これまでのあらすじ

 

(1)『ふたりのウルトラマン』に想ったこと

『ふたりのウルトラマン』を観て想ったのは、ふたつのことでした。
ひとつは、映画『シン・ウルトラマン』公開に沸いていた当時、「ウルトラマン」で釣って、「沖縄海洋博」の挫折という鬱展開に引きずり込むかと。まるで(小説)『幻魔大戦』だなと、平井和正ファンであるワタシはそのような連想をしたのでした。
ふたつ目は、クリエーターは「変わる」ということ。(人として)時代・年齢とともに変わり、(クリエーターとして)成功によっても変わる。成功によって立場が変われば、それまでできなかったことができるようになる。が、それが既存のファンの望みに適うとは限りません。むしろそうでないことは、往々にしてあります。

 

ふたりのウルトラマン
初回放送 2022年4月28日/NHK総合(72分版)、2022年5月2日/NHKBSプレミアム(90分版)

脚本家・金城哲夫の栄光と挫折を上原正三の視点で描く。上京した上原は、同郷の金城がいる円谷プロに身を寄せる。文学志向で特撮には乗り気ではなかった上原だったが、渋々引き受けたデビュー作が尊敬する円谷英二に賞讃され、次第に特撮にのめり込んでいく。一方、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などで成功を収めた金城は、長年組んで仕事をした円谷一が監督からプロデューサーに転身することを機に、沖縄に帰郷。もともとの夢であった、沖縄をテーマにした作品に取り組み始めるのだが……。その後も次々と特撮作品でヒットを飛ばす上原とは、対照的な人生を歩むことになる。

 

(2)クリエーターの変化後に問われるファンの人となり

優れた作品を創るから(=評価)、そのクリエーターを好きになる(=感情)。当然の帰結です。
ですが、その「評価」と「感情」の一致、云い換えるならクリエーターの「志向」とファンの「嗜好」との幸福な一致は、得てして長続きしないものです。
まず、クリエーターが変わる、ということがあります。クリエーターが自身の創作活動の方向性を転換する。前述の金城哲夫がこのケースですね。
その作品が大好きで、だからその作者のことが大好きだったのに、近頃はその作品を創ってくれない。

――ガウディとかアカデミックなアートなんて興味ないねん、「スラムダンク」の続き描いてや、井上先生?

そういうことって、よくありますよね。

逆もある。クリエーターが変わらなければ変わらないで、こちらが飽きてしまったりもする。ことさら三行半を声高に発することもなく、静かに「卒業」していきます。――こちらの具体名は出しません。

それはどこか、恋愛感情に似てはいないでしょうか。昔のようなアツアツの感情もいまは落ち着いて、伴侶のダメなところも受け容れて(諦めて)、穏やかな夫婦関係を築くひと。対極に、常にときめく恋と破局を繰り返すひと。
そんな「ファン」の生態をタイプ別に列挙してみました。


A.「ファン」~永遠の家族的味方
「評価」と「感情」が、一致し続けているひとは幸せです。ファンの鑑です。たとえその「評価」が「感情」に寄せたものだとしても。ファンとは、そういうもの。それがファンです。どうかいついつまでも、その愛情でクリエーターを応援し、支えてあげてください。

B.「オトナ」~冷静だけど温かい紳士
冷静な評価を下しつつも、無粋なことは口にせず、なおかつクリエーターとその作品を好きであり続けられるひと。立派です。大人です。見習いたいものだと思います。

C.「消費者」~クールな恋の旅人
評価の低下とともに、感情も醒めてしまうひと。平井和正は『死霊狩り』までだったね、とか云ってるひと。好きな作品追いかけて、花から花へ。こういうひとも幸せです。どうかこれからも、まっとうな人生を送ってください。

D.「アンチ」~始末に負えない粘着気質
最後に困ったもんだというか、反省しきりというか(笑)。好きだという気持ち、愛のポテンシャルそのままに、容赦ない酷評、憎悪の言葉を撒き散らす、ついでに自分の不幸まで撒き散らす。ワタシが云うのもアレですが、シバくか逃げるかしてください。勝てる相手ならシバきましょう。勝てない相手なら逃げましょう。実生活でリアルにストーカーとかならないようにね?

 

ファンタイプのチャート

 

これらの4タイプは、チャート化することでよりわかりやすくなります。
図のように敵・味方の軸、ホット・クールの軸で分ける。
ホットな味方がAの「ファン」、クールな味方がBの「オトナ」、クールな敵がCの「消費者」、そしてホットな敵がDの「アンチ」となるわけです。

AとDは対極であり敵対関係にありますが、得てしてAからDへ転んでしまいがちなのも、こう捉えるとわかりやすい。熱が冷める(醒める)→横軸の変化には、熱い鉄板のように時間がかかります。ですが、味方が敵に変わる→縦軸の落下は一瞬です。彼が発したたった一言で、「見損なった」「そんな人だとは思わなかった」――そのようにコロッとひっくり返るのはよくあることです。そうなればなにしろ元が熱いエネルギッシュな奴ですから、敵に回ると面倒な存在です。


(3)「変数」は自分だけ

カレがしょっちゅう浮気をするので困っています。どうしたらいいですか? いわゆる「人生相談」などで、ありがちな質問です。
カノジョが求めているのはおそらく、「どうしたらカレが浮気をしなくなるか」という解決策でしょう。ですが、それは無理な相談というものです。カレはどうにもならない。カレの浮気性は矯正不可能。カノジョにできるのは、そんなカレとはとっとと別れるか、そんなカレとそれでもお付き合いを続けるか、その選択しかありません。
カレを含む自分以外の全ての他人は「定数」であって、そこは自分の意思ではコントロールできません、変えられません。「変数」は自分にしかなく、そこをどう変えるのが自分にとり最も望ましいのか。それを考え行動するしか、あらゆる「悩み」「問題」を解決する道はないのです。
カレに浮気をやめさせようと努力し、リソースを費やすのは徒労であり、不幸の元です。

この原則は、もちろんファンとクリエーターの間にも成立します。それどころか彼氏彼女のような対等の立場ですらなく、その関係性はよりシビアです。
クリエーターが望ましくない変化をしてしまった。だからといって、昔の望ましい姿を取り戻すべく、クリエーター当人にアプローチするのは、時間の無駄です。無駄であるばかりでなく、最大級の「悪手」でもあります。あなたは大好きなクリエーター当人から嫌われ、疎まれるでしょう。さらに不思議なことに、同じ想いでいるであろうファン同志からも、思ったほどの支持・共感は得られない可能性が高い。あなたの行動は「痛い」――「幼稚」かつ「無分別」だからです(苦笑)。

私はこんなにも先生に身も心も時間もお金も捧げてきた。だから、先生は私の言葉に耳を傾けるべきだ! ――気持ちはわかりますが、それ、ストーカーの発想です。
あなたにとってそのクリエーターがどれほど大きな存在でも、そのクリエーターにとってあなたはただの他人、ワンオブゼムです。あなたはスポンサーでも、パトロンでもない。費やした金銭があなたの家計にどれほど重いウェートを占めていようと、クリエーターの売上からすれば微々たるものでしかありません。
彼氏彼女の関係であれば、まだしも「これ以上浮気を続けるなら、あなたと別れるわよ」といった交渉の余地もありますが、ファンがクリエーターに対し「これ以上しょうもない作品創り続けるなら、ファンをやめるぞ」などと云ったところで、オドシにもなりません。「さっさとやめてくれ」と相手をしてくれるならまだマシで、無視されるのが関の山でしょう。しっかり悪い意味で認知され、嫌われた上で。

一介のファンが、クリエーター当人に働きかけるなど無駄なこと。ファンにできるのは、クリエーターの仕事を支持するか・しないか、受け容れるのか・拒否するか、その選択しかないのです。

(4)「苦言」と「アンチ」と「小姑根性」

心からの、忠節からの批判――苦言、諫言などと云われます。そういったことも、確かにあるのでしょう。ですが、それが真実真心から発したものであったとしても、あなたがそのクリエーターにとり赤の他人――一介のファンに過ぎないのなら、それはやめておくことをお勧めします。繰り返しますが、それは時間の無駄です。あなたの出る幕ではないのです。

言葉がもつ説得力は、単に文字列だけで成立するものではないからです。それには「顔」や「人格」が不可欠です。匿名・無記名が軽んじられるのはそのためですし、日頃評判の良くない人がたまに正論を云っても「お前が云うな」「お前にそれを語る資格はない」などと認めてもらえないのはそのためです。言葉とは、それを口にする者の人格や実績、聞く側との関係性とがセットになって初めて効力を発揮するものだからです。なぜか? 口先だけなら、どんな立派なことでも云えるからです。よって社会的、ないし聞く側に対する積み上げがなく、信用のない人物の言葉には、説得力がないのです。

「私の批判から逃げるな! だからお前は成長しないんだ!」
何処の誰かもわからない、どういう人かもわからない。どんな見識をもち、実績があるのか、それらも一切不明。どんな動機や目的・底意があるか知れたものではない匿名希望さんから、そんなことを云われてもね……。親切ごかしの自己申告さえ疑わしい。心配を装う「小姑根性」でないどうしてわかる?
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。

「腐される側」の身になれば想像はつくはずです。真心からの「苦言」も、「アンチ」の罵倒もいっしょくた、四方八方から一斉に襲いかかる十字砲火。グサグサと胸を突き刺すセンテンスの渦の中から、心ある「苦言」だけを選り分け、真剣に耳を傾ける。……そんなことができるのは、よほど強いメンタルをもった、人格者だけでしょう。ワタシには無理です。
ですから見も知らぬ他人、一介のファンでしかないあなたの言葉が、それがたとえ真心から発したものであったとしても、クリエーター当人にまともに耳を傾けてもらえるかと云えば、望み薄だと云わざるを得ないのです。

そんな役割は、彼が信頼を置く身近な人物や、仕事の関係者にまかせておきましょう。
馴れ合いの仲良しこよしの関係者が、シビアなことなんて云うはずないじゃないか!? お前にだって、そんなことを云ってくれる友達なんていやしないだろ!?
そうかもしれません。だとしたら、それも含めてそれがその人の器量であり、限界なのではないでしょうか。

(5)「アンチ」に転んだワタシの過ち

ここまでは忠義心からの、あるいは自分ではそう思い込んでいる自己欺瞞も含めた、「善意」の批判について述べてきました。しかしながら、世の「アンチ」的発言の多くは、「悪意」に基づくものです。愉快犯として、あるいは憎悪によってそれはなされます。これを考えないことには、この問題については話になりません。

ワタシはかつて信者的崇拝者として、作家・平井和正をカリスマとして仰ぎながら、彼のある「失言」をきっかけに、激しい落胆・失意の熱弁を振るったことがあります。それはまさに先程の(2)で述べた、縦軸の落下そのものでした。
それは何も忠義のファンを気取って、諫言申し上げたつもりなど、まったくありませんでした。若い憤懣の迸るまま、怒りを込めて決別状を叩きつけたのです。そのことについていまは後悔も反省もしていますが、当時は少なくとも「あなたのために云っている」だの「好きだからこそ、厳しいことを云わせてもらいます」だの、そんな殊勝な気持ちは毛頭、さらさら持ち合わせてはいませんでした。
その具体的実例を、恥を忍んでお見せいたします。

 

三下り半の辞

いまのワタシに云わせれば、なんだそのヘナチョコパンチは? ひとを罵倒する、コキ下ろすってなぁこうすんだよ、って見本みせたろか?――と思います。最後の(笑)が決定的にダメですね。そんな余裕をコイてるっぽく見せたところで、そうでないことぐらい誰が見たってバレバレ、見え見えなんだよ。
くだらないテレ笑いなんてしてんじゃない。真剣に怒るときは怒り切れ、怒り通せ。なにが恥ずかしいって、拙いのは若かったんだからしょうがないとしても、こういう姿勢としてのダサさは、自分のことながら堪らなく恥ずかしい。まあ、それはともかくとして。


こうした手合いが、時間をかけて己れの幼稚さ、無分別さを恥じ、心を入れ替えることはあるかもしれません。その可能性はないとは云えませんが、しかし、それには時間がかかります。
勝手に理想を押しつけ、勝手に失望して、勝手に怒り狂っている――ただいま現在、絶賛逆恨み中のこうした手合いに、つけるクスリはありません。これもまた「定数」であって、相手側に説得を試みるのは徒労です。いかにしてその被害から免れるか、自分側がその防御策を講じるしかありません。それについての愚見は、《腐される側の巻》で述べたいと思います。

(6)ネット芸者の情熱

賞讃であれ、酷評であれ、ネット芸者たるファンライターにとり、それは自身の作品なのです。
「感動」がそうであるように、「怒り」もまた、作品の素材なのです。怒りを表明し訴えることは、一義的な目的であり手段ではありますが、それ以上に「怒り」という激しい感情――その絶好の素材で作品づくりをするモチベーションが抑えられないのです。したがって、その情熱を止めることはできません。
パチンコでお金は稼げないよ? たまに儲かることはあっても、トータルでは損失のほうが大きいよ? そんなド正論を告げられても、パチンコが好きで好きでしょうがない人間は決してパチンコをやめられない。クリエーターへの働きかけなど実は二の次、自分の意思など通りはしないことは承知の上、それでも自分はそれを云いたい、云わずにはおれない、その衝動こそが第一なのです。


ここのところは、無から有を生むプロの創作者には、素人ネットライターの情熱に、いまいちピンと来ないのかもしれません。
オリジナル――無から有を生むクリエーターからすれば、ひとの作品をああだこうだ云う、有から有を作ることしかできない批評屋は、ただ疎ましいだけの存在なのかもしれません。不愉快な否定的言辞を弄する輩に対し、「偉そうなことを云うなら、お前が作ってみろ」なんて云いたくなる――発言自体に感心はしませんが――そんな気持ちもわからないではありません。
ですが、素人ネットライターのハシクレとして云わせていただければ、そういう人間にもそういう人間なりの、表現への情熱はあるのです。

前述の(3)(4)では、「善意」の批判について述べました。そこで、クリエーターへの働きかけは無駄であると申し上げました。ですが「善意」であれ「悪意」であれ、「そうしたい」という衝動は止められません。外に吐き出すのを堪えることはできても、内から湧き上がる衝動そのものを湧き上がらないようにはできないということです。自分の「感情」が鎮まらない限り。
このテキストにしても、「そんなことしても無駄ですよ」と説いたからといって、その対象となる人達を説得できるか、彼らが「ならやめます」と賛同してくれるかと云えば、それはまずないとワタシ自身承知しています。ワタシも無駄なことをしています。ワタシはただ、これを云いたかったのです。その表現への欲求と衝動に逆らえず。

チョコレートを作ります。材料はまず板チョコを……(すでにチョコレートやんけ! カカオから作れや!)……すみません、そこまで本格派のチョコレート職人ではありません。市販のチョコを使って、二次チョコレートを作ることしかできないんです……。でも、それが好きなんです。

