これまでのあらすじ
(1)ツブヤイターX
プロのクリエーターはともかく、ファンが「腐される」ことなんてあるの? それがあるんです。それがネット社会。プロのクリエーターの作品など多くの関心が寄せられる話題について何か云おうものなら、ただの素人の一般人のそれであっても、それもまた批評の対象になり得るのです。時には「腐される」ことだってあります。怖いですね。
ワタシにも経験がありますが、特に掲示板などの「ファン同士のコミュニケーション」において、一般人同士の論争(口喧嘩)や、一般人による一般人へのバッシング、といった行為は日常茶飯事です。時にはその掲示板の枠を超え、×ちゃんねるにスレッドが立ち、名指し同然に批判されることもあります。
そうした行為の是非については、ここでは置いておきます。この節では、それがあるという「現実」に、どう「対処」するかを述べていきたいと思います。
ワタシは前節でこのように述べました。
あなたがそのクリエーターにとり赤の他人――一介のファンに過ぎないのなら、それはやめておくことをお勧めします。繰り返しますが、それは時間の無駄です。あなたの出る幕ではないのです。
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。
そんな役割は、彼が信頼を置く身近な人物や、仕事の関係者にまかせておきましょう。
本節で主張するのは、ちょうどこの裏返し。
赤の他人の批判など、耳を貸すのはおやめなさい。――そういうことです。
堂々と、こう云いましょう。
――ワタシ、そういうの読まないので。
(テーマ曲挿入)群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、岸〇田のとなりで生まれ育ったイチビリの精神と柄の悪さだけが彼の武器……。
(2)「ミュート」のススメ
また前節ではこうも云いました。
賞讃であれ、酷評であれ、ネット芸者たるファンライターにとり、それは自身の作品なのです。
作品づくりをするモチベーションが抑えられないのです。したがって、その情熱を止めることはできません。
クリエーターへの働きかけなど実は二の次、自分の意思など通りはしないことは承知の上、それでも自分はこれを云いたい、云わずにはおれない、その衝動こそが第一なのです。
繰り返しますが、こうした行為の是非について、この場で論じるつもりはありません。
問題はこういう人達を黙らせる、有効な手段はないということです。
「暴力的威圧」による牽制ないし報復はお勧めしません。それを自らの流儀としている方には、おやめになることを強くお勧めします。それは少なからぬ傍観者から嫌悪され、軽蔑され、評判を落とす、支払いが高くつくやり方です。そのくせそれほど効き目はなく、費用対効果で云えば割に合いません。
何もなかった、何も見なかった、そう思えてきます。「それ」は存在しなかったのです。
ここで序節《イントロの巻》で取り上げた平井和正のお言葉に、あらためて登場いただきます。やはり、これに尽きるのではないでしょうか。
世の中から「悪口」を失くすことはできません。でも、それを「読まない」ことはできるのです。現実に、いますぐに、しかもいとも簡単に。
SNS時代を迎えて、それはより容易になりました。そういった不愉快発言をする相手を個人が、自分で「ブロック」ないし「ミュート」することができるようになったからです。これは「掲示板」時代にはできなかったことです。かつては誰が見ても明らかなレベルの暴言を、管理者が管理者だけが持つ権限で削除するなどの対処しかできませんでした。
特に「ミュート」は有効です。「ブロック」はそれをした相手にそのことが知られてしまいます。しかし、「ミュート」はただ、自分のタイムラインからその人の発言を非表示にするだけ。相手側にはそうされたことすらわかりません。
相手に知られることなく、その人を「消して」しまえるのです、自分の「世界」から。
考えてみてください?
