フランスの歴史4 麦とパン | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史4 麦とパン

              フランスの歴史4 麦とパン  

 

 

小 麦


 少なくともローマの時代からヨーロッパではパンが主食です。貴族や裕福人々に食べられたのが、真っ白な小麦粉で作った白パンであり最高級品のパンとされ、一度挽いた小麦を更にふるいにかけた小麦粉が使われます。

 柔らかくふっくらと焼けるパンは、他の穀物に比べグルテンを多く含む小麦粉でしか作れませんでした。 

 ふるいにかけられ、残ったふすま入り(全粉パン)の目の粗い粉からは二級品のパンが作られ、平民と呼ばれる人々が食しました。

 もっとも現代の栄養学から考えると、ふすまにはビタミン、ミネラルが多く含んでおり、全粉パンと白パンを比べると、鉄分は2倍、ビタミンB1は3倍と圧倒的に全粉パンの栄養価が高いのです。製粉による「ふすま」は豚などの家畜の飼料として使われました。

 

ライ麦

 

 他の穀物よりも耐寒性が強く、小麦が生育できない寒冷地においても栽培が可能であり、酸性土壌に強く、乾燥した気候に耐えますので、ヨーロッパの中でも北欧、ロシア、ドイツなど多くの地域を中心に栽培されていました。もっとも粘土質では育ちにくいという難点があります。

 ライ麦だけでパンを焼くことは可能で、色が黒く、硬く重いパンとなり、貧者のパンとも呼ばれます。もっとも、黒パンは白パンに比べて二倍以上のビタミンを含んでいましたので、経済的に副食品を取りにくい庶民にとっては貴重な食品でした。

 ただし、麦角と呼ばれる菌におかされたライ麦には麦角アルカロイドの毒性が生じ死に至ることもありました。また、茎や葉とともに動物の飼料としたりライウィスキーやウオッカの原料ともなります。秋蒔き作物ですので春に収穫されます。 

 

カラス麦(燕麦~えんばく)

 カラス麦ないしオート麦とも呼ばれる燕麦は、ライ麦よりさらに厳しい条件下でも育つことが出来ます。そのためアルプスなど山岳地帯やスコットンドなどでも栽培されていました。

 燕麦単体ではパンが出来ないので、いくらかの小麦を混ぜることでパンを作りましたが、それでも平べったく黒っぽいので黒パンの部類に入ります。   

 燕麦は他の麦に比べてたんぱく質、脂質なども多く含み食物繊維などの栄養を豊富に含むためオートミールの材料とされたり、農耕馬等家畜の飼料に使われます。燕麦は冷涼を好むものの耐寒性は高くないため、フランスで春蒔きとされます。

 

大 麦


 寒冷と乾燥を好む作物と言われます。古くは粗く挽いた大麦を煮た粥状のものが食べられていました。

 ナポレオンと戦ったウェリントン将軍が「戦争に勝つ秘訣は朝食のオートミール(粥)だ」といったとか。18世紀まで長い間、庶民の主食は大麦粥でした。
 グルテンを含まず粘りがないためパンにすると膨らまず、麺にするにはつなぎが必要。小麦などと混ぜてパンに出来なくはないがあまり膨らまず、小麦のパンとは食感が異なり重い感じのパンになると言われます。

 現在は主として飼料用および醸造用の穀物(ビールやウィスキー)に使われているようです。フランスで春蒔きとされます。

 

 日本語で、大は本物・品質の良いものに使われ、小は代用品・品格の劣るものという意味として使われるそうですが、小麦の方が大麦より圧倒的に

本物・品質の良いものなので~す。

 

小麦パン

 

 14世紀以降白パンが普及し始め、ブルジョワと言われる人々は己のステータスとして、白パンとワインと肉が位置づけられていたようです。

 尤も小麦のパンが普及したと言って農民は以前として混合パンを食べることが出来るようになり始めた程度で、パンを主食とするまでの豊かさはなかったようです。

 15世紀頃のヨーロッパに於ける穀物作付けは、小麦30%、大麦とカラス麦が60%とされており、農民にとっては小麦は貢納用であり、このように大麦やカラス麦の生産が多いのは食料用の穀物より家畜飼育のため飼料生産に重点をおいていたためとされます。

 庶民が小麦のパンを食べるようになるにはフランス革命(1789年)を待たなければならなかったようです。

 

 中世初期ではパン焼きは修道院で行われていたようです。キリストが「パンは我が肉、ワインは我が血」といったとされ、重要なアイテム(失礼)ですので、9世紀には粉挽用として風車の建設が進みます。  

 因みに、原則としてカトリック教会では無発酵パン、正教会では発酵パンを使用するそうです。

 パン焼き窯は8世紀から12世紀に広まりますが、建設権は領主が握っており、パン職人や農民は使用料を徴収されたようです。



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収 穫 率

 

 1粒の種を播いて収穫できる量との比率を収穫率言うようですが、12世紀頃のヨーロッパでは小麦の収穫率は『2』位だったと言われます。1粒播いて(播種~はしゅ~種まき)、収穫時には播いた種の量の2倍しか採れないということです。

 現在でも品種により50倍と言う品種もあるようですが、20倍強位が平均のようです。

 13世紀から14世紀でも3倍から4倍の収穫率であり、19世紀の初めになっても5倍から6倍程度(10倍説も)であり、エン麦も7倍程度だったと言われます。勿論これらの数値も農機具の発展や肥料の普及によるものです。

 12世紀の2倍というのは耕地に栄養が乏しかった点と栽培技術の未熟さがあったようです。当時は種をばら蒔いて後は収穫を待つだけの状態だったようです。おそらく発芽率が異常に悪かったためと思われます。日本のコメが110倍から140倍といわれますから、小麦の生産効率の悪い作物であり、ちょっと古い資料ですが、

 

1958年  ベルギー   イギリス

小麦   20.2   15.7

大麦   19.1   18.4

燕麦   17.8   14.4

ライ麦  16.6         となっています。

 


 トウモロコシはコロンブスによってスペインにもたらされたと言われます。やがてフランスにも伝わりますが、痩せた土地や、多少冷涼な気候でも強いようで、麦が不作の年であっても収穫が見込めますが飼料用に限り、食用は温暖な気候を好むようです。

 

 

 ジャガイモは15世紀から16世紀に南米からヨーロッパにもたらされ、18世紀に主食の地位を確立したとされます。寒冷、乾燥に強く、小麦よりも収量が多いジャガイモは、農作物の優等生となり、麦類からの耕作転換すが増えたとされます。もっとも、当時のジャガイモは、エグミが強く美味しくなかったといわれます。問題点としては連作障害の発生です。

 農奴の主食はカラス麦をミルクで煮込んだオートミールであり、13世紀頃から混合パンも一部食べられる程度のようです。副食品として知られているのは、キャベツ、カブ、タマネギ、ニンジン、ニンニク、ヒヨコマメ、ソラマメ、エンドウマメ等があったようです。


 

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