(7)平井和正と高橋留美子の危うい関係

ただし、心しておかねばならないことがあります。
ひとたび否定的言辞を公言するなら、クリエーター当人ならびに他のファンとの良好な関係は、壊れてしまうかもしれないということです。

ひとつの例をあげます。平井和正と高橋留美子の関係です。
平井和正はふとしたきっかけで『めぞん一刻』にハマり、評論まで書いてしまいました。一方、高橋留美子はデビュー以前から『ウルフガイ』の大ファンであり、互いにリスペクトし合う作家同士として、対談を重ねるだけでなく、平井和正の小説のカバー・挿し絵を高橋留美子が飾るなど、両者は良好な関係にありました。

高橋留美子の優しい世界 語り尽くせ熱愛時代 女神變生

(左)評論/『「めぞん一刻」考』(『高橋留美子の優しい世界』(徳間出版・1986年刊)収載)
(中)対談集/『語り尽くせ熱愛時代』(徳間出版・1984年刊)
(右)小説/『女神變生』(徳間出版・1988年刊)

 
ところがその両者の交流が、いつしかバッタリと絶えて見られなくなりました。
そのことについて公表された情報をワタシは知りません。ですが、思い当たるところはあります。平井和正がエッセイ集に批判的論評を載せたことです。収録の書き下ろし「人魚の森の謎」、あれがマズかったのでは? そのことで高橋留美子せんせいのご勘気をこうむってしまったのでは? そのように憶測することは容易です。
本を出版して発表すれば、それはパブリックな発言です。それが当人の耳に入らないはずはありません。ご注進におよぶ忠義のファンは、必ずいるものだからです。
 
夜にかかる虹(◆下)
※『夜にかかる虹(下)』(リム出版・1990年刊)
 
「公言」に「ナイショ話(陰口)」なし

前述のワタシの発言も、自分のサイトに書いたもので、早い話が独り言です。お膝元である当時の公式掲示板やSNS(それはやっていませんでしたが)で、当人に向けてダイレクトにぶつけたものではありません。当人が読むはずもないプライベートページの内容を当人に知られるところとなったのは、やはりご注進があったようです。
ワタシは少なくとも傷つけるつもりは無かった。キミは知らぬが仏の情報をわざわざ伝え、大好きな平井せんせいを傷つけて平気なのか? そこに愛はあるのか? 情報伝達罪だ。――なんて云い訳は通りません。ネットでオープンな発信をする以上、それは「公言」であって、当人も含め人々に広く知れ渡ることか有り得るのは大前提です。

情報伝達罪――平井和正『星新一の内的宇宙(インナー・スペース)』(「悪徳学園」収載)の登場人物である星新一が口にした名言。

以下に述べるのは、あくまでもワタシの憶測です。
いかに神様のようなウルフガイの作者といえど、愛児に等しい自分の作品を批評されては、自らも創作者である高橋せんせいには聞き捨てならなかったのではないでしょうか。そうなると、それまで決して口にはしなかった自分の読者としての不満も、頭をもたげてこようというものです。
だったら云わせてもらうけど、あの犬神明が出てこないウルフガイの新作はなに?
以上、ワタシの下種の勘繰りを述べました。この物語はフィクションであり、登場人物のセリフは筆者の妄想です。

平井和正は表現者としての欲求に抗し切れず、高橋留美子作品の批評を「公表」しました。ですがその結果には、臍を噛んでおられたのではないでしょうか。嫌われても構わない。それでもこれを云わねばならぬ。――そんな決意と覚悟があったようには思われません。「エッセイ集」を出すにあたって、単行本未収録の原稿その他を洗いざらい渡し、細かいことまで深く考えていなかった――そんなところではないかと思います。
「親しい作家を批判する愚」を、この一件で平井和正は骨身に沁みて思い知ったのではないでしょうか。

ですが、この本が出た当時の若き日のワタシは、平井和正信者として、まったく異なる感想を抱いていました。
さすがは平井和正、すげーぜ。あんなに大好きだった高橋留美子の作品を、かくも冷徹に批評してみせるとは!!! ワタシもかくありたい。こんな愛情と冷徹さを兼ね備えた、こんな読者でありたい、なりたい!!!
ワタシは平井和正の決して尊敬すべきでない部分を尊敬し、見習うべきない部分を見習ってしまったのでした。そしてのちに、見事にやらかしてしまうことになるのです……。

(8)「批評家」の道、「ファン」の道

大人のファンの精神は、アラベスクの紋様の如しです。
一方で愛情を、もう一方で憎しみを――そこまでいかなくとも軽い苛立ちや腹立ちを覚えることはままあるでしょう。いい歳をしたファンが、クリエーターに対してそうした矛盾も孕んだ複雑な精神的陰影を抱えているのは、当たり前の話です。中学生でもあるまいし、彼の精神・脳内がシンプルな「好き」だけで埋め尽くされているはずはないのです。

それでも多くのファンは、そうした「負」の感情や意見を表立って表明することはしません。
それが大人の「気遣い」であり「分別」だからです。
若い頃のワタシには、そこのところがまったくわかっていませんでした。

あんたはファンとして、平井和正のあの情けない発言をどう思ってるんだ? まさか積極的に支持しているわけじゃないよな? だったらなぜ云わない? なぜ黙ってる?
おれは云うよ。云えるよ。そいつを云ってみせるのが、おれがあの人から学んだ、平井和正魂ってやつだ。

ア痛タタタタタタ……。自分で書いてて寒イボ(関西弁で云う「鳥肌」)出るわ。これをお読みの読者の中に、タイムリープ能力者の方はいらっしゃいませんか? ワタシを2003年に送ってください。コイツに小一時間説教カマしたります。
平井和正せんせいも草葉の陰で、
「そんなことを教えた覚えはない」
「勝手に学んだ気になるな」
「そしてこちらに押しけるな」
そう仰っているに違いありません。
 
(私の小説を熱心に読みふけったあげく、ある種の使命感の虜になり、伝道の道へ踏み出す人々が存在する。面倒くさがりの私にはよく理解できないが、熱烈な使命感の推力によって、他人の誤った考えを変えてやらねばならぬ、と努力を繰り返す伝道者タイプの方々が、確かに実在するのである。私はこうした人々を嘲笑もしないが励ますこともしない。願わくば、ごの種の強力な動機に駆動される伝道者の皆さんが、私を見逃してくれるようにと密かに祈るのみである。)
――『夜にかかる虹(下)』収載「ある真面目すぎる読者への手紙」より
この「真面目すぎる読者」とワタシとは、表面的には対極だと思います。しかし、根本の部分では――変にクソ真面目なところなんかは、わりと似た者同士なのかもしれません。

他人の気遣い、分別を「臆病」「保身」と曲解し、自らの無神経、無分別さを「反骨」「率直」だと勘違いしている。その勘違いぶりも幼稚なら、それを誇示したがるところがさらに幼稚。それを「イケてる」「カッコイイ」って思ってやがったんですよ、ワタシってやつは。公衆の面前である店内で店員を怒鳴っている客と変わらない。彼もおそらく自分ではそう思っているのでしょう。それは酷く「みっともない」行為なのですが……。

華大、鈴木奈穂子アナが「今期の朝ドラ、イマイチだな」と仮に思ったとして、それを「あさイチ」の朝ドラ受けトークで口にできますか? あさイチの「今期の朝ドラ、イマイチトーク」……。できるわけがないし、またしてもいけません。それが「立場」というものです。
視聴者がこの人達の本音を知りたいと思うなら、言葉の端々や表情などから、それを読み取り、推察するしかないのです。

「ファン」には「ファン」の「立場」があります。好きなクリエーターを応援する者としての立場、同好の士であるファン仲間への気持ちを慮る立場が。
それを「馴れ合い」と云うなら、確かに否定はできません。けれども、彼らをバカみたいに肯定的な気持ちしか持ち合わせていないと思うとしたら、あまりにも想像力を欠いています。大の大人が、純粋に「好き」という気持ちだけでいられるはずはない。思っても云わないだけ、黙っているだけです。

完璧な人間はいない。こころ乱れたとき、醜態を演じてしまうことはある。24時間365日、フル操業で自己を律してはいられない。ときに無様な、カッコ悪い部分を晒してしまうこともある。そして、それを責める資格のある、完璧な人間もまたいないでしょう。
信者的にアクロバティックな理屈をこねくり回してまで、なにもかも肯定することはない。翻って、そんな彼にちょっとダメな部分、ダサい部分が見つかったからといって、この世の終わりみたいに嘆くこともない。
あらあらせんせい、どうしちゃったの? さすがにそれは失言ですよ?――ぐらいに思っておけばいい。ハイここ重要、試験に出るよ。そんなことは心の中で、こっそり思っておけばいい。せいぜいオフ会でしゃべるぐらいでいい。ネットでヒステリックに騒ぎ立てるのは、わたくしはこの通り器の小さな人間でございますと大声で宣伝するようなものです。
滅多に見れない、人間臭い部分を見せてもらえた――。そんな、落語の高座で居眠りをする老師匠に野次など飛ばさず、黙って見守り続ける寄席の客のような、粋な余裕をワタシも身につけたいものだと思います。

――否。そんなぬるま湯みたいな、馴れ合いは御免だ。
私はシビアに批評をする。讃えるべきは讃えるが、腐すべきはハッキリ腐す。結果、誰にどう思われようと構わない。
それも、結構。あなたが歩むべきは、「ファン」のそれとは違う、「批評家」の道です。
あなたはクリエーターから憎まれ、他のファンからも疎まれるでしょう。情と思いやりの世間からハブられるのは、批評家の宿命です。それでも批評としての質が評価されれば、あなたにはあなたのファンがつくでしょう。

――だけど、別に嫌いってわけじゃないんだ、憎くて云ってるわけじゃない。気持ちとして、あの人のことは本当に「好き」なんだよ。それをわかってくれよ?
わかりますとも。よくわかります。というか、そんなのは「当たり前」の話であって。「愛情」と「批判精神」の両方を持ち合わせているなんていうのは。それは「ファンあるある」とさえ云ってよく、自分だけ特別だと思っているとしたら、思い上がりが過ぎるというものです。
後者の「批判精神」を(少なくともパブリックな場所で)口に出さずにいられるか、黙って腹の内に収めていられるか? そこに、あなたの人間としての「器」が問われるのです。真実「愛情」があったとしても、それは免罪符にはなりません。ましてや「正しいことを云ってるんだから、受け容れるべきだ」なんていうのは甘ったれの戯言です。それを赦すか赦さないか、決めるのは相手であって、あなたではありません。
嫌われて悔いなし――であるなら何も云うことはありません。しかし、クリエーターも含め、嫌われたくない相手がいるのなら、口にしてはならない言葉、堪えなければならない振る舞いはあるということです。
クリエーターならびにファン仲間からの好感度か、表現者としての己れのエゴか。それはいずれかを選ばなければならず、両方を獲ることはできません。

だからこそ、クリエーターに対する自分の「負」の部分、「黒い」部分を「匿名」で、別名義・別人格を設けて発信し、その両獲りをしようとする人は後を絶たないのでしょう。
ですが、表現としてのそのやり方は、まったくお勧めできません。というより、おやめになることを強くお勧めします。その理由は前節で申し上げましたので、ここでは繰り返しません。

以上、「腐す側」に関して、云うべきことは云い尽くしたと思います。
ワタシは教条主義的なお説教は嫌いです。批判をするにも品位がどう、節度がどう、そんなことは云いたくありません。許される批判とそうでない批判に線引きをして、前者を奨励したり、云わんや自分がしているのは「正しい」「許される批判」であって、責められる筋合いではないなどというのは噴飯ものです。
たとえ正当な批判であれ、人を傷つけている事実に変わりはありません。それをする者はいくばくかの「罪」を背負い、いくばくかの人を傷つけ憎悪される、そのことを覚悟の上でそれをするほかはないのだと思います。
ワタシは自ら「腐す側」でもあった経験をもとに、ネットの「定数」としての「腐す側」の現実、それを云わずにはいられない者の事情を述べました。またそんな当事者に対し、クリエーター当人に及ぼす効果の程は乏しく、ほとんど無駄であり、なおかつ友達も失くすよという、説得はできないまでも忠告を残したつもりです。そんな人間の身の施し方、採り得る選択についても。
 
続く最終節は立場を真逆にチェンジして、《腐される側の巻》です。こういった輩のもたらす不愉快から、いかにしてわが身を守ればいいのか、愚見を述べたいと思います。
 
まえがき 本稿再掲載と「おユキさん」のこと

こちらも再掲載することにしました。「シン・“ガチャ文”考」三部作は、ここから生まれました。
書いた本人が云うのは憚りですが、おもろい。四年近くも経つと自分でも内容を忘れてて、どう展開していくのかワクワクしながら読んでしまいました。
当時名前がなかった「非実在レディさん」は、いまでは「おユキさん」と呼んでいます。平井和正ファンには由来は云うまでもありませんが、まもなく終わる朝ドラ『ばけばけ』の影響も加味されていると思います。


アンドロイドお雪

おユキさんのような方がもし現実にいてくれたら、彼女と組んで動画配信をやってますね(笑)。平井和正とか、アイドルのこととか、いろいろおしゃべりしてみたい。
自分で書いててこんなことを云うのも頭おかしいですが、彼女のツッコミのキレは素晴らしい。
「岡星良三か!?」には、声に出して笑ってしまいました。
おユキさんは「シン・“ガチャ文”考」最終章にも登場する予定です。乞うご期待。

 

……今日は『“ガチャ文”考』について、考察するっちゃ。(棒読み)

唐突なことを云っているのは、“ラム変化”をやっている非実在レディさんです。今回も登場していただきました。でも、もうちょっとやる気を出してください。

 

 

久しぶりに呼び出して、なにさすねん!? パワハラやわ。セクハラやわ。テレビ局が女子アナにやらせたら、BPO案件やわ。

別にトラ柄ビキニを着てくれとは云ってませんよ。まあせっかくですから、読者の皆さんにはそのビジュアルを想像していただきましょう。

朝ドラ日記はどないしてん? 沖縄アイドル好きのナノマシンが身体中の血管駆け巡ってんのとちゃうのん?