「黙れ!」「失せろ!」――などと吠えたところで、そんな言葉に何の効き目もありません。彼は黙らないし、自分の前から去ってもくれません。所詮はささやかな憂さ晴らしでしかなく、しかも、その憂さは大して晴れません。当然です。問題は何ひとつ解決はしていないのですから。
彼という動かし難い「定数」に対し、「変数」である自分にできることはなんでしょうか? それは彼の発言を「読まない」こと、それに尽きるのではないでしょうか。それによって、あなたは合法的に彼を「消せる」のです。あなたの「世界」から。道義的にもまったく問題なし。素晴らしいと思いませんか?
もちろん、彼はこの世には存在し続けていて、これからもあなただけではない多くの人に迷惑行為を続けることでしょう。が、その問題意識、社会正義的なことは、とりあえず置いておきましょう。まずは「自分」です。自分を守りましょう。自分を救いましょう。それで自分に他人を助けるだけの余裕ができたら、あらためて彼を監視するなりして、彼の悪行から守りたい人を守ってあげてください……。
ストーカー的粘着エネミーの一番の養分は、相手の「反応」です。「反撃」は反応の最たるものですから、実は相手を一番よろこばせています。
逆に一番嫌がるのは「無反応」です。これこそが実は最大の反撃であり、防御でもあります。これはワタシの実体験に基づく実感です。
(3)「毒」と「免疫」
本当の事を言うのは、いつも敵か悪なんだよ――
――『ザ・ファブル』(南勝久)第10巻より
『ザ・ファブル』の悪玉・宇津帆氏の金言です。これは真理です。
あなたの親しい人=「味方」は、あなたを傷つけ、気分を害することをあなたに云うことは極力避けるでしょう。あえて指摘するとしても、オブラートに包んだ、優しい気を遣った云い方をしてくれるはずです。
その点、「敵」はストレートです。実に冷酷に、容赦なく、ハッキリ物を云ってくれます。彼らはあなたが傷つき、ダメージを負うことが嬉しくて仕方がないからです。
だからといって、「バ〇」だの「〇ね」だの、そんな品性知性の乏しさ全開、ワルモノ感丸出しの暴言は、できればしたくありません。あくまでも己れに正当性のある正義の拳でぶん殴りたいのです。よってそういう人は、あなたがボロを出す、失言やミスをしでかすチャンスを鵜の目鷹の目で伺っています……。
ゆえに皮肉にも、彼らの指摘は往々にして正しく、的を射ています。動機が「悪意」だからといって「無価値」ということにはなりません。
もし、自分のメンタルの強さに相当の自信があるのでしたら、そうした「敵」の批判に耳を傾け、反省の材料とすることは、この上ない収穫になるでしょう。
これは「毒」と「免疫」の関係に似ていると思います。軽度の「毒」に適度に触れることは、自分の「免疫」を鍛えてくれます。しかし、その「毒」が強過ぎたり、浴び過ぎたりすると、その「毒」にやられ、傷つき病んでしまうことになります。
ワタシは自分に対する評判・評価は、親しい友人のリアクションに耳を傾け、赤の他人のそれは気にしないことにしています。
間違っても「エゴサーチ」などして、見ず知らずの赤の他人のコメントを探して回るような真似はしません。それはポジティブな反応であれば嬉しいですし、それを知りたいのは山々ですが、それ以上にリスクが高いと思うからです。ネガティブな反応があり、それが正当であればヘコみ、打ちのめされてしまいますし、不当であればムラムラと頭に血が上り、どうしてくれようかと頭がそれに占められてしまいます。なにより、それが一番よろしくありません。
そういうものに「公然」と反論するのは「みっともない」とわきまえています。それについては、次章で述べます。
分別によってそれを表立って口外するのは堪えたとしても、自分のこころの中で吹き荒れる嵐は鎮まりません。それを鎮めるには「儀式」を必要とします。それは誰も読むことのない、誰にも見せられないテキストを何時間もかけて書いたりすることで、たかが何時間といっても、ワタシもこう見えて勤め人ですので、時間の合計だけで云えば「何時間」でも、期間で云えば「何日」も「何週間」も費やしているのです。発表できないテキストにですよ? 時間の浪費そのものですが、それをしないでは自分の気分が鎮まらず、本来書くべきテキストに取り掛かることもままならず、前に進むことができません。
結果、赤の他人の評判を知ることは、「見てはもらえぬテキストを寒さこらえて書いてます」状態に明け暮れることになりかねず、それは避けるが吉なのです。
是非それを読ませてほしい? すみませんが、そのリクエストにはお応えできません。墓場まで持っていきます。悪しからずご了承ください。
(4)「ケンカ」は「エッチ」に似たり!?
