5歳にしてセールスを覚えてしまった理由【マイストーリー1】 | 脱SNS!リアル集客で月商100万円を目指すひとり起業のバイブル

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私のビジネスの原点は、
両親がはじめた自動車整備工場にあります。

 

 

大分出身の父と鹿児島出身の母は、
実家の中間地点である宮崎で
自動車整備工場をスタートしました。

 

当時の私は、幼稚園の年中さんで5歳。

 

 

私は、時折
「お菓子屋さんとかお洋服屋さんだったらよかったのに~」と
心の中で思ったことがあります。


だって、工場の中はオイルやシンナーの匂いがして
美しいものや美味しいものがなかったからです。
 

 

しかし、工場をはじめて3ヶ月が過ぎたころ
朝から大騒動があって私は変わりました。

 

 

普段は仲のいい両親が大喧嘩をしているのです。

 

 

両親は知り合いもいない場所で工場をはじめて、
お客様がパンク修理500円だけでは生活できないと
喧嘩をしているようでした。

 

 

幼稚園に向かって歩きながら、
私は両親が喧嘩したままだったらどうしよう・・・
私に何かできないのかな?と考えていました。

 

そして、幼稚園に着くと担任の原田先生のところに行き
「先生の車検はいつですか?」と伝えました。

 

先生はびっくりした顔をして、
「小百合ちゃんどうしたの?」と、驚いた顔。
 

 

 

「うちのお父さんは車検がじょうずなんです」というと・・・
 

原田先生は、笑いながら
「わかった!先生のお父さんの車が車検近いからお願いするね」
と言ってくれたんです。


 

私は、幼稚園が終わると、
いつもの二倍くらい速足で友達を追い越して帰り、
両親に報告をしました。

 

5歳の娘が車検を取ってくるとは思ってもいなかったみたいで、
普段口数の少ない父が「すごいな!小百合は営業が上手だな」と
メチャクチャ褒めてくれたんです。

 

その日から私は、
自動車整備工場が少しだけ好きになりました。

 

 

父は、九州で二人くらいしかいない自動車整備士の技術者で
その当時は珍しく、国産だけでなく外車の整備もできました。


だから、自分の工場を持つまでは
幾つかの自動車整備工場の工場長として好待遇で
招かれるくらい技術が優れていたんです。



しかし、父が自分の工場をはじめたところは、
田んぼばかりの農業地帯で
軽トラが割合の方が多いくらい。


そのためか、父は農家の人が早朝や深夜に
車が動かなくなった
鍵を車の中に入れてドアが開かなくなった
というと、どんな時間帯でも出張修理をしていました。


そうして、父は地元の人に頼られる存在になって
いったのです。

 

 

 

それに比べ母は、修理に来た人や、
ご近所を歩いている人をみかけては
工場に呼んでお茶やお菓子を振舞っているので、
父だけに働かせて母は遊んでばかり~と
私は勘違いしていました。

 

しかし、母のことを観察している間に、
神対応をしていることがわかったのです。


待っている人や、家の近くを歩いている人を見つけては
工場に招いてお茶とお菓子を振舞うのは、
コミュニケーションをとるためでした。


楽しい会話をしているうちに、

「今度、また車検お願いできる?」
「最近、引っ越ししてきた●●さんに
自動車修理はここがいいと伝えておいたよ」
「旦那が中古車を欲しいみたいなんだけど相談にのってくれる?」

お茶を飲んで話しているうちに
仕事が面白いように取れていく。


 

そして、毎月、ハガキを山ほど書いている母に、
何をしているのか聞いてみたら、
車検が近いお客様へのご案内ハガキでした。


車検の時期をお知らせするとともに、
今年もお任せくださいと伝えること、
リピート戦略を誰に教わることなく
母は行っていたんです。

 

私が一番すごいと思ったのは
『どんな時も忘れさせません戦略』でした。

 

 

これは、夏のお中元と冬のお歳暮の時期に行っていたのですが、
自動車整備工場の名前と電話番号を名入れした粗品を大量につくります。

 

お歳暮の時期はカレンダー、お中元の時期は卓上メモ帳、
ボールペン、アドレス帳、印鑑入れ、タオルなど、
どれも名入れをして配っていました。

 

 

母に、どうしてこんなに名入れをするの?と言ったら、
「どこを見ても、うちの工場の名前と電話番号があれば
修理したいとき、すぐに連絡できるでしょう」と。

 

 

そんな両親に毎日のように商売とは何かを
叩き込まれた私は、小学生になり字が書けるようになると、
一人一人の先生の名前、車のメーカー、車検の時期などを
専用ノートに書いて管理するようになりました。

 

これはいわゆる【顧客台帳】だということを
あとから知りました。

 

 

その後私は、
IT企業でマーケティングを担当していた17年も、
独立してコンサルタントになってからの21年間も、
私のビジネスの原点は両親の影響を大きく受けています。

 

ビジネスで大切なことがぎゅっ~と凝縮されたものを
小さな頃から教えてもらったので、
こんなに長い間、ビジネスを続けられているのだと
感謝しかありません。

 

 

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