 

 

『ちむどんどん』ですか? あのドラマはそろそろ、黒島ちゃんに時間跳躍してもらいたいですね。沖縄返還前からいろいろやり直したほうがいいですよ、あの一家は。

だいたい、なんでいまさら『“ガチャ文”考』? 脈絡ないわー。いま話題にすんなら『8マンVS009』でしょ。

ついに「対決」から「共闘」のステージに入りましたね。いよいよ最終局面、ホームストレートを走り出した感があります。単行本は一冊に収まってしまいますかね? ちょっと寂しい気もしますが。いまはネタバレは控えますが、敵をあざむく作戦がマニアック過ぎる(笑)。さすがは七月せんせい。単行本待ちの方はどうぞお愉しみに。

あれ、じぶんも老眼で苦労してるやんな。wifiのパスワードとか。

きっかけは、「シン・ウルトラマン」でした。
「シン・ウルトラマン」は主人公像を宇宙人の力を得た地球人ではなく、地球人に擬態する宇宙人としたところが面白いと思いました。主人公=斎藤工のそのぎこちなさが、完璧な擬態で日本の諺すら熟知するメフィラス=山本耕史との対比になっています。

メフィラス星人な。フジ隊員が巨大化するやつ。

今作では禍特対の浅見分析官=長澤まさみが巨大化します。その画像が、ネットに拡散されてしまうあたりが今風です。メフィラスは彼女に詫び、進んだ科学力で、あっという間にそれらを消去してくれます。

そんな親切、出店する田舎の娘に割引券渡して「シャブ漬け」にする、どっかの牛丼チェーンの偉いさんみたいなもんやん。

せめて「ジャンクフード舌」と云いなさい。それがわかっていても、好感度爆上がりです。ワタシも消してほしいわぁ。ネットに撒き散らした、デジタルタトゥーを。メフィラス星人が、欲しい~♪ そう口ずさみたくなってしまいます。現代のネット社会に。

ガラにもなくワルぶってたもんなぁ、後悔してんねや?

もともとは争い事なんて苦手、弱虫の意気地なしなのです。そんな弱虫の意気地なしのくせして、しかしだからこそ「不良」に憧れた。憧れのままにワタシは「不良」を演じ、本物の「不良」になろうとしました。もちろん、なれはしませんでした。それでも現実に、大勢のひとを傷つけ、嫌われ、敵をつくりました。悔やんでも、悔やみきれません。
根っからの不良、三度のメシよりケンカ好き。そんな「本物」はそれ以外の生き方はできないし、仕方ありません。しかし、ワタシのように憧れによって本来不向きな自分を演じ、わざわざ身の回りの環境破壊をしているとしたら、愚の骨頂です。誰かが云っていましたが、「なりたい自分となれる自分は違う」のです。

ネットは装えるもんな。ブランドもんのバッグレンタルして、インスタ上げてるネーチャンみたいに。

あの経験があるから、いまの自分がある。だから、あなたも同じ経験をしてみなさい。――冗談でも、そんな口は利けません。後悔しかありません。
そうした言動を発した電子掲示板などウェブページの多くは、すでにありません。それでも、個人のパソコンのローカルディスクを始め、残っているところには残っていますし、なにより人々の記憶、やらかした過去そのものは消せません。まさにタトゥーです。プラスになったことなど、なにひとつありません。ワタシと同じ道を辿ろうとしている人がいたら「引き返せ」と、心からそう忠告したいですね。
そんな自省を込めて、「シン・“ガチャ文”考」にトライしたい。そう思うようになりました。

ハーイ、「書く書くサギ」いただきましたー。みなさーん、騙されないでくださーい。

そのためにまず『“ガチャ文”考』について注釈しておく必要を感じました。それを書いていたら、それだけで堂々たる一本の読書日記ができあがったというわけです。

『ウルフの神話』(徳間書店・1986年刊)という平井和正の著書があります。幻魔大戦読書研究会(以下、GENKEN)や新ウルフ会(以下、ウルフ会)の機関誌に寄せた文章を中心にまとめられたエッセイ集です。そのエッセイのひとつが『“ガチャ文”考』です。少し長くなりますが、その一節をご紹介してみましょう。

 

私が最初に“ガチャ文”や“生ゴミ”について考え始めたのは、“某GENKEN”という幻魔大戦ファンクラブの会誌の頽廃と堕落によって触発されたことによります。
“某太陽の戦士”と称するこの会誌は足掛け三年に渡って出されているんですが、ある時期から、私が“駄文の垂れ流し現象”と名付けた不快な“ガチャ文”がどんどん増加してきました。
 文筆家なら熟知していることですが、時折文章が自己増殖現象を見せるケースがあります。筆者の考えを逸脱して、勝手に文章自体が増殖してしまうのです。筆者が文章を書くためのテーマや意図を的確にコントロールしている場合はいいのですが、筆者自体がアマチュアだと、てきめんに自己増殖する文章に振り回される羽目になります。文章の文章による文章のための文章、といった支離減裂なセルフ・コントロール喪失の醜態を曝してしまうことになるのです。それは言葉の下痢症状、といった代物で、とめどもなく無意味な駄文を汚水のように垂れ流すようになります。これがまさしく“ガチャ文"の典型と言えます。
 奇妙なことに、“ガチャ文"は“ガチャ文”を呼ぶのです。“ガチャ文”は筆者の抑制を脱した慎みのない代物ですから、ある意味で刺激的です。反吐を吐く酔漢のように、他人の悪口を平気で書くようになり、エスカレートして押さえが効かなくなります。確かに書くべきでないことを書けば、文章は刺激的になります。抑制を外して行けば、禁忌破りという強い刺激的な要素に辿り着きます。それは酔漢が反吐を吐きながら、呂律の回らぬ口で汚穢な言葉を撤き散らすのと少しも変わりません。訳の分からぬ幼児が、汚らしい性的な卑語を喚き立てて、大人たちの反応を確かめ、喜ぶのと大同小異です。
 かくして“ガチャ文”は伝染し、流行し、会誌の紙面を黄色く染める汚物のように増殖して行きました。すなわちこれが“生ゴミ”化現象というものです。



――『“ガチャ文”考』(『ウルフの神話』収載)より


せんせの悪いクセやわぁ、読者ディスるのは。

三十年以上前、いまのワタシより歳下の平井和正が書いた文章です。せんせいも若かったのだと思いますよ。この頃は。
人間関係にトラブルは付き物ですが、まして相手は業界関係者ですらない素人の読者。トラブルは必至です。同業者や出版関係者より、読者との絆を欲した。読者に自ら近寄り、読者と親密になり、結果、読者に失望する。何度、同じことを繰り返してきたことか。
古くは(元祖)ウルフ会で、GENKENで、そして復活したウルフ会で。いずれも三下り半を突きつけることになりました。それでも懲りず、インターネット時代が到来すると、自身の公式サイト「ウルフガイ・ドットコム」に掲示板を開いたのです。終生、作家としての炎が燃え尽きるまで、読者との交流をやめることはありませんでした。……「孤高の寂しがり屋」とワタシは呼んでますけどね。
考えてみてください、凄いことだと思いませんか? AKB48より遥かに先駆けて「言葉を交わせる作家」だったのですよ、平井和正というひとは!

ネットもない、パソコン・ワープロもない時代に、手書きで手紙書いて郵送で文通してたんやろ? 熱いわ、熱過ぎるわ。平井せんせも、この時代の読者も。ビキニの半裸でも熱いわァ。

ホンマにその恰好してたんかい!
話は一旦脇道に逸れますが、こんな故事もあります。この「あとがき」はよく知られているでしょう。

 

 高価なハードカバーを出すことは、作者の見栄である。己れの豪華な書架に並べて自己満足に耽る楽しみもよいが、一般読者には迷惑だ。まず文庫で刊行してはどうですか。それだけの値打があったら、必ずハードカバーも買ってあげる。読者はそう思うのではなかろうか。素晴らしい内容の本なら、読者は読み捨てになどしない……読者の一人として私はそう考える。
 本は文庫がいい。バッグに詰めこんで海外にも気軽に持って行ける。どこへも連れ歩ける。場所を気にせず開いて読める。覗き視するぶしつけな奴もいない。文庫本は気のおけない親しい友達に似ている。
 私は文庫本がもっとも似合う作家になりたい。ボロボロになるまで繰り返し読んでもらい、更にもう一冊買って頂きたい。豪華本では手垢がつくのを恐れてろくに読んでもらえないし、第一私には似合わない。
――角川文庫『人狼戦線』収載「第二のあとがき」より


こんなことを云って、実際(小説)『幻魔大戦』は文庫本で出版していました。その一方で、『真幻魔大戦』は新刊本が新書版で出版されていました。するとそのことに怒る読者があらわれる。三百円も出せばたくさんだと云われてしまうのです。
※『ウルフ対談』(徳間書店・1985年刊)難波弘之との対談より。
ショックを受けた平井和正は、新刊本をハードカバーで出すようになりました。そしてより一層、文句を云われてしまうのです(笑)。ほかの作家はふつうにやってることなんですけどね。そしてほかの作家は、こんなことで文句を云われたりしません。
読者を想ってしたことが、かえって仇で返される。かえって嫌われてしまう。この要領の悪さ、この不器用さ。父親ほどの歳上で、しかもこちらも男ですが、母性本能をくすぐられますよ。世界中が彼の敵に回ったとしても、ワタシだけでも味方になってあげなければと思ってしまいます。

……完全に悪い男にダマされてるイタイ女になってるで、じぶん?

あえて前段から引用したのは理由があります。平井和正はここでちゃんとこうも云っているのです。「それだけの値打があったら、必ずハードカバーも買ってあげる。」――と。文句を云った読者は、都合良くこのセンテンスを読み飛ばしています。ハードカバーの『黄金の少女』に文句を云う前に、ハードカバーの『狼の紋章』買えよと云いたい。

買うか。そこまでマニアちゃうし。だいたい、想定してる読者像が水準高過ぎ。それって周五郎とかチャンドラーとかを愛読してる「自分」の姿やん? それを当然のように求めてもあかんわ。そんな読者は百人に一人、千人に一人。作家のグレードの問題ちゃうよ。それは周五郎でもチャンドラーでも同じ。読者なんてそんなもん。読書なんて暇つぶし。自分が創作に命懸けてるからって、読者も同じテンションで読んでくれると思ったら大間違いやわ。己れの命を削って、他人の暇つぶしに寄与する。それが作家という職業であり、宿命やんか。

……さすがはワタシが創造したキャラ。ワタシが説得されそうです。
そういうとこ、確かに「悪いクセ」なのは否定できません。でも、そんな過剰な読者への期待と、過剰な読者へのサービスって不可分じゃないでしょうか? そこはワタシにとって、作品を超えた作家=人間・平井和正の「魅力」であり「可愛い気」ですね。
読者サービスにつとめた挙げ句、読者に嫌われてりゃ世話はない。
『“ガチャ文”考』なんて、まさにその典型ですよ。原稿料が出るわけでもないのに、わざわざプロ作家が「文筆のイロハ」を指南してくださっているんですよ?
子供相手に大人げ無い、というのが世間的常識的評価なのでしょうが、ワタシは彼がこうして文字通り大人と子供ほどの年齢差を超えて真剣に、対等に、我々読者に接してくれたことを嬉しく思います。

そんな熱血高校球児みたいなやつばっかりちゃうからねー。あんたみたいなマゾ高校球児は、現役バリバリ米メジャーリーガーに大人げない160キロの豪速球喰らって、アリガトー、オータニサーン! 云うて喜んでるけどもやなぁ。ニコニコ、優しい顔向けててほしいわけやん? ごく普通のファンは。

実際、耳にした評判は悪かったですね。いい評判を聞いたことは、ほとんどありません。
悪評の理由は明解で、「文章のプロが素人の文章を酷評するとは何事か」というわけです。この点は、ワタシの意見は異なります。
これは『ウルフの神話』に収録され、そちらを読んだ読者が大多数です。しかし、もともとはウルフ会というファンクラブ――「共同体」における指導的立場から、会員へ向けたメッセージとして機関誌に寄せた文章なのです。そのことは、わかっていただきたいと思います。
ファンクラブという「共同体」、その関係性を条件に、ワタシはこの「厳しさ」を是認します。なにより、これは議論として「フェア」です。反論したければ、それはできたのですから。一般人が反論できないマスメディアである雑誌のコラム等で、著名人が一般人を名指しで攻撃する――例えば脚本家・宮藤官九郎が週刊文春の連載コラムで「カナメとかいうブロガーが、くだらないことを云っている」などと発言するのとは話が違います。

著名人が一般人を名指しで攻撃するのが、いけないこととされ、それが常識になっているのは、このように一般的にアンフェアであるからだと考えます。それが根本です。ですから、ファンクラブのような同じ土俵に立つという条件下では、話は別です。プロ作家と素人の実力差は、初めから問題ではありません。

昭和のファンクラブはかなり特殊な環境と云えたでしょう。しかし、いまやその環境は特殊でもなんでもなく、ネットというメディアは一般に普及し、著名人と一般人が直接対話するのは可能ですし、容易です。一般人もメディアを得たのです。ですが現実には、ネットで著名人が一般人を攻撃したりすると、いろいろ問題視されます。なにが問題なのか、ワタシにはわかりません。むしろ、こう思います。じゃあ著名人はボロクソに云われっぱなしか? 殴られっぱなしか? 著名人だって、同じ人間なのに。
山之内すずちゃんが「お前ごときが広瀬すずと同じ名前を名乗るな」と心無いことを云われても(>実話)、「やかましわ! 生まれたときからこの名前やねん! そん時は広瀬すずさんデビューしてへんねん! しゃーないやんか!」などと云い返したりしようものなら(>仮定)、「山之内すず、一般人に暴言」とかなりの確率でYahoo!ニュースで報道され、次の日曜の「ワイドナショー」「アッコにおまかせ!」の話題にされてしまう。一般人が武器――それもかなり強力な――を得た一方で、著名人は手足を縛られている。そんな無法がいつまでも罷り通っちゃいけないだろうと思います。
これは「常識」や「意識」がテクノロジーの進歩、社会情勢の変化に追いついていないというより、大多数を占める一般人にとっては、そのほうが都合がいいというだけでしょう。だから、いつまで経ってもそれが是正されないのだと思います。勘違いしてはいけません。ネット社会のいまや、一般人こそ「大衆=世間」を後ろ盾にする強者であり、「大衆=世間」には逆らえない著名人こそ弱者なのです。多数決は民主主義ではありません。たとえ少数でも、その人達を気の毒だと思いやる優しさがなくては、民主主義は正しく機能しません。

とまれ、それでも平井和正の云い種が「ひど過ぎる」という意見も、当然あります。しかし、それは平井和正という人物の人柄、人間性に関わる問題であって、著名人が一般人を批判する是非の問題には当たらないとワタシは考えます。

ウルフ会に入るとは、平井和正のもとに集うとは、どういうことか。少なくともそれは、「お客様」ではないと思うのです。
そこは云わば「道場」であり、平井和正との関係は「師弟」のそれであって、厳しいお言葉を賜ることだってあるわけです。平井和正を「ホスト」のように考えるのは、決定的に間違っています。

美食倶楽部で板前修業の岡星良三か、お前は!?

海原雄山に弟子入りするようなもんですよ。その覚悟がなかったとしたら甘過ぎる。
ですが「悪評」の矛先は、上に引用したGENKEN批判をしたことではありません。ウルフ会機関誌に掲載された投稿を批判したことによります。そもそも『“ガチャ文”考』は、その投稿から生まれました。『ウルフの神話』には残念ながら収録されなかったその投稿を、ここでプレイバックしてみましょう。

 

坊や いったい何を教わって来たの
――坊や、いったい何を教わって来たの?