ネットバトルという、人前でのケンカまがいの云い争いをした経験がワタシにもあります。実に恥ずかしい、みっともない行為であったと思います。
ケンカと性行為とは、よく似ていると思います。理性のタガが吹っ飛び、感情むき出しで相手とコンタクトする最大級に濃厚なコミュニケーションであるという点で。それは客観視すれば醜態そのものですが、そんな自分のあられもない、はしたない姿でも、このひとになら見せても構わない。そういう相手だからこそ、そんな自分を晒せるのではないでしょうか。そんな秘め事を人前で大っぴらに公開してどうします?
セクシー女優(男優)という職業があって、彼女らはそれを人前で披露してみせています。彼女らにとりそれは生業であり、人前で見せるに足るプロのパフォーマンスであるからです。アマチュアが無償で同様の行為をすれば、ボランティア精神を讃えられるよりは、露出狂としての扱いを受けるでしょう。
ケンカまがいの云い争いをパフォーマンスとして、それを商売にしている人もいます。ですが、それでお金を稼げるわけでもないワタシ達が、その真似事をすることはありません。パフォーマンスとして金の取れる彼らのそれとは違い、ワタシのようなアマチュアの荒んだ感情の発露は、みっともないことこの上なく、周囲に不愉快と迷惑を撒き散らすだけでなく、あとから自分で振り返ってみても、そこに残っているのは激しい後悔しかありません。
「劣情」とはよく云ったもので、それは何も性的興奮のみを指すわけではありません。
ムラムラして、どうしても収まらない。相手をシバかないでは気が済まない。でしたら、あまりお勧めはしませんが、二人っきり(当事者間だけ)でやることです。メールとかね。とにかく非公開が大前提。そんなみっともない真似を(繰り返しますが)人前で大っぴらに公開してどうします?
「なんて怖ろしい人だ!?」「えげつなぁ!?」「こいつは鬼か、悪魔か、人でないしか!?」――そんなふうにみんなから思われて、なにか得でもありますか? 怒らせたらどれだけ怖いか、そんな自分の暗黒面を教えてやるのはシバく相手ひとりで充分じゃないですか。
結果、逆にシバかれたとしても、二人っきりなら知られるのは相手だけです。
それよりお勧めしたいのは、やはりそういう機会を未然に避ける、「予防」につとめることです。
酒乱の気がある人が、そのことを自覚し、酒癖の悪さを人前に出すまいと思うなら、その対処はただひとつ。「酒を飲まない」一択であるはずです。飲み会に同席するなどもってのほかです。ソフトドリンクで過ごそうとしても、すすめられれば断れないし、それ以前に自分も飲みたくなってしまいます。そして、飲んでしまえばアウトです。
他人のネガティブな反応に触れると「クワッ」と荒ぶる獣にメタモルフォーゼしてしまい、そんな自分をコントロールできなくなる。そんな進撃のメタモルビーストな人がとるべき対処もしかり。そういう不穏な気分にさせる人物・場に、一切近付かないことです。そんな場面になっても大丈夫な自分には、残念ながらどう頑張ってもなれないのです……。
あしたのための最高のディフェンスは、ブロックでもクリンチでもスウェーバックでもありません。殴り合いのリングに上がらぬことです。
(5)「批判に耳を傾けろ」は呪いの言葉
