぬテキストを寒さこらえて書いてます」状態に明け暮れることになりかねず、それは避けるが吉なのです。

是非それを読ませてほしい? すみませんが、そのリクエストにはお応えできません。墓場まで持っていきます。悪しからずご了承ください。

(4)「ケンカ」は「エッチ」に似たり!?

ネットバトルという、人前でのケンカまがいの云い争いをした経験がワタシにもあります。実に恥ずかしい、みっともない行為であったと思います。
ケンカと性行為とは、よく似ていると思います。理性のタガが吹っ飛び、感情むき出しで相手とコンタクトする最大級に濃厚なコミュニケーションであるという点で。それは客観視すれば醜態そのものですが、そんな自分のあられもない、はしたない姿でも、このひとになら見せても構わない。そういう相手だからこそ、そんな自分を晒せるのではないでしょうか。そんな秘め事を人前で大っぴらに公開してどうします?

セクシー女優(男優)という職業があって、彼女らはそれを人前で披露してみせています。彼女らにとりそれは生業であり、人前で見せるに足るプロのパフォーマンスであるからです。アマチュアが無償で同様の行為をすれば、ボランティア精神を讃えられるよりは、露出狂としての扱いを受けるでしょう。

ケンカまがいの云い争いをパフォーマンスとして、それを商売にしている人もいます。ですが、それでお金を稼げるわけでもないワタシ達が、その真似事をすることはありません。パフォーマンスとして金の取れる彼らのそれとは違い、ワタシのようなアマチュアの荒んだ感情の発露は、みっともないことこの上なく、周囲に不愉快と迷惑を撒き散らすだけでなく、あとから自分で振り返ってみても、そこに残っているのは激しい後悔しかありません。
「劣情」とはよく云ったもので、それは何も性的興奮のみを指すわけではありません。

ムラムラして、どうしても収まらない。相手をシバかないでは気が済まない。でしたら、あまりお勧めはしませんが、二人っきり(当事者間だけ)でやることです。メールとかね。とにかく非公開が大前提。そんなみっともない真似を(繰り返しますが)人前で大っぴらに公開してどうします?
「なんて怖ろしい人だ!?」「えげつなぁ!?」「こいつは鬼か、悪魔か、人でないしか!?」――そんなふうにみんなから思われて、なにか得でもありますか? 怒らせたらどれだけ怖いか、そんな自分の暗黒面を教えてやるのはシバく相手ひとりで充分じゃないですか。
結果、逆にシバかれたとしても、二人っきりなら知られるのは相手だけです。

それよりお勧めしたいのは、やはりそういう機会を未然に避ける、「予防」につとめることです。
酒乱の気がある人が、そのことを自覚し、酒癖の悪さを人前に出すまいと思うなら、その対処はただひとつ。「酒を飲まない」一択であるはずです。飲み会に同席するなどもってのほかです。ソフトドリンクで過ごそうとしても、すすめられれば断れないし、それ以前に自分も飲みたくなってしまいます。そして、飲んでしまえばアウトです。
他人のネガティブな反応に触れると「クワッ」と荒ぶる獣にメタモルフォーゼしてしまい、そんな自分をコントロールできなくなる。そんな進撃のメタモルビーストな人がとるべき対処もしかり。そういう不穏な気分にさせる人物・場に、一切近付かないことです。そんな場面になっても大丈夫な自分には、残念ながらどう頑張ってもなれないのです……。
あしたのための最高のディフェンスは、ブロックでもクリンチでもスウェーバックでもありません。殴り合いのリングに上がらぬことです。

(5)「批判に耳を傾けろ」は呪いの言葉

「批判から逃げるな! だからお前は成長しないんだ!」
友人知人でも関係者でもなく、こういうことを云う「赤の他人」の真意とは一体なんでしょうか? 本気で成長を願っている?――とても信じられません。ぶっちゃけ、シバきたいだけでしょ? そう勘繰らずにはいられません。まともに向き合ったら、タコ殴りにされるのがオチでしょう。

寄せられる批判の中には、確かに「有益」な情報が少なからずあるでしょう。ですが、同時にそこは「地雷原」でもあります。
地雷を避ける注意力があるのか? 地雷を踏んでもヘッチャラなほどタフなのか? そこは自分の力量をしっかり見極めた上で踏み込まないと、「命」に関わりますよ? 決して大袈裟に脅すつもりはありません。恒常的に言葉でこころを苛まれていると、ネット活動を続ける気力を折られます。ネットの生命を奪われるのです。さらに文字通りの命を自ら絶ってしまったひともいます。そんな実例もご承知のことでしょう。

そこまでの自信がないのでしたら、逃げましょう。恥ではありません。
こちらが「黙れ」と云っても相手は黙ってくれないように、相手から「逃げるな」と云われてもこちらは逃げるだけの話です。
「命令」に従わせるには権限が、「頼み」を聞いてもらうには関係性が必要です。そのどちらも持たぬ者に、赤の他人をコントロールすることはできません。
批判に耳を傾けるのは立派なことですが、それはそう努める者への賞賛として成立はしても、当然のようにそれを他人に要求するのは、立場をはき違えています。

――心地良いヨイショばっかり聞いて、自分を甘やかしていたら成長しないよ? 堕落するよ? 私はあなたのためを思って、厳しいことを云ってあげているんだからね?
「正論」を装う赤の他人のその囁きは、本当にあなたのためになっていますか? もしかしたらそれは、「呪い」の言葉かもしれませんよ?

(6)ともだちはいますか?

批判に耳を傾けるのは大事なことですが、それ以上に大事なのはその相手を選ぶことです。
前節の引用を再度繰り返します。

 

そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。


これをそっくり裏返せば、この人の云う批判なら、真面目に耳を傾けられる。そんな「信頼」に足る相手を見つける、そんな人間関係を築く。それが先決であるということです。

「リア充」という言葉があります。リアル(=実生活)で独りぼっちなのに、ネットだけ友達がいっぱいであるはずがありません。もしそうだとしたら、それはどこかの認識が間違っているのだと思います。所詮が「イイネ」通知をくれるだけの移り気で虚ろな関係のネット上の赤の他人の反応に一喜一憂していたら、いずれ自分を見失ってしまうでしょう。

正当な批判を求めて悪意の十字砲火に飛び込むより、最初から心ある人だと信じられる、そんな相手の言葉に耳を傾けているほうがずっと安心ではありませんか。
その結果、自分をスポイルしてしまったとしたら、前節で申し上げたことを繰り返しますが、それも自分の器量の限界です。

たとえば実生活上の「友人」に、こう問いかけてみましょう。
「おれのネットの発言が炎上してだんだけどさ。どう思う?」

――訊かれたから、正直に答えるけどさ。気を悪くせずに聞いてくれよ?

そのように真摯に、誠実に意見してくれる友人が自分にいるか。そしてその言葉を冷静に受け止められるか。
逆もあります。自分が「友人」だと思っているその人物は、心にもない無難な回答しかしてくれないかもしれません。それをああコイツは本心を語ってくれてないなと判断できるか、それとも「安心」してしまうか。それもこれもみな引っ括め、それが己れの「器量」というものです。

そこに自信がないとしたら、そんな人はまずそこから始めるべきだと思います。しっかり「地」(=実生活)に足をつけた上に「ネット」生活はあるべきで、そこから遊離して、ネット上の諸問題を全てネットだけで間に合わせて解決しようと考えるのは間違いの元です。

厳しいことを云われても、この人の言葉なら聞ける。――そんな友人のひとりもいないのに、「批判にも耳を傾けなければ、自分はダメになってしまう」などと考えるのは、高い理想を見上げるあまり、足元が疎かになってはいないでしょうか? 順序が逆ですよ。そんな高邁な思想に耽るのは。街のヤンキーにはビビっているのに、この世を滅ぼす悪魔と戦おうとしている戦士症候群罹患者のようなものです。

 

逆の立場で考えてみましょう。「真剣な対話」という行為が成立する関係性は、例えば親友、職場や部活動の仲間といったレベルの、相当な強い結びつきであるはずです。真実それを望むなら、それなりの関係性を築くプロセスを踏まえなければならないのは当然ではないでしょうか。
見ず知らずの赤の他人が、やぶから棒に議論を吹っ掛けるなどというのは、初めて話しかける異性にいきなりデートに誘うに等しい、失礼を通り越して正気を疑うべき行為であるはずです。 

(7)「村社会」から「大通り(ストリート)」へ

 

言論空間としての、ここのところの感覚・価値観・常識は、電子掲示板、それに遡るパソコン通信、さらに遡るファンジン・ファンクラブ時代とは、まるっきり違ってしまっています。そこにはそれに足る関係性が、「タテマエ」ではあっても確かにあったのです。前述の「部活」のような、同じ共同体の「仲間」としての認識が。
だからその共同体に仲間入りしたからには、知り合ったばかりの者同士のシュートな議論も有り得たし、容認されました。

「ファン大通りの歩き方」三部作のきっかけになった『“ガチャ文”考』(後述)をワタシは支持するものですが、いかんせん「古い」とも思ってしまうのは、そこです。1984年にファンクラブ機関誌に寄稿されたこのエッセイは、発表当時から好意的な理解者にお目にかかったことがありませんが(笑)、今日ではますます理解はされにくいでしょう。

 

この感覚・価値観がアップデートされることなく、前述の時代の流儀・ノリを引きずって、誰かれ構わず議論を吹っ掛け回っている人は、ウザがられ、鬱陶しがられるでしょう。おそらくケンカさえしてもらえず、「ミュート」されるのがオチではないでしょうか。SNSは共同体ではないし、そこに居るのは仲間でもない。SNS時代の到来による最大の変化はそこだと思います。

 

ノスタルジーに耽りたいわけではありませんが、ワタシもまだまだ若く、パソコンネットがまだアマチュア無線のようなマイナー趣味であった頃、ネット社会はもっと実社会に近い、というよりそれ以上に人間臭い、ディープな場所であった気がします。良くも悪くもですが。
「自分の居場所」を他に探すことは難しく、ゆえにそう簡単にその場所を捨てるわけにはいかなかった。ソリの合わない人とも角突き合いながら付き合わなければならず、我慢もしながらそこに住み続けるしかありませんでした。それはまさに「住む」という表現がふさわしい、そこの常駐参加者は「住人」であり「〇〇民」そのものでした。
そのありようは、まさしく「村社会」そのものであったと思います。
そこに馴染める人間にとっては、すこぶる居心地がいい反面、そうでない人間は「壁」を感じてしまう。ことさら「ヨソ者は来るな」なんて意識はしていなくても、態度に出してはいなくても、親しい人と普通に親しくしているだけで、疎外感を与えてしまうようです。そこには「グループ」が生まれ、グループ間の諍い、衝突も生まれる。あとになって振り返り、俯瞰すれば反省しきりですが、いままさにその渦中にある当事者にそうした客観的視座はなく、自分が愉しむこと、自分が愉しいパラダイスを守ることに、ただただ血眼だったのです。
新規参加者は乏しく、居着かず、既存のメンバーも徐々にその数を減らしていく。ワタシも思うところあって、その掲示板を去りました。そうして現実の限界集落のように、消滅の道をたどっていくようです。

特に共通の趣味者同士で集まるのは、闇が深い。そのネットリした感情のもつれ合い、ぶつかり合いは、繰り返しますが「部活動」の濃密さに近い。
手っ取り早く仲良くなるには、好都合な繋がりではありますが、あまりその関係は長続きしないようです。同じクリエーターが好きでも、どこが好きなのか、どのくらい好きなのか、その方向性も熱量も、あまりにも人それぞれです。好きだからこそ、許せないこともある。遠く離れた人よりも、近しい人により強い憎しみを覚えるのは世の常です。そばに居るからこそ、目障りなのです。
これはワタシの経験則ですが、「共通の趣味」だけで関係を保つことはできません。長くお付き合いを継続しているその関係の友人たちは、ひとりの例外もなくその「趣味」を抜きにして付き合える、ウマの合う人たちばかりです。

現代のネット社会は、その点洗練され、都会的になったようです。その最たる理由は、「SNS」が共同体的結束を解体したことです。
かつての掲示板時代のコミュニケーションが「村社会」であるとすれば、現代のSNS時代のそれは、「大通り」に近いのではないか? ワタシはそのように思うのです。居合わせた人と会話を交わすこともある。けれど、そこに居る人はそこに「住んで」いるわけではなく、たまたまそこに居ただけ。

〇〇会などと名前の付く、組織だった共同体もなく、所属することも、仲間入りすることもない。
その場、その時、関心のある話題について、それぞれが好きなことを云う。またその話題ないしあなたに関心のある者がそれを読む、「イイネ」をくれる、コメントを返してくれることもある。
「なにコイツ? メンド臭ッ」
とか思ったら、無視するなり、フォローを外すなりすればいい。それでも向こうから付きまとわれたら、ブロックするなりミュートするなりして、彼の存在を消してしまえばいい。
なべて世は事もなし。それで良いとワタシは思います。

自分が好き勝手なことを云うのを誰にも止められないように、それに対して他人から好き勝手なことを云われてしまうのもまた止めることはできません。所詮は大通りですれ違っただけの他人です。そのことで人を傷つけ、結果嫌われ、ましてや自分まで傷つくような「深入り」をすることはありません。放うっておきましょう。