 


――「狼火」3号より。前の投稿者の氏名を伏せました。問題の投稿には氏名の記載がありません。

悪いけど、わたしも同情はでけへんわ。どこにでもおるやん? こういう、アニメ雑誌の読者投稿欄にわざわざ「アニメばっかり観るな」とか云うてくるヤツ。

三十年以上も昔の話です。彼だって若かった。いまさら蒸し返されても困るでしょう。
当時ワタシと同じ十代だったとすれば、これたけ書けるだけでも立派なものです。ワタシなんてこの頃は、作文は大の苦手。文章なんて一行だってろくに書けず、大阪の会合に出席するだけの幽霊会員、恥ずかしながら何の貢献もできませんでした。それでもT女史の強烈な文筆にむっちゃ憧れて、いつかこんな文章を書くんだと、野望だけはメラメラ燃やしてましたね。そんな十代でした。すみません、関係ない話でした。

なんで『ウルフレター』みたいに、ペアで収録せえへんかったやろ? 『ウルフの神話』で読んだ一般読者からしたらモヤモヤするやんか。批判してる当の原文が読めへんわけやから。

『狼(ウルフ)より若き友への手紙』(『ウルフレター』は読者の氏名をイニシャル表記するなど、改変・再編集した新版)ですね。作家として極めて特異なエッセイ集であると同時に、極めて「平井和正らしい」とも云える、読者との往復書簡集です。確かに、その形が理想であったとは思います。
平井和正エッセイ集として不要と考えたのか、それとも収録の許可を得ようとしてそれがかなわなかったのか(それも当然ちゃ当然ですが)、事情はわかりません。そのアウトラインは『“ガチャ文”考』そのものからある程度つかめるとしても、そのことがあたかも欠席裁判のような印象を与え、悪評の一因になったかもしれません。

ウルフ会会員の間でも、ごっつい評判悪かったけどね(笑)。

おっしゃる通りです。ですが直接顔を合わせてなら聞くそうした評判が、機関誌に載ることはありません。そうした声は表には出ず、陰に潜みます。
『“ガチャ文”考』がウルフ会に及ぼした効果は、良くも悪くも絶大でした。悪文・駄文があふれることはなく、品の良い平穏な紙面が保たれました。けれども、それはまるで厳格な校則に縛られた「平和」な学園、萎縮し、みな大人しく従順ではあるが実は面従腹背、窮屈で活気に欠ける紙面であったようにワタシには思われました。

『黄金の少女』のことも、話題になれへんかったもんね。タブー?(笑)

当時「SFアドベンチャー」誌で連載していた――これが始まったからこそ、「ウルフ会」も復活したのですが――ウルフガイの続編でありながら犬神明が登場しないという超問題作について、文字通り本当に何ひとつ語られることがないという有り様でした。どうなってんだという文句のひとつもあっておかしくない状況だったのですが……。

大抗議が殺到してなおかしいわ。ウルフガイのファンクラブやのに? どう考えても不自然やん。
『狼のレクイエム』のあとがきに載った「殺害予告」の迸る熱いパトスはどこ行ってん!? ちょっとおとなし過ぎんでヒライスト!!!

あなたもたいがい過激ですよ。いま、それをやったら、シャレになりませんて。
でも、すごく大事なことを云ってくれました。ご指摘のあった『狼のレクイエム 第一部』収載「中央線沿線人狼戦線」。これは平井和正が通っていたであろう喫茶店のトイレの壁に書かれた、まさに文字通りの便所の落書きであるわけですが(笑)、これが著書の「あとがき」に採用された事実は示唆的です。これは笑える。愉しめる。「いつまでも待たせやがって」という腹立ちをユーモラスに表現しています。
これを変に勘違いして、上っ面だけマネをして、ただ過激な方向に突っ走ると、ネットに見られがちな、ただのいわゆる「便所の落書き」になってしまいます。この微妙にして決定的な違いというのが、本当に重要なんですけどね。ソニー・リンクスと江田四朗の違いといいますか。
でも、この種のニュアンスの話になると、「ソニー・リンクスと江田四朗がどう違うというんだ? ソニー・リンクスが健全な悪ガキで江田四朗が気持ち悪いなんていうのは、お前の好みに過ぎないじゃないか。そんな恣意的な個人的好みで運営をするのか」とか云うてくるやついるんですよ。なので本当に難しいんですけどね。だから、こういう計量的には測れない、明文化もできない、よってマニュアル化もできない、マインド、感覚に属する問題って、あまねく人々に教えて、理解してもらうって、そもそもムリなんですよ。一部編集スタッフが平井和正の「マインド」を理解して、それで投稿の採用/不採用を判定するしかない。これはまたあとで述べます。閑話休題です。話を『黄金の少女』の話題がなかったところに戻しましょう。

編集で「没」にしていたのなら、まだ救いがありますが、思うにそんな投稿さえ寄せられていなかったのではないでしょうか。GENKEN機関誌の「汚染」に辟易して、平井和正は思い切った手を打ちました。しかし、原則ボツなし自由投稿のGENKEN機関誌がそれゆえの頽廃に陥っていたとすれば、こちらはそれとは逆位相の共産主義的管理社会・井沢郁江率いるGENKEN(本家)のような息苦しさ、不健全さの弊に陥っていたように思います。

『“ガチャ文”考』はワタシのような日曜ライターにとっては、まさに教訓の宝石箱です。けれどもそれとは別に、ウルフ会に及ぼした効果という点で云えば、ワタシは「失敗」だったと思います。結果論ですが。
『“ガチャ文”考』は「密教」だと、ワタシは思うのです。つまり、大っぴらに口にしてはならない真実です。

平たく云や、「アホには読ますな」ということね。

それはレトリックを著しく欠いた云い方です。もしくは、悪意あふれるレトリックを用いた云い方です。
頭の良し悪しではなく、さっきも云った「マインド」ですよ。感性、価値観と云ってもいい。要は通じるひとには通じるけど、大部分にはそうではない。しかも、社会的にはかなりの差し障りがある。そういう類の思想です。

一読者としては、これを読ませてくれた、広く公開してくれたことには、大感謝しています。ですが矛盾していますが、わざわざ嫌われることを云うことはなかったとも思います。まるで大好き過ぎるアイドルに、水着になるのはやめてほしいと願うような、そんな相反する、自分のなかで相剋する想いがあります。

あんたらしいわ。わかり易いは、その喩え。わたしのセクシートラ柄ビキニもやめてほしい?

それは勝手にしてください。

誰かコイツの意識界から、44マグナム持ってきてーっ。西城恵か田村俊夫のやつ。

エッセイ集に収録するなどやめておくのはもちろんのこと、ウルフ会機関誌にさえ載せるべきではありませんでした。編集スタッフにだけ、そっと「心得」として伝えておけばよかったのです。一般会員に説教する必要はなかった。彼らには自由にものを云ってもらい、編集スタッフに「載せる投稿はしっかり選べ」と指南すれば良かったのだと思います。それと、ワタシにだけ読ませてくれればなおよかった。
匿名X氏を批判するのでなく、それを(言葉は悪いですが)標本にしてあまねく会員を啓蒙するのでもなく、その投稿を機関誌に載せた編集スタッフを叱るべきでした。それとも、『“ガチャ文”考』を発表するために、もともと没にするはずだった投稿をあえて無記名で掲載させたのでしょうか……? だとしたら、オヌシもなかなかのワルよのぉ、と云わねばなりません。

仮にあんたの云う通りにしてたら、ウルフ会、上手くいってたと思う……?

ダメでしょうね。それはそれで、別の問題が起こってたと思います。それが現実のウルフ会の歴史よりもマシであったかもわかりません。ひとの集うところ、必ず問題は起こるもんです。何事もなく上手くいくなんて、それこそ有り得ない。特に共通の趣味者同士で集まるなんて、とびきり闇が深いですから。
だからこそ、平井和正がそれを見越していたかはわかりませんが、ウルフ会を「ウルフガイ・プロジェクト」の一環として、「2年間」の期限を切ったのは大正解ですよ。ふつうは息の長い活動にしようと思うものですが。86年、箱根小涌園の全国大会でスパッと終了したのは、有終の美を飾りました。内実はグズグズのガタガタだったと思いますが……。

リアル「箱根セミナー」の会場な(笑)。

個人的には、名エッセイだと思います。一億総ライターであるネット時代のいまこそ、多くのひとに読んでほしい。ですが、“ガチャ文”の具体例をサンプルとしてあげつらうことが避けられないだけに、どうしてもそこのところを責められ、嫌悪される宿命を負う。なかなかの問題作でもあります。

また、いまとなっては、さすがに「古い」かなとも思います。
それは平井和正の教えではありません。そこはいまも古びていない、「読むべし」と思います。古くなったのは、共同体だからこそ時に厳しい言葉が飛び交うこともある。――そのワタシの認識、時代の状況のほうです。

そやねん。だいたいあんた、昭和オヤジやねん。ノリが。

『“ガチャ文”考』が書かれた頃は、さずかにワタシもまだ昭和少年だったのですけどね……。

その頃から浮きまくってたんやろ? 昭和の時代にすでに時代遅れやん。あんたみたいなのが、ウルフガイ・ドットコムの掲示板でデカい顔したらアカンて。

それはホント反省してます。黒島結菜ちゃん(の役)のような、時間跳躍能力が欲しいです。あの頃からやり直したい。できることなら。

好きな作家、好きな作品、好きな何かを語り合う、共有する。そのために、まず集まる、共同体をつくる。「電子掲示板」の頃にはギリあった村社会、ファンクラブのノリって、もう完全にあれへんもんね。

関心をもつ共通の話題で結ばれても、そこに群がってるのは「仲間」でもなんでもない、バラバラの個人。
ファンクラブやサークル、電子掲示板は「共同体」であるがゆえに、真剣な議論が成立した。それが成立し得る「信頼関係」があった。もちろん、そのこと自体、実際問題タテマエでしかありませんでした。そのタテマエすら、もはや基盤から喪われています。SNS時代が到来して、完全に時代は変わりました。

SNS時代に即した『“ガチャ文”考』を書きたい、それにトライしたい。そう思うようになりました。ワタシごときがおこがましいのは承知の上で、日曜ライターとしての血と肉と魂を与えてくれた、その御恩に報いたい。なにより、ワタシ自身が読みたい。そう思うからです。

やっと「本論」に入れるわけね。ここまでは(小説)『幻魔大戦』で云えば1~3巻? GENKENの物語はここから始まるって感じ?

「本論」がものになるかはわかりません。発表は数カ月、数年先になるかもしれず、あるいはお蔵入りするかもしれません。なにしろ「書く書くサギ」なんで、ご期待は乞いません。

あと、これだけは云わせてください。持ち上げるだけ持ち上げといて、こんなことを云うのもなんですが、黙っているのも気が咎めるので、正直に白状します。
ワタシはあの「改造文」は、どうにも好きになれません。変にナヨナヨしてて、軽くムカつきます(笑)。あれが普通に投稿・掲載されてたら「シャンとせい」と云いたくなるところです。平井せんせい、ガラにも無い文章書いたもんだから、エライ気持ち悪い仕上がりになっちゃってます。匿名X氏の投稿は根拠に欠けた未熟な主張ではありますが、あれはあれで原文の書き手に失礼な気がします。

狂信者やと思ったら、そういうコトも云うんや?

いわゆる「信者」かどうかは、傍目にジャッジしていただく問題です。ワタシは自ら進んで信者になろうとは思いませんが、そうではないと声高に自己申告するつもりもありません。ワタシはワタシの熱量で、ワタシの想いを正直に語るだけです。圧倒的な「父性」に対する山岡士郎のようなややヒネクレた反抗心もあれば、熱烈に慕う岡星良三のような気持ちもある。どちらもワタシの中に真実存在する想いなんですよ。ワタシの中にあなたがいるようにね。
これはなにも、ワタシだけの特殊な性質ではないと思います。誰のこころにも山岡士郎と岡星良三が共存しているのだと思います。ひとによって山岡士郎の濃度が高かったり、岡星良三が濃い目だったりするだけです。そんな山岡士郎と岡星良三が、ひとつ所に集まったらどうなります? 漫画「美味しんぼ」のように仲良くできればいいですね。でも、現実はそうではない。往々にして、こういうことになってしまいます(笑)。

 


今回はモノローグで語るより、別人格を設定してツッコミ役を配するほうが、ずっとわかりやすく、かつ圧倒的に面白いと思ったので、ご登場いただきました。

最後に悪口云う? あれだけ賞賛擁護しといて。

なにがいけないんですか? ひと様を悪く云うななんて、『“ガチャ文”考』ではひとッッッ言も云ってやしませんよ。

 

人様を批判するには、それなりの用意と準備に時間をかけるという礼儀が要求されます。


――とは云ってますけどね。大体もしそんなことを云ったとしたら、それこそどの口が云ってんだですよ。悪口の名手ですからね、平井和正せんせいは。それなりの用意と準備に時間をかけて、云いたいことは云やいいんですよ。
「口の利き方に気をつけろ」とも「運営には逆らうな」とも云っていない。云っていないのに、そのように誤解され、誤解の上に、無言の不平不満が燻っていた。それが『“ガチャ文”考』ならびにウルフ会の不幸であり悲劇だったとワタシは思いますね。

うち、帰って風呂入って屁ぇこいて寝るっちゃ。

そこだけ“ラム変化”すんのやめろ。


2022.06.19 初出
2026.03.22 再掲・一部変更

 

 

 

まえがき 最終章発表と過去作再掲のこと
 

 

これを書いていて、未完のままだったテキストがあったことを思い出しました。
この度、その最終章を書き終えました。「シン・“ガチャ文”考」三部作と呼びたいと思います。その発表に先立ち、その過去作を再掲したいと思います。
発表したのは三年以上前で、よほどのリピーターさんでなければ、初めてお読みになる方が大部分ではないかと思います。
ブログの読者の大部分は通りすがりの一見さんであって、過去の日記のリサイクルは、ブロガーが行うべき当然の配慮であると思っています。
リピーターさんからすれば「使い回し」と思われてしまうかもしれませんが、リピーターさんからそう思われるのは構いません。そう思われたって、今後もリピートしてくださるのですから(笑)。有難いことです。今度もよろしく御贔屓に。
最大限配慮すべきは通りすがりの一見さんであって、三年以上前のテキストをリンクひとつで、藪から棒に最終章を発表するような横着はできません。これから一週ごとにアップしてまいります。
初回の《イントロの巻》は、ほとんど手を入れずに済んだ「再放送」ですが、次節はかなり手を入れた「アップデート版」になる予定です。

 