「批判から逃げるな! だからお前は成長しないんだ!」
友人知人でも関係者でもなく、こういうことを云う「赤の他人」の真意とは一体なんでしょうか? 本気で成長を願っている?――とても信じられません。ぶっちゃけ、シバきたいだけでしょ? そう勘繰らずにはいられません。まともに向き合ったら、タコ殴りにされるのがオチでしょう。
寄せられる批判の中には、確かに「有益」な情報が少なからずあるでしょう。ですが、同時にそこは「地雷原」でもあります。
地雷を避ける注意力があるのか? 地雷を踏んでもヘッチャラなほどタフなのか? そこは自分の力量をしっかり見極めた上で踏み込まないと、「命」に関わりますよ? 決して大袈裟に脅すつもりはありません。恒常的に言葉でこころを苛まれていると、ネット活動を続ける気力を折られます。ネットの生命を奪われるのです。さらに文字通りの命を自ら絶ってしまったひともいます。そんな実例もご承知のことでしょう。
そこまでの自信がないのでしたら、逃げましょう。恥ではありません。
こちらが「黙れ」と云っても相手は黙ってくれないように、相手から「逃げるな」と云われてもこちらは逃げるだけの話です。
「命令」に従わせるには権限が、「頼み」を聞いてもらうには関係性が必要です。そのどちらも持たぬ者に、赤の他人をコントロールすることはできません。
批判に耳を傾けるのは立派なことですが、それはそう努める者への賞賛として成立はしても、当然のようにそれを他人に要求するのは、立場をはき違えています。
――心地良いヨイショばっかり聞いて、自分を甘やかしていたら成長しないよ? 堕落するよ? 私はあなたのためを思って、厳しいことを云ってあげているんだからね?
「正論」を装う赤の他人のその囁きは、本当にあなたのためになっていますか? もしかしたらそれは、「呪い」の言葉かもしれませんよ?
(6)ともだちはいますか?
批判に耳を傾けるのは大事なことですが、それ以上に大事なのはその相手を選ぶことです。
前節の引用を再度繰り返します。
そこをクリアしようと思ったら、あなたがそれを聞く(読む)人に「信頼」されている必要があるのです。
これをそっくり裏返せば、この人の云う批判なら、真面目に耳を傾けられる。そんな「信頼」に足る相手を見つける、そんな人間関係を築く。それが先決であるということです。
「リア充」という言葉があります。リアル(=実生活)で独りぼっちなのに、ネットだけ友達がいっぱいであるはずがありません。もしそうだとしたら、それはどこかの認識が間違っているのだと思います。所詮が「イイネ」通知をくれるだけの移り気で虚ろな関係のネット上の赤の他人の反応に一喜一憂していたら、いずれ自分を見失ってしまうでしょう。
正当な批判を求めて悪意の十字砲火に飛び込むより、最初から心ある人だと信じられる、そんな相手の言葉に耳を傾けているほうがずっと安心ではありませんか。
その結果、自分をスポイルしてしまったとしたら、前節で申し上げたことを繰り返しますが、それも自分の器量の限界です。
たとえば実生活上の「友人」に、こう問いかけてみましょう。
「おれのネットの発言が炎上してだんだけどさ。どう思う?」
――訊かれたから、正直に答えるけどさ。気を悪くせずに聞いてくれよ?