ワタシのコミュニケーション観を、少々ドライであるように思われた方もいらっしゃるかもしれません。

「好き嫌い」と「損得」が絡んでもつれた人間関係の喜びや気苦労は、「実生活」で味わう分で充分だし、またそうであるべきだとも思います。

「コミュ障」であるがゆえに実生活が虚ろで、だからこそそんな心の空白をネットで埋めようとし、そこに「居場所」と「充実感」を求めようとする。その気持ちはわかります。ワタシがそうでしたから。でも、それは危険です。それについては脱線しますので、別枠のコラムに記すことにします。

 

現代社会に、法の秩序が及ばない場所が三つあると思っています。
ひとつ目は「学校」。ふたつ目は(当事者が少ないのであまり問題にはされませんが)「刑務所」。三つ目が「ネット」です。
これらに共通しているのは、「人治主義」(=人による支配)が「法」に勝っているという点です。その暴力性は苛烈であり、裁きの基準はないに等しくバラバラです。
それ以外の社会空間にも、いじめやハラスメントはありますが、それでもまだ「抑制」が効いています。それは「法」の及ぼす「秩序」そのものです。これら三大空間にはそれが欠如しているがゆえに、人の暴力性のリミッターが外れています。
「バカッター」によるファミレスでの迷惑行為など、司法の裁きに委ねれば、せいぜいが罰金刑どまりではなかったかと思いますが、ネットの裁きはそのバカッターに一生を台無しにするほどの責苦を負わせました。学校でのいじめ被害をネットで報復する、といった事例にも、無法の仇を無法で討つ、そんな陰惨さを覚えます。
ひとはやさしさと裏返しの残酷さもあわせもっていて、だからこそ法の縛りが必要なのですが、それが及ばないネットの現状には、強く憂慮するものです。

とまれ、「学校」には二度と戻りたくなく、「刑務所」には一生入りたくなく、「ネット」には深入りせず、程よいあっさりとした関与で済ませたいと思っています。


(8)結論

 

へぼな作家をへぼといってなんになる。黙殺されることで当人の奮起を期待するのが正しいのである。

 

平井和正のさるエッセイからの引用です。
訳あって引用元は明かしませんが、平井和正せんせいの仰ることに、いまは完全に同意しています。
率直に申し上げて、物書きとしてはダサい発言です。ですが、せんせいは「泥をかぶって」ワタシ(のような読者)に大切なことを教えてくだったのだと、いまでは思っています。
そして、こんなことを云わせてしまった、その一因――そんな読者の一員にワタシもなってしまったことは、本当に申し訳なく思います。

ひとつだけ異議申し立てをお許しいただけるなら、一文も稼げぬアマチュアと云えど、その表現欲求を止めることは、たとえせんせいのお言葉をもってしても不可能です。せんせいはご自身の繊細な作家の魂を守るべく、読者に対してこのように訴えるべきではなかったでしょうか。妄言多謝。

「忠良なる読者諸君、不敬失敬な論評感想を目撃しても、決して私には教えないでほしい。それは私の執筆活動に、悪しき影響を及ぼしかねない。そんなものを見つけたら、君自身でそいつを懲らしめ、成敗してほしい」
……そんな忠良なる愛読戦士のみなさま方におかれましては、奮ってXで、×ちゃんねるで、ご自身のブログで、思う存分気の済むまで、どうぞワタシを腐してください。遠慮はいりません。ノープロブレムです。

ワタシのような素人の妄言にお付き合いくださり、それに対してコメントまで発してくださったことそのものは、ありがたいことだと思います。好意・悪意、正当・不当を問いません。ワタシに発言の自由があるように、ワタシの発言を読んでくれた人達にも、それに対する発言をする自由があります。

でも、それをワタシが読まねばならぬ「義務」も「義理」もありません。


最後におさらいをします。
望ましくない変化をしてしまったクリエーター当人に向かって、「昔のあなたに戻ってほしい」などとアプローチするのは、時間の無駄であると前節で申し上げました。
そして、それを無駄だと云って制止することも、また無駄です。彼らにとっては、その行為自体が喜びであり、三度のメシより大好きなのですから。
ワタシは前節で「友達なくすよ?」「嫌われるよ?」と「忠告」しましたが、そのあたりが精一杯でしょう。

「批判にも品位が求められる」「ひとを傷つける発言はやめろ」――こういった主張も同様です。
同じ意見の人の賛同は得られても、そうでない人の改心を促す効果の程は期待できません。彼らの口に戸は立てられない。所詮は他人をコントロールすることはできないのです。
ならば、自分にできることは何か? 読まないこと。それに尽きると思います。


読まなければ、云われてないのと同じです。
――それが「腐す者」と「腐される者」とが、互いを敬して遠ざけながら、共存する道ではないでしょうか。

 

 

あとがきに代えて 特別公開、筆者の脳内会議!?

――あんたは、ケンカができる人間なんよ。

これは、おユキさん。お久しぶりです。「非実在レディ」からお名前がついて、初めての登場ですね。唐突にどうされました?

 

 

――だから「ケンカをしない」という「選択」ができるの、あんたには。でも、普通の人はそうじゃない。自分がその当事者になることは恐怖でしかないの。あんたみたいに「ケンカ売ってんの? おもろいやんか? 痛い目に遭わせてくれよ?」っていうハードな対応もできるけど、ソフトな対応を選ぶという立場とは違うの。

ワタシはそんなこと云いませんよ。それは岸〇田のとなりで生まれ育った人間に対する偏見です。

――あんたは不愉快な人達の不愉快な行為に報復ができると思ってる。やろうと思えばね。その自己評価が正しいのか、自信過剰なのかは別にして。だから、そういうものに鷹揚に構えていられる。でも普通の人にとっては、そうではないの。自分に向けられる剥き出しの悪意に、あんたみたいに平然と「読まない」だけで済ませてられないの。どこかで自分が悪し様に云われている、その状況に耐えられないし、確かめずにはいられない。結果、深く傷ついて、どうしてここまで云われなければならないのかと理不尽を嘆くことしかできないの。だから、ネットを含めた世の中からそういうことをでぎるだけ無くしていくしかないの。それがどんなに困難な、絵に描いたお花畑みたいな理想主義であっても。

痛いところを突かれましたね。それは「学校からイジメをなくす」「世界から戦争をなくす」的なテーマに似た、社会的な取り組みの話です。それは「定数」であって、ワタシのような個人には解決不可能です。そうした状況そのものを変える打開策を「戦略」と呼びますが、ワタシがここで述べたのは、今現在のこの状況下を、いかに戦い生き延びるかという「戦術」の話です。まだまだネット社会は、実社会に比べれば治安も秩序も法整備もととのっていない、荒んで野蛮な、弱者には生き辛い環境です。そんなネット社会のこの「現実」を、なるべく「不幸」な目に遭わずに済ませるには、どう渡り歩いていけばいいのか。そのことへのワタシなりの処方箋です。

社会全体がそうであるように、ネット社会もまた「コンプライアンス強化」に向かっていくだろうとは思います。それでも時間はかかるでしょう。ネット社会の現状はまだまだ残念ながら、ガラの悪いヤンキータウンのごとき場所であるということです。サイバー岸〇田なんです。そこに居るというだけで、被害に遭ってしまうこともある。ガラの悪いヤンキーでいるほうが、都合も居心地もいい場所なんですよ(苦笑)。
だからといって、自らガラの悪いヤンキーになるのは、まったくお勧めしません。自身の悪行の記録は「デジタルタトゥー」となって、実生活を含む自らの一生の十字架になりかねないからです。
「マイルド」を旨とする平成・令和世代が台頭・増加するに従って、「ワイルド」な昭和世代は退場・改心を迫られるでしょう。ワタシも少しはオトナになったように、ネット社会という場所も、少しずつオトナになっていくと思いますよ……。

まだ若く愚かだったワタシは、憧れの人そのものになろうとしました。さらにその憧れの人が自分の想い描く理想像とは違うというので、ひどいことを云ったりもしました。でも、結局自分は自分でしかなくて、自分にしかなれなくて、憧れの人の精神みたいなものは、せいぜい自分の一部として吸収するぐらいが関の山なのだと知りました。
ワタシは自分の過去の清算と、こころの恩師である平井和正せんせいへのお詫びと御恩返しとして、これを書きました。「シン・“ガチャ文”考」を書きたいというのが、そもそもの動機です。『“ガチャ文”考』は主旨としては文章表現の指南ですが、根底に流れるテーマは、会の仲間に対する「礼節」「心遣い」ではなかったかと思います。それを「ファン社会での処世術」にアレンジして、ワタシなりの「“ガチャ文”考」に挑戦してはみましたが、出来上がったのは原典とは似ても似つかないものになってしまったようです。
ここでワタシが申し上げたのも、あくまでもワタシなりのファン大通りの歩き方です。これをお読みいただいた方全員にそのまんまお役に立つとは思いませんし、真似てほしいとも思いません。これもひとつの参考に、自分なりのファン大通りの歩き方を見つける一助としていただければ幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

――こんな無責任なやつの云うこと、本気で真に受けたらあかんよ? コイツの云ってるのって要は、「これでうまいこといくと思うで、知らんけど?」やからね!? あくまでもエンターテインメントとして、話半分に、愉しむだけに留めておいてくださいね!?
そしてお前は、岸〇田の人にシバかれろ。

 

2026.04.14 一部変更・加筆

2029.04.17 一部変更

これまでのあらすじ

 

(1)『ふたりのウルトラマン』に想ったこと

『ふたりのウルトラマン』を観て想ったのは、ふたつのことでした。
ひとつは、映画『シン・ウルトラマン』公開に沸いていた当時、「ウルトラマン」で釣って、「沖縄海洋博」の挫折という鬱展開に引きずり込むかと。まるで(小説)『幻魔大戦』だなと、平井和正ファンであるワタシはそのような連想をしたのでした。
ふたつ目は、クリエーターは「変わる」ということ。(人として)時代・年齢とともに変わり、(クリエーターとして)成功によっても変わる。成功によって立場が変われば、それまでできなかったことができるようになる。が、それが既存のファンの望みに適うとは限りません。むしろそうでないことは、往々にしてあります。

 

ふたりのウルトラマン
初回放送 2022年4月28日/NHK総合(72分版)、2022年5月2日/NHKBSプレミアム(90分版)

脚本家・金城哲夫の栄光と挫折を上原正三の視点で描く。上京した上原は、同郷の金城がいる円谷プロに身を寄せる。文学志向で特撮には乗り気ではなかった上原だったが、渋々引き受けたデビュー作が尊敬する円谷英二に賞讃され、次第に特撮にのめり込んでいく。一方、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などで成功を収めた金城は、長年組んで仕事をした円谷一が監督からプロデューサーに転身することを機に、沖縄に帰郷。もともとの夢であった、沖縄をテーマにした作品に取り組み始めるのだが……。その後も次々と特撮作品でヒットを飛ばす上原とは、対照的な人生を歩むことになる。

 

(2)クリエーターの変化後に問われるファンの人となり

優れた作品を創るから(=評価)、そのクリエーターを好きになる(=感情)。当然の帰結です。
ですが、その「評価」と「感情」の一致、云い換えるならクリエーターの「志向」とファンの「嗜好」との幸福な一致は、得てして長続きしないものです。
まず、クリエーターが変わる、ということがあります。クリエーターが自身の創作活動の方向性を転換する。前述の金城哲夫がこのケースですね。
その作品が大好きで、だからその作者のことが大好きだったのに、近頃はその作品を創ってくれない。

――ガウディとかアカデミックなアートなんて興味ないねん、「スラムダンク」の続き描いてや、井上先生?

そういうことって、よくありますよね。

逆もある。クリエーターが変わらなければ変わらないで、こちらが飽きてしまったりもする。ことさら三行半を声高に発することもなく、静かに「卒業」していきます。――こちらの具体名は出しません。

それはどこか、恋愛感情に似てはいないでしょうか。昔のようなアツアツの感情もいまは落ち着いて、伴侶のダメなところも受け容れて(諦めて)、穏やかな夫婦関係を築くひと。対極に、常にときめく恋と破局を繰り返すひと。
そんな「ファン」の生態をタイプ別に列挙してみました。


A.「ファン」~永遠の家族的味方
「評価」と「感情」が、一致し続けているひとは幸せです。ファンの鑑です。たとえその「評価」が「感情」に寄せたものだとしても。ファンとは、そういうもの。それがファンです。どうかいついつまでも、その愛情でクリエーターを応援し、支えてあげてください。

B.「オトナ」~冷静だけど温かい紳士
冷静な評価を下しつつも、無粋なことは口にせず、なおかつクリエーターとその作品を好きであり続けられるひと。立派です。大人です。見習いたいものだと思います。

C.「消費者」~クールな恋の旅人
評価の低下とともに、感情も醒めてしまうひと。平井和正は『死霊狩り』までだったね、とか云ってるひと。好きな作品追いかけて、花から花へ。こういうひとも幸せです。どうかこれからも、まっとうな人生を送ってください。

D.「アンチ」~始末に負えない粘着気質
最後に困ったもんだというか、反省しきりというか(笑)。好きだという気持ち、愛のポテンシャルそのままに、容赦ない酷評、憎悪の言葉を撒き散らす、ついでに自分の不幸まで撒き散らす。ワタシが云うのもアレですが、シバくか逃げるかしてください。勝てる相手ならシバきましょう。勝てない相手なら逃げましょう。実生活でリアルにストーカーとかならないようにね?