(1)ネットは実社会の一部。振る舞いは実生活のままで。

実生活での憂さを晴らすべく、「後ろ暗い本音」「日頃の鬱憤」をネットで発散している、あなた。悪いことは云いません。その態度と認識を改めるべきです。実生活での自分と、ネットでの自分。それらを一定にすることです。もしあなたが実生活でも「ならず者」で「不良」――平井和正文学で呼ぶところの「虎」であるなら、ネットでそうであっても構いません。しかし、あなたが実生活では善良な小市民たる「羊」であるなら、ネットでの振る舞いも、それに合わせるのがよろしいでしょう。
実生活とネットで「キャラ」を変える。……すみやかに、おやめになることを勧めます。恥を忍んで白状すれば、昔のワタシがそうでした。「羊」のくせして「虎」のふり、争い事も幾度か。……みっともないといったらありません。そして、いまやそれは「みっともない」では済まされません。ネットでの野放図な振る舞いが、実生活の破滅をもたらす時代は、とっくに到来しているからです。
就職で、結婚で、人生の大切な節目で、それらの行状がどんな足を引っ張る「前科」になるか、知れたものではありません。「不幸の爆弾」を自ら抱えるようなものです。ワタシが決して「道徳論」を口にしているわけでないことは、おわかりいただけるかと思います。
自分は匿名でやってるから大丈夫? さて、それはどうでしょうか。

(2)暴かれる「匿名」の所業

いまどきの企業が就職希望者の「ネットの身体検査」をしていることは、つとに聞くところです。報道もされている、まぎれもない事実です。炎上案件の当事者がプライバシーを暴かれてしまう事例もよく目にしますが、個人のネット民・特定班が持つスキル・ノウハウを、プロの調査会社はもちろんそれ以上に知悉しています。新規取引先の信用度の審査と同程度の熱意で、自分のネット上の素行を洗われたとしたら……? 匿名や裏アカなど素人の隠れ蓑が、果たしてどこまで通用するでしょうか。

 

 

いまは「業者」を使って「企業」が大金を投じて調査をしていますが、これは数年レベルの近い将来、「アプリ」を使って「個人」でお手軽にできるようになるのではないでしょうか? 突飛な想像ではなく、ごくごく妥当な予測としてそう思っています。
みだりに「本音」など、口にするものではありません。デジタル・タトゥーを残して後悔したりせぬよう、ゆめゆめ気を付けたいものです。

なにも真実、心の底から善人になる必要はありません。人前での振る舞い、態度において「善良」であればいいのです。他人とは基本友好的に接し、苦手な相手とは穏当に距離を置く。争いは極力これを避け、必要最低限に留める。ぶっちゃけ「偽善者」です。それで良いのです。実社会、実生活における振る舞いと同じです。
本音のぶつかり合いを良しとする。そんな「若さ」からは早いとこ卒業しましょう。もちろん、実生活でもそういう感じ、本物の「虎」である方は、それでいいのです。問題は、ネットでだけそういう「キャラ」を装っている「羊」の方です、昔のワタシのような。それって将来「黒歴史」として、後悔することになるんじゃないでしょうか。経験者として、そう思うわけです。
虎ぶるのはトラブルの元。山田く~ん、おれの座布団返して!?

 

推薦図書 ~ 『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』 ~

現在単行本で3巻まで刊行されています。個人的にはネット訴訟、情報開示請求の実態をつぶさに描いた最初のエピソード=第1巻に最も読み応えを感じました。「腐される側」としては参考に、「腐す側」としては戒めになります。

 

 

「ああいう事をする奴らが」
――『しょせん他人事ですから ~とある弁護士の本音の仕事~』第1巻より

 

(3)人間、オモテ面が全て。

臆病で小心。それが裸の自分であったとして、それは一生、どう頑張ったところで変わりはしません。勇敢でカッコイイ自分でありたい、そうなりたいと望むのは人情ですが、まずそうなれはしないでしょう。
「臆病で小心」な裸の自分が、経験を積み重ねて(文字通り)身に着けられるものがあるとすれば、それは鎧――分厚い装甲に尽きるのではないでしょうか。そう簡単に、裸の自分は出さない、見せない。どんな苦しい試練に遭っても、態度を乱さず崩さず、日頃の平静さを保つ。その装甲の頑丈さが「強い」ということ、「大人」であるということ。それこそが「人格」――人としての格なのだと思います。

その点、ワタシはと云えば、たかだか二カ月間の入院による施設の隔離で、実にわかりやすくメンタルに刃こぼれを起こし、平素なら有り得ない考えられない言葉を口走ってしまいました。ほとほと情けなく、恥ずかしく思うことしきり。ワタシは弱い。まだまだ苦労が足りないなと実感します。

極論すれば、人間、オモテ面が全て。ということになります。こう云うと、問題発言っぽく聞こえるかもしれません。
ですが、だからこそ人間は変わるし、変わり得るのだとワタシは考えます。いまはどうしようもない人間だったとしても、先に希望はあるのだと。それは努力で身に着けられるものであって、その人の努力次第だからです。

天然の根っからの善人などそうそういるはずもなく、多くはそれを装うほかはありません。その努力に価値を置かず、そうした表面上の態度を「メッキ」と呼び、それは「偽り」であって評価に値せず、その人のいわゆる「本性」しか見ようとしないのは、持って生まれた天然の資質――人種や家柄、容姿の良し悪しといった、本人の努力ではどうにもならない先天的要素で人を差別する考え方に等しくはないでしょうか。
ひとは心乱れたとき、醜態を晒してしまうもの。それこそが「本性」というのも、一面の真実ではあります。けれども、単に社会的ペナルティを課せられるからでなく、そのことを恥じ、悔い、克服しようと努力するのも、また人間性の一面の真実ではないでしょうか。そのことに、もう少し大らかになってはどうかとワタシは思います。だからワタシのことも、ちょっと大目に見てねと云うようで気は引けるのですが。

 

人は「態度」しか見ないし、見ることができません。「内心」を直視することはできません。プリンセス・ルナではないのですから。

※ 平井和正著『幻魔大戦』の登場人物。超絶の読心能力で人の心の中を洗いざらい読み取ってしまう。
「内心」「本性」「性根」「人間性」……なんと呼んでもいいですが、真にそれを高めたり、清らかにしたりするのは至難です。だから「態度」をキチンとして、「いい人」に見られるのが得策ですよと、ワタシは「道徳論」にあらざる狡い「処世術」をアドバイスしています。

(4)「選ぶ立場」としての他人の見方

ここまで申し上げたのは「選ばれる立場」の話です。「選ぶ立場」としては、どうでしょうか。
これも至ってシンプル。「態度」=「オモテ面」で判断するだけです。
好感がもてる。愉快な人だ。⇒お付き合いする。
イヤな感じ。不愉快な人だ。⇒避ける。

それだけです。「人間性」を見極めるなどという、何様な査定をする必要はありません。
――お前はおれの何を知っているというんだ?
知らんわ。あんたの好感度はドン底なんだよ。こっちはドン引きなんだよ。その事実を知ってるだけだ。

「態度」がまともである。それは少なくとも、そのように振る舞える人物、そういうわきまえ・良識のある人物であるという、そういう評価ができるわけです。

もちろん、結婚するとか、いっしょに商売をやるとか、そんな濃密な間柄であれば、もっと深い部分をお互いに知る必要があるでしょう。しかし、ご近所や学校・職場といった、薄く浅い付き合いであれば、コレで充分ではないでしょうか。
ネットもそうです。というより、ネットはもっと薄い。ペラっペラの人間関係です。
そんな薄っすい薄っすい、赤の他人に毛が生えただけの知り合いに、家族や親友、恋人でもあるまいし、裸の自分など見せてどうします? むっちゃ恥ずかしいことですよ。とんだ恥さらしですよ。

(5)お詫びと恩返し

 

ワタシは自分自身の懺悔、反省、総括を期して、これを書いています。本物の「虎」である方は気にも留めないでしょうし、大多数の常識ある方にとっては何を今更な、ただの常識。一見逆張りの暴論っぽく見えてしまうとすれば、世の現実ではあっても、はっきり口に出してそう云うのは憚られる暗黙のルールだからでしょう。
そして「羊」のくせして「虎」ぶりっ子、そんな昔のワタシのような、ただいま現在、現役でそういう方には届かない、刺さらない。強い反撥でもしてもらえたとしたら、せめてもです。誰が読むんだ? 役に立つのか? そう問われれば、このブログ全体がそうなんですが、その極みです。
それでも、「遅効性の毒」とは正逆の作用を及ぼす――昔目に・耳にした言葉が「あとになって沁みるてくる」ことってあるのではないでしょうか。ワタシには遠い昔に読み、それがずっと歳をとって、あれは正しかったとしみじみ想う、そんな平井和正せんせいの言葉があります。

大事なことをひとつ
――ウルフガイドットコム「はじめまして掲示板」より

ワタシの「虎ぶりっ子」は堂に入っていて、当時は洟もひっかけませんでした。ずいぶん丸くなったもんだと、そのぐらいに思ったように記憶しています。思えばそれは、ワタシが平井和正ファン人生における「セミリタイヤ」の一時期に至る兆候でもありました。

 

何もなかった、何も見なかった、そう思えてきます。「それ」は存在しなかったのです。


「イラッ」とする「人物」や「発言」に遭遇してしまった。そんなときの対処法として、これが一番の「正解」ではないかと、いまでは思います。
この言葉がワタシを変えたわけではありませんが、この二十年の間にワタシもそれだけ歳をとり、こんなワタシの精神も少しはアップデートされました。その差分がこの教えの正しさを、またかつてのワタシの若さ、青さ、愚かさを思い知らせてくれるのです。

「言葉が届かない」とお嘆きの方をしばしばお見掛けします。が、いまは聞く耳を持ってもらえなかったとしても、その言葉は相手のこころに撒かれた種子となって、時間をかけて芽吹く日はいつか訪れるかもしれませんよ?
ワタシのテキストが、そのように記憶に留まり続け、効果を及ぼすなどと期待はしません。ワタシの動機の第一は、平井和正せんせいへのお詫びと恩返しです。ワタシの人格形成に絶大な影響を与えてくれたにも関わらず――だからこそと云うべきか(笑)――実に容赦無い言葉でこき下ろし、離反した一時期を過ごしました。そんな若さゆえの過ちを謝りたい。そして、『“ガチャ文”考』などの大切な言葉、教えをいただいたその御恩に、及ばずながらSNS時代に対応したワタシなりのアレンジを施すことで報いたいと思うのです。云わば「シン・“ガチャ文”考」――物語を他者がリメイクすることを「二次創作」と呼びますが、これは云わば「二次エッセイ」、エッセイのリメイクです。

 

 

さて、ここまではネットライフの一般論を述べてきました。お待たせしました、次節からはいよいよこの「処世術」に則り、本題である「ファン」としての言動、クリエーター当人ならびに「ファン」同志とのコミュニケーションについて、話を進めたいと思います。


2022.12.25 初出
2026.03.21 再掲・一部変更
 
 

Sugar『Coffee Break』
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多摩市・カナメさんからのリクエスト、アルバム『Coffee Break』より、Sugar『熱い夢』をお送りしました。
訳あってアナログレコードプレーヤーを購入したワタシが、当時CD化・配信ともにされずにいたSugarの名盤『Coffee Break』を取り上げたのは2024年11月。

前回のあらすじ

 

このアルバムの配信が始まっていたのですよ! 「2026 Remaster」の表記があるので、開始は今年に入ってからでしょう。いやぁ嬉しい、有難い。
 

有難ついでに付け加えておくと、先着5万枚の付属特典「パロディ・シングル」(いまだったら「ボーナストラック」になるところでしょうけど、時代ですねえ)『ウエディング・ベル その後』『オー・ラーメン』(笑)まで配信されてます!!!


みき(キーボード)、モーリ(ベース)、クミ(ギター)の三人組、81年のデビュー曲『ウエディング・ベル』でブレイクした女性バンド「Sugar」を覚えているのは、ワタシと同じ立派なオジサン・オバサンでしょう。
シングルのボーカルは決まって、みき。なので彼女らのことを覚えている昭和世代にしても、多くの人々の記憶にあるのは、彼女が歌う曲であり、そんな三人組の姿でしょう。

ルックス的に美人である、みきがシングルのボーカルをとるのはテレビ向けの戦略としてもっともですが、Sugarの魅力はそこに留まりません。彼女らは三人が三人ともボーカルをこなせ、アルバムにはモーリやクミがボーカルを担当した曲が収録されています。
ギャルのみき、お嬢キャラのモーリ、やさぐれ不良キャラのクミ、これら三人三様の個性のフュージョンこそ、Sugarの魅力で真価だとワタシは思います。
冒頭お聴きいただいた『熱い夢』は、そのひとつ。四十年越しに聴くいまも、アンニュイなクミの歌声は色褪せません。ワタシの大のお気に入りの一曲です。

その三人でボーカルを分担、それぞれのパートでリレーしていく歌があります。
『Bobbysoxer 物語-夏の少女Anna』がそれです。ジャスト10分の長尺で、バイク乗りのお転婆娘「Anna」の恋と成長を歌います。

 

始まりのモーリ・パートでは、Annaはこんな風に嘯いています。

 

恋はgame ルールは「Halloからgood byeまで」
洒落と嘘で固めること
甘い言葉も 洒落だから 酔えるのよ


ですが続くみき・パートでは、そんなAnnaが本気の「愛」を知ってしまいます。
 

愛に気が付いてしまったAnna
失うことが恐くなったら
もう無理よ 洒落が全ての恋に
戻れないわ Anna……


最後のクミ・パートでは、そんな「愛」が終わりを迎えます。
ここまで客観視点で語られてきた詞がここへきて、まるでAnnaを見守る母親的な視線のそれに変化します。

 

奇麗だわ 本当よ side-mirriorを もう一度
さあ 覗いて見て テレてないで
大人子供のあい間を抜ける風のようよ
Anna, you're so beutiful

 

これらを収録したSugarの2ndアルバムが、『Coffee Break』です。一発屋でないことを証明した2ndシングルで大ヒット曲『アバンチュールはルックスしだい』を収録しなかったのは、自信の表れとも受けとれます。

シングルでしかSugarを知らない人々に、この名盤を知ってほしい、聴いてほしい。そして彼女らの真の魅力を伝えたい。その一心で、この日記を書きました。

 

最後にお送りするのは、もちろんこの曲――。多摩市・カナメさんからのリクエスト、アルバム『Coffee Break』より、Sugar『Bobbysoxer 物語-夏の少女Anna』。

 

これまでCD化も配信もされなかったのは、諸事情あったのだろうと思います。ここに漕ぎつけた関係者の皆様の尽力と鋭意に、感謝を捧げます。

この名盤が現代に「商品」として世に供給されるようになったことを全力で言祝ぎ、拡散したいと思います。

 

すっかり懐かしの80年代カルチャーを語るブログになってますね。そんなつもりはないのですが。


Sugar『Coffee Break』
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1983年3月1日発売

 

むぎわらの 恋の手ざわり
やわらかい 季節のDay dream
気の早いキスなんて 困るエスカレート


多摩市・カナメさんからのリクエスト、河合奈保子『ストロー・タッチの恋』をお送りしました。
作詞・来生えつこ、作曲・来生たかお。5thアルバム『あるばむ』※1で、A面の竹内まりやとともにB面を担当。アーティスティックなナンバーで河合奈保子の新境地を花咲かせた御存知、来生姉弟が、今度は見事に奈保子ちゃんのシングルを書いてみせました。

