フランスの歴史13 叙任権を巡って | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史13 叙任権を巡って

             フランスの歴史13 叙任権を巡って
 
 
 宗教上の権威と世俗上の権威との主導権争いは、叙任権を巡って争われることとなります。
 叙任権は聖職者が教会の聖職者と信者によって選ばれる聖職者叙任(任命)権を指す教会内部の規範であるべきものが、帝権(皇帝)や王権(王)に対する叙任権限や教皇の叙任権限についての争いが生じます。
 
 地方領主や王達が侵略地の安定化政策としてキリスト教の布教活動を支
援したり、私設教会建設や教会領の寄進等により教会に対する発言力が増大し、司教の叙任権を所持するケースも多かったようです。
 キリスト教は国家レベルでも、ローマ帝国の公的な保護と財政的な支援により社会的安定度を増しますが、ローマ帝国の政策に対して協調性を図る配慮が求められ、場合により帝国の干渉を受ける恐れも現出します。
 
 ローマ教皇は、ペトロを通じたイエスの代理人とする権威付けにより、民衆からの支持と尊敬を集めます。教会は経済的バックボーンを持つことにより、豪華な祭祀を揃えたり、豪華な聖職衣をまとい、民衆に見える形で教会の権威を見せつけます。
 また、フランク王国の分割、再編期を通じて地方所在の教会とのネットワークが出来上がり全国規模の情報網と集金システムをも所持することとなります。全ヨーロッパの組織から法王庁に集まってくる租税収入は王をも凌いだと言われます。

 

 それでは歴史上叙任権に関する事案をみてみましょう。

 

溜め息 カール大帝戴冠(800年 教皇>皇帝)

 ローマ教皇レオ3世、フランク国王をローマ帝国皇帝に。

  フランスの歴史12 東西カトリック教会 こちらへ

 

溜め息 神聖ローマ帝国オットー1世戴冠(962年 教皇>皇帝)

 東フランク王国の血筋を引くオットー1世が西ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であると主張し、962年ローマ教皇ヨハネス12世、オットー1世を神聖ローマ帝国皇帝に。

 

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神聖ローマ帝国。                神聖ローマ帝国紋章。 

 

溜め息 グレゴリウス改革(1073年~1085年 皇帝>教皇)
 教皇グレゴリウス7世が、叙任権の世俗権力からの奪還と聖職者の綱紀粛正(聖職者の妻帯や聖職売買~シモニアの禁止)を提唱。

 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と争う。教皇の叙任権奪還はならず。

溜め息 
スートリの教会会議(1046年 皇帝>教皇)

 イタリア領主3名の教皇位を巡る争いに、ドイツ皇帝ハインリヒ3世(後に神聖ローマ皇帝)が3名とも退位させ、ドイツ人司教を教皇に。        

 

溜め息 「カノッサの屈辱」(1077年1月 教皇>皇帝)

 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、ローマ法王グレゴリウス7世に謝罪。  法王様のワイン こちらへ

 

溜め息 クレルモン教会会議(1095年 教皇上昇中)

 1095年東ローマ帝国アレクシオス1世がイスラム王朝の侵略に対し、ローマ教皇に傭兵提供申入れ。同年ローマ教皇ウルバヌス2世はエルサルム奪還の十字軍遠征をクレルモンの教会会議参加のフランス騎士に対し提唱。参加者には免償(免罪)。十字軍参加者には何かクレルモン。

 1096年第1回十字軍遠征~実情は略奪者集団、以降1270年まで8回の遠征を行う。エルサルム奪還は1099年~1187年及び1229年~1244年。エルサルム奪還に教皇の権威が高まる。

  

溜め息 ヴォルムス協約(1122年 教皇>皇帝)   

 神聖ローマ皇帝ハインリ5世とローマ教皇カリクトゥス2世間で叙任権に関する協約締結。叙任権は教皇取得

 