 

ファンタイプのチャート

 

これらの4タイプは、チャート化することでよりわかりやすくなります。
図のように敵・味方の軸、ホット・クールの軸で分ける。
ホットな味方がAの「ファン」、クールな味方がBの「オトナ」、クールな敵がCの「消費者」、そしてホットな敵がDの「アンチ」となるわけです。

AとDは対極であり敵対関係にありますが、得てしてAからDへ転んでしまいがちなのも、こう捉えるとわかりやすい。熱が冷める(醒める)→横軸の変化には、熱い鉄板のように時間がかかります。ですが、味方が敵に変わる→縦軸の落下は一瞬です。彼が発したたった一言で、「見損なった」「そんな人だとは思わなかった」――そのようにコロッとひっくり返るのはよくあることです。そうなればなにしろ元が熱いエネルギッシュな奴ですから、敵に回ると面倒な存在です。


(3)「変数」は自分だけ

カレがしょっちゅう浮気をするので困っています。どうしたらいいですか? いわゆる「人生相談」などで、ありがちな質問です。
カノジョが求めているのはおそらく、「どうしたらカレが浮気をしなくなるか」という解決策でしょう。ですが、それは無理な相談というものです。カレはどうにもならない。カレの浮気性は矯正不可能。カノジョにできるのは、そんなカレとはとっとと別れるか、そんなカレとそれでもお付き合いを続けるか、その選択しかありません。
カレを含む自分以外の全ての他人は「定数」であって、そこは自分の意思ではコントロールできません、変えられません。「変数」は自分にしかなく、そこをどう変えるのが自分にとり最も望ましいのか。それを考え行動するしか、あらゆる「悩み」「問題」を解決する道はないのです。
カレに浮気をやめさせようと努力し、リソースを費やすのは徒労であり、不幸の元です。

この原則は、もちろんファンとクリエーターの間にも成立します。それどころか彼氏彼女のような対等の立場ですらなく、その関係性はよりシビアです。
クリエーターが望ましくない変化をしてしまった。だからといって、昔の望ましい姿を取り戻すべく、クリエーター当人にアプローチするのは、時間の無駄です。無駄であるばかりでなく、最大級の「悪手」でもあります。あなたは大好きなクリエーター当人から嫌われ、疎まれるでしょう。さらに不思議なことに、同じ想いでいるであろうファン同志からも、思ったほどの支持・共感は得られない可能性が高い。あなたの行動は「痛い」――「幼稚」かつ「無分別」だからです(苦笑)。

私はこんなにも先生に身も心も時間もお金も捧げてきた。だから、先生は私の言葉に耳を傾けるべきだ! ――気持ちはわかりますが、それ、ストーカーの発想です。
あなたにとってそのクリエーターがどれほど大きな存在でも、そのクリエーターにとってあなたはただの他人、ワンオブゼムです。あなたはスポンサーでも、パトロンでもない。費やした金銭があなたの家計にどれほど重いウェートを占めていようと、クリエーターの売上からすれば微々たるものでしかありません。
彼氏彼女の関係であれば、まだしも「これ以上浮気を続けるなら、あなたと別れるわよ」といった交渉の余地もありますが、ファンがクリエーターに対し「これ以上しょうもない作品創り続けるなら、ファンをやめるぞ」などと云ったところで、オドシにもなりません。「さっさとやめてくれ」と相手をしてくれるならまだマシで、無視されるのが関の山でしょう。しっかり悪い意味で認知され、嫌われた上で。

一介のファンが、クリエーター当人に働きかけるなど無駄なこと。ファンにできるのは、クリエーターの仕事を支持するか・しないか、受け容れるのか・拒否するか、その選択しかないのです。

(4)「苦言」と「アンチ」と「小姑根性」

心からの、忠節からの批判――苦言、諫言などと云われます。そういったことも、確かにあるのでしょう。ですが、それが真実真心から発したものであったとしても、あなたがそのクリエーターにとり赤の他人――一介のファンに過ぎないのなら、それはやめておくことをお勧めします。繰り返しますが、それは時間の無駄です。あなたの出る幕ではないのです。

言葉がもつ説得力は、単に文字列だけで成立するものではないからです。それには「顔」や「人格」が不可欠です。匿名・無記名が軽んじられるのはそのためですし、日頃評判の良くない人がたまに正論を云っても「お前が云うな」「お前にそれを語る資格はない」などと認めてもらえないのはそのためです。言葉とは、それを口にする者の人格や実績、聞く側との関係性とがセットになって初めて効力を発揮するものだからです。なぜか? 口先だけなら、どんな立派なことでも云えるからです。よって社会的、ないし聞く側に対する積み上げがなく、信用のない人物の言葉には、説得力がないのです。

「私の批判から逃げるな! だからお前は成長しないんだ!」
何処の誰かもわからない、どういう人かもわからない。どんな見識をもち、実績があるのか、それらも一切不明。どんな動機や目的・底意があるか知れたものではない匿名希望さんから、そんなことを云われてもね……。親切ごかしの自己申告さえ疑わしい。心配を装う「小姑根性」でないどうしてわかる?
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。

「腐される側」の身になれば想像はつくはずです。真心からの「苦言」も、「アンチ」の罵倒もいっしょくた、四方八方から一斉に襲いかかる十字砲火。グサグサと胸を突き刺すセンテンスの渦の中から、心ある「苦言」だけを選り分け、真剣に耳を傾ける。……そんなことができるのは、よほど強いメンタルをもった、人格者だけでしょう。ワタシには無理です。
ですから見も知らぬ他人、一介のファンでしかないあなたの言葉が、それがたとえ真心から発したものであったとしても、クリエーター当人にまともに耳を傾けてもらえるかと云えば、望み薄だと云わざるを得ないのです。

そんな役割は、彼が信頼を置く身近な人物や、仕事の関係者にまかせておきましょう。
馴れ合いの仲良しこよしの関係者が、シビアなことなんて云うはずないじゃないか!? お前にだって、そんなことを云ってくれる友達なんていやしないだろ!?
そうかもしれません。だとしたら、それも含めてそれがその人の器量であり、限界なのではないでしょうか。

(5)「アンチ」に転んだワタシの過ち

ここまでは忠義心からの、あるいは自分ではそう思い込んでいる自己欺瞞も含めた、「善意」の批判について述べてきました。しかしながら、世の「アンチ」的発言の多くは、「悪意」に基づくものです。愉快犯として、あるいは憎悪によってそれはなされます。これを考えないことには、この問題については話になりません。

ワタシはかつて信者的崇拝者として、作家・平井和正をカリスマとして仰ぎながら、彼のある「失言」をきっかけに、激しい落胆・失意の熱弁を振るったことがあります。それはまさに先程の(2)で述べた、縦軸の落下そのものでした。
それは何も忠義のファンを気取って、諫言申し上げたつもりなど、まったくありませんでした。若い憤懣の迸るまま、怒りを込めて決別状を叩きつけたのです。そのことについていまは後悔も反省もしていますが、当時は少なくとも「あなたのために云っている」だの「好きだからこそ、厳しいことを云わせてもらいます」だの、そんな殊勝な気持ちは毛頭、さらさら持ち合わせてはいませんでした。
その具体的実例を、恥を忍んでお見せいたします。

 

三下り半の辞

いまのワタシに云わせれば、なんだそのヘナチョコパンチは? ひとを罵倒する、コキ下ろすってなぁこうすんだよ、って見本みせたろか?――と思います。最後の(笑)が決定的にダメですね。そんな余裕をコイてるっぽく見せたところで、そうでないことぐらい誰が見たってバレバレ、見え見えなんだよ。
くだらないテレ笑いなんてしてんじゃない。真剣に怒るときは怒り切れ、怒り通せ。なにが恥ずかしいって、拙いのは若かったんだからしょうがないとしても、こういう姿勢としてのダサさは、自分のことながら堪らなく恥ずかしい。まあ、それはともかくとして。


こうした手合いが、時間をかけて己れの幼稚さ、無分別さを恥じ、心を入れ替えることはあるかもしれません。その可能性はないとは云えませんが、しかし、それには時間がかかります。
勝手に理想を押しつけ、勝手に失望して、勝手に怒り狂っている――ただいま現在、絶賛逆恨み中のこうした手合いに、つけるクスリはありません。これもまた「定数」であって、相手側に説得を試みるのは徒労です。いかにしてその被害から免れるか、自分側がその防御策を講じるしかありません。それについての愚見は、《腐される側の巻》で述べたいと思います。

(6)ネット芸者の情熱

賞讃であれ、酷評であれ、ネット芸者たるファンライターにとり、それは自身の作品なのです。
「感動」がそうであるように、「怒り」もまた、作品の素材なのです。怒りを表明し訴えることは、一義的な目的であり手段ではありますが、それ以上に「怒り」という激しい感情――その絶好の素材で作品づくりをするモチベーションが抑えられないのです。したがって、その情熱を止めることはできません。
パチンコでお金は稼げないよ? たまに儲かることはあっても、トータルでは損失のほうが大きいよ? そんなド正論を告げられても、パチンコが好きで好きでしょうがない人間は決してパチンコをやめられない。クリエーターへの働きかけなど実は二の次、自分の意思など通りはしないことは承知の上、それでも自分はそれを云いたい、云わずにはおれない、その衝動こそが第一なのです。


ここのところは、無から有を生むプロの創作者には、素人ネットライターの情熱に、いまいちピンと来ないのかもしれません。
オリジナル――無から有を生むクリエーターからすれば、ひとの作品をああだこうだ云う、有から有を作ることしかできない批評屋は、ただ疎ましいだけの存在なのかもしれません。不愉快な否定的言辞を弄する輩に対し、「偉そうなことを云うなら、お前が作ってみろ」なんて云いたくなる――発言自体に感心はしませんが――そんな気持ちもわからないではありません。
ですが、素人ネットライターのハシクレとして云わせていただければ、そういう人間にもそういう人間なりの、表現への情熱はあるのです。

前述の(3)(4)では、「善意」の批判について述べました。そこで、クリエーターへの働きかけは無駄であると申し上げました。ですが「善意」であれ「悪意」であれ、「そうしたい」という衝動は止められません。外に吐き出すのを堪えることはできても、内から湧き上がる衝動そのものを湧き上がらないようにはできないということです。自分の「感情」が鎮まらない限り。
このテキストにしても、「そんなことしても無駄ですよ」と説いたからといって、その対象となる人達を説得できるか、彼らが「ならやめます」と賛同してくれるかと云えば、それはまずないとワタシ自身承知しています。ワタシも無駄なことをしています。ワタシはただ、これを云いたかったのです。その表現への欲求と衝動に逆らえず。

チョコレートを作ります。材料はまず板チョコを……(すでにチョコレートやんけ! カカオから作れや!)……すみません、そこまで本格派のチョコレート職人ではありません。市販のチョコを使って、二次チョコレートを作ることしかできないんです……。でも、それが好きなんです。

(7)平井和正と高橋留美子の危うい関係

ただし、心しておかねばならないことがあります。
ひとたび否定的言辞を公言するなら、クリエーター当人ならびに他のファンとの良好な関係は、壊れてしまうかもしれないということです。

ひとつの例をあげます。平井和正と高橋留美子の関係です。
平井和正はふとしたきっかけで『めぞん一刻』にハマり、評論まで書いてしまいました。一方、高橋留美子はデビュー以前から『ウルフガイ』の大ファンであり、互いにリスペクトし合う作家同士として、対談を重ねるだけでなく、平井和正の小説のカバー・挿し絵を高橋留美子が飾るなど、両者は良好な関係にありました。

高橋留美子の優しい世界 語り尽くせ熱愛時代 女神變生

(左)評論/『「めぞん一刻」考』(『高橋留美子の優しい世界』(徳間出版・1986年刊)収載)
(中)対談集/『語り尽くせ熱愛時代』(徳間出版・1984年刊)
(右)小説/『女神變生』(徳間出版・1988年刊)

 
ところがその両者の交流が、いつしかバッタリと絶えて見られなくなりました。
そのことについて公表された情報をワタシは知りません。ですが、思い当たるところはあります。平井和正がエッセイ集に批判的論評を載せたことです。収録の書き下ろし「人魚の森の謎」、あれがマズかったのでは? そのことで高橋留美子せんせいのご勘気をこうむってしまったのでは? そのように憶測することは容易です。
本を出版して発表すれば、それはパブリックな発言です。それが当人の耳に入らないはずはありません。ご注進におよぶ忠義のファンは、必ずいるものだからです。
 
夜にかかる虹(◆下)
※『夜にかかる虹(下)』(リム出版・1990年刊)
 
「公言」に「ナイショ話(陰口)」なし

前述のワタシの発言も、自分のサイトに書いたもので、早い話が独り言です。お膝元である当時の公式掲示板やSNS(それはやっていませんでしたが)で、当人に向けてダイレクトにぶつけたものではありません。当人が読むはずもないプライベートページの内容を当人に知られるところとなったのは、やはりご注進があったようです。
ワタシは少なくとも傷つけるつもりは無かった。キミは知らぬが仏の情報をわざわざ伝え、大好きな平井せんせいを傷つけて平気なのか? そこに愛はあるのか? 情報伝達罪だ。――なんて云い訳は通りません。ネットでオープンな発信をする以上、それは「公言」であって、当人も含め人々に広く知れ渡ることか有り得るのは大前提です。