河合奈保子のシングルは全36曲。デビュー曲からちょうど1/3の12曲、1980年6月のデビューから丸三年間を、ワタシは河合奈保子の「アイドル期」と位置づけています。この歌はその12曲目に当たります。

「アイドル期のフィナーレ」というタイトルは、前に『夏のヒロイン』の奈保子日記※2で使いました。別に偽ったつもりはありません。それは「始まり」だったのですから。

82年6月リリース、9曲目のシングル『夏のヒロイン』から、その「アイドル期」のフィナーレが始まりましたが、いよいよこの歌でその大トリを迎えます。

81年秋、NHKホールでの事故で大けが、入院~療養を経て復帰するも、長らく腰にコルセットを着けての活動を余儀なくされました。そんな彼女が、ついにそのコルセットの軛からも解放されたのが、82年夏。
まるでそれをお披露目するかのように、特集誌※3では水着を披露! それに先駆けて発表されたシングルが『夏のヒロイン』でした。
清純派として、おとなし気なドレス姿が主であった彼女が、開放的かつ大胆なステージ衣装のミニスカートから覗かせるおみ脚で、軽快ににステップを踏んでみせました。

当時の全てのファンが、アイドル・河合奈保子の完全復活――そう思ったことでしょう。
ですがこの歌が、河合奈保子歌謡史における「アイドル期」、そのフィナーレの「始まり」であったのは、彼女の歴史を俯瞰する後世の人間だからこそ知り得る運命の皮肉だったかもしれません。

続くシングル、竹内まりやの『けんかをやめて』に始まる一連のアーティスト路線は、次のステージに至る、云うなれば「端境」です。
さらに竹内まりやによる次曲『Invitation』をはさみ、『あるばむ』を経て、満を持して放つ来生えつこ・たかお姉弟によるシングル第12弾、『ストロー・タッチの恋』――。

恋する気持ちを麦藁の手触りになぞらえる、爽やかさ、やわらかさ。
「気の早いキスなんて」――そんな詞が似つかわしいのも、十代ならでは。このとき河合奈保子、十九歳。二十歳の誕生日(7月24日)を目前に控えていました。こうした歌を新曲で発表できるのも、ギリギリの年頃だったと思います。

『あるばむ』に収録された担当曲はアーティスティックな傾きの歌揃いでしたが、シングルでは見事に「アイドルソング」を仕上げてきました。流石は中森明菜のデビュー曲『スローモーション』、薬師丸ひろ子『セーラー服と機関銃』(原曲『夢の途中』)を手掛けた来生姉弟!

ここでもう一曲、お聴きください。多摩市・カナメさんからのリクエスト、『ストロー・タッチの恋』のB面、河合奈保子『若草色のこころで』。


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膝のオレンジ 香りたつ春のいぶきに
口に含むのが 惜しくて抱いている
愛していると 言えなかった恋は
甘く熟さなかった 果実に似てる


このB面も来生姉弟の作であることに、要注目です。竹内まりやの『けんかをやめて』、『Invitation』はいずれもA面のみ、カップリングは作者が異なります。
そのせいか進行形の恋と、終わった恋からの出発という対をなすふたつの歌は、まるでひとりの少女の一連のストーリーのようにも受け取ることができます。
(「気の早いキス」も、せず終いだったかのかなぁ……)

このシングルが、河合奈保子「アイドル期」のフィナーレの中のフィナーレ。「アイドル」であることからの「卒業」を迎えたのだと、河合奈保子の歴史を後世から振り返る者の個人的感想として、ワタシはそう想っています。
むろん云うまでもなく彼女はこの後も「アイドル」と呼ばれ、そうであり続けるのですが、ワタシの中では「アイドルらしいアイドル」で河合奈保子があったのは、この歌がラストだと思っています。

もしも「サザエさん」的に時を止めることができるなら(笑)、この頃のままの奈保子ちゃんで、いつまでもいて欲しい。そんな想いが、ワタシの心の片隅にあることは否定できません。
けれど時は進み、十六歳でデビューした彼女も、もうすぐ二十歳。奈保子ちゃんが自らの意志で大人へのステップを上る、そのことを祝福したいと思います。

若草色のこころで。
 

あとがきではありませんが、これは云っておかないといけません。
このあたりから河合奈保子の現役時代のワタシの記憶が朧になっています。
事実、この歌の覚えがワタシにはありませんでした。「四〇年遅れの推し活」※4で初めて、ワタシはこの歌のことを知ったのです。ついに、この領域にやって来ました。
河合奈保子が次曲『エスカレーション』で新たなステージの扉を開けるように、「四〇年遅れの推し活」も新章開幕です。「青春時代の思い出」という太陽系を離脱し、未知で未踏の奈保子宇宙への冒険の旅路がいよいよ始まりました。

 


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チェリーピンクのプチハート

音楽専科臨時増刊 河合奈保子 チェリーピンクのプチハート
1983年2月23日発売


遅くなりました。前の日記に時間をかけ過ぎました、すみません。
『そよ風のメッセージ』※1、『ほほえみ・ステップ』※2に続く、音楽専科の写真集第三弾。83年も出版されました。

前作、前々作とも、現役時代はこれらの写真集が出版されていること自体知りませんでした。本書も同じです。今回もネット通販で古書を入手しました。
なので本書の存在を当時認識していなかったこととは無関係なのですが、この83年頃を境に、ワタシはファンであったこのひとへの「好き」である気持ちを失っていくことになります。


その理由は明白。本書のページを開いてみれば、否、表紙を一目見ただけで、見当がつくというものです。

チェリーピンクのプチハート

この年二十歳を迎える十九歳。十六歳でデビュー、超絶かわいらしく、超絶あどけなかった、あの奈保子ちゃんも、三年という月日は、大人への成長をさせないではいられません。さらに彼女の大けが~入院という過酷な体験は、あるいは内面からの精神的成熟による加速をつけたかもしれません。

 

わたしもいつか、レディになるの

チェリーピンクのプチハート


本書にもそう綴られてしましたが、いやいやいや。いやいやいやいや!?
リッパなレディですって、この時点で! 奈保子さん。

そんな大人のレディへの階段を上る、変わってゆく奈保子ちゃんに、当時のワタシは彼女への好意を、関心をなくしていったのだと思います。
デビューしたばっかりの、あのかわいらしい、あのあどけない奈保子ちゃんが、大好きだったんだよな?
わかりやすいな!? わかりやす過ぎるぞ、若い時分のおれ!!
それをこの歳になって大後悔してるんだから世話はない。

『エスカレーション』以後の、あの匂いたつような色香の芳しさ。それまでのかわいらしさを保ちながら、そこにお色気を加味したイイ女っぷりが、どうしてわからなかったかなあ……?
ほんと、認めたくないものですよ。若さゆえの過ちというものを。

ひたすらかわいらしく、あどけなかった、河合奈保子の十代、「少女」の時代が、まもなく終わろうとしています。
それに一抹の寂しさを感じないといったら、ウソになります。けれどいまのワタシには、それに勝る想いがあります。
「奈保子ちゃん」――徐々にそう呼び難くなってもいい。「奈保子さん」――あなたは美しい。いまのワタシはそう云えるし、そう想えるのですから。
それはなにも、この写真集に写し撮られた、現役当時の河合奈保子さんに限定した話ではありません。

奈保子さん、お慕い申し上げています。
現実のあなたがいま現在、お幾つであるかなんて関係ありません。それを云ったら、ワタシだってもうすぐ還暦です。
いまも昔も学年で3コ上の、憧れのお姉さんです。それだけは、この先もずっと変わることはないのですから。

恒例の多摩市・カナメさんからのリクエストは、この写真集が刊行された翌3月1日リリースの新曲、河合奈保子『ストロー・タッチの恋』をお送りします。
そちらの日記もまもなくアップの予定です。お楽しみに。またお会いしましょう。

河合奈保子『ストロー・タッチの恋』
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「スターの実像と虚像」というコラムにことよせるコラム

随所に散りばめられたポエム、カナリー・コンサートのフォトとともに綴られたに自身の心境のほか、本書に掲載された「文章」は僅かですが、その中で音楽評論家・藤中治の寄せたコラムが秀逸でした。

「なかなかいない“ふつう”の女の子・河合奈保子」という扉のキャプションがお見事です。「虚像」とは表舞台の姿、「実像」とは舞台裏の姿。その両者のギャップの無さについて語れるのは、業界人の強み。タレント・河合奈保子の魅力の核心を突いています。

「風紀」が乱れているかに見える(笑)昨今の芸能界ですが、これまで隠されていていた「実像」の部分が、めくれてきただけ――というのが真相でしょう。芸能人全員が河合奈保子(のよう)になれればいいですが、それは寝言は寝て云えレベルの夢物語です。
ワタシの現実主義は、エキセントリックな女王様キャラこそ、芸能人のデフォルトと考えます。それを容認する器量こそ我々には必要なのであって、一般社会とひとし並みのコンプライアンスを要求するなら、我々は芸能界という娯楽、愉しみを喪うだけだと思います。
ワタシは叶うものなら、河合奈保子さんの生のステージを見たいと切望しています。しかしその一方で、「芸能界」という煌びやかで狂った世界は、あなたの戻るべき場所ではないと、同じぐらいの強い気持ちで思ってもいます。
17年という束の間、河合奈保子という女性が芸能界に存在したこと――。それこそが神さま的な何かに感謝を捧げていいぐらいの、「奇跡」とは云えないでょうか。


チェリーピンクのプチハート

 


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※まだまだ工事中

1980年 1981年 1982年 1983年 

HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション 大阪地区大会
 
1980年2月10日
阪急ファイブで開催。石野真子「春、ラ!ラ!ラ!」を歌う(決勝大会も同じ)。定数は1名であったが、特別に2人目の代表として選出される。
日記
 
HIDEKIの弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション 決勝大会
 
1980年3月15日
中野サンプラザで開催。西城秀樹の強い推薦により優勝。
 
大きな森の小さなお家
 大きな森の小さなお家
 
1980年6月1日
詞/三浦徳子 曲/馬飼野康二
B面/ハリケーン・キッド
詞/三浦徳子 曲/馬飼野康二
日記
 
ヤング・ボーイ
 ヤング・ボーイ
 
1980年8月25日
詞/竜真知子 曲/水谷公生
B面/青い視線
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
 
LOVE
 LOVE
 
1980年10月10日
アルバム
収録シングル/大きな森の小さなお家、ヤング・ボーイ
日記1日記2
 
愛してます
 愛してます
 
1980年12月10日
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
B面/そしてシークレット
詞/伊藤アキラ 曲/川口真
日記
 
LIVE
 LIVE
 
1980年12月10日
ライブアルバム
1980年10月14日、東京・芝・郵便貯金ホールにて行われた1stコンサートの模様を収録。
日記
別冊近代映画 河合奈保子特集号
 
 
1981年1月15日
ムック
日記
夢・17歳・愛 心をこめて奈保子より
 
 
1981年3月1日
エッセイ
日記1日記2
17才
 17才
 
1981年3月10日
詞/竜真知子 曲/水谷公生
B面/キャンディ・ラブ
詞/竜真知子 曲/水谷公生
日記
 
TWILIGHT DREAM
 TWILIGHT DREAM
 
1981年5月10日
アルバム
収録シングル/愛してます、17才
日記1日記2
スマイル・フォー・ミー
 スマイル・フォー・ミー 
1981年6月1日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/セレネッラ
詞/櫛田露孤、伊藤アキラ 曲/川口真
日記1日記2
 
音楽専科臨時増刊 河合奈保子 そよ風のメッセージ
 そよ風のメッセージ
 
1981年6月26日
写真集
日記
 
近代映画増刊 河合奈保子 フォトメッセージ
 奈保子フォトメッセージ
 
1981年8月5日
写真集
日記
 
DIARY
 DIARY
 
1981年8月10日
アルバム
収録シングル/スマイル・フォー・ミー
日記
 
ムーンライト・キッス
 ムーンライト・キッス
 
1981年9月1日
詞/松本礼児 曲/馬飼野康二
B面/あなたはロミオ
詞/松本礼児 曲/江戸光一、松本礼児
日記1 日記2 日記3
 
セリ穴落下事故による重傷 1981年10月5日
NHKホール「レッツコーヤング」収録リハーサル中、舞台昇降装置を設置したセリ穴に四メートルの高さから落下、「第一腰椎圧迫骨折」の重傷を負う。
日記
 
ときめきのメッセージ NAOKO ON TUOR 河合奈保子写真集
 ときめきのメッセージ
 
1981年10月15日
写真集
日記
 
退院、記者会見 1981年11月16日
渋谷病院を退院。コロンビア・レコード本社で記者会見。
 
Angel
 Angel
 
1981年11月25日
ベストアルバム
収録シングル/ヤング・ボーイ、大きな森の小さなお家、愛してます、17才、ムーンライト・キッス、スマイル・フォー・ミー
日記
 
ラブレター
 ラブレター
 
1981年12月5日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/No No Boy
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
Naoko in Concert
 NAOKO IN CONCERT
 
1982年2月25日
ライブアルバム
1982年1月6日に日本青年館ホールで行われた、新春コンサートの模様を収録。
日記
 
愛をください
 愛をください
 
1982年3月10日
詞/松宮恭子、伊藤アキラ 曲/松宮恭子
B面/春よ恋
詞/伊藤アキラ 曲/馬飼野康二
日記
 
ほほえみ・ステップ
 ほほえみステップ
 
1982年3月27日
写真集
日記
 
夏のヒロイン
 夏のヒロイン
 
1982年6月10日
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
B面/ゆれて-あなただけ
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
別冊近代映画 河合奈保子スペシャルPART3
 別冊近代映画 河合奈保子スペシャルPART3
 
1982年7月1日
ムック
日記
 
SUMMER HEROINE
 SUMMER HEROINE
 
1982年7月21日
アルバム
収録シングル/ラブレター、夏のヒロイン
日記
 
さまーひろいん
 さまーひろいん
 
1982年8月1日
写真集
日記
 
けんかをやめて
 けんかをやめて
 
1982年9月1日
詞/竹内まりや 曲/竹内まりや
B面/黄昏ブルー
詞/竜真知子 曲/馬飼野康二
日記
 
河合奈保子全曲集
 河合奈保子全曲集
 
1982年9月21日
ベストアルバム
収録シングル/「大きな森の小さなお家」~「夏のヒロイン」までの全シングル。
※カセットテープのみのリリース。
 
ブリリアント~レディ奈保子 イン・コンサート~
 ブリリアント
 
1982年11月21日
ライブアルバム
1982年10月17日に東京・芝・郵便貯金ホールで行われた秋のコンサートを収録。
日記
 
BRILLIANT -Lady Naoko in Concert-
 BRILLIANT -Lady Naoko in Concert-
 
1982年11月21日
映像ソフト
上記コンサートの映像ソフト。
日記
 
Invitation
 Invitation
 
1982年12月1日
詞/竹内まりや 曲/竹内まりや
B面/木枯らしの乙女たち
詞/尾関昌也 曲/尾関昌也
日記
 
アイドル百科3 河合奈保子
 アイドル百科3 河合奈保子
 
1982年12月20日
ムック
日記1 日記2
 
あるばむ
 あるばむ
 
1983年1月21日
アルバム
収録シングル/Invitation、けんかをやめて
日記
チェリーピンクのプチハート
 チェリーピンクのプチハート
 
1983年2月23日
写真集
日記
 
ストロー・タッチの恋
 ストロー・タッチの恋
 
1983年3月1日
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
B面/若草色のこころで
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
日記
NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
 NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4
 
