フランスの歴史16 エドワード黒太子  | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史16 エドワード黒太子 

           フランスの歴史16 エドワード黒太子 

  

 

 ボルドーでも人気を誇るエドワード黒太子。100年戦争に於けるイングランドのヒーローはエドワード黒太子。フランスに於けるヒロインがジャンヌ・タルク。

 イングランド王エドワード3世の王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)であり、1362年アキテーヌ大公エドゥアールとして即位。父親より先に亡くなりイングランド王となることはなかった。

 

 

百年戦争

 

 イングランドはスコットランド王国征服を企み、また、フランドルの都市連合を味方に付け、フランス征服を画策。

 フランスは、スコットランドのイングランド反対勢力と、フランドル伯を味方に対峙。さらに1328年にフランス王シャルル4世が亡くなると、フランスは男系による王位継承を主張。イングランドは女系による王位継承を主張してそれぞれ勝手にフランス王を名乗ります。 

 1337年イングランドはフランスに宣戦布告(百年戦争開始)し、1340年にフランドル南端スロイス港で、フランドル諸侯とイングランド艦隊がフランス艦隊を壊滅し、以降イングランドはドーバー海峡の制海権を確保します。

 

 

クレシーの戦い(1346年)

 

 ノルマンディーに上陸したイングランド王エドワード3世でしたがフランス王フィリップ6世の大軍(3万人位)が迫ったため、フランドルに撤退中カレーの南、クレシー村でフランス軍を迎撃します。

 イングランド軍1万2千名は丘に陣取り、前面に馬防杭や落とし穴を掘り守りを固めていました。陣形は逆Vの字形で弓兵と下馬した騎士で固め、後方に予備一隊を配置します。

 

 対してフィリップ6世の大軍は、日の出とともに行進し続けクレシーで先鋒軍がイングランド軍に追いついた状態です。フランス軍は開戦を翌日にする旨伝令を走らせますが、諸侯の寄せ集め軍ですから一団が先駆けの栄誉を得るべく突撃を開始します。開始時刻は夕方4時頃と言われています。

 急きょ突撃に駆り出されたのはジェノヴァ人弩(クロスボー)隊でしたが、焦る騎士達により防具も身に付けていない6千名の兵は、防御用の大盾も持たずクロスボーと矢だけ持って前進させられます。

 

 イングランド軍はウェールズ兵を中心とする長弓隊が丘の上から一斉射撃。1分間に10回以上射ることができる長弓に対し1分間に2回程度しか射る事が出来ないクロスボー隊は壊滅。これを見たフランスの重装騎馬隊は味方である筈のジェノヴァ人傭兵部隊を蹴散らして突入しますが、これもイングランドの長弓の餌食に。15回に渡る突撃も何れも敗退。

 フランス側の死傷者数は1万人~2万人程度、対するイングランド側は1千人程度と言われています。


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 クレシーの戦いはイングランドの長弓がクロスボーと重装騎士を圧倒したもので、平民が騎士に勝利したかのように表されることが多いようです。 

 たしかに長弓が優れた武器であることに変わりはないのですが、戦術と長弓の用法がフランス軍の戦法に対して優位に働いたものと思われます。

 

 そもそも長弓は狩猟用の弓として発達したものであり、インクランドのウェールズ地方に伝わる武器です。イングランドがウェールズに侵攻した際に大いに悩まされたため、以降ウェールズの弓兵を多く引き連れていたようです。

 対して、クロスボーの殺傷能力は高いと言われ近距離ではプレートアーマーと呼ばれる鉄板製の甲冑をも貫く威力があり、フランス軍は高性能の武器として多くのジェノヴァ人クロスボー傭兵隊を引き連れていました。

 ただし、熟練者の扱う長弓の威力はクロスボーと遜色ないとの説もあります。一般的なクロスボウの射程距離は200m、有効射程距離は50mと言われています。当時のクロスボーは手で弦を引くものでした。対する長弓は射程距離250mと言われています。
 

 上図左側の弓がクロスボー。右側で構える弓が長弓です。ここで注目すべきは左から2番目のクロスボー兵が足で弓を固定して弦を引いていることが判ります。このようにクロスボーは射撃体勢をとるまでに時間がかかるのです。クレシーの戦いでは防具も付けないクロスボー隊が一斉射撃を行った直後に長弓隊が一斉射撃を加えたと言います。クロスボー隊では次の矢を射るため弦を張る間無防備状態で一斉射撃を食らったのです。長弓は連射(5秒から6秒で)がききますので結果は日を見るより明らかです。また、水平射撃のクロスボーが丘の上に対する射撃で効果が薄れたとも言われます。