そのように真摯に、誠実に意見してくれる友人が自分にいるか。そしてその言葉を冷静に受け止められるか。
逆もあります。自分が「友人」だと思っているその人物は、心にもない無難な回答しかしてくれないかもしれません。それをああコイツは本心を語ってくれてないなと判断できるか、それとも「安心」してしまうか。それもこれもみな引っ括め、それが己れの「器量」というものです。
そこに自信がないとしたら、そんな人はまずそこから始めるべきだと思います。しっかり「地」(=実生活)に足をつけた上に「ネット」生活はあるべきで、そこから遊離して、ネット上の諸問題を全てネットだけで間に合わせて解決しようと考えるのは間違いの元です。
厳しいことを云われても、この人の言葉なら聞ける。――そんな友人のひとりもいないのに、「批判にも耳を傾けなければ、自分はダメになってしまう」などと考えるのは、高い理想を見上げるあまり、足元が疎かになってはいないでしょうか? 順序が逆ですよ。そんな高邁な思想に耽るのは。街のヤンキーにはビビっているのに、この世を滅ぼす悪魔と戦おうとしている戦士症候群罹患者のようなものです。
逆の立場で考えてみましょう。「真剣な対話」という行為が成立する関係性は、例えば親友、職場や部活動の仲間といったレベルの、相当な強い結びつきであるはずです。真実それを望むなら、それなりの関係性を築くプロセスを踏まえなければならないのは当然ではないでしょうか。
見ず知らずの赤の他人が、やぶから棒に議論を吹っ掛けるなどというのは、初めて話しかける異性にいきなりデートに誘うに等しい、失礼を通り越して正気を疑うべき行為であるはずです。
(7)「村社会」から「大通り(ストリート)」へ
言論空間としての、ここのところの感覚・価値観・常識は、電子掲示板、それに遡るパソコン通信、さらに遡るファンジン・ファンクラブ時代とは、まるっきり違ってしまっています。そこにはそれに足る関係性が、「タテマエ」ではあっても確かにあったのです。前述の「部活」のような、同じ共同体の「仲間」としての認識が。
だからその共同体に仲間入りしたからには、知り合ったばかりの者同士のシュートな議論も有り得たし、容認されました。
「ファン大通りの歩き方」三部作のきっかけになった『“ガチャ文”考』(後述)をワタシは支持するものですが、いかんせん「古い」とも思ってしまうのは、そこです。1984年にファンクラブ機関誌に寄稿されたこのエッセイは、発表当時から好意的な理解者にお目にかかったことがありませんが(笑)、今日ではますます理解はされにくいでしょう。
この感覚・価値観がアップデートされることなく、前述の時代の流儀・ノリを引きずって、誰かれ構わず議論を吹っ掛け回っている人は、ウザがられ、鬱陶しがられるでしょう。おそらくケンカさえしてもらえず、「ミュート」されるのがオチではないでしょうか。SNSは共同体ではないし、そこに居るのは仲間でもない。SNS時代の到来による最大の変化はそこだと思います。
ノスタルジーに耽りたいわけではありませんが、ワタシもまだまだ若く、パソコンネットがまだアマチュア無線のようなマイナー趣味であった頃、ネット社会はもっと実社会に近い、というよりそれ以上に人間臭い、ディープな場所であった気がします。良くも悪くもですが。
「自分の居場所」を他に探すことは難しく、ゆえにそう簡単にその場所を捨てるわけにはいかなかった。ソリの合わない人とも角突き合いながら付き合わなければならず、我慢もしながらそこに住み続けるしかありませんでした。それはまさに「住む」という表現がふさわしい、そこの常駐参加者は「住人」であり「〇〇民」そのものでした。
そのありようは、まさしく「村社会」そのものであったと思います。