1.皇帝は司教と修道院長に対する指輪と杖による聖職権の授与の権利を 

 放棄すること。

2.帝国内の教会は自由に叙任を行う権利を得ること。

3.皇帝は帝国内で司教と修道院長の叙任に立会い、選出が難航した場合

 のみ指名する権利を得ること。

4.皇帝は杓による俗権授与の権利のみ持つこと

 

※ 教皇は漁夫の指輪(漁師であったペトロに由来。)と呼ばれるその教皇の名と網をひくペトロの姿とが刻まれているを指輪をはめています。
 指輪は指輪印~インタリオリングとなっているため、教皇逝去後には、カメルレンゴ(秘書役)によって、逝去した教皇の指輪(形式上の印鑑)と、教皇文書に押印する鉛の印章(実務上の印鑑)は破棄されるようです。
王笏(杓)は国王の権力と正義を象徴します。


 

叙任権に対する歴史上の流れ

 

 フランク王国当時から国王が教皇を任命し、教皇が国王を任命するとの互いを認め合う、上下関係のない暗黙の掟が存在したようです。後に互いに優位性を示す動き(対立期)を経て、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位1198年~1216年)の時代が教皇の最盛期とされます。「教皇は太陽。皇帝は月」との名言をはいたり、仏王フィリップ2世の離婚を禁止し、カンタベリー司教の任免を巡ってイングランド失地王ジョン王を破門にした方です。これらはローマカトリックと神聖ローマ帝国の主導権争いであり、フランス、イングランド、スペイン.といった地域は神聖ローマ帝国の影響下から離脱していき、教会の世俗的な影響力は衰えることとなります。
 ローマ教会は「カノッサの屈辱」事件などで一時的に世俗権力の上に立ちますが、結局は世俗上の権利を世俗諸侯に譲り、次第に精神的な権威へと変わっていったものと思われます。


 

仏王と教皇の対立

 

 フランス王フィリップ4世(在位1285年から1314年)は、1296年に教会・修道院に対し突如、課税を行います。王領地以外の領主や教会(修道院も)は不輸不入権(インムニタス)と呼ばれる免税特権 参照 フランスの歴史3 荘園 こちらへ  を有している筈なのに課税されたのです。

 

 これに対しローマ教皇ボニファティウス8世(在位1294年~1303年)は

教会法に反するとして強硬(教皇だけに。)に抗議。

 同年(1296年)教皇は聖職者課税禁止の教書(回勅~クレリキスク・ライコス)を発します。要旨は教皇の同意なく教会財産に課税する者を破門するというものです。

 教皇は天下の宝刀「破門」をちらつかせたのですが、カノッサの屈辱のハインリッヒ4世と違いフィリップ4世はシカト。逆にフランス国内の一切の貴金属を国外に持ち出すことを禁止し(フランスの聖職者が教皇に差し出す租税・献金の禁止を意味します。)お金の流れを止めたのです。
 

 

 教皇は止む無く譲歩し、1301年に聖職者の自由寄付は認めるとする回勅「インエファビリス・アモーリス」を発しますが、フイリップ王は対聖職者課税を継続し、応じない聖職者を逮捕するなど強硬姿勢を維持します。

 

 

 

 

 さらに、フィリップ4世が、ナルボンヌの司教の知行権を削り、臣下のナルボンヌ伯に与えます。司教領を削られたナルボンヌ司教が教皇に訴えたため、ボニファティウス8世は同年(1301年)、フィリップ4世に対し教皇特使として司祭のセセを派遣します。

 

 

 フィリップ4世は、その司教の傲慢な態度にキレて、司教を逮捕・審問し、司教職剥奪を教皇に要求し、後に反逆罪の汚名を着せ投獄します。

 フィリップ4世は、教皇との対立激化のため、教皇の主張の不当性を訴え、併せて財政問題解決のため、1302パリに身分制議会(聖職者・貴族・市民代表)である全国三部会(後掲)を召集します。

 

 対して、ボニファティウス8世は、フィリップ4世に対して、司教の釈放を命ずるとともに、国王は教皇権に従うべきであるとする教書(回勅)~ウナム・サンクタム~「唯一の聖なる教会」を1302年に発します。

 「教会及びその権力には二振りの剣、すなわち聖界のものと俗界のものがある。・・・いうまでもなく聖界の剣及び俗界のそれはともに教会の権力のうちにある。後者は教会のために、前者は教会によって行使される。・・・しかも一つの剣が他の剣の下に従属し、また俗界の権威は聖界の権威に服従せしめられることは当然である。」  山川出版社発行 世界史より

 別訳では、

 「世俗の支配者が誤りをおかせば、教会によって裁かれる。聖職者が誤りをおかせばその上司によって裁かれる。法王はしかし神以外に責任を負うことがないから、人間によって裁かれることはありえない」


溜め息 アナーニ事件(1303年)

 
 フィリップ4世は、かってよりボニファティウス8世と教皇座を巡って対立関係にあるイタリアの有力領主シアナ・コロンナをたきつけます。コロンナ家は
ボニファティウス8世により破門され、所領を没収された恨みがあります。
 1303年9月、ボニファティウス8世は自分の出身地でもあるローマ近郊の教皇の避暑地アナーニで、シアナ・コロンナの手引きにより、国王顧問ギョーム・ド・ガレの手で捕えられます。
 しかし、教皇捕囚を知った地元民衆の反撃でボニファティウス8世は奪還されますが、教皇は翌10月に亡くなります。死の直前教書を発し、フィリップ4世を破門します。
 教皇の死因については憤死とか、腎臓病によるとか、持病の胆石悪化等諸説あるようです。アナーニ事件に関しては、ダンテが「神曲」の中でボニファティウス8世は地獄に堕ち、逆さまに穴に入れられ、燃やされているため、アナーニ(穴に)事件と呼ぶとの説は全く信憑性がありません。

 

 

 

 フィリップ4世は、これに対して再び聖職者・貴族をルーヴルに集め、ボニファティウス8世を1303年に異端・売官者として告発し、その廃位を要求します。 後にフィリップ4世はローマ教皇ベネディクト11世に圧力を加え、ウナム・サンクタムの撤回とアナーニ事件の赦免を得ます。 

 

溜め息 アヴイニョン幽囚(1305年)
     参照 法王様のワイン こちらへ

 

 

 

 

 さて、フィリップ4世の圧倒的勝利に終わった一連の騒動。教会・修道院に対する課税は、収入の半額のみに課税と決着をみたようです。

 フィリップ4世とボニファティウス8世の叙任権限を巡る論争は、教会裁判権の対象となるのかということであり、教会裁判権の対象は「罪に関する」ものに限られ、世俗の支配権とは一線が引かれるはずだ。「罪に関する」という教会裁判権の範囲は、いくらでも拡大解釈ができた。とする、教会側の叙任権に関しても教会裁判権が及ぶとする主張は無理があるとする主張と受け取ったのですが、当時の法体系が定まらない14世紀初頭のフランスに於いては、教会法は単に教会内部の規範に留まらず、ヨーロッパに於ける唯一の法(カノン法)としての意味合いを持ち始めた時代背景を考えると教会法に基づき判断されて然るべきと私は考えるのですが。
 もっとも、皇帝や王に対して叙任する権限そのものを世俗界を律する法で裁くこと自体がおかしいのですが、決着を付けるためには法的根拠に基づく判断が必要とされるのでしょう。
 
 
 アヴィニヨン幽囚を受けて、当時の君主達の対応はドイツ、イングランド、フランドル、ハンガリー、ポーランドはローマ教皇側を支援。
 フランス、カスティーリャ、ナヴァーラ、サルデーニャはアヴィニヨン教皇側を支援しますが、ローマ教皇の御膝元イタリアは分裂状態であったとされます。当然2人の教皇と2つの教皇庁の存在(東方教会を除いて。)は、カトリック教会にとっても信者にとっても混乱と不審と混迷状態が続き、互いの教会存続のための財政経費は新たな賦課となって民衆にかけられます。


 

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