 続く、フランス軍の重装騎士隊が丘の上に対して攻撃を加えるものの、馬防柵と落とし穴、更には戦闘中の雨により攻撃スピードが落ちたところへ長弓隊の矢が雨のように降ってきます。一般によほど近距離でない限りプレートアーマーや鎖帷子(チェインメイル)を貫通することはないようでが、馬はほぼ無防備ですから、矢を受けた馬は脚を跳ね上げ周りを巻き込み暴れますので騎士は落馬し、圧死した者も多かったようです。落馬したフランス騎士には短剣をもった軽装兵が襲い掛かったとされます。

 

 イングランド軍は長弓隊の防御に下馬した騎士を配置し、用意周到な陣地と位置取りをしていたことになります。また、イングランド兵は一般に云われているような農民兵ではなく、騎士が職業軍人化した志願兵を集めて構成されていたとされます。フランス側は各地の騎士達が従者を引き連れ、自由都市で雇われた歩兵や傭兵の集まりでした。

 特筆すべきは、イングランド王エドワード3世が『捕虜をとってはならぬ。略奪してはならぬ。』との命令を発した点です。桶狭間に於ける織田信長と同じ戦法です。


 当時の戦は、騎士を馬から叩き落とし捕虜にして身代金を取ることが一般的だったのです。更には高価な武具を奪うことに兵は専念したのです。日本の場合は首を取ることに専念です。ところがそんなことよりひたすら効率的に殺すことを命じたのです。更には、初めて大砲(石を飛ばすもので破壊力より音の威嚇効果だけ)を用いています。

 なお、若干16歳のエドワード3世の王太子が、右翼の指揮官として戦っています。

 

    フランス王位                 イングランド王位

シャルル4世                 エドワード2世  

  (在位1322年~1328年)           (在位1307年~1327年)  

フィリップ6世                 エドワード3世  

  (在位1328年~1350年)           (在位1327年~1377年)   

ジャン2世~善良王             エドワード黒太子 

  (在位1350年~1364年)            (1330年生~1376年没)

シャルル5世~賢明王                 アキテーヌ公エドウアール4世    

   (在位1364年~1380年)      リチャード2世

                              (在位1377年~1399年) 


ポワティエの戦(1356年)

 

 

 エドワード3世の王太子エドワードはアキテーヌを根拠地としてフランス各地に遠征を図っていました。 1356年ポワティエの地でフランス王ジャン率いる1万8千名の軍とエドワード黒太子率いる9千名の軍が激突します。この戦いに於いても戦略家エドワード黒太子軍は天然の障害物を有する地に布陣します。

 フランス王ジャンは、クレシーの戦いの敗因はイングランド軍の下馬した騎士の密集隊列の堅固さにあったと分析していたのです。イングランドの長弓は眼中にありませんでした。ジャンの頭には戦さ=騎士による戦いであり、平民の武器等は思考回路に組み込まれていなかったでしょう。フランス軍は300騎の重装騎士を先鋒隊とし、残り全軍の騎士を下馬させ、短い槍を携えて対決に臨みます。結果は前回同様イングランドの長弓の餌食となります。歩きにくい重装備のプレート・アーマーを着て、合戦場モーペルテュイの丘に向かって1キロメートルの路を進軍した騎士達が描く接近戦に持ち込む前に長弓の雨が降ってきたのです。

 ポワティエの戦いでもフランス軍は大敗を喫し、フランス王ジャンは捕虜となります。この際、イングランド側では身代金の要求額を幾らにすべきかでもめます。イングランドとしてはジャンをフランス王と認めていませんから、王並みの身代金請求はおかしいし、かといって身代金は沢山ほしいしといった状態でした。結局金貨300万枚としたのですが、全額の支払いを受ける事が出来なかったようです。

 

 

2人の騎士道

 フランス王ジャンはイングランドの捕虜となっていましたが、身代金の一部支払いにより解放されます。ところが、捕虜になっていた後のシャルル5世の弟アンジュー公ルイが逃亡してきたのです。なんと、フランス王ジャンは自らロンドンに赴き、敵地で死を迎えたと言われます。