そこに馴染める人間にとっては、すこぶる居心地がいい反面、そうでない人間は「壁」を感じてしまう。ことさら「ヨソ者は来るな」なんて意識はしていなくても、態度に出してはいなくても、親しい人と普通に親しくしているだけで、疎外感を与えてしまうようです。そこには「グループ」が生まれ、グループ間の諍い、衝突も生まれる。あとになって振り返り、俯瞰すれば反省しきりですが、いままさにその渦中にある当事者にそうした客観的視座はなく、自分が愉しむこと、自分が愉しいパラダイスを守ることに、ただただ血眼だったのです。
新規参加者は乏しく、居着かず、既存のメンバーも徐々にその数を減らしていく。ワタシも思うところあって、その掲示板を去りました。そうして現実の限界集落のように、消滅の道をたどっていくようです。
特に共通の趣味者同士で集まるのは、闇が深い。そのネットリした感情のもつれ合い、ぶつかり合いは、繰り返しますが「部活動」の濃密さに近い。
手っ取り早く仲良くなるには、好都合な繋がりではありますが、あまりその関係は長続きしないようです。同じクリエーターが好きでも、どこが好きなのか、どのくらい好きなのか、その方向性も熱量も、あまりにも人それぞれです。好きだからこそ、許せないこともある。遠く離れた人よりも、近しい人により強い憎しみを覚えるのは世の常です。そばに居るからこそ、目障りなのです。
これはワタシの経験則ですが、「共通の趣味」だけで関係を保つことはできません。長くお付き合いを継続しているその関係の友人たちは、ひとりの例外もなくその「趣味」を抜きにして付き合える、ウマの合う人たちばかりです。
現代のネット社会は、その点洗練され、都会的になったようです。その最たる理由は、「SNS」が共同体的結束を解体したことです。
かつての掲示板時代のコミュニケーションが「村社会」であるとすれば、現代のSNS時代のそれは、「大通り」に近いのではないか? ワタシはそのように思うのです。居合わせた人と会話を交わすこともある。けれど、そこに居る人はそこに「住んで」いるわけではなく、たまたまそこに居ただけ。
〇〇会などと名前の付く、組織だった共同体もなく、所属することも、仲間入りすることもない。
その場、その時、関心のある話題について、それぞれが好きなことを云う。またその話題ないしあなたに関心のある者がそれを読む、「イイネ」をくれる、コメントを返してくれることもある。
「なにコイツ? メンド臭ッ」
とか思ったら、無視するなり、フォローを外すなりすればいい。それでも向こうから付きまとわれたら、ブロックするなりミュートするなりして、彼の存在を消してしまえばいい。
なべて世は事もなし。それで良いとワタシは思います。
自分が好き勝手なことを云うのを誰にも止められないように、それに対して他人から好き勝手なことを云われてしまうのもまた止めることはできません。所詮は大通りですれ違っただけの他人です。そのことで人を傷つけ、結果嫌われ、ましてや自分まで傷つくような「深入り」をすることはありません。放うっておきましょう。
ワタシのコミュニケーション観を、少々ドライであるように思われた方もいらっしゃるかもしれません。
「好き嫌い」と「損得」が絡んでもつれた人間関係の喜びや気苦労は、「実生活」で味わう分で充分だし、またそうであるべきだとも思います。
「コミュ障」であるがゆえに実生活が虚ろで、だからこそそんな心の空白をネットで埋めようとし、そこに「居場所」と「充実感」を求めようとする。その気持ちはわかります。ワタシがそうでしたから。でも、それは危険です。それについては脱線しますので、別枠のコラムに記すことにします。
現代社会に、法の秩序が及ばない場所が三つあると思っています。
ひとつ目は「学校」。ふたつ目は(当事者が少ないのであまり問題にはされませんが)「刑務所」。三つ目が「ネット」です。
これらに共通しているのは、「人治主義」(=人による支配)が「法」に勝っているという点です。その暴力性は苛烈であり、裁きの基準はないに等しくバラバラです。
