フランスの歴史10 ハンザ同盟と自由都市 | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史10 ハンザ同盟と自由都市

          フランスの歴史10 ハンザ同盟と自由都市

 

 

商人ハンザ

 

 「ハンザ」は団体を意味するようですが、「会費」を意味するとの説もあるようです。

 フランスの歴史9、で商人ギルドについて触れましたが、商人ギルドはあくまで特定の都市内に於ける独占団体であり、その取扱いは交易品が主要なものでした。
 商人ギルドは、隊商を組み武装して共同組織として各都市や各国に仕入れや販売の為に出かける遍歴する(仕入れや行商)商人隊(以下遍歴商人隊と表記)です。彼らは自己の所属する都市に於いては特権を有するものの、他国や他領においてはなんの特権も有していません。

 

 そこで、特定の遍歴商人隊が遍歴地の王から、商業活動に於ける低関税、自由通商、居住権などの特権を受け、居住したとしても租税、公租、十分の一税の納付義務は免除されるなど「無税通商活動」の特権を得る遍歴商人隊が現れます。  

 遍歴地の王としては、面倒な徴税システムが省かれ一定の対価がもたらされ、遍歴商人隊としても王の特権状を持参すれば安全な商取引が確保されることとなります。このような特権を有する遍歴商人隊が「ハンザ商人」と呼ばれます。ハンザ商人を「旅商人の特権団体」と訳している例も見られます。

 


都市ハンザ


 成立の起源はドイツのリューベックの町とハンブルグの町に於ける1210年の都市間商業同盟の締結とされています。2つの都市が提携して敵対勢力に対抗するための手段だったようです。この都市間の商業同盟が「都市ハンザ」と呼ばれ、各々の都市が商人ハンザに加盟しハンザ同盟(ハンザ都市同盟・ドイツ・ハンザ)が1358年に結成されます。

 12世紀から14世紀半ばまでは商人ハンザの時代、14世紀半ばから16世紀半までが都市ハンザの時代とされていますが、都市ハンザに関する記述はハンザ同盟に関する説明がなされる等、都市ハンザそのものの具体的な説明が見受けられません。

 

 

ハンザ同盟

 

 ハンザ同盟自体はもともと神聖ローマ帝国のドイツ諸侯領であるリューベックの町とハンブルグの町が締結した都市間同盟が土台です。

 北ドイツの諸都市が加盟し、その後権益の大きさからドイツ領以外の都市の加盟も増え、15世紀の最盛期には、加盟都市数は200を越えた権益団体です。

 

 ハンザ同盟の本質は経済的な都市連合であり、外地及び自領領地内における交易特権の享受と維持を目的とした特権団体であり、時に政治的・軍事的連合として行動することもありますが、各都市の利害が優先され常に共同行動をとったわけではないようです。

 

 北海とバルト海交易を独占するハンザ同盟は、ロシアから毛皮、ドイツ諸領やリトアニアから穀物と木材、スウェーデンからはバターやチーズや鉄鋼や銅鉱、ノルウェーから鱈や鰊、東方、南ヨーロッパから贅沢品や香辛料、フランドルから毛織物、スペイン、イタリア、フランスからワイン、その他、肝油や獣脂や塩やビールやホップや麻や布地や鉄製品やガラス器等も取り扱われ、リューベックの町は商品集積地として大いなる繁栄を得ます。

 

 ハンザ同盟は、北ヨーロッパの国王達に献金し、多くの特権を獲得していた。これらの特権によってロシアやスカンジナヴィアの交易はハンザ商人の独占状態となり、各国の商人は「ハンザに雇われた仲買人と代理商」として生きるしかなかったとされます。


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リューベック、ハンブルグ。           ハンザ同盟交易ルート。


 ハンザ同盟に反対勢力が無かったわけではありません。フランドルの毛織物を取り扱う商人ギルドです。フランドルの商人ギルドと言えども東方地域への商品販売は、ハンザ商人に握られ彼らを頼らざるを得なかったようです。他方、フランドルの毛織物に対する特権を得たハンザ同盟に対し、不当な関税をかけたり、ハンザ側の特権をフランドルが守らなかったため、ハンザ同盟は1358年から1360年までフランドルに対する穀物ルートを絶ちフランドルを抑え込みます。結果、フランドルの商人ギルドは毛織物の独占販売体制を維持出来なくなったようです。

 

 北ドイツの隣国デンマークは南下政策をとっていましたので、北海、バルト海交易の主導権を争い、ハンザ同盟と1361年から1370年まで戦争となり、ハンザ同盟が勝利します。経済的な同盟団体であるハンザ同盟が政治的・軍事的行動に出たものであり、強大な財力が一国を打ち負かしたこととなります。

 ハンザ同盟自体は常設の軍隊を有したわけではありませんが、北海やバルト海の海賊対策として巡視船や警備艇クラスの船舶は持っていたようです。いざ戦争となれば大型の商船に大砲を積んで軍装を整えたとされます。陸路の警備のための多少の軍事力は持っていたようです。

 ハンザ同盟自体は、基本的に一般財源もなかったものの、有事には臨時徴収や、ハンザ同盟末期から分担金の徴収が行なわれ、多くの傭兵を雇い対抗したようです。

 