情報伝達罪――平井和正『星新一の内的宇宙(インナー・スペース)』(「悪徳学園」収載)の登場人物である星新一が口にした名言。

以下に述べるのは、あくまでもワタシの憶測です。
いかに神様のようなウルフガイの作者といえど、愛児に等しい自分の作品を批評されては、自らも創作者である高橋せんせいには聞き捨てならなかったのではないでしょうか。そうなると、それまで決して口にはしなかった自分の読者としての不満も、頭をもたげてこようというものです。
だったら云わせてもらうけど、あの犬神明が出てこないウルフガイの新作はなに?
以上、ワタシの下種の勘繰りを述べました。この物語はフィクションであり、登場人物のセリフは筆者の妄想です。

平井和正は表現者としての欲求に抗し切れず、高橋留美子作品の批評を「公表」しました。ですがその結果には、臍を噛んでおられたのではないでしょうか。嫌われても構わない。それでもこれを云わねばならぬ。――そんな決意と覚悟があったようには思われません。「エッセイ集」を出すにあたって、単行本未収録の原稿その他を洗いざらい渡し、細かいことまで深く考えていなかった――そんなところではないかと思います。
「親しい作家を批判する愚」を、この一件で平井和正は骨身に沁みて思い知ったのではないでしょうか。

ですが、この本が出た当時の若き日のワタシは、平井和正信者として、まったく異なる感想を抱いていました。
さすがは平井和正、すげーぜ。あんなに大好きだった高橋留美子の作品を、かくも冷徹に批評してみせるとは!!! ワタシもかくありたい。こんな愛情と冷徹さを兼ね備えた、こんな読者でありたい、なりたい!!!
ワタシは平井和正の決して尊敬すべきでない部分を尊敬し、見習うべきない部分を見習ってしまったのでした。そしてのちに、見事にやらかしてしまうことになるのです……。

(8)「批評家」の道、「ファン」の道

大人のファンの精神は、アラベスクの紋様の如しです。
一方で愛情を、もう一方で憎しみを――そこまでいかなくとも軽い苛立ちや腹立ちを覚えることはままあるでしょう。いい歳をしたファンが、クリエーターに対してそうした矛盾も孕んだ複雑な精神的陰影を抱えているのは、当たり前の話です。中学生でもあるまいし、彼の精神・脳内がシンプルな「好き」だけで埋め尽くされているはずはないのです。

それでも多くのファンは、そうした「負」の感情や意見を表立って表明することはしません。
それが大人の「気遣い」であり「分別」だからです。
若い頃のワタシには、そこのところがまったくわかっていませんでした。

あんたはファンとして、平井和正のあの情けない発言をどう思ってるんだ? まさか積極的に支持しているわけじゃないよな? だったらなぜ云わない? なぜ黙ってる?
おれは云うよ。云えるよ。そいつを云ってみせるのが、おれがあの人から学んだ、平井和正魂ってやつだ。

ア痛タタタタタタ……。自分で書いてて寒イボ(関西弁で云う「鳥肌」)出るわ。これをお読みの読者の中に、タイムリープ能力者の方はいらっしゃいませんか? ワタシを2003年に送ってください。コイツに小一時間説教カマしたります。
平井和正せんせいも草葉の陰で、
「そんなことを教えた覚えはない」
「勝手に学んだ気になるな」
「そしてこちらに押しけるな」
そう仰っているに違いありません。
 
(私の小説を熱心に読みふけったあげく、ある種の使命感の虜になり、伝道の道へ踏み出す人々が存在する。面倒くさがりの私にはよく理解できないが、熱烈な使命感の推力によって、他人の誤った考えを変えてやらねばならぬ、と努力を繰り返す伝道者タイプの方々が、確かに実在するのである。私はこうした人々を嘲笑もしないが励ますこともしない。願わくば、ごの種の強力な動機に駆動される伝道者の皆さんが、私を見逃してくれるようにと密かに祈るのみである。)
――『夜にかかる虹(下)』収載「ある真面目すぎる読者への手紙」より
この「真面目すぎる読者」とワタシとは、表面的には対極だと思います。しかし、根本の部分では――変にクソ真面目なところなんかは、わりと似た者同士なのかもしれません。

他人の気遣い、分別を「臆病」「保身」と曲解し、自らの無神経、無分別さを「反骨」「率直」だと勘違いしている。その勘違いぶりも幼稚なら、それを誇示したがるところがさらに幼稚。それを「イケてる」「カッコイイ」って思ってやがったんですよ、ワタシってやつは。公衆の面前である店内で店員を怒鳴っている客と変わらない。彼もおそらく自分ではそう思っているのでしょう。それは酷く「みっともない」行為なのですが……。

華大、鈴木奈穂子アナが「今期の朝ドラ、イマイチだな」と仮に思ったとして、それを「あさイチ」の朝ドラ受けトークで口にできますか? あさイチの「今期の朝ドラ、イマイチトーク」……。できるわけがないし、またしてもいけません。それが「立場」というものです。
視聴者がこの人達の本音を知りたいと思うなら、言葉の端々や表情などから、それを読み取り、推察するしかないのです。

「ファン」には「ファン」の「立場」があります。好きなクリエーターを応援する者としての立場、同好の士であるファン仲間への気持ちを慮る立場が。
それを「馴れ合い」と云うなら、確かに否定はできません。けれども、彼らをバカみたいに肯定的な気持ちしか持ち合わせていないと思うとしたら、あまりにも想像力を欠いています。大の大人が、純粋に「好き」という気持ちだけでいられるはずはない。思っても云わないだけ、黙っているだけです。

完璧な人間はいない。こころ乱れたとき、醜態を演じてしまうことはある。24時間365日、フル操業で自己を律してはいられない。ときに無様な、カッコ悪い部分を晒してしまうこともある。そして、それを責める資格のある、完璧な人間もまたいないでしょう。
信者的にアクロバティックな理屈をこねくり回してまで、なにもかも肯定することはない。翻って、そんな彼にちょっとダメな部分、ダサい部分が見つかったからといって、この世の終わりみたいに嘆くこともない。
あらあらせんせい、どうしちゃったの? さすがにそれは失言ですよ?――ぐらいに思っておけばいい。ハイここ重要、試験に出るよ。そんなことは心の中で、こっそり思っておけばいい。せいぜいオフ会でしゃべるぐらいでいい。ネットでヒステリックに騒ぎ立てるのは、わたくしはこの通り器の小さな人間でございますと大声で宣伝するようなものです。
滅多に見れない、人間臭い部分を見せてもらえた――。そんな、落語の高座で居眠りをする老師匠に野次など飛ばさず、黙って見守り続ける寄席の客のような、粋な余裕をワタシも身につけたいものだと思います。

――否。そんなぬるま湯みたいな、馴れ合いは御免だ。
私はシビアに批評をする。讃えるべきは讃えるが、腐すべきはハッキリ腐す。結果、誰にどう思われようと構わない。
それも、結構。あなたが歩むべきは、「ファン」のそれとは違う、「批評家」の道です。
あなたはクリエーターから憎まれ、他のファンからも疎まれるでしょう。情と思いやりの世間からハブられるのは、批評家の宿命です。それでも批評としての質が評価されれば、あなたにはあなたのファンがつくでしょう。

――だけど、別に嫌いってわけじゃないんだ、憎くて云ってるわけじゃない。気持ちとして、あの人のことは本当に「好き」なんだよ。それをわかってくれよ?
わかりますとも。よくわかります。というか、そんなのは「当たり前」の話であって。「愛情」と「批判精神」の両方を持ち合わせているなんていうのは。それは「ファンあるある」とさえ云ってよく、自分だけ特別だと思っているとしたら、思い上がりが過ぎるというものです。
後者の「批判精神」を(少なくともパブリックな場所で)口に出さずにいられるか、黙って腹の内に収めていられるか? そこに、あなたの人間としての「器」が問われるのです。真実「愛情」があったとしても、それは免罪符にはなりません。ましてや「正しいことを云ってるんだから、受け容れるべきだ」なんていうのは甘ったれの戯言です。それを赦すか赦さないか、決めるのは相手であって、あなたではありません。
嫌われて悔いなし――であるなら何も云うことはありません。しかし、クリエーターも含め、嫌われたくない相手がいるのなら、口にしてはならない言葉、堪えなければならない振る舞いはあるということです。
クリエーターならびにファン仲間からの好感度か、表現者としての己れのエゴか。それはいずれかを選ばなければならず、両方を獲ることはできません。

だからこそ、クリエーターに対する自分の「負」の部分、「黒い」部分を「匿名」で、別名義・別人格を設けて発信し、その両獲りをしようとする人は後を絶たないのでしょう。
ですが、表現としてのそのやり方は、まったくお勧めできません。というより、おやめになることを強くお勧めします。その理由は前節で申し上げましたので、ここでは繰り返しません。

以上、「腐す側」に関して、云うべきことは云い尽くしたと思います。
ワタシは教条主義的なお説教は嫌いです。批判をするにも品位がどう、節度がどう、そんなことは云いたくありません。許される批判とそうでない批判に線引きをして、前者を奨励したり、云わんや自分がしているのは「正しい」「許される批判」であって、責められる筋合いではないなどというのは噴飯ものです。
たとえ正当な批判であれ、人を傷つけている事実に変わりはありません。それをする者はいくばくかの「罪」を背負い、いくばくかの人を傷つけ憎悪される、そのことを覚悟の上でそれをするほかはないのだと思います。
ワタシは自ら「腐す側」でもあった経験をもとに、ネットの「定数」としての「腐す側」の現実、それを云わずにはいられない者の事情を述べました。またそんな当事者に対し、クリエーター当人に及ぼす効果の程は乏しく、ほとんど無駄であり、なおかつ友達も失くすよという、説得はできないまでも忠告を残したつもりです。そんな人間の身の施し方、採り得る選択についても。
 
続く最終節は立場を真逆にチェンジして、《腐される側の巻》です。こういった輩のもたらす不愉快から、いかにしてわが身を守ればいいのか、愚見を述べたいと思います。
 
まえがき 本稿再掲載と「おユキさん」のこと

こちらも再掲載することにしました。「シン・“ガチャ文”考」三部作は、ここから生まれました。
書いた本人が云うのは憚りですが、おもろい。四年近くも経つと自分でも内容を忘れてて、どう展開していくのかワクワクしながら読んでしまいました。
当時名前がなかった「非実在レディさん」は、いまでは「おユキさん」と呼んでいます。平井和正ファンには由来は云うまでもありませんが、まもなく終わる朝ドラ『ばけばけ』の影響も加味されていると思います。


アンドロイドお雪

おユキさんのような方がもし現実にいてくれたら、彼女と組んで動画配信をやってますね(笑)。平井和正とか、アイドルのこととか、いろいろおしゃべりしてみたい。
自分で書いててこんなことを云うのも頭おかしいですが、彼女のツッコミのキレは素晴らしい。
「岡星良三か!?」には、声に出して笑ってしまいました。
おユキさんは「シン・“ガチャ文”考」最終章にも登場する予定です。乞うご期待。

 

……今日は『“ガチャ文”考』について、考察するっちゃ。(棒読み)

唐突なことを云っているのは、“ラム変化”をやっている非実在レディさんです。今回も登場していただきました。でも、もうちょっとやる気を出してください。

 

 

久しぶりに呼び出して、なにさすねん!? パワハラやわ。セクハラやわ。テレビ局が女子アナにやらせたら、BPO案件やわ。

別にトラ柄ビキニを着てくれとは云ってませんよ。まあせっかくですから、読者の皆さんにはそのビジュアルを想像していただきましょう。

朝ドラ日記はどないしてん? 沖縄アイドル好きのナノマシンが身体中の血管駆け巡ってんのとちゃうのん?

 

 

『ちむどんどん』ですか? あのドラマはそろそろ、黒島ちゃんに時間跳躍してもらいたいですね。沖縄返還前からいろいろやり直したほうがいいですよ、あの一家は。

だいたい、なんでいまさら『“ガチャ文”考』? 脈絡ないわー。いま話題にすんなら『8マンVS009』でしょ。

ついに「対決」から「共闘」のステージに入りましたね。いよいよ最終局面、ホームストレートを走り出した感があります。単行本は一冊に収まってしまいますかね? ちょっと寂しい気もしますが。いまはネタバレは控えますが、敵をあざむく作戦がマニアック過ぎる(笑)。さすがは七月せんせい。単行本待ちの方はどうぞお愉しみに。

あれ、じぶんも老眼で苦労してるやんな。wifiのパスワードとか。

きっかけは、「シン・ウルトラマン」でした。
「シン・ウルトラマン」は主人公像を宇宙人の力を得た地球人ではなく、地球人に擬態する宇宙人としたところが面白いと思いました。主人公=斎藤工のそのぎこちなさが、完璧な擬態で日本の諺すら熟知するメフィラス=山本耕史との対比になっています。

メフィラス星人な。フジ隊員が巨大化するやつ。

今作では禍特対の浅見分析官=長澤まさみが巨大化します。その画像が、ネットに拡散されてしまうあたりが今風です。メフィラスは彼女に詫び、進んだ科学力で、あっという間にそれらを消去してくれます。

そんな親切、出店する田舎の娘に割引券渡して「シャブ漬け」にする、どっかの牛丼チェーンの偉いさんみたいなもんやん。

せめて「ジャンクフード舌」と云いなさい。それがわかっていても、好感度爆上がりです。ワタシも消してほしいわぁ。ネットに撒き散らした、デジタルタトゥーを。メフィラス星人が、欲しい~♪ そう口ずさみたくなってしまいます。現代のネット社会に。

ガラにもなくワルぶってたもんなぁ、後悔してんねや?

