フランスの歴史2 領主・騎士・農奴 | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史2 領主・騎士・農奴

             フランスの歴史2 領主・騎士・農奴

 

 

 前回は農民と森との関係、二圃式農業について述べましたが三圃式農業に触れる前に、中世に於ける支配体系について。


 9世紀頃の西ヨーロッパは、農民の共同体が現れてきたとは言っても、数軒の農家が散らばって建っていると言う程度であり、自分たちの畑を持つ農民の小さな集合体でした。

 しかし、外敵(異民族、盗賊の襲来)の侵略から自分達の財産や土地を守るためには、近隣の武力を有する者の庇護を受ける必要に迫られます。庇護する者は領主です。


領 主


 国王から与えられた土地(領地)と領内住民に対する一定の支配権を持つ者が領主と呼ばれます。領主権と呼ばれる支配権としては裁判権、警察権、農民に対する貢納徴収権を有します。農民の貢納義務や賦役義務の反対給付として、農民を保護する義務も有します。

 フランスに於ける領主の起源は、シャルルマーニュ大帝が創設した地方長官であり『伯』と呼ばれます。やがて伯の中でも強大な力を持つ者は『公』と呼ばれるようになります。 

 このような『伯』や『公』と呼ばれる領主は、多数の中小規模の領地を支配する領主を保護(防衛)し、反対給付として軍役の義務を課します。


 フランク王国に於いては、王・中小領主・騎士の間で、主君が臣下に封土を与え、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役(従軍)などの義務を負うという封建的主従関係が幾層にも出来上がっていきます。しかし、主従関係と言っても西ヨーロッパでは双務的な契約関係を保つものであり、絶対服従的な従属関係とは異なり主君の無理な要求は拒否する権利があり、お給料?の支払いが滞った場合は無条件に契約を解除出来たとされます。

 

騎 士


 シュヴァリエ~chevalier と呼ばれ、騎乗兵を意味します。古くは領主に雇われた護衛兵、傭兵だったようですが、力のある領主は城を建て、常備兵力として城内に騎士を置きます。城内騎士は城主に養われた騎士です。又、領域内に館を構えた騎士もおり、彼らは、軍役をこなしたり、収穫時の領内巡視や警護の任に当たります。城内騎士から封土を与えられ小領主となる者もいたようです。域内の農民を守り、戦争が起きれば戦士として戦うのがお仕事です。

 

 シュヴァリエは単なる職業軍人と捉えるわけにはいかないようです。騎士は歩兵戦士ではなく重装備の騎兵であり、全身鎧に身を固め長槍を持って

敵陣に正面攻撃をかける役柄なのです。野戦用の鎧は概ね18㎏前後といわれ、意外に動き回れたようです。長めの鎖帷子(くさりかたびら)を身に付けた歩兵の鎖帷子は14㎏と言われます。

 フランク王国が他のゲルマン部族を統合できたのは、徒歩兵士中心の軍団に対し重装備の騎兵による正面突破戦法が絶対的な威力を発揮したためとも言われます。


 重装備の武具や馬の飼育には経済的バックボーンが必要とされます。

騎士は王に対して臣従を誓い、軍役の義務があるといっても、遠征は年間40日まで、徒歩24時間の行軍距離内で1週間以内の戦闘参加、これらを超える遠征には別手当支給交渉が成立した場合のみ。といった12世紀の記録も残されており、日本武士の滅私奉公、絶対忠臣的な感覚とはほど遠いようです。

 

 騎馬で戦う戦士に与えられる名誉的称号や階級が騎士となりますが、下級爵位として取り扱われ、王も当然ですが領主によっても与えられたようです。20歳前後で一人前の騎士と認められると、主君から叙任を受け、金もしくは金メッキの拍車(馬を蹴る歯車付き武具) を付けたとされます。
 映画でよく見かけるシーン。忠誠を表わす
両膝を付き跪く姿勢の戦士に対し、主君が戦士の肩を剣で叩く儀式が叙任式であり、以降長剣を帯刀し騎士を名乗れます。騎士としての装備を維持する必要から封建領地を持つ支配階層となります。

 

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シュヴァリエを冠するワイン達。

 

自由農民・農奴

 民族大移動の混乱で土地を失ったり、没落したゲルマンの自由民は領主に頼らざるを得なくなります。領主は自己の領地を『農奴』に貸し与え耕作させます。このような土地は農奴保有地と呼ばれます。

 土地の利用形態としては、領主の直営地、農奴保有地、自由農民保有地に区分されます。

 

 農奴は領地内で領主に守られ安全な生活を保障され、農奴保有地と呼ばれる土地を貸し与えられ、収穫の一部を得ることが出来るものの、領主に対して賦役と貢納といった税の負担と身分上の束縛を受けます。

 

 賦役とは、領主の直営地で週2~3日働かなければならない役務を指します。直営地の収穫物は全て領主の物となりますので、タダ働きとはなりますが、領内で生活する際の税金と捉えれるべきと私は思うのですが、賦役は労働地代とも呼ばれる。とする解説が多いようです。

 

 貢納とは、領主から保有地を貸し与えられた農奴保有地を耕作し、その収穫物の一部や鶏卵・チーズなどを現物で納めます。

 貢納は土地の賃借料としての現物支払いと思うのですが、貢納は生産物地代とも呼ばれる。 と解説されているようです。

 賦役や貢納の両者を地代とすると、領主は農民を守り、反対給付として賦役や貢納を得るとの双務契約とする説明との整合性がとれないこととなります。

 この点に関して、自由農民保有地では、貢納の義務はなく、賦役の義務(直営地でのタタ゛働き)だけがあるので双務契約は成立しません。

 自分の所有する土地を耕作しているのに、地代(労働地代)を支払うという理屈は変ですよね。

 

 前記、領主の直営地、農奴保有地に関しては圧倒的に農奴保有地の収益性が高かったと言われ、農奴保有地の貢納義務は収穫量の半分とするものが多いようですので、少なくとも半分は農奴の収入になるのですから、ポテンシャルが高かったのでしょう。

 

 貢納については、結婚税・死亡税等と言うのもありました。死亡税の支払いによって保有地の世襲を認めるとの考えのようです。賃借地の更新料的な考えなのでしょう。

 更には、小麦を挽く水車小屋・パン焼きかまど・葡萄圧搾機等使用料や領主の森での狩猟権料・ブタ飼育権料等様々な名目の税負担を求められていたようです。

 領主に対する貢納とは別に荘園内にある教会に対して納めさせられた十分の一税もあります。あらゆる収穫の十分の一が徴収させられます

 

 このように、農民の大多数を占めた農奴は移転の自由がなく、生涯その土地に縛り付けられ、職業選択の自由もない等身分的な束縛を受けたものの奴隷とは異なり、家族を持つ自由、住居や農具などの所有は認められていたようです。

 

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