 エドワード黒太子は騎士道の鑑とも言われた人物とされます。ポワティエの戦いで捕虜にしたフランス王ジャン2世に対して、礼儀正しく接したとか、騎士道精神に従い、クレシーの戦いやポワティエの戦いでは敵味方の別なく死者を手厚く葬ったとされます。

 他方、リモージュの反乱に際しては3,000名の市民を虐殺したとされ、騎士道に背く行為であるとの反論もあるようです。

 この点に関しては時代背景を考慮する必要があるようです。エドワード黒太子はポワティエの戦の後、スペインの内紛に際し援軍の要請を受けますが、傘下の諸侯の反対を押し切って参戦します。戦いは勝利に終わりますが、約束した協力金の支払いを受ける事が出来ず、諸侯の領地を含む全域に世帯数に応じた課税を行ったため各地で反乱が起きてしまいます。

 そんな中1370年リモージュ反乱鎮圧のため赴き、フランス軍侵攻の際無抵抗で町の門を開いたことに対する罰として虐殺が行われたとされます。

 

 騎士は騎士道と呼ばれる崇高な理想を掲げるものの、他方では騎行と呼ばれる略奪行為も広く行われていました。遠征先で食料の調達と、略奪を行い敵軍への経済的ダメージを狙っての軍事作戦と考えられていたようです。

 傭兵や、志願兵達にとっては略奪品が給料の一部と考える者もいたようです。リモージュの場合は傭兵への給料の遅配も十分に考えられる状態でした。さらにもう1点、フランスに於いてはクレシーの戦い、ポワティエの戦いでの惨敗に懲りて、フランスの騎士達は平原に於ける戦いを拒否し、専ら籠城戦やゲリラ戦を行うようになっていました。そのため、フランス軍を怒らせ大きな会戦を企んだのではないかと思うのですが・・・・。

 虐殺について述べると、フランスでもポワティエの戦いに出陣た傭兵たちの給料が支払われていない為反乱が起きていますが、これらも鎮圧(虐殺)されています。


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何故黒太子

 

 多くは『くろたいし』と読むようですが『こくたいし』でも良いのだそうです。云われは後世の人々が、身に着けていた甲冑が黒色だったことによる。フランス側からは悪魔のように残虐であり 悪=黒 のイメージとも云われますが、エドワード黒太子の墓所はカンタベリー大聖堂にあり、写真を見ると金メッキのプレート・アーマーのようです。多くの戦を経験し金メッキが擦れて剥がれ黒く見えたのかも。

 因みにカンタベリー大聖堂の公式見解は『軍隊の指導者として勇敢で猛烈な指令に対する恐怖を表している』とか。
 一般的にはプレート・アーマーは矢を弾く(滑って刺さらない)ためと防錆のためピカピカに光って(鉄板を磨く)いましたので、エドワード黒太子の黒っぽいプレート・アーマーが特徴的だったということでしょう。


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シャトー・タイヤック・              シャトー・タイヤック・

    キュヴェ・プレステージ  こちらへ         ルビィ・ド・プランス・ノワール



 イギリスでは今も英雄扱いであり、ボルドーでもAOCコート・ド・ブールのシャトー・タヤックでは、エドワード黒太子がシャトーに滞在した故事によりエチケットに描かれています。

 シャトー・タイヤック・ルビィ・ド・プランス・ノワールとはいったい何を意味するのでしょうか。プランス(王子)・ノワール(黒)は兎も角、ルビィは?

 実は、カスティーリャ王国のペドロ1世が兄弟争いからクーデターを起こされ、追放された際に軍事援助を行い、ナヘラの戦いを勝利に導いたエドワード黒太子に対して贈られた140カラット(約28g)の赤色のルビィ(正式にはルビィではなくスピネル~尖晶石と言うらしい。)に由来します。 

 1953年に製作された大英帝国王冠に飾られ、ロンドン塔で展示されています。


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シャトー・グラン・コルバン  こちらへ      シャトー・コルバン こちらへ

 

 こちらは、エドワード黒太子所有シャトーとの由来があるとか。

 

 一時はイングランド本国と変わらぬと言われる程の豊かな財政基盤を有したアキテーヌ公国ですが、度重なる戦闘で戦費を賄えなくなったようです。フランスは長い時間をかけて新税制を確立し、シャルル5世が攻勢に転じます。イングランドは赤痢の流行や、エドワード黒太子のペスト罹病により

守勢に回り、「ラ・ロシェ沖の海戦(1372年)」でイングランド海軍が大敗し100年戦争前半戦が終了します。

 

 

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