 デンマークとの争いは1420年に再び起こり1435年に終結しますが、再びハンザ同盟が勝利し、ズンド海峡の通行税免除の特権を勝ち取ります。  

 尤も、最終的にはデンマークがノルウェー・スウェーデンと3か国の王国同盟を結成(カルマル同盟~1397年締結)し、海峡税で得た金で海軍力を増強したため15世紀にはハンザ同盟は北海、バルト海の覇権を失います。 また、ドイツ国内を疲弊させたイングランド、デンマーク、スウェーデンによって戦われた30年戦争の影響、主要取扱品であった北海の鰊漁の不振等の原因により、1669年のハンザ会議には僅か8都市しか集まらなかったと言われ、終焉を迎えることとなります。

 

 北海・バルト海貿易自体は、新たな交易ルートであるアメリカ大陸からの低価格の穀物が輸入されるようになり、交易商圏としての重要性は薄れます。大航海時代を迎えると、かっての交易の覇者ハンザ同盟の地位はネーデルランド(オランダ)、イングランドに受け継がれていきます。

 ハンザ同盟が如何に強大であったかは、ハンザ同盟はイングランド国王に対し貸し付けを行っており、エドワード3世の王冠や宝石は抵当に取られていたとか、王有の錫鉱山の賃借権をとられたとか、イングランドに於ける羊毛取引に関する仲裁裁判所の構成員は、イングランド人、イタリア人、ハンザ商人が各2名であったという事実が物語っているようです。

 


 

自由都市

 

 フランドル伯領はフランス王国と神聖ローマ帝国の緩衝地帯として、両方と関係しながら大幅な独立性を保った領地です。12世紀頃、フランドルは自由都市が発達したとされます。
 

 

 諸侯は領地内の都市の繁栄を見て、都市からの更なる課税を企みます。12世紀頃の領主は農地からの地代収入と都市の商業税収入があり、戦費等非常時に臨時に徴収出来ただけのようです。これに対し、都市の商人達は団結して諸侯の要求を拒否し、城壁をつくり、兵士を雇い、諸侯軍と戦います。

 このように対抗出来たのは、都市に経済力が備わった点と、相手が小領主であったことによるものと思われます。自由都市の形成がフランドルや同じく小領主により形成されているドイツに多く見られるのもこの様な理由によるものと思われます。

 

 都市は自分たちの利益を守るため自治権獲得を目指し、上納金を納める代わりに自分の都市の自治権を認めて下さいと、領主を飛び越えて王や皇帝に直訴します。結果、王や皇帝は諸侯を抑え都市から税を手に入れることが出来ますので喜んで都市特権特許状を渡します。この特許状を得て独自の自治権を有する都市は自由都市と呼ばれます。

 

 国王は、直轄の王領からしか収入を得られず、形式上臣下の礼をとる諸侯の領地から徴税できません(不輸不入権)でしたので、力を蓄えることに成功します。フランスの自由都市は1134年にルイ6世がパリの南130㎞に位置するロリスに認めたのが最初とされ、1240年にはルイ・9世が南仏エーグ・モルト港建設の為認めた例が判明していますが、ルイ9世の収入の40%は自由都市からの収入だったとされます。

 

補 記

 

 

 

 

 

 商人ハンザから都市ハンザ、そしてハンザ同盟へと移行した経緯や実態は不明ですが、

 商人ハンザ期と呼ばれる初期には商人自らが商品を携え遍歴していたが、やがて財を蓄え使用人が遍歴するようになり、商人は都市に店舗や住居を構えるようになる。商人は都市の参事会に参入し市政運営を担うようになる。そこで、一商人の団体から都市の後ろ盾を得ることとを目的として都市ハンザへと変更した。つまり、商人ハンザと各都市ハンザの構成員は同一であり実態は同一であるとする説があります。

 

 確かに遍歴商人が都市に定着し、市政参入を果たしたことは容易に想像出来ることです。しかし、商人ハンザと都市ハンザの構成員が同じだからその実態も同じとの説明は理解できますが、意義や要件について説明がなされていないのではないでしょうか。

 

 商人ハンザは、遍歴地の王から商業特権を得た団体です。しかし、自己の属する領地に於いては他の商人と変わらないのです。

 都市ハンザは自国内に於ける都市連合とされます。都市ハンザは自国内に於ける特権を得るためのハンザ(同盟)ではないのでしょうか。

 ハンザは自国内に於いては、他の商人と同様であり他の商人に対して優位な特権を得るには、ドイツ国内の自由都市自体から特権を引き出す以外方法がありません。

 そこで都市同士がお互いに特権を与え合い繁栄を目指したのではないでしょうか。A都市とB都市が都市ハンザを組むと、それぞれの都市の商人は、他の都市の商人より、例えば低率の税負担(入市税、商品販売税、通行税等)とする特権を互いに与えたのではないでしょうか。

 

 商人ハンザは他国遍歴地の王から特許状を得た団体であり、都市ハンザは自国内の連合した都市から特権を受けた団体、つまり対外国特権と対自国内都市間特権を得た団体であり、商人ハンザと都市ハンザの違いは対外的表現が異なるだけであり、組織体としては同一のものと思うのです。

 

 商人は1人で営業するより、団体を組んで活動したほうが利権を得やすい。そこで商人ハンザが成立する。やがて、1団体より都市と言う、より大きな組織の方が対外的折衝能力が増す。そして都市間で都市ハンザが成立し、都市ハンザは網の目のように相互に連携した多数の都市ハンザが成立する。さらに大きな組織が出来れば対外的圧力を増すため、都市ハンザの全てを包含したハンザ同盟が成立したと私は考えるのですが如何でしょうか。

 

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