もともとは争い事なんて苦手、弱虫の意気地なしなのです。そんな弱虫の意気地なしのくせして、しかしだからこそ「不良」に憧れた。憧れのままにワタシは「不良」を演じ、本物の「不良」になろうとしました。もちろん、なれはしませんでした。それでも現実に、大勢のひとを傷つけ、嫌われ、敵をつくりました。悔やんでも、悔やみきれません。
根っからの不良、三度のメシよりケンカ好き。そんな「本物」はそれ以外の生き方はできないし、仕方ありません。しかし、ワタシのように憧れによって本来不向きな自分を演じ、わざわざ身の回りの環境破壊をしているとしたら、愚の骨頂です。誰かが云っていましたが、「なりたい自分となれる自分は違う」のです。

ネットは装えるもんな。ブランドもんのバッグレンタルして、インスタ上げてるネーチャンみたいに。

あの経験があるから、いまの自分がある。だから、あなたも同じ経験をしてみなさい。――冗談でも、そんな口は利けません。後悔しかありません。
そうした言動を発した電子掲示板などウェブページの多くは、すでにありません。それでも、個人のパソコンのローカルディスクを始め、残っているところには残っていますし、なにより人々の記憶、やらかした過去そのものは消せません。まさにタトゥーです。プラスになったことなど、なにひとつありません。ワタシと同じ道を辿ろうとしている人がいたら「引き返せ」と、心からそう忠告したいですね。
そんな自省を込めて、「シン・“ガチャ文”考」にトライしたい。そう思うようになりました。

ハーイ、「書く書くサギ」いただきましたー。みなさーん、騙されないでくださーい。

そのためにまず『“ガチャ文”考』について注釈しておく必要を感じました。それを書いていたら、それだけで堂々たる一本の読書日記ができあがったというわけです。

『ウルフの神話』(徳間書店・1986年刊)という平井和正の著書があります。幻魔大戦読書研究会(以下、GENKEN)や新ウルフ会(以下、ウルフ会)の機関誌に寄せた文章を中心にまとめられたエッセイ集です。そのエッセイのひとつが『“ガチャ文”考』です。少し長くなりますが、その一節をご紹介してみましょう。

 

私が最初に“ガチャ文”や“生ゴミ”について考え始めたのは、“某GENKEN”という幻魔大戦ファンクラブの会誌の頽廃と堕落によって触発されたことによります。
“某太陽の戦士”と称するこの会誌は足掛け三年に渡って出されているんですが、ある時期から、私が“駄文の垂れ流し現象”と名付けた不快な“ガチャ文”がどんどん増加してきました。
 文筆家なら熟知していることですが、時折文章が自己増殖現象を見せるケースがあります。筆者の考えを逸脱して、勝手に文章自体が増殖してしまうのです。筆者が文章を書くためのテーマや意図を的確にコントロールしている場合はいいのですが、筆者自体がアマチュアだと、てきめんに自己増殖する文章に振り回される羽目になります。文章の文章による文章のための文章、といった支離減裂なセルフ・コントロール喪失の醜態を曝してしまうことになるのです。それは言葉の下痢症状、といった代物で、とめどもなく無意味な駄文を汚水のように垂れ流すようになります。これがまさしく“ガチャ文"の典型と言えます。
 奇妙なことに、“ガチャ文"は“ガチャ文”を呼ぶのです。“ガチャ文”は筆者の抑制を脱した慎みのない代物ですから、ある意味で刺激的です。反吐を吐く酔漢のように、他人の悪口を平気で書くようになり、エスカレートして押さえが効かなくなります。確かに書くべきでないことを書けば、文章は刺激的になります。抑制を外して行けば、禁忌破りという強い刺激的な要素に辿り着きます。それは酔漢が反吐を吐きながら、呂律の回らぬ口で汚穢な言葉を撤き散らすのと少しも変わりません。訳の分からぬ幼児が、汚らしい性的な卑語を喚き立てて、大人たちの反応を確かめ、喜ぶのと大同小異です。
 かくして“ガチャ文”は伝染し、流行し、会誌の紙面を黄色く染める汚物のように増殖して行きました。すなわちこれが“生ゴミ”化現象というものです。



――『“ガチャ文”考』(『ウルフの神話』収載)より


せんせの悪いクセやわぁ、読者ディスるのは。

三十年以上前、いまのワタシより歳下の平井和正が書いた文章です。せんせいも若かったのだと思いますよ。この頃は。
人間関係にトラブルは付き物ですが、まして相手は業界関係者ですらない素人の読者。トラブルは必至です。同業者や出版関係者より、読者との絆を欲した。読者に自ら近寄り、読者と親密になり、結果、読者に失望する。何度、同じことを繰り返してきたことか。
古くは(元祖)ウルフ会で、GENKENで、そして復活したウルフ会で。いずれも三下り半を突きつけることになりました。それでも懲りず、インターネット時代が到来すると、自身の公式サイト「ウルフガイ・ドットコム」に掲示板を開いたのです。終生、作家としての炎が燃え尽きるまで、読者との交流をやめることはありませんでした。……「孤高の寂しがり屋」とワタシは呼んでますけどね。
考えてみてください、凄いことだと思いませんか? AKB48より遥かに先駆けて「言葉を交わせる作家」だったのですよ、平井和正というひとは!

ネットもない、パソコン・ワープロもない時代に、手書きで手紙書いて郵送で文通してたんやろ? 熱いわ、熱過ぎるわ。平井せんせも、この時代の読者も。ビキニの半裸でも熱いわァ。

ホンマにその恰好してたんかい!
話は一旦脇道に逸れますが、こんな故事もあります。この「あとがき」はよく知られているでしょう。

 

 高価なハードカバーを出すことは、作者の見栄である。己れの豪華な書架に並べて自己満足に耽る楽しみもよいが、一般読者には迷惑だ。まず文庫で刊行してはどうですか。それだけの値打があったら、必ずハードカバーも買ってあげる。読者はそう思うのではなかろうか。素晴らしい内容の本なら、読者は読み捨てになどしない……読者の一人として私はそう考える。
 本は文庫がいい。バッグに詰めこんで海外にも気軽に持って行ける。どこへも連れ歩ける。場所を気にせず開いて読める。覗き視するぶしつけな奴もいない。文庫本は気のおけない親しい友達に似ている。
 私は文庫本がもっとも似合う作家になりたい。ボロボロになるまで繰り返し読んでもらい、更にもう一冊買って頂きたい。豪華本では手垢がつくのを恐れてろくに読んでもらえないし、第一私には似合わない。
――角川文庫『人狼戦線』収載「第二のあとがき」より


こんなことを云って、実際(小説)『幻魔大戦』は文庫本で出版していました。その一方で、『真幻魔大戦』は新刊本が新書版で出版されていました。するとそのことに怒る読者があらわれる。三百円も出せばたくさんだと云われてしまうのです。
※『ウルフ対談』(徳間書店・1985年刊)難波弘之との対談より。
ショックを受けた平井和正は、新刊本をハードカバーで出すようになりました。そしてより一層、文句を云われてしまうのです(笑)。ほかの作家はふつうにやってることなんですけどね。そしてほかの作家は、こんなことで文句を云われたりしません。
読者を想ってしたことが、かえって仇で返される。かえって嫌われてしまう。この要領の悪さ、この不器用さ。父親ほどの歳上で、しかもこちらも男ですが、母性本能をくすぐられますよ。世界中が彼の敵に回ったとしても、ワタシだけでも味方になってあげなければと思ってしまいます。

……完全に悪い男にダマされてるイタイ女になってるで、じぶん?

あえて前段から引用したのは理由があります。平井和正はここでちゃんとこうも云っているのです。「それだけの値打があったら、必ずハードカバーも買ってあげる。」――と。文句を云った読者は、都合良くこのセンテンスを読み飛ばしています。ハードカバーの『黄金の少女』に文句を云う前に、ハードカバーの『狼の紋章』買えよと云いたい。

買うか。そこまでマニアちゃうし。だいたい、想定してる読者像が水準高過ぎ。それって周五郎とかチャンドラーとかを愛読してる「自分」の姿やん? それを当然のように求めてもあかんわ。そんな読者は百人に一人、千人に一人。作家のグレードの問題ちゃうよ。それは周五郎でもチャンドラーでも同じ。読者なんてそんなもん。読書なんて暇つぶし。自分が創作に命懸けてるからって、読者も同じテンションで読んでくれると思ったら大間違いやわ。己れの命を削って、他人の暇つぶしに寄与する。それが作家という職業であり、宿命やんか。

……さすがはワタシが創造したキャラ。ワタシが説得されそうです。
そういうとこ、確かに「悪いクセ」なのは否定できません。でも、そんな過剰な読者への期待と、過剰な読者へのサービスって不可分じゃないでしょうか? そこはワタシにとって、作品を超えた作家=人間・平井和正の「魅力」であり「可愛い気」ですね。
読者サービスにつとめた挙げ句、読者に嫌われてりゃ世話はない。
『“ガチャ文”考』なんて、まさにその典型ですよ。原稿料が出るわけでもないのに、わざわざプロ作家が「文筆のイロハ」を指南してくださっているんですよ?
子供相手に大人げ無い、というのが世間的常識的評価なのでしょうが、ワタシは彼がこうして文字通り大人と子供ほどの年齢差を超えて真剣に、対等に、我々読者に接してくれたことを嬉しく思います。

そんな熱血高校球児みたいなやつばっかりちゃうからねー。あんたみたいなマゾ高校球児は、現役バリバリ米メジャーリーガーに大人げない160キロの豪速球喰らって、アリガトー、オータニサーン! 云うて喜んでるけどもやなぁ。ニコニコ、優しい顔向けててほしいわけやん? ごく普通のファンは。

実際、耳にした評判は悪かったですね。いい評判を聞いたことは、ほとんどありません。
悪評の理由は明解で、「文章のプロが素人の文章を酷評するとは何事か」というわけです。この点は、ワタシの意見は異なります。
これは『ウルフの神話』に収録され、そちらを読んだ読者が大多数です。しかし、もともとはウルフ会というファンクラブ――「共同体」における指導的立場から、会員へ向けたメッセージとして機関誌に寄せた文章なのです。そのことは、わかっていただきたいと思います。
ファンクラブという「共同体」、その関係性を条件に、ワタシはこの「厳しさ」を是認します。なにより、これは議論として「フェア」です。反論したければ、それはできたのですから。一般人が反論できないマスメディアである雑誌のコラム等で、著名人が一般人を名指しで攻撃する――例えば脚本家・宮藤官九郎が週刊文春の連載コラムで「カナメとかいうブロガーが、くだらないことを云っている」などと発言するのとは話が違います。

著名人が一般人を名指しで攻撃するのが、いけないこととされ、それが常識になっているのは、このように一般的にアンフェアであるからだと考えます。それが根本です。ですから、ファンクラブのような同じ土俵に立つという条件下では、話は別です。プロ作家と素人の実力差は、初めから問題ではありません。

昭和のファンクラブはかなり特殊な環境と云えたでしょう。しかし、いまやその環境は特殊でもなんでもなく、ネットというメディアは一般に普及し、著名人と一般人が直接対話するのは可能ですし、容易です。一般人もメディアを得たのです。ですが現実には、ネットで著名人が一般人を攻撃したりすると、いろいろ問題視されます。なにが問題なのか、ワタシにはわかりません。むしろ、こう思います。じゃあ著名人はボロクソに云われっぱなしか? 殴られっぱなしか? 著名人だって、同じ人間なのに。
山之内すずちゃんが「お前ごときが広瀬すずと同じ名前を名乗るな」と心無いことを云われても(>実話)、「やかましわ! 生まれたときからこの名前やねん! そん時は広瀬すずさんデビューしてへんねん! しゃーないやんか!」などと云い返したりしようものなら(>仮定)、「山之内すず、一般人に暴言」とかなりの確率でYahoo!ニュースで報道され、次の日曜の「ワイドナショー」「アッコにおまかせ!」の話題にされてしまう。一般人が武器――それもかなり強力な――を得た一方で、著名人は手足を縛られている。そんな無法がいつまでも罷り通っちゃいけないだろうと思います。
これは「常識」や「意識」がテクノロジーの進歩、社会情勢の変化に追いついていないというより、大多数を占める一般人にとっては、そのほうが都合がいいというだけでしょう。だから、いつまで経ってもそれが是正されないのだと思います。勘違いしてはいけません。ネット社会のいまや、一般人こそ「大衆=世間」を後ろ盾にする強者であり、「大衆=世間」には逆らえない著名人こそ弱者なのです。多数決は民主主義ではありません。たとえ少数でも、その人達を気の毒だと思いやる優しさがなくては、民主主義は正しく機能しません。

とまれ、それでも平井和正の云い種が「ひど過ぎる」という意見も、当然あります。しかし、それは平井和正という人物の人柄、人間性に関わる問題であって、著名人が一般人を批判する是非の問題には当たらないとワタシは考えます。

ウルフ会に入るとは、平井和正のもとに集うとは、どういうことか。少なくともそれは、「お客様」ではないと思うのです。
そこは云わば「道場」であり、平井和正との関係は「師弟」のそれであって、厳しいお言葉を賜ることだってあるわけです。平井和正を「ホスト」のように考えるのは、決定的に間違っています。

美食倶楽部で板前修業の岡星良三か、お前は!?

海原雄山に弟子入りするようなもんですよ。その覚悟がなかったとしたら甘過ぎる。
ですが「悪評」の矛先は、上に引用したGENKEN批判をしたことではありません。ウルフ会機関誌に掲載された投稿を批判したことによります。そもそも『“ガチャ文”考』は、その投稿から生まれました。『ウルフの神話』には残念ながら収録されなかったその投稿を、ここでプレイバックしてみましょう。

 

坊や いったい何を教わって来たの
――坊や、いったい何を教わって来たの?

 


――「狼火」3号より。前の投稿者の氏名を伏せました。問題の投稿には氏名の記載がありません。

悪いけど、わたしも同情はでけへんわ。どこにでもおるやん? こういう、アニメ雑誌の読者投稿欄にわざわざ「アニメばっかり観るな」とか云うてくるヤツ。

三十年以上も昔の話です。彼だって若かった。いまさら蒸し返されても困るでしょう。
当時ワタシと同じ十代だったとすれば、これたけ書けるだけでも立派なものです。ワタシなんてこの頃は、作文は大の苦手。文章なんて一行だってろくに書けず、大阪の会合に出席するだけの幽霊会員、恥ずかしながら何の貢献もできませんでした。それでもT女史の強烈な文筆にむっちゃ憧れて、いつかこんな文章を書くんだと、野望だけはメラメラ燃やしてましたね。そんな十代でした。すみません、関係ない話でした。

なんで『ウルフレター』みたいに、ペアで収録せえへんかったやろ? 『ウルフの神話』で読んだ一般読者からしたらモヤモヤするやんか。批判してる当の原文が読めへんわけやから。

『狼(ウルフ)より若き友への手紙』(『ウルフレター』は読者の氏名をイニシャル表記するなど、改変・再編集した新版)ですね。作家として極めて特異なエッセイ集であると同時に、極めて「平井和正らしい」とも云える、読者との往復書簡集です。確かに、その形が理想であったとは思います。
平井和正エッセイ集として不要と考えたのか、それとも収録の許可を得ようとしてそれがかなわなかったのか(それも当然ちゃ当然ですが)、事情はわかりません。そのアウトラインは『“ガチャ文”考』そのものからある程度つかめるとしても、そのことがあたかも欠席裁判のような印象を与え、悪評の一因になったかもしれません。

ウルフ会会員の間でも、ごっつい評判悪かったけどね(笑)。

おっしゃる通りです。ですが直接顔を合わせてなら聞くそうした評判が、機関誌に載ることはありません。そうした声は表には出ず、陰に潜みます。
『“ガチャ文”考』がウルフ会に及ぼした効果は、良くも悪くも絶大でした。悪文・駄文があふれることはなく、品の良い平穏な紙面が保たれました。けれども、それはまるで厳格な校則に縛られた「平和」な学園、萎縮し、みな大人しく従順ではあるが実は面従腹背、窮屈で活気に欠ける紙面であったようにワタシには思われました。

『黄金の少女』のことも、話題になれへんかったもんね。タブー?(笑)

当時「SFアドベンチャー」誌で連載していた――これが始まったからこそ、「ウルフ会」も復活したのですが――ウルフガイの続編でありながら犬神明が登場しないという超問題作について、文字通り本当に何ひとつ語られることがないという有り様でした。どうなってんだという文句のひとつもあっておかしくない状況だったのですが……。

大抗議が殺到してなおかしいわ。ウルフガイのファンクラブやのに? どう考えても不自然やん。
『狼のレクイエム』のあとがきに載った「殺害予告」の迸る熱いパトスはどこ行ってん!? ちょっとおとなし過ぎんでヒライスト!!!

あなたもたいがい過激ですよ。いま、それをやったら、シャレになりませんて。
でも、すごく大事なことを云ってくれました。ご指摘のあった『狼のレクイエム 第一部』収載「中央線沿線人狼戦線」。これは平井和正が通っていたであろう喫茶店のトイレの壁に書かれた、まさに文字通りの便所の落書きであるわけですが(笑)、これが著書の「あとがき」に採用された事実は示唆的です。これは笑える。愉しめる。「いつまでも待たせやがって」という腹立ちをユーモラスに表現しています。
これを変に勘違いして、上っ面だけマネをして、ただ過激な方向に突っ走ると、ネットに見られがちな、ただのいわゆる「便所の落書き」になってしまいます。この微妙にして決定的な違いというのが、本当に重要なんですけどね。ソニー・リンクスと江田四朗の違いといいますか。
でも、この種のニュアンスの話になると、「ソニー・リンクスと江田四朗がどう違うというんだ? ソニー・リンクスが健全な悪ガキで江田四朗が気持ち悪いなんていうのは、お前の好みに過ぎないじゃないか。そんな恣意的な個人的好みで運営をするのか」とか云うてくるやついるんですよ。なので本当に難しいんですけどね。だから、こういう計量的には測れない、明文化もできない、よってマニュアル化もできない、マインド、感覚に属する問題って、あまねく人々に教えて、理解してもらうって、そもそもムリなんですよ。一部編集スタッフが平井和正の「マインド」を理解して、それで投稿の採用/不採用を判定するしかない。これはまたあとで述べます。閑話休題です。話を『黄金の少女』の話題がなかったところに戻しましょう。

編集で「没」にしていたのなら、まだ救いがありますが、思うにそんな投稿さえ寄せられていなかったのではないでしょうか。GENKEN機関誌の「汚染」に辟易して、平井和正は思い切った手を打ちました。しかし、原則ボツなし自由投稿のGENKEN機関誌がそれゆえの頽廃に陥っていたとすれば、こちらはそれとは逆位相の共産主義的管理社会・井沢郁江率いるGENKEN(本家)のような息苦しさ、不健全さの弊に陥っていたように思います。

『“ガチャ文”考』はワタシのような日曜ライターにとっては、まさに教訓の宝石箱です。けれどもそれとは別に、ウルフ会に及ぼした効果という点で云えば、ワタシは「失敗」だったと思います。結果論ですが。
『“ガチャ文”考』は「密教」だと、ワタシは思うのです。つまり、大っぴらに口にしてはならない真実です。

平たく云や、「アホには読ますな」ということね。

それはレトリックを著しく欠いた云い方です。もしくは、悪意あふれるレトリックを用いた云い方です。
頭の良し悪しではなく、さっきも云った「マインド」ですよ。感性、価値観と云ってもいい。要は通じるひとには通じるけど、大部分にはそうではない。しかも、社会的にはかなりの差し障りがある。そういう類の思想です。

一読者としては、これを読ませてくれた、広く公開してくれたことには、大感謝しています。ですが矛盾していますが、わざわざ嫌われることを云うことはなかったとも思います。まるで大好き過ぎるアイドルに、水着になるのはやめてほしいと願うような、そんな相反する、自分のなかで相剋する想いがあります。

あんたらしいわ。わかり易いは、その喩え。わたしのセクシートラ柄ビキニもやめてほしい?

それは勝手にしてください。

誰かコイツの意識界から、44マグナム持ってきてーっ。西城恵か田村俊夫のやつ。

エッセイ集に収録するなどやめておくのはもちろんのこと、ウルフ会機関誌にさえ載せるべきではありませんでした。編集スタッフにだけ、そっと「心得」として伝えておけばよかったのです。一般会員に説教する必要はなかった。彼らには自由にものを云ってもらい、編集スタッフに「載せる投稿はしっかり選べ」と指南すれば良かったのだと思います。それと、ワタシにだけ読ませてくれればなおよかった。
匿名X氏を批判するのでなく、それを(言葉は悪いですが)標本にしてあまねく会員を啓蒙するのでもなく、その投稿を機関誌に載せた編集スタッフを叱るべきでした。それとも、『“ガチャ文”考』を発表するために、もともと没にするはずだった投稿をあえて無記名で掲載させたのでしょうか……? だとしたら、オヌシもなかなかのワルよのぉ、と云わねばなりません。

仮にあんたの云う通りにしてたら、ウルフ会、上手くいってたと思う……?

ダメでしょうね。それはそれで、別の問題が起こってたと思います。それが現実のウルフ会の歴史よりもマシであったかもわかりません。ひとの集うところ、必ず問題は起こるもんです。何事もなく上手くいくなんて、それこそ有り得ない。特に共通の趣味者同士で集まるなんて、とびきり闇が深いですから。
だからこそ、平井和正がそれを見越していたかはわかりませんが、ウルフ会を「ウルフガイ・プロジェクト」の一環として、「2年間」の期限を切ったのは大正解ですよ。ふつうは息の長い活動にしようと思うものですが。86年、箱根小涌園の全国大会でスパッと終了したのは、有終の美を飾りました。内実はグズグズのガタガタだったと思いますが……。

リアル「箱根セミナー」の会場な(笑)。

個人的には、名エッセイだと思います。一億総ライターであるネット時代のいまこそ、多くのひとに読んでほしい。ですが、“ガチャ文”の具体例をサンプルとしてあげつらうことが避けられないだけに、どうしてもそこのところを責められ、嫌悪される宿命を負う。なかなかの問題作でもあります。

また、いまとなっては、さすがに「古い」かなとも思います。
それは平井和正の教えではありません。そこはいまも古びていない、「読むべし」と思います。古くなったのは、共同体だからこそ時に厳しい言葉が飛び交うこともある。――そのワタシの認識、時代の状況のほうです。

そやねん。だいたいあんた、昭和オヤジやねん。ノリが。

『“ガチャ文”考』が書かれた頃は、さずかにワタシもまだ昭和少年だったのですけどね……。

その頃から浮きまくってたんやろ? 昭和の時代にすでに時代遅れやん。あんたみたいなのが、ウルフガイ・ドットコムの掲示板でデカい顔したらアカンて。

それはホント反省してます。黒島結菜ちゃん(の役)のような、時間跳躍能力が欲しいです。あの頃からやり直したい。できることなら。

好きな作家、好きな作品、好きな何かを語り合う、共有する。そのために、まず集まる、共同体をつくる。「電子掲示板」の頃にはギリあった村社会、ファンクラブのノリって、もう完全にあれへんもんね。

関心をもつ共通の話題で結ばれても、そこに群がってるのは「仲間」でもなんでもない、バラバラの個人。
ファンクラブやサークル、電子掲示板は「共同体」であるがゆえに、真剣な議論が成立した。それが成立し得る「信頼関係」があった。もちろん、そのこと自体、実際問題タテマエでしかありませんでした。そのタテマエすら、もはや基盤から喪われています。SNS時代が到来して、完全に時代は変わりました。

SNS時代に即した『“ガチャ文”考』を書きたい、それにトライしたい。そう思うようになりました。ワタシごときがおこがましいのは承知の上で、日曜ライターとしての血と肉と魂を与えてくれた、その御恩に報いたい。なにより、ワタシ自身が読みたい。そう思うからです。

やっと「本論」に入れるわけね。ここまでは(小説)『幻魔大戦』で云えば1~3巻? GENKENの物語はここから始まるって感じ?

「本論」がものになるかはわかりません。発表は数カ月、数年先になるかもしれず、あるいはお蔵入りするかもしれません。なにしろ「書く書くサギ」なんで、ご期待は乞いません。

あと、これだけは云わせてください。持ち上げるだけ持ち上げといて、こんなことを云うのもなんですが、黙っているのも気が咎めるので、正直に白状します。
ワタシはあの「改造文」は、どうにも好きになれません。変にナヨナヨしてて、軽くムカつきます(笑)。あれが普通に投稿・掲載されてたら「シャンとせい」と云いたくなるところです。平井せんせい、ガラにも無い文章書いたもんだから、エライ気持ち悪い仕上がりになっちゃってます。匿名X氏の投稿は根拠に欠けた未熟な主張ではありますが、あれはあれで原文の書き手に失礼な気がします。

狂信者やと思ったら、そういうコトも云うんや?