それ以外の社会空間にも、いじめやハラスメントはありますが、それでもまだ「抑制」が効いています。それは「法」の及ぼす「秩序」そのものです。これら三大空間にはそれが欠如しているがゆえに、人の暴力性のリミッターが外れています。
「バカッター」によるファミレスでの迷惑行為など、司法の裁きに委ねれば、せいぜいが罰金刑どまりではなかったかと思いますが、ネットの裁きはそのバカッターに一生を台無しにするほどの責苦を負わせました。学校でのいじめ被害をネットで報復する、といった事例にも、無法の仇を無法で討つ、そんな陰惨さを覚えます。
ひとはやさしさと裏返しの残酷さもあわせもっていて、だからこそ法の縛りが必要なのですが、それが及ばないネットの現状には、強く憂慮するものです。
とまれ、「学校」には二度と戻りたくなく、「刑務所」には一生入りたくなく、「ネット」には深入りせず、程よいあっさりとした関与で済ませたいと思っています。
(8)結論
へぼな作家をへぼといってなんになる。黙殺されることで当人の奮起を期待するのが正しいのである。
平井和正のさるエッセイからの引用です。
訳あって引用元は明かしませんが、平井和正せんせいの仰ることに、いまは完全に同意しています。
率直に申し上げて、物書きとしてはダサい発言です。ですが、せんせいは「泥をかぶって」ワタシ(のような読者)に大切なことを教えてくだったのだと、いまでは思っています。
そして、こんなことを云わせてしまった、その一因――そんな読者の一員にワタシもなってしまったことは、本当に申し訳なく思います。
ひとつだけ異議申し立てをお許しいただけるなら、一文も稼げぬアマチュアと云えど、その表現欲求を止めることは、たとえせんせいのお言葉をもってしても不可能です。せんせいはご自身の繊細な作家の魂を守るべく、読者に対してこのように訴えるべきではなかったでしょうか。妄言多謝。
「忠良なる読者諸君、不敬失敬な論評感想を目撃しても、決して私には教えないでほしい。それは私の執筆活動に、悪しき影響を及ぼしかねない。そんなものを見つけたら、君自身でそいつを懲らしめ、成敗してほしい」
……そんな忠良なる愛読戦士のみなさま方におかれましては、奮ってXで、×ちゃんねるで、ご自身のブログで、思う存分気の済むまで、どうぞワタシを腐してください。遠慮はいりません。ノープロブレムです。
ワタシのような素人の妄言にお付き合いくださり、それに対してコメントまで発してくださったことそのものは、ありがたいことだと思います。好意・悪意、正当・不当を問いません。ワタシに発言の自由があるように、ワタシの発言を読んでくれた人達にも、それに対する発言をする自由があります。
でも、それをワタシが読まねばならぬ「義務」も「義理」もありません。
最後におさらいをします。
望ましくない変化をしてしまったクリエーター当人に向かって、「昔のあなたに戻ってほしい」などとアプローチするのは、時間の無駄であると前節で申し上げました。
そして、それを無駄だと云って制止することも、また無駄です。彼らにとっては、その行為自体が喜びであり、三度のメシより大好きなのですから。
ワタシは前節で「友達なくすよ?」「嫌われるよ?」と「忠告」しましたが、そのあたりが精一杯でしょう。
「批判にも品位が求められる」「ひとを傷つける発言はやめろ」――こういった主張も同様です。
同じ意見の人の賛同は得られても、そうでない人の改心を促す効果の程は期待できません。彼らの口に戸は立てられない。所詮は他人をコントロールすることはできないのです。
ならば、自分にできることは何か? 読まないこと。それに尽きると思います。
読まなければ、云われてないのと同じです。
――それが「腐す者」と「腐される者」とが、互いを敬して遠ざけながら、共存する道ではないでしょうか。
あとがきに代えて 特別公開、筆者の脳内会議!?
――あんたは、ケンカができる人間なんよ。
これは、おユキさん。お久しぶりです。「非実在レディ」からお名前がついて、初めての登場ですね。唐突にどうされました?
