フランスの歴史5 三圃式農業 | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史5 三圃式農業

                     フランスの歴史5 三圃式農業 

 

 

 フランスの歴史1では二圃式農業や準焼畑農業について記しましたが、やがて耕地を3区画に分け、夏作物・冬作物・休閑地とする三圃式農業が採り入れられ、集村化が進むというのが大まかな歴史上の流れのようです。

 集村化(村の形成)と三圃式農業は独立して行われたというより密接に関係しながら形成されていったようです。

 

集 村 化

 

 集村化については実に様々な学説があり、気候、地勢、土壌、侵略者の有無、都市に対する遠近といった環境の違いによって、集村化に至る(経緯や理由)学説を異にしているようです。

 多くは共同耕作であったり、農機具の共同購入であったり、共同放牧地の管理であったりと、共同行為を行うために集村化したとするもので、新たな開墾、放棄集落への移住、新たに作られた教会への集村等が示されています。全体的な記述としては次のように示されています。

 

1.血縁的関係の強かった大家族的な散村は、地縁的に結び付けられた

  大規模な村落共同体へと変化していった。

2.数戸の家が緩やかに集まっているだけだった散村から、より共同耕作

  がし易いように農民の住居が一箇所に密集していきます。

3.中世において、農業技術の進歩(生産量の増大)により開拓や水利工

  事などの大規模な共同作業が必要となり、農地ごとに分散化していた住  

  居の村落化が起こっている。
4.三圃制普及と並列して進むのが集村化です。それまで数戸の家が緩や

  かに集まっているだけだった散村から、より共同耕作がし易いように農

  民の住居が一箇所に密集していきます。彼らは教会やそれに付随する

  墓地、あるいは領主の城砦などを中心にして集まり、共有の森林や放

  牧地を設けるようになりました。一箇所にまとまったことで防衛上の利益

  を得ようと村の周囲には防護壁や柵が設けられることもあり、また中心

  に城がある集落でなくとも、村でほとんどの場合唯一の石造建築であっ

  た教会がしばしばその役目を引き受けました。こうして血縁的関係の強

  かった大家族的な散村は、地縁的に結び付けられた大規模な村落共同

  体へと変化していったのです。

 

 いずれの説明も歴史的な事実をとらえた説明であるとは思いますが、共同作業を行うために集村化がなされたとの説には首を傾げます。集村化されたから共同作業ができるようになったのは判るとしても、共同作業を行うために自分の畑や家を棄ててまで移り住むものでしょうか。

 いずれにしても、集村化、荘園化、三圃式農法が相互に絡み合いながら中世の農業が変化していったとものと思われ、一面的に語れるものではないのでしょう。

 

三圃式農業

 

 圃場(ほば~畑等耕作地)を2区画に分け、一方を作付地、もう一方を休耕地として一年毎に入れ替える「二圃制」農業が行われていました。

 やがて800年頃には連作障害を避けるため、栽培する作物を周期的に変え、土壌の栄養バランスをとることが知られます。三輪作と言われ3年サイクルで、1年目はライ麦、2年めは小麦、3年目はカラスムギと大麦を栽培する方式です。

 

 10世紀末にライン・ロワール間の王領や大修道院領などで新たな取り組みが行われ始めます。三圃制~three fields system と呼ばれるもので、圃場を3区画に分け、春耕地(春蒔き、夏畑、秋収穫)として豆・燕麦・大麦を栽培するA区画。秋耕地(秋蒔き、冬畑、春収穫)として小麦・ライ麦を栽培するB区画。休耕地とし、豚等の家畜を放牧するC区画が設けられます。

 放牧地は刈入れが終わった後に、落穂ひろいが行なわれ、後に家畜が共同放牧されます。

 

 連作障害を避け、家畜の排泄物が肥料となり、地味を維持することが出来、生産性は著しく向上したようです。三圃制が成立するのは広大な圃場が必要であり、村落共同体として共同耕作が必要となります。

 特色は休耕地~放牧地の創設です。経験的に家畜の糞が肥料になることを発見した人々が地味の回復のために設けられたものです。家畜の牛や馬や羊や豚や鶏が放たれ、家庭の廃棄物も投入されたようです。

 現在の格言に「稲は地力でとり、ムギは肥料でとる。」とされていますので、このような肥料の投入は有効でしょうし、葡萄畑でも行われています。

 有機栽培の始まりといえるでしょう。一般に広まるのは11世紀から13世紀にかけてとされます。
 3つの圃場で形成されるため、三圃制と呼ばれたようですが、1つの圃場が年ごとにローテーションで春耕地、秋耕地、放牧地とされますので、毎年

小麦・ライ麦、豆・燕麦・大麦が収穫されることとなります。

 

 荘園では、広い圃場を確保するため近隣の森林を開墾し、共同作業の効率化が知られることとなります。

 ところが問題が生じます。圃場も集約化せざるを得なくなりますが領地内の入り組んだ領主の直営地、農奴保有地、自由農民保有地の存在です。

 例えばAという特定の地所の自由農民保有地に拘ると、三圃制が出来ないのです。そこで、交換分合(土地区画整理)を行い、共同体の全財産として3つの圃場を創ります。次に農民には持ち分を定めます。

 農民は、特定の土地の所有権や耕作権から、全体の圃場の持ち分権としての権利を取得します。

 この方式により、農民は毎年異なった土地を耕作することとなります。

圃場は肥沃な土地もあれば痩せた土地もあります。これらを1日で耕せる幅と長さに区分(短冊状)し、公平に、持ち分に応じて農民に振り分けられ、開放耕地制(個々の耕地が共同の耕地へと開放された)とも呼ばれます。

 場合により農民は、あちこちに振り分けられた短冊状の土地を耕す不便を強いられますが、公平性は確保されます。

 

 このように13世紀には、集村化、荘園化で多くの労働力が確保され、開墾、扱いの難しい重量農機具の複数操作、高価な農機具の購入等が可能となったのです。効率的な団体耕作の結果、2倍程度であった麦の収穫率は3~4倍に上がったとされます。

 三圃式農業は、フランスでは19世紀初頭まで続いたとされており、開墾による森林破壊、農業生産向上による人口の増加という側面も持ち合わせます。

 三圃式農業に代わって登場するのは輪栽式農業であり、早期導入の地域では18世紀頃からと言われ、飼料用の混載植物(カブ)の作付と牧草地の導入です。飼料の不足する冬期間の家畜飼育対策として有効であり、科学肥料の導入とも関係するのですが、放牧地(休耕地)が不要となります。
 

 

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