1983年4月15日
写真集
日記

 
エスカレーション
 エスカレーション
 
1983年6月1日
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
B面/恋のハレーション
詞/秋元康 曲/筒美京平
日記
SKY PARK
 SKY PARK
 
1983年6月1日
アルバム
収録シングル/なし
日記
UNバランス
 UNバランス
 
1983年9月14日
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
B面/リメンバー
詞/売野雅勇 曲/筒美京平
日記
素敵な時間
 素敵な時間
 
1983年10月20日
写真集
日記

 
HALF SHADOW
 HALF SHADOW
 
1983年10月21日
アルバム
収録シングル/エスカレーション、UNバランス
日記
疑問符
 疑問符
 
1983年12月1日
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
B面/冷たいからヒーロー
詞/来生えつこ 曲/来生たかお
日記
プリズム(AngelⅡ)
 プリズム(AngelⅡ)
1983年12月21日
ベストアルバム
収録シングル/UNバランス、ラブレター、夏のヒロイン、Invitation、エスカレーション、愛をください、ストロー・タッチの恋、けんかをやめて
 

 

工事日記 2024.01.05
公開しますが、工事中です。第一期工事としては主に1980年にリリースされた作品をまとめました。音楽に限らず、映像ソフトや写真集・エッセイなどの出版物も取り上げていくつもりです。
今後の日記で奈保子史に触れる際などにリンクして使用するほか、ワタシ自身のスケジュール表として(笑)使っていきたいと思っています。
工事日記 2024.06.09
更新をサボっていたら、セカンドアルバムが出てました。マメにメンテしないといけませんね。
81年末までのシングル、アルバム、出版物をアップしました。奈保子さんの芸能人生のなかでも最大の、激動のシーズンに差し掛かろうとしています。
工事日記 2025.01.01
第三期工事では1982年発売の作品を中心に、河合奈保子史に記録すべき大きな出来事も記載しました。今年も盛り沢山です(>今年じゃないけどな)。怪我はいまだ癒えず、腰にコルセットを着けてではあるものの、仕事に復帰。紅白歌合戦への初出場を果たしました。河合奈保子のいわゆる「アイドル」時代の、後半期とワタシは思っています。歌手人生の転機となった竹内まりや作詞作曲『けんかをやめて』が、今年は控えています(>今年じゃないけどな)。
工事日記 2026.01.03
第四期工事では、1983年発売の作品を記載しました。河合奈保子歌謡史では「転機」となる年ですが、自分史を振り返ると現役時代のこの頃、ワタシは「ファン」であることをやめていました。四年目を迎える「四〇年遅れの推し活」は、「思い出」という補助ぬきの、未知の奈保子ワールドへの旅路がいよいよ始まります。

これまでののあらすじ

 

「批評家」と「ファン」――その両者の違いを端的に説明すれば、「作家」のことはどうでもよく、「作品」の良し悪しをジャッジするのが批評家。「作家」その人を愛したり憎んだりして、その情動の発露として「作品」を語るのがファン。ということになるでしょうか。
 

その人を憎むのも「ファン」なんですよ。強い関心をもち、その人のために多くの時間を割き、お金まで費やして、何か問題発言でも見つけようものなら、まるでアカデミー賞にでも輝いたかのように狂喜乱舞し、こき下ろしにかかる(笑)――それがその亜種である「アンチファン」と呼ばれる人々です。


畢竟、作品につくのが批評家、作家につくのがファン、という言い方ができるでしょう。
より解りやすく具体例を挙げて云えば、『スマイル・フォー・ミー』を語る上で河合奈保子にも言及するのが(音楽)批評家、河合奈保子を賛美するために『スマイル・フォー・ミー』を歌う彼女のことも語るのが(河合奈保子)ファン、という図式になります。

両者は一見同じようなことをしているかに見えて、その立ち位置も動機も、まるで異なります。
ゆえに両者はかみ合わず、そりが合わず、関わり合えば反目し、良くて敬遠し合うのが関の山です。住む世界が違うのです。

このことは前回の日記で取り上げたネット動画で、岡田・三宅両氏の云う、「批評」と「考察」とも密接な関わりがあると思っています。そのもの、と云ってもいい。むしろ「考察」という表現をし、言葉を用いることで、かえって解りにくくしているようにも思えます。
「考察」とは行為です。「考察」をする者が、なにゆえその行為に安住し、「批評」へと向かわないのか? その動機の根本が「推し」の感情だからではないか? そう、ワタシは愚考するのです。
「批評家」と「ファン」、「批評」と「推し」――こう云ったほうが関係軸がより鮮明に、より解りやすくならないでしょうか。

「ファン」=「推し」をする者は、その対象を神格化します。ゆえに、その人が云ってもいない解釈をするなど「不敬」であるし、そうした行為に対して否定的です。

「推し活」などと自ら称していることでもわかるように、アイドルファンはそんな自己の立場に自覚的です。
「アイドル」は基本、自ら「作品」を創ることはしません。さらにその多くが、歌や芝居という「芸」においても稚拙であったりします。

不思議で奇妙な職業で、商売ですよね? なぜそんな商業活動が、彼女らには成立するのでしょうか。
「アイドル」の商品価値とは、「存在」そのものだからです。

 

よって「アイドル」は、仕事の「出来」に対してイノセントです。つまり、責任を負わされる立場にありません。
『ちむどんどん』が朝ドラ史上空前の「珍味」であったとしても、それは黒島結奈の「罪」では(本来)ありません。(事前に脚本を読むどころか、脚本家が誰かさえ未発表のままオーディションが行われ、ヒロインが決まると聞きます。)
『けんかをやめて』が癇に障るムカつきソングだとしても、河合奈保子を責めるのもこれまた(本来)筋違いです。クレームは竹内まりやにどうぞ、ということになります。
こんな歌を歌わされて、奈保子ちゃんかわいそう――。そんな擁護の仕方だってできるのです。


なので歌手なら歌唱力、役者なら演技力、そこにしか評価軸のない人からすると、アイドルの人気の理由が理解できません。どうしてこんな音痴の歌手が、大根芝居の女優が売れているのだろう?――そう心底不思議に思ってしまうのです。

作品を創らず、一芸もなく、「存在」だけが売りの「アイドル」に、「評価」のしようもありません。「歌が巧い」「トークが抜群」といった、一芸に秀でた者のみが、その部分で評価されるだけです。
だからアイドルを応援する「ファン」には、「好き」という気持ちしかありません。
アイドルファンが、自らの「推し」という動機と立ち位置に自覚的になれる理由がそこにあります。このコは歌もヘタだし、演技もダメだけど、でもかわいいんだ。大好きなんだとハッキリ云えるのです。そうとでも云うしかない、とも云えますが……。

ところが、これが自分で作品を創る作家・漫画家・映画監督・シンガーソングライター……といった所謂「クリエーター」になってくると、少し事情が異なってきます。
彼らには評価の対象となる「作品」があり、それゆえに「推し」に傾く「ファン」を自己欺瞞へと導くのです……。

その「作家」のことが好きなくせして、それを認めたがらない。「作品」が素晴らしいから、「作品」を評価しているだけだ。――そう云いたがるのです。
わかりやすく具体例で云いましょう。平井和正が好きなんじゃない。「ウルフガイ」が、「幻魔大戦」が素晴らしいのだと言い張るのです。
なんなら、平井和正という「作家」を好きだと自ら認め、公言するファンを、ミーハーとして軽蔑しています。自ら軽蔑しているからこそ、自分がそうだとは、頑として認めません。
――そうです。昔のワタシです(苦笑)。

「作家」と「作品」の関係性は、「無関係」なのか、それとも「不可分」なのか? それはグラデーションであり、クリエーターによりけりです。

ミュージシャンなら、矢沢永吉、長渕剛。
作家なら、平井和正。
こういった 「作家」と「作品」を切り離せない、作者抜きに「作品」を語れないタイプの「作家」がいます。
「作品」に勝るとも劣らず、その「作家」が面白い。(良くも悪くも)個性的であり、カリスマ性がある。

 

ついでに共通して「あるある」なのが、ファンが怖い(苦笑)。
お気に召さない批評でもしようものなら、どんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。
彼のカリスマ性に呼応して、そのファンもまた狂信的な信徒にほかならず、「神」を冒涜するような真似は許さないという、なかなかに始末に負えない人達です。なるべく関わらないようにしましょう。
(すみません。反省してます……)

 

(無料公開は終わりましたが)山田玲司せんせいが平井和正を語ったネット動画。「ヒライスト」にビビっているのが可愛くもあり、申し訳なくもあり(苦笑)。

その動画での、山田せんせいの発言を引用しています。


「作品」が素晴らしいから、好きになる。これは入口です、「ファン」としての。
数ある作品をことごとく好きになれば、その「作家」のことを好きになり、「ファン」を名乗るようになります。その「作家」に興味をもち、調べだします。エッセイ、インタビュー、対談、エトセトラ……。そして、ますますその「作家」にのめり込み、夢中になります。
こうなったら一直線です。ファン道一直線です。

そして、このあたりから、ある変化が起きます。
「作品」が素晴らしいから好きになったはずなのに、好きな「作家」の作品は素晴らしくなければ困る――という顛倒が起こるのです。

初期症状は、多少つまらなくても、無自覚・無意識のうちに自分を納得させようとします(苦笑)。
それに無理が出てくると、今度は自分を疑いだします。この作品の素晴らしさを自分は理解できないだけではないか――? 作家・作品を否定するより、自分を疑う。そのほうが楽だからです、気持ち的に。

そして末期に及んでは、「失敗作」の封印を作家当人に要求しだします。
一例を挙げます。「『幻魔大戦』を絶版にせよ!」――こんなことを云いだす人がいるのです。マジですよ。実話ですよ。
――買うなよ? という話です(笑)。

でも、ワタシはこれを笑えません。かっこ笑い付きで云ってますけど。笑えないけど笑うしかないというか。
こんなくだらない作品は、先生には相応しくない。だからどうか、それを自らお認めになり、撤回してください――。
「読まなきゃいいじゃん」では済まされない。そういう問題ではないのです。敬愛する先生が、こんな「不適切な作品」(笑)を書いた!? それは無視して済ませることなどできない、大問題なのです。ややこしい人なのです。

この問題は、その道を歩む者には多かれ少なかれいつかは訪れる「ファン」の宿命、云い換えるなら通過儀礼です。
なぜか。クリエーターは変わるからです。やがて歳をとり、結婚もする、アイドルのように。

 

そうならずに済むのは、偉大なるマンネリズムが職人芸の域にまで達した、高橋留美子のような人だけ、そのファンに限られます。


――ガウディなどアカデミックなアートに傾倒する井上雄彦
――新宗教の女性教祖に帰依する平井和正
――AKB48にハマる小林よしのり

(過去形も含め)これらは極端なケースですが、こういった「ファン的には不本意な方向転換」を遂げることが、時としてあるのです。彼らも人間ですから。

そんな時、「批評家」の濃度が濃い「客」は、冷静かつドライな対応ができます。――どうしちゃったのかなあ? 〇〇もオワコンだよね。
しかし、「ファン」の濃度が濃い「客」は、苦悩することになります。人間的に未熟だと、醜態を晒すこともあるでしょう。かつてのワタシのように。

熱烈な帰依者としての崇拝――
自分が勝手に作り上げた偶像が、実は幻想でしかなかった。それを知ったときの落胆と手のひら返し――

ワタシはそんな自らの過去をいまは恥じ、申し訳なく思っています。
歳月を経てクリエーターが人として変わるように、客もまた変わります。

神様のように崇めてみても、彼もまた人間であって、神様ではない。
時にダサい、カッコ悪いことを云ったりやらかしたりもする。しょうがないじゃないか?
SNSでプライベートな「素」の部分を晒け出す機会が多くなれば、ならさらそのリスクは増大する。

なにを怒ってるんだ? そもそも自分だって弱くてダメな人間のくせして、他人のそれを責める資格がどこにある――? 自分ではそうはなれない理想のヒーローに勝手に他人を祀り上げた挙句、そうではなかったといってキレ散らかすなど、まるでダダっ子じゃないか。
彼ほどの人物にも、こんな「人間臭い」「ダメな」「弱い」部分がある。
そんなレアなシーンを目撃できた幸運を、ファンならむしろ有り難がれよ?
ワタシは「信者」としてのステージを上げることで、この心境に達することができました。

この際ですから、「奈保子日記」では云わないであろうことを敢えて云います。
河合奈保子の現役期間は17年。その後半期を、女優業へとシフトしています。
その業績がどうであったか? 多くの方が御存知ないことで御承知のように(苦笑)、さしたる代表作にも恵まれず、パッとしませんでした。
役者としての実力も率直に申し上げて、歌手・河合奈保子に感じたほどの輝きを、女優・河合奈保子に感じることはありませんでした。

だからといって――
そんな仕事はしてほしくなかった――?
歌手業だけで芸能界を辞めてくれていれば、いい想い出になったのに――?

そんな風には思いません。微塵も。
彼女の出演作は、何本か観ました。
『HOTEL』も『裸の大将』も『さすらい刑事旅情編』も、それは現代の目で見れば、ドラマはゆるいし、これで「奈保子日記」どう書きゃいいんだ? とは思いますけど、でも画面の中で役を演じる奈保子さんを見ているワタシは、間違いなく幸せでした。

たとえ批評家的には取るに足らない作品であったとしても、ファン的にはそれとは違う受け止め方があります。ファンにはファンの見方、賞味の仕方があるのです。なにも批評家のマネ、批評家のフリをして、ムリくりその作品を傑作であることにし、そのように仕立て上げなければならない理由はないのです。ましてや自分の素直な気持ちに逆らい、心を鬼にしてまで「正しく」「誠実に」ネガティブな批評をすることも。.
黙っている。目をつぶる。それもまた、「ファン」としての立派な選択肢の一つです。

それが「大人の分別」というものです。
 

ここまでお読みいただいた、大多数の「普通の人」であるみなさんは、きっと「奇異」に思われたのではないでしょうか。

なにを云ってるんだ? 当たり前のことを大げさに?