いわゆる「信者」かどうかは、傍目にジャッジしていただく問題です。ワタシは自ら進んで信者になろうとは思いませんが、そうではないと声高に自己申告するつもりもありません。ワタシはワタシの熱量で、ワタシの想いを正直に語るだけです。圧倒的な「父性」に対する山岡士郎のようなややヒネクレた反抗心もあれば、熱烈に慕う岡星良三のような気持ちもある。どちらもワタシの中に真実存在する想いなんですよ。ワタシの中にあなたがいるようにね。
これはなにも、ワタシだけの特殊な性質ではないと思います。誰のこころにも山岡士郎と岡星良三が共存しているのだと思います。ひとによって山岡士郎の濃度が高かったり、岡星良三が濃い目だったりするだけです。そんな山岡士郎と岡星良三が、ひとつ所に集まったらどうなります? 漫画「美味しんぼ」のように仲良くできればいいですね。でも、現実はそうではない。往々にして、こういうことになってしまいます(笑)。

 


今回はモノローグで語るより、別人格を設定してツッコミ役を配するほうが、ずっとわかりやすく、かつ圧倒的に面白いと思ったので、ご登場いただきました。

最後に悪口云う? あれだけ賞賛擁護しといて。

なにがいけないんですか? ひと様を悪く云うななんて、『“ガチャ文”考』ではひとッッッ言も云ってやしませんよ。

 

人様を批判するには、それなりの用意と準備に時間をかけるという礼儀が要求されます。


――とは云ってますけどね。大体もしそんなことを云ったとしたら、それこそどの口が云ってんだですよ。悪口の名手ですからね、平井和正せんせいは。それなりの用意と準備に時間をかけて、云いたいことは云やいいんですよ。
「口の利き方に気をつけろ」とも「運営には逆らうな」とも云っていない。云っていないのに、そのように誤解され、誤解の上に、無言の不平不満が燻っていた。それが『“ガチャ文”考』ならびにウルフ会の不幸であり悲劇だったとワタシは思いますね。

うち、帰って風呂入って屁ぇこいて寝るっちゃ。

そこだけ“ラム変化”すんのやめろ。


2022.06.19 初出
2026.03.22 再掲・一部変更

 

 

 

まえがき 最終章発表と過去作再掲のこと
 

 

これを書いていて、未完のままだったテキストがあったことを思い出しました。
この度、その最終章を書き終えました。「シン・“ガチャ文”考」三部作と呼びたいと思います。その発表に先立ち、その過去作を再掲したいと思います。
発表したのは三年以上前で、よほどのリピーターさんでなければ、初めてお読みになる方が大部分ではないかと思います。
ブログの読者の大部分は通りすがりの一見さんであって、過去の日記のリサイクルは、ブロガーが行うべき当然の配慮であると思っています。
リピーターさんからすれば「使い回し」と思われてしまうかもしれませんが、リピーターさんからそう思われるのは構いません。そう思われたって、今後もリピートしてくださるのですから(笑)。有難いことです。今度もよろしく御贔屓に。
最大限配慮すべきは通りすがりの一見さんであって、三年以上前のテキストをリンクひとつで、藪から棒に最終章を発表するような横着はできません。これから一週ごとにアップしてまいります。
初回の《イントロの巻》は、ほとんど手を入れずに済んだ「再放送」ですが、次節はかなり手を入れた「アップデート版」になる予定です。

 

(1)ネットは実社会の一部。振る舞いは実生活のままで。

実生活での憂さを晴らすべく、「後ろ暗い本音」「日頃の鬱憤」をネットで発散している、あなた。悪いことは云いません。その態度と認識を改めるべきです。実生活での自分と、ネットでの自分。それらを一定にすることです。もしあなたが実生活でも「ならず者」で「不良」――平井和正文学で呼ぶところの「虎」であるなら、ネットでそうであっても構いません。しかし、あなたが実生活では善良な小市民たる「羊」であるなら、ネットでの振る舞いも、それに合わせるのがよろしいでしょう。
実生活とネットで「キャラ」を変える。……すみやかに、おやめになることを勧めます。恥を忍んで白状すれば、昔のワタシがそうでした。「羊」のくせして「虎」のふり、争い事も幾度か。……みっともないといったらありません。そして、いまやそれは「みっともない」では済まされません。ネットでの野放図な振る舞いが、実生活の破滅をもたらす時代は、とっくに到来しているからです。
就職で、結婚で、人生の大切な節目で、それらの行状がどんな足を引っ張る「前科」になるか、知れたものではありません。「不幸の爆弾」を自ら抱えるようなものです。ワタシが決して「道徳論」を口にしているわけでないことは、おわかりいただけるかと思います。
自分は匿名でやってるから大丈夫? さて、それはどうでしょうか。

(2)暴かれる「匿名」の所業

いまどきの企業が就職希望者の「ネットの身体検査」をしていることは、つとに聞くところです。報道もされている、まぎれもない事実です。炎上案件の当事者がプライバシーを暴かれてしまう事例もよく目にしますが、個人のネット民・特定班が持つスキル・ノウハウを、プロの調査会社はもちろんそれ以上に知悉しています。新規取引先の信用度の審査と同程度の熱意で、自分のネット上の素行を洗われたとしたら……? 匿名や裏アカなど素人の隠れ蓑が、果たしてどこまで通用するでしょうか。

 

 

いまは「業者」を使って「企業」が大金を投じて調査をしていますが、これは数年レベルの近い将来、「アプリ」を使って「個人」でお手軽にできるようになるのではないでしょうか? 突飛な想像ではなく、ごくごく妥当な予測としてそう思っています。
みだりに「本音」など、口にするものではありません。デジタル・タトゥーを残して後悔したりせぬよう、ゆめゆめ気を付けたいものです。

なにも真実、心の底から善人になる必要はありません。人前での振る舞い、態度において「善良」であればいいのです。他人とは基本友好的に接し、苦手な相手とは穏当に距離を置く。争いは極力これを避け、必要最低限に留める。ぶっちゃけ「偽善者」です。それで良いのです。実社会、実生活における振る舞いと同じです。
本音のぶつかり合いを良しとする。そんな「若さ」からは早いとこ卒業しましょう。もちろん、実生活でもそういう感じ、本物の「虎」である方は、それでいいのです。問題は、ネットでだけそういう「キャラ」を装っている「羊」の方です、昔のワタシのような。それって将来「黒歴史」として、後悔することになるんじゃないでしょうか。経験者として、そう思うわけです。
虎ぶるのはトラブルの元。山田く~ん、おれの座布団返して!?

 

推薦図書 ~ 『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』 ~

現在単行本で3巻まで刊行されています。個人的にはネット訴訟、情報開示請求の実態をつぶさに描いた最初のエピソード=第1巻に最も読み応えを感じました。「腐される側」としては参考に、「腐す側」としては戒めになります。

 

 

「ああいう事をする奴らが」
――『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』第1巻より

 

(3)人間、オモテ面が全て。

臆病で小心。それが裸の自分であったとして、それは一生、どう頑張ったところで変わりはしません。勇敢でカッコイイ自分でありたい、そうなりたいと望むのは人情ですが、まずそうなれはしないでしょう。
「臆病で小心」な裸の自分が、経験を積み重ねて(文字通り)身に着けられるものがあるとすれば、それは鎧――分厚い装甲に尽きるのではないでしょうか。そう簡単に、裸の自分は出さない、見せない。どんな苦しい試練に遭っても、態度を乱さず崩さず、日頃の平静さを保つ。その装甲の頑丈さが「強い」ということ、「大人」であるということ。それこそが「人格」――人としての格なのだと思います。

その点、ワタシはと云えば、たかだか二カ月間の入院による施設の隔離で、実にわかりやすくメンタルに刃こぼれを起こし、平素なら有り得ない考えられない言葉を口走ってしまいました。ほとほと情けなく、恥ずかしく思うことしきり。ワタシは弱い。まだまだ苦労が足りないなと実感します。

極論すれば、人間、オモテ面が全て。ということになります。こう云うと、問題発言っぽく聞こえるかもしれません。
ですが、だからこそ人間は変わるし、変わり得るのだとワタシは考えます。いまはどうしようもない人間だったとしても、先に希望はあるのだと。それは努力で身に着けられるものであって、その人の努力次第だからです。

天然の根っからの善人などそうそういるはずもなく、多くはそれを装うほかはありません。その努力に価値を置かず、そうした表面上の態度を「メッキ」と呼び、それは「偽り」であって評価に値せず、その人のいわゆる「本性」しか見ようとしないのは、持って生まれた天然の資質――人種や家柄、容姿の良し悪しといった、本人の努力ではどうにもならない先天的要素で人を差別する考え方に等しくはないでしょうか。
ひとは心乱れたとき、醜態を晒してしまうもの。それこそが「本性」というのも、一面の真実ではあります。けれども、単に社会的ペナルティを課せられるからでなく、そのことを恥じ、悔い、克服しようと努力するのも、また人間性の一面の真実ではないでしょうか。そのことに、もう少し大らかになってはどうかとワタシは思います。だからワタシのことも、ちょっと大目に見てねと云うようで気は引けるのですが。

 

人は「態度」しか見ないし、見ることができません。「内心」を直視することはできません。プリンセス・ルナではないのですから。

※ 平井和正著『幻魔大戦』の登場人物。超絶の読心能力で人の心の中を洗いざらい読み取ってしまう。
「内心」「本性」「性根」「人間性」……なんと呼んでもいいですが、真にそれを高めたり、清らかにしたりするのは至難です。だから「態度」をキチンとして、「いい人」に見られるのが得策ですよと、ワタシは「道徳論」にあらざる狡い「処世術」をアドバイスしています。

(4)「選ぶ立場」としての他人の見方

ここまで申し上げたのは「選ばれる立場」の話です。「選ぶ立場」としては、どうでしょうか。
これも至ってシンプル。「態度」=「オモテ面」で判断するだけです。
好感がもてる。愉快な人だ。⇒お付き合いする。
イヤな感じ。不愉快な人だ。⇒避ける。

それだけです。「人間性」を見極めるなどという、何様な査定をする必要はありません。
――お前はおれの何を知っているというんだ?
知らんわ。あんたの好感度はドン底なんだよ。こっちはドン引きなんだよ。その事実を知ってるだけだ。

「態度」がまともである。それは少なくとも、そのように振る舞える人物、そういうわきまえ・良識のある人物であるという、そういう評価ができるわけです。

もちろん、結婚するとか、いっしょに商売をやるとか、そんな濃密な間柄であれば、もっと深い部分をお互いに知る必要があるでしょう。しかし、ご近所や学校・職場といった、薄く浅い付き合いであれば、コレで充分ではないでしょうか。
ネットもそうです。というより、ネットはもっと薄い。ペラっペラの人間関係です。
そんな薄っすい薄っすい、赤の他人に毛が生えただけの知り合いに、家族や親友、恋人でもあるまいし、裸の自分など見せてどうします? むっちゃ恥ずかしいことですよ。とんだ恥さらしですよ。

(5)お詫びと恩返し

 

ワタシは自分自身の懺悔、反省、総括を期して、これを書いています。本物の「虎」である方は気にも留めないでしょうし、大多数の常識ある方にとっては何を今更な、ただの常識。一見逆張りの暴論っぽく見えてしまうとすれば、世の現実ではあっても、はっきり口に出してそう云うのは憚られる暗黙のルールだからでしょう。
そして「羊」のくせして「虎」ぶりっ子、そんな昔のワタシのような、ただいま現在、現役でそういう方には届かない、刺さらない。強い反撥でもしてもらえたとしたら、せめてもです。誰が読むんだ? 役に立つのか? そう問われれば、このブログ全体がそうなんですが、その極みです。
それでも、「遅効性の毒」とは正逆の作用を及ぼす――昔目に・耳にした言葉が「あとになって沁みるてくる」ことってあるのではないでしょうか。ワタシには遠い昔に読み、それがずっと歳をとって、あれは正しかったとしみじみ想う、そんな平井和正せんせいの言葉があります。

大事なことをひとつ
――ウルフガイドットコム「はじめまして掲示板」より

ワタシの「虎ぶりっ子」は堂に入っていて、当時は洟もひっかけませんでした。ずいぶん丸くなったもんだと、そのぐらいに思ったように記憶しています。思えばそれは、ワタシが平井和正ファン人生における「セミリタイヤ」の一時期に至る兆候でもありました。

 

何もなかった、何も見なかった、そう思えてきます。「それ」は存在しなかったのです。


「イラッ」とする「人物」や「発言」に遭遇してしまった。そんなときの対処法として、これが一番の「正解」ではないかと、いまでは思います。
この言葉がワタシを変えたわけではありませんが、この二十年の間にワタシもそれだけ歳をとり、こんなワタシの精神も少しはアップデートされました。その差分がこの教えの正しさを、またかつてのワタシの若さ、青さ、愚かさを思い知らせてくれるのです。

「言葉が届かない」とお嘆きの方をしばしばお見掛けします。が、いまは聞く耳を持ってもらえなかったとしても、その言葉は相手のこころに撒かれた種子となって、時間をかけて芽吹く日はいつか訪れるかもしれませんよ?
ワタシのテキストが、そのように記憶に留まり続け、効果を及ぼすなどと期待はしません。ワタシの動機の第一は、平井和正せんせいへのお詫びと恩返しです。ワタシの人格形成に絶大な影響を与えてくれたにも関わらず――だからこそと云うべきか(笑)――実に容赦無い言葉でこき下ろし、離反した一時期を過ごしました。そんな若さゆえの過ちを謝りたい。そして、『“ガチャ文”考』などの大切な言葉、教えをいただいたその御恩に、及ばずながらSNS時代に対応したワタシなりのアレンジを施すことで報いたいと思うのです。云わば「シン・“ガチャ文”考」――物語を他者がリメイクすることを「二次創作」と呼びますが、これは云わば「二次エッセイ」、エッセイのリメイクです。

 

 

さて、ここまではネットライフの一般論を述べてきました。お待たせしました、次節からはいよいよこの「処世術」に則り、本題である「ファン」としての言動、クリエーター当人ならびに「ファン」同志とのコミュニケーションについて、話を進めたいと思います。

 

 

 


2022.12.25 初出
2026.03.21 再掲・一部変更
 
 

Sugar『Coffee Break』
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多摩市・カナメさんからのリクエスト、アルバム『Coffee Break』より、Sugar『熱い夢』をお送りしました。
訳あってアナログレコードプレーヤーを購入したワタシが、当時CD化・配信ともにされずにいたSugarの名盤『Coffee Break』を取り上げたのは2024年11月。

前回のあらすじ

 

このアルバムの配信が始まっていたのですよ! 「2026 Remaster」の表記があるので、開始は今年に入ってからでしょう。いやぁ嬉しい、有難い。
 

有難ついでに付け加えておくと、先着5万枚の付属特典「パロディ・シングル」(いまだったら「ボーナストラック」になるところでしょうけど、時代ですねえ)『ウエディング・ベル その後』『オー・ラーメン』(笑)まで配信されてます!!!