――だから「ケンカをしない」という「選択」ができるの、あんたには。でも、普通の人はそうじゃない。自分がその当事者になることは恐怖でしかないの。あんたみたいに「ケンカ売ってんの? おもろいやんか? 痛い目に遭わせてくれよ?」っていうハードな対応もできるけど、ソフトな対応を選ぶという立場とは違うの。
ワタシはそんなこと云いませんよ。それは岸〇田のとなりで生まれ育った人間に対する偏見です。
――あんたは不愉快な人達の不愉快な行為に報復ができると思ってる。やろうと思えばね。その自己評価が正しいのか、自信過剰なのかは別にして。だから、そういうものに鷹揚に構えていられる。でも普通の人にとっては、そうではないの。自分に向けられる剥き出しの悪意に、あんたみたいに平然と「読まない」だけで済ませてられないの。どこかで自分が悪し様に云われている、その状況に耐えられないし、確かめずにはいられない。結果、深く傷ついて、どうしてここまで云われなければならないのかと理不尽を嘆くことしかできないの。だから、ネットを含めた世の中からそういうことをでぎるだけ無くしていくしかないの。それがどんなに困難な、絵に描いたお花畑みたいな理想主義であっても。
痛いところを突かれましたね。それは「学校からイジメをなくす」「世界から戦争をなくす」的なテーマに似た、社会的な取り組みの話です。それは「定数」であって、ワタシのような個人には解決不可能です。そうした状況そのものを変える打開策を「戦略」と呼びますが、ワタシがここで述べたのは、今現在のこの状況下を、いかに戦い生き延びるかという「戦術」の話です。まだまだネット社会は、実社会に比べれば治安も秩序も法整備もととのっていない、荒んで野蛮な、弱者には生き辛い環境です。そんなネット社会のこの「現実」を、なるべく「不幸」な目に遭わずに済ませるには、どう渡り歩いていけばいいのか。そのことへのワタシなりの処方箋です。
社会全体がそうであるように、ネット社会もまた「コンプライアンス強化」に向かっていくだろうとは思います。それでも時間はかかるでしょう。ネット社会の現状はまだまだ残念ながら、
ガラの悪いヤンキータウンのごとき場所であるということです。サイバー岸〇田なんです。そこに居るというだけで、被害に遭ってしまうこともある。ガラの悪いヤンキーでいるほうが、都合も居心地もいい場所なんですよ(苦笑)。
だからといって、自らガラの悪いヤンキーになるのは、まったくお勧めしません。自身の悪行の記録は
「デジタルタトゥー」となって、実生活を含む自らの一生の十字架になりかねないからです。
「マイルド」を旨とする平成・令和世代が台頭・増加するに従って、「ワイルド」な昭和世代は退場・改心を迫られるでしょう。ワタシも少しはオトナになったように、ネット社会という場所も、少しずつオトナになっていくと思いますよ……。
まだ若く愚かだったワタシは、憧れの人そのものになろうとしました。さらにその憧れの人が自分の想い描く理想像とは違うというので、ひどいことを云ったりもしました。でも、結局自分は自分でしかなくて、自分にしかなれなくて、憧れの人の精神みたいなものは、せいぜい自分の一部として吸収するぐらいが関の山なのだと知りました。
ワタシは自分の過去の清算と、こころの恩師である平井和正せんせいへのお詫びと御恩返しとして、これを書きました。「シン・“ガチャ文”考」を書きたいというのが、そもそもの動機です。『“ガチャ文”考』は主旨としては文章表現の指南ですが、根底に流れるテーマは、会の仲間に対する「礼節」「心遣い」ではなかったかと思います。それを「ファン社会での処世術」にアレンジして、ワタシなりの「“ガチャ文”考」に挑戦してはみましたが、出来上がったのは原典とは似ても似つかないものになってしまったようです。
ここでワタシが申し上げたのも、あくまでもワタシなりのファン大通りの歩き方です。これをお読みいただいた方全員にそのまんまお役に立つとは思いませんし、真似てほしいとも思いません。これもひとつの参考に、自分なりのファン大通りの歩き方を見つける一助としていただければ幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
――こんな無責任なやつの云うこと、本気で真に受けたらあかんよ? コイツの云ってるのって要は、「これでうまいこといくと思うで、知らんけど?」やからね!? あくまでもエンターテインメントとして、話半分に、愉しむだけに留めておいてくださいね!?
そしてお前は、岸〇田の人にシバかれろ。
2026.04.14 一部変更・加筆
2029.04.17 一部変更