その通りです。普通の人は、ここで述べたようなことを、特段なにも考えたりせず、普通にやっています。息でもするように。

 

だからこそだと思いますが、このテーマについて、キチンと言葉で説明してくれたテキストに、ワタシはお目にかかったことがありません。

もっと若い頃に、こんな「信者」の狂気を「カウンセリング」(笑)してくれるテキストに出会っていたら、ワタシの人生の「より道」は距離においても時間においても、もっと短く済んでいたかもしれません。

こういうことをここまで真剣に、突き詰めて考えないと、自分の身の振り方ひとつ決められない。そんな不器用で、融通の利かない人間がいるのです。――「信者」とか「アンチ」とか、そう呼ばれる人間に割と多いと思います、この手のタイプ。

 

そして「クリエーター」にも。一部のファンは、そんな自分の似姿としての彼に、激しく魅了されるのです。しばしば「劣化コピー」と揶揄される所以です。


かつてのワタシのように、「ファン」であることに惑い、さまよっている人の、少しでもお役に立てば嬉しく思います。
なによりワタシにとってこれは「持ち歌」のようなテーマであって、歌うチャンスを虎視眈々と窺っています。先日の岡田斗司夫と三宅香帆の対談はまさに「いまだ、フリーだ、撃て!」という絶好のアシスト、パスそのものでした。

誤解なきよう申し上げておきますが、ワタシは「批評家」を否定し、敵視するつもりはありません。
それどころか読むぶんには好きだし、憧れます。そうなりたくて、そうなろうと志したことも。

 

そのあまり、ワタシは自分のためらいを押し切って、ファンであるその人にネガティブな批評をしました。黙っていたら、それまでの賞賛の言葉まで「ウソ」になってしまうと思ったからです。――若いですね(苦笑)。
「評価」と「情」が一致している間は、幸せでいられる。でも悲しいかな、そんな時間はいつまでも続きません。そんな時、批評家の精神とファンの気持ちを、どちらもたっぷり持ち合わせているワタシのようなタイプの人間は、深刻なコンフリクトに陥るのです。

 

でも、なれませんでした。悲しいかな、向いていませんでした。
知識不足はもちろんですが、それ以前にワタシは根っからの、骨の髄からの「ファン」気質。それ以外には、なれない人間なのだと思い知りました。

「批評」の分野は、三宅香帆さんのような理知に富んだ方におまかせします。ワタシはワタシなりの「ファン」の道をゆくことにします。

「好き」になった人が、素晴らしい人でもあったなら、これに勝るよろこびはありません。
でも、それ(後者)はあとから知ったことです。
だからもし、その素晴らしさが損なわれたとしても、「好き」の気持ちに変わりはありません。「あんたのファンも今日限りだ!」などと一時的に荒れることがあったとしても、嵐の激情が去ってみれば、 「好き」の気持ちが自分の中に残っていることに気付く――。ワタシはそうでした。

極論すればファンの愛とは、わが子に対する「学芸会の親目線」です。
批評家サイドからは、こう問われるかもしれません。それはわかるが、その人はあなたの家族じゃない。あなたのその人に対する、それほどの思い入れとは一体なんなんだ?
それがなんなのかは、おそらく本人にも説明がつかないでしょう。

そのアイドルの何がいいのかと問われて、かわいくて、胸が大きくて、歌がうまいから――などと説明容易な理由を挙げてみても、じゃあ同じ特長の他のアイドルが現れたら、その子のことも好きになるかというと、そうでもない――。簡単に云えるからそう説明し、自分でもそう思っていても、それはそのアイドルの「優れた点」でしかなく、自分がそのアイドルを「好き」な本当の理由ではない。
それはいわく云い難い、自分の人生で培われた「何か」とでも云うほかはないのです。
六十も過ぎたオバサンの水着姿に感激する気持ちとは、そういうものです。わからない人には、逆立ちしてもわからない。老化も容姿の衰えすらも、もはやそのファンにとって、さしたる問題ではないのです。
なぜか。「存在」そのものが、尊いから。

 

アイドルファンのこの気持ちを、クリエーターのファンがそのクリエーターに対して抱くことも、もちろんあります。

 

そこまで赤の他人を愛してしまうことは、むしろ「不幸」ではないのか? という哲学論議になれば、それは「然り」です。ですが、「幸福」なだけの人生なんてない。「不幸」もあっての「豊か」な人生なのだと、哲学論議的にワタシはそう思います。


優れているから、評価する。――それが批評家。
優れていることを自慢はしても、本当は訳もなく、ただ「好き」なだけ。だから、讃える。――それがファン。
それが批評家とファンとの、最大で決定的な違いだと、ワタシは思います。

 

批評は「批評家」にまかせておけ。いまのワタシは、そう思います。作家当人に何の義理も情もなく、だからこそ冷静かつ客観的に厳しいことも云え、そのことに何ら痛痒を覚えない。――そんな人におまかせすればいい。

「ファン」の立場にある者が、仮に同じことを感じ、考えに至ったからといって、心の痛みに耐えて、ましてや好きな作家当人に嫌われてまで(←これ重要)、そんな真似をする必要があるでしょうか。誰が得するんですか?

ああ、このひとは老いたな、衰えたな――そう感じてしまうことが、すでに「痛み」「悲しみ」であって、もうそれで充分じゃないですか? この上さらに己れの「表現」によって、わざわざ傷を広げる必要があるでしょうか?

 

蛇足ですが、最後にお伝えしておきたいことがあります。ここまでお読みいただいた、二手の「ファン」の御同輩のみなさまへ。まずは賛同いただいた方へ。
こうした好意的な「ファン」だけを向いて、「これでいいんだ」と思うクリエーターは、堕落します。
今まで散々、信者的「ファン」を持ち上げるようなことを云っておいてなんですが、こちらはこちらで違う意味で、そして同じような危険性、落とし穴があります。
辛辣な「酷評」が「暴力」たりえるように、「甘やかし」も「毒」たりえます。
本人を傷つける「批評」があるように、本人をダメにする「推し」もあります。

あなたの「推し」(の対象)が「現役」で活動中なら、このことはゆめゆめご注意くださいますよう。
あなたが本人から認知され、直接コンタクトできる立場にあるならなおさらです。甘いチョコレートばかり与えていたら、ブクブクと太ってしまうかもしれませんよ? それでもいい、それでも許すと、あたなは云うかもしれませんが。

そして反撥した方へ。
仮に若いころのワタシに、同じことを云って聞かせたとしても、耳は貸してくれなかったと思います。
けれど、どんなに耳を塞ごうと、いつかその日はやってきます。高橋留美子せんせいのような人でもない限り。そのとき、どこかのブログで読んだ誰かの言葉を、ふいに思い出してもらえるかもしれません。
そのとき、アッサリその人を見限ることができないとしたら、そのことに悩み、苦しみ、怒りや悲しみ、やり切れない感情がこみ上げてくるのだとしたら、その想いとは何なのか――。
それはジメジメとした、非・理性的、非・合理的な、はた目にはあまりみっともいい感情とは云えず、プライドの高い人は認めたくないでしょう。でも、変えようのない事実を否定するより、自分の恥ずかしい部分を真っ直ぐ認め、かつ許容するほうが、人間的にも「大人」だし、なにより「楽」になれると思います。

自分の根本が「そこ」だと自覚していれば、「いざ」という時、ワタシのようにみっともない振る舞いに及び、あとになって恥ずかしい思いをしたり、反省してお詫びをしたいと思っても、すでに天国に旅立ったあと――なんて後悔をしたりせずに済むかもしれませんよ。

今夜の「岡田斗司夫ゼミ」が楽しみです。
『考察する若者たち』の著者・三宅香帆さんを招いて、トークがおこなわれます。
前回配信での岡田斗司夫さんの弁によると、三宅さんはこのような主張をされておられるようです。
 

「批評」はこんなに面白いのに、どうして「考察」なんてつまらない行為に流れてしまうんだろう?


ハハァ……。それを息でもするように簡単にできてしまう人は、ナチュラルにそれを不思議に思ってしまうんですね。

簡単です、実に簡単ですよ。こう云い換えれば、すごく解かりやすいと思います。
 

SEXはこんなに気持ちいいのに、どうしてみんなオナニーばっかりしてるんだろう?


――それがやれるんなら、おれかてそうしたいわ!!! という話です。

ワタシは最初、「考察」と「批評」って、どう違うんだろうと、その差がピンと来ませんでした。
ワタシなりに考え、「考察」とは読んで字のごとく「考え、察する」こと。要は「感想」とニアイコールなんだと思い至り、両者の違いについてワタシなりの解釈ができました。

これはその一例です。

 

満島ひかりが出演するから彼女目当てに『ハムレット』観に行ったけど、さっぱりわからんかったわ。全然おもんないわ!


これは「批評」としては、完全に落第です(笑)。でも、「感想」としては、これはアリなんですよ。だって事実そう思ったんだから。
……お前の実話だろって? それはナイショ(笑)。

ワタシの「奈保子日記」も「批評」ではなく「考察」です。
河合奈保子という存在、歌やタレントとしての活動と「ワタシ」との、云わば「対話」です。河合奈保子という「対象」と「自分」だけで完結する世界です。

「批評」は、そうはいきません。河合奈保子を「批評」するとは、「音楽」という世界、「アイドル」という世界における彼女の位置づけを論じ、彼女の活動や作品を評価することです。それには、それらの広範な知見や見識が要求されます。
ワタシにはそれに足る資格がありません。ワタシにできることは、ワタシがどう想い、どう感じたかを披露すること、それだけです。そもそもそれ以前に、仮にそれができたところで、「批評」なんて別にやりたくもないというのが本音ではありますが。

オナニーがSEXより下だとも思いません(笑)。両者は違うもので、等価だと思っています。自分独りでできるか、相手を必要とするか、その敷居の高い低いがあるだけです。
(「考察(≒感想)」と「批評」になぞらえているつもりです。念のため。)
 

岡田斗司夫ゼミ(2026.02.08配信分)

 

「岡田斗司夫ゼミ」の視聴を終えて
単語に対して脊髄反射的に今回の日記を書きましたが、三宅さんの云う「考察」「批評」というワードは、かなり意味合いが異なっていました。それについて、ワタシは次のように理解しました。

考察――作者の用意した「答」に向かう、問題の解答。「正解」(もしくは不正解)というゴールがある。.
批評――作者が考えてもいない作品の真実を提示する。ゴールなき果てしない探求。

前者はミステリーの犯人探しに代表される、作者の狙い通りの作品の鑑賞法。後者はそれを逸脱した作品の分析(時に作者にもファンにも煙たがられる)――といったところでしょうか。
これは「作品の愉しみ方」についての話で、ワタシの「奈保子日記」とはまた領域の異なる話です。河合奈保子は「作品」ではないし、ましてや「答」はありません。

ワタシ自身は、今回の三宅香帆さんの主張に大賛成、大共感です。岡田ゼミの大部分の視聴者がそうだと思いますが。ただ、疑問を呈したい部分はあります。
 (文芸)「批評」をやる・やれる人間なんて、昭和の昔から少数派だったと思いますよ? そういう高度な遊戯ができる人間は、云わば「エリート」だった。そして、そうでない人間に、表現の場なんてなかった。
令和になって、作者がお膳立てした愉しみ方しかできない若者が増えてきた? そうかなあ? ネット時代が到来して、誰もが活字でものを云えるようになって、昔から多数派だった人々が「見える化」してきただけじゃないの? ワタシはそのように思うのですが……。

あるいはその辺の疑問は、彼女の著書を読めば、納得させてもらえるのかもしれません。三宅香帆さんの著書は、読ませていただきたいと思います。(>思うつぼ)
きっとワタシは、三宅さんのファンになってしまうと思います(笑)。

2026.02.09 一部変更・改題・動画視聴後のコメント加筆

2026.02.10 一部変更

「素直」という言葉は、しばしば誤用されます。
本当は謝りたい。悪いと思っている。でも、いざその人の前に出ると、それができない。照れ臭くて、恥ずかしくて、変な意地もあったりして。
そういう相手に「素直に謝りなよ」――と云うのは正しい。正しい使い方です。

「素直に云うことを聞きなさい!」
親が子供を叱りつける際によく使われるフレーズですが、これはどうなんでしょう?
「従順に親の云うことに従いなさい!」――正しくはこれが真意ではないでしょうか?
でもそう云ってしまうと、いかにも強権的なヒドい親になってしまうので、まるで親の云うことを聞くのがその子の「本心」であるかのような、そんな云い方をするのでしょう。その子は、素直に逆らっているだけかもしれないのに。

 

辞書によると「素直」には、「物事がすんなりいく」「曲がったりゆがんだりせす真っ直ぐ」とも書かれており、この意味合いにおいて、上記の親御さんの云う「逆らわず服従せよ」の言葉遣いも間違いではありません。でも、子供の気持ちとしての「正直」=「素直」ではありませんよね。

 


前回日記の『ささやかなイマジネーション』についての解釈は、ちょっとヒネクレ過ぎ、ネガティブ過ぎたかもしれません。
あれはたとえば結婚を間近に控えた女性が、近い将来訪れるであろう生活像を思い浮かべている。あるいはそういう境遇ではなかったとしても、理想の未来を他愛なく夢見ている――。
そういう「ウキウキ」とした「憧れ」の心持ちであると、そのようにポジティブに捉えるのが、世間の多数派だろうと思います。

別に奇をてらったつもりはありません。それこそ「素直」にそう思ったのです。それ以外の解釈について、考えることさえしませんでした。
え!? いま聴いたお部屋のコーディネートもゆり椅子でくつろぐ彼も、全部「夢」ですか!? キッツい歌やなぁ! こんなにふんわりした曲調なのに!?
ごく「素直」に、そう思ってしまったのです(笑)。

だいたい「夢」に対する認識が根暗過ぎる。「虚ろ」で「空しい」ものであるという決めつけは悪いクセですね。なにもカップ麺のカップが残り汁の腐臭を漂わせて床に転がってる安アパートの一室で、そんな妄想に耽ってるわけじゃない。

この思い直しをさらに前回の日記に反映するとなると、それこそ「改訂三版」になってしまうので、ここでコメントするに留めておきます。

ちょっと云い訳をゆるしてもらえば、『砂の傷あと』の影響はあると思います。
あの元気ハツラツなメロディに、別れた彼氏と過去の恋を追憶する少女の詞が乗った歌は強烈すぎます。すっかりあてられてしまいました。
(詞が後の前提ですが)あれは竹内まりやの仕込んだ、意地悪スパイスかと思ってしまう(笑)。さすがは『けんかをやめて』の作者です。

あらためて、「素直」に聴いてください(笑)。多摩市・カナメさんからのリクエスト、『あるばむ』より、河合奈保子『ささやかなイマジネーション』。そして、同じく『あるばむ』より、河合奈保子『砂の傷あと』、2曲続けてお送りします。

河合奈保子『あるばむ』
さわやかなイマジネーション (YouTube)

河合奈保子『あるばむ』

砂の傷あと (YouTube)

なにしろワタシときたら、好きな河合奈保子ソングベストテンに『スマイル・フォー・ミー』が入らないヤツですからね。何卒ご寛恕の程を。