みき(キーボード)、モーリ(ベース)、クミ(ギター)の三人組、81年のデビュー曲『ウエディング・ベル』でブレイクした女性バンド「Sugar」を覚えているのは、ワタシと同じ立派なオジサン・オバサンでしょう。
シングルのボーカルは決まって、みき。なので彼女らのことを覚えている昭和世代にしても、多くの人々の記憶にあるのは、彼女が歌う曲であり、そんな三人組の姿でしょう。

ルックス的に美人である、みきがシングルのボーカルをとるのはテレビ向けの戦略としてもっともですが、Sugarの魅力はそこに留まりません。彼女らは三人が三人ともボーカルをこなせ、アルバムにはモーリやクミがボーカルを担当した曲が収録されています。
ギャルのみき、お嬢キャラのモーリ、やさぐれ不良キャラのクミ、これら三人三様の個性のフュージョンこそ、Sugarの魅力で真価だとワタシは思います。
冒頭お聴きいただいた『熱い夢』は、そのひとつ。四十年越しに聴くいまも、アンニュイなクミの歌声は色褪せません。ワタシの大のお気に入りの一曲です。

その三人でボーカルを分担、それぞれのパートでリレーしていく歌があります。
『Bobbysoxer 物語-夏の少女Anna』がそれです。ジャスト10分の長尺で、バイク乗りのお転婆娘「Anna」の恋と成長を歌います。

 

始まりのモーリ・パートでは、Annaはこんな風に嘯いています。

 

恋はgame ルールは「Halloからgood byeまで」
洒落と嘘で固めること
甘い言葉も 洒落だから 酔えるのよ


ですが続くみき・パートでは、そんなAnnaが本気の「愛」を知ってしまいます。
 

愛に気が付いてしまったAnna
失うことが恐くなったら
もう無理よ 洒落が全ての恋に
戻れないわ Anna……


最後のクミ・パートでは、そんな「愛」が終わりを迎えます。
ここまで客観視点で語られてきた詞がここへきて、まるでAnnaを見守る母親的な視線のそれに変化します。

 

奇麗だわ 本当よ side-mirriorを もう一度
さあ 覗いて見て テレてないで
大人子供のあい間を抜ける風のようよ
Anna, you're so beutiful

 

これらを収録したSugarの2ndアルバムが、『Coffee Break』です。一発屋でないことを証明した2ndシングルで大ヒット曲『アバンチュールはルックスしだい』を収録しなかったのは、自信の表れとも受けとれます。

シングルでしかSugarを知らない人々に、この名盤を知ってほしい、聴いてほしい。そして彼女らの真の魅力を伝えたい。その一心で、この日記を書きました。

 

最後にお送りするのは、もちろんこの曲――。多摩市・カナメさんからのリクエスト、アルバム『Coffee Break』より、Sugar『Bobbysoxer 物語-夏の少女Anna』。

 

これまでCD化も配信もされなかったのは、諸事情あったのだろうと思います。ここに漕ぎつけた関係者の皆様の尽力と鋭意に、感謝を捧げます。

この名盤が現代に「商品」として世に供給されるようになったことを全力で言祝ぎ、拡散したいと思います。

 

すっかり懐かしの80年代カルチャーを語るブログになってますね。そんなつもりはないのですが。


Sugar『Coffee Break』
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1983年3月1日発売

 

むぎわらの 恋の手ざわり
やわらかい 季節のDay dream
気の早いキスなんて 困るエスカレート


多摩市・カナメさんからのリクエスト、河合奈保子『ストロー・タッチの恋』をお送りしました。
作詞・来生えつこ、作曲・来生たかお。5thアルバム『あるばむ』※1で、A面の竹内まりやとともにB面を担当。アーティスティックなナンバーで河合奈保子の新境地を花咲かせた御存知、来生姉弟が、今度は見事に奈保子ちゃんのシングルを書いてみせました。

河合奈保子のシングルは全36曲。デビュー曲からちょうど1/3の12曲、1980年6月のデビューから丸三年間を、ワタシは河合奈保子の「アイドル期」と位置づけています。この歌はその12曲目に当たります。

「アイドル期のフィナーレ」というタイトルは、前に『夏のヒロイン』の奈保子日記※2で使いました。別に偽ったつもりはありません。それは「始まり」だったのですから。

82年6月リリース、9曲目のシングル『夏のヒロイン』から、その「アイドル期」のフィナーレが始まりましたが、いよいよこの歌でその大トリを迎えます。

81年秋、NHKホールでの事故で大けが、入院~療養を経て復帰するも、長らく腰にコルセットを着けての活動を余儀なくされました。そんな彼女が、ついにそのコルセットの軛からも解放されたのが、82年夏。
まるでそれをお披露目するかのように、特集誌※3では水着を披露! それに先駆けて発表されたシングルが『夏のヒロイン』でした。
清純派として、おとなし気なドレス姿が主であった彼女が、開放的かつ大胆なステージ衣装のミニスカートから覗かせるおみ脚で、軽快ににステップを踏んでみせました。

当時の全てのファンが、アイドル・河合奈保子の完全復活――そう思ったことでしょう。
ですがこの歌が、河合奈保子歌謡史における「アイドル期」、そのフィナーレの「始まり」であったのは、彼女の歴史を俯瞰する後世の人間だからこそ知り得る運命の皮肉だったかもしれません。

続くシングル、竹内まりやの『けんかをやめて』に始まる一連のアーティスト路線は、次のステージに至る、云うなれば「端境」です。
さらに竹内まりやによる次曲『Invitation』をはさみ、『あるばむ』を経て、満を持して放つ来生えつこ・たかお姉弟によるシングル第12弾、『ストロー・タッチの恋』――。

恋する気持ちを麦藁の手触りになぞらえる、爽やかさ、やわらかさ。
「気の早いキスなんて」――そんな詞が似つかわしいのも、十代ならでは。このとき河合奈保子、十九歳。二十歳の誕生日(7月24日)を目前に控えていました。こうした歌を新曲で発表できるのも、ギリギリの年頃だったと思います。

『あるばむ』に収録された担当曲はアーティスティックな傾きの歌揃いでしたが、シングルでは見事に「アイドルソング」を仕上げてきました。流石は中森明菜のデビュー曲『スローモーション』、薬師丸ひろ子『セーラー服と機関銃』(原曲『夢の途中』)を手掛けた来生姉弟!

ここでもう一曲、お聴きください。多摩市・カナメさんからのリクエスト、『ストロー・タッチの恋』のB面、河合奈保子『若草色のこころで』。


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膝のオレンジ 香りたつ春のいぶきに
口に含むのが 惜しくて抱いている
愛していると 言えなかった恋は
甘く熟さなかった 果実に似てる


このB面も来生姉弟の作であることに、要注目です。竹内まりやの『けんかをやめて』、『Invitation』はいずれもA面のみ、カップリングは作者が異なります。
そのせいか進行形の恋と、終わった恋からの出発という対をなすふたつの歌は、まるでひとりの少女の一連のストーリーのようにも受け取ることができます。
(「気の早いキス」も、せず終いだったかのかなぁ……)

このシングルが、河合奈保子「アイドル期」のフィナーレの中のフィナーレ。「アイドル」であることからの「卒業」を迎えたのだと、河合奈保子の歴史を後世から振り返る者の個人的感想として、ワタシはそう想っています。
むろん云うまでもなく彼女はこの後も「アイドル」と呼ばれ、そうであり続けるのですが、ワタシの中では「アイドルらしいアイドル」で河合奈保子があったのは、この歌がラストだと思っています。

もしも「サザエさん」的に時を止めることができるなら(笑)、この頃のままの奈保子ちゃんで、いつまでもいて欲しい。そんな想いが、ワタシの心の片隅にあることは否定できません。
けれど時は進み、十六歳でデビューした彼女も、もうすぐ二十歳。奈保子ちゃんが自らの意志で大人へのステップを上る、そのことを祝福したいと思います。

若草色のこころで。
 

あとがきではありませんが、これは云っておかないといけません。
このあたりから河合奈保子の現役時代のワタシの記憶が朧になっています。
事実、この歌の覚えがワタシにはありませんでした。「四〇年遅れの推し活」※4で初めて、ワタシはこの歌のことを知ったのです。ついに、この領域にやって来ました。
河合奈保子が次曲『エスカレーション』で新たなステージの扉を開けるように、「四〇年遅れの推し活」も新章開幕です。「青春時代の思い出」という太陽系を離脱し、未知で未踏の奈保子宇宙への冒険の旅路がいよいよ始まりました。

 


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チェリーピンクのプチハート

音楽専科臨時増刊 河合奈保子 チェリーピンクのプチハート
1983年2月23日発売


遅くなりました。前の日記に時間をかけ過ぎました、すみません。
『そよ風のメッセージ』※1、『ほほえみ・ステップ』※2に続く、音楽専科の写真集第三弾。83年も出版されました。

前作、前々作とも、現役時代はこれらの写真集が出版されていること自体知りませんでした。本書も同じです。今回もネット通販で古書を入手しました。
なので本書の存在を当時認識していなかったこととは無関係なのですが、この83年頃を境に、ワタシはファンであったこのひとへの「好き」である気持ちを失っていくことになります。


その理由は明白。本書のページを開いてみれば、否、表紙を一目見ただけで、見当がつくというものです。

チェリーピンクのプチハート

この年二十歳を迎える十九歳。十六歳でデビュー、超絶かわいらしく、超絶あどけなかった、あの奈保子ちゃんも、三年という月日は、大人への成長をさせないではいられません。さらに彼女の大けが~入院という過酷な体験は、あるいは内面からの精神的成熟による加速をつけたかもしれません。

 

わたしもいつか、レディになるの

チェリーピンクのプチハート


本書にもそう綴られてしましたが、いやいやいや。いやいやいやいや!?
リッパなレディですって、この時点で! 奈保子さん。

そんな大人のレディへの階段を上る、変わってゆく奈保子ちゃんに、当時のワタシは彼女への好意を、関心をなくしていったのだと思います。
デビューしたばっかりの、あのかわいらしい、あのあどけない奈保子ちゃんが、大好きだったんだよな?
わかりやすいな!? わかりやす過ぎるぞ、若い時分のおれ!!
それをこの歳になって大後悔してるんだから世話はない。

『エスカレーション』以後の、あの匂いたつような色香の芳しさ。それまでのかわいらしさを保ちながら、そこにお色気を加味したイイ女っぷりが、どうしてわからなかったかなあ……?
ほんと、認めたくないものですよ。若さゆえの過ちというものを。

ひたすらかわいらしく、あどけなかった、河合奈保子の十代、「少女」の時代が、まもなく終わろうとしています。
それに一抹の寂しさを感じないといったら、ウソになります。けれどいまのワタシには、それに勝る想いがあります。
「奈保子ちゃん」――徐々にそう呼び難くなってもいい。「奈保子さん」――あなたは美しい。いまのワタシはそう云えるし、そう想えるのですから。
それはなにも、この写真集に写し撮られた、現役当時の河合奈保子さんに限定した話ではありません。

奈保子さん、お慕い申し上げています。
現実のあなたがいま現在、お幾つであるかなんて関係ありません。それを云ったら、ワタシだってもうすぐ還暦です。
いまも昔も学年で3コ上の、憧れのお姉さんです。それだけは、この先もずっと変わることはないのですから。

恒例の多摩市・カナメさんからのリクエストは、この写真集が刊行された翌3月1日リリースの新曲、河合奈保子『ストロー・タッチの恋』をお送りします。
そちらの日記もまもなくアップの予定です。お楽しみに。またお会いしましょう。

河合奈保子『ストロー・タッチの恋』
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「スターの実像と虚像」というコラムにことよせるコラム

随所に散りばめられたポエム、カナリー・コンサートのフォトとともに綴られたに自身の心境のほか、本書に掲載された「文章」は僅かですが、その中で音楽評論家・藤中治の寄せたコラムが秀逸でした。

「なかなかいない“ふつう”の女の子・河合奈保子」という扉のキャプションがお見事です。「虚像」とは表舞台の姿、「実像」とは舞台裏の姿。その両者のギャップの無さについて語れるのは、業界人の強み。タレント・河合奈保子の魅力の核心を突いています。

「風紀」が乱れているかに見える(笑)昨今の芸能界ですが、これまで隠されていていた「実像」の部分が、めくれてきただけ――というのが真相でしょう。芸能人全員が河合奈保子(のよう)になれればいいですが、それは寝言は寝て云えレベルの夢物語です。
ワタシの現実主義は、エキセントリックな女王様キャラこそ、芸能人のデフォルトと考えます。それを容認する器量こそ我々には必要なのであって、一般社会とひとし並みのコンプライアンスを要求するなら、我々は芸能界という娯楽、愉しみを喪うだけだと思います。
ワタシは叶うものなら、河合奈保子さんの生のステージを見たいと切望しています。しかしその一方で、「芸能界」という煌びやかで狂った世界は、あなたの戻るべき場所ではないと、同じぐらいの強い気持ちで思ってもいます。
17年という束の間、河合奈保子という女性が芸能界に存在したこと――。それこそが神さま的な何かに感謝を捧げていいぐらいの、「奇跡」とは云えないでょうか。


チェリーピンクのプチハート

 


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