フランスの歴史12 東西カトリック教会 | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史12 東西カトリック教会

            フランスの歴史12 東西カトリック教会

 

 

ローマ帝国

 

 395年には、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世が帝国を2つに分けて、東を長男に、西を次男に分け与えます。

 東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブール)を中心に1453年まで存続しビザンティン帝国とも呼ばれます。イスラム帝国やスラブ人の侵入を受け領土の縮小が進み、領土拡大期を経るもののオスマン帝国の侵略により滅亡します。


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ローマ帝国最盛期。            東ローマ帝国。左図と時期が異なるため一部重複。 

 

 西ローマ帝国はゲルマン人の侵略により476年に滅亡します。 フランク王国の血筋(傍系)を引くオットー1世は、フランク王国分割後の東フランク王国一帯を治めてはいましたが、王国相続権に於ける直系血統主義の関係から911年に東フランク王国は断絶とされていました。

 しかし、オットー1世は西ローマ帝国からフランク王国へ継承された帝権を有すると主張。962年ローマ教皇ヨハネス12世から神聖ローマ帝国皇帝位を戴冠。もっとも神聖ローマ帝国はカール4世の1355年戴冠時とする説もあるようです。

 

 

東西カトリック教会

 

 313年にキリスト教はミラノ勅令によりローマ帝国の公認宗教と認められ、やがて392年には国教とされますがどうも1枚岩を継続というわけにはいかなかったようです。

 

 ローマ帝国時代、国教とされたキリスト教の司教区はローマ、アンティオキア、エルサルム、コンスタンティノープル、アレキサンドリアに分かれ5人の司教を頂点としていました。

 395年にはローマ帝国は東西に分割されていましたが、教会は東ローマ帝国のコンスタンティノープル教会が主導権を握っていたようです。

 ローマ帝国は分割されますが、国教であるキリスト教は分割されたわけではありませんので5つの教区を持つ1つのキリスト教団のままですが、ローマカトリックは西ローマ帝国の政治的・軍事的支援を受け、コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国の政治的・軍事的支援を受けることとなります。

 やがて、ローマに本拠地を置く西のローマ教会と現在のイスタンブール(旧コンスタンティノープル)に本拠地を置く東のコンスタンティノープル教会

が首座権(一番上位の席)を巡って水面下で争われます。

 

 双方の教会はローマ帝国分割により、地理的に離れていた点も影響したのか、ローマのローマ司教をトップとするカトリック教会(西方教会)とコンスタンティノープル総主教をトップに頂く東方の正教会の東西両教会の交流は希薄となります。

 やがて独自の教義を確立していくこととなりますが、礼拝方式の違い、教会を管理し信徒を指導する考え方、司祭の妻帯の可否(カトリックの司祭は妻帯不可)等の違いが生じます。

 

 726年東ローマ皇帝レオン三世(ローマ帝国は皇帝教皇主義と言われ、ローマ皇帝が教皇を兼ねます。)が「聖像禁止令」を発します。

 東ローマ帝国は広範囲に及び宗教も溜め息イスラム教、ユダヤ教、キリスト教が信じられており、イスラム教側からの偶像崇拝は神の教えに反するとの申し入れに対処するためともされていますが、当時の帝国内は修道院が大きな所領を持っていたため、その領地没収の名目に、イエス像、マリア像、イコンを破壊する行動に出たのが真相のようです。結果的に東ローマ帝国は大きな財政基盤を獲得したとされます。

 

 対してローマカトリックは「聖像禁止令」に大反発します。西ローマ帝国はゲルマン人の侵略により476年に滅亡した時期、政治的保護者を失い、教会存亡の危機に直面していました。ローマカトリックはアルプスを越え、ゲルマン人に対する布教活動に専念していました。ゲルマン人たちへの布教の手段として聖像を用いていたのです。カトリック教会のステンドグラスが神の教えを文字の知らない農民たちのため教会に取り付けられたと同様、解かりやすい教義の布教手法だったのです。

 6世紀後半、教皇グレゴリウス1世が積極的にゲルマン人への布教を進めた結果、ローマ教皇勢力が増大しローマ教会はビザンツ皇帝からの独立色を強めていたとは言え、いまだコンスタンティノープル教会が主導権を握っていた状況下の「聖像禁止令」です。しかし、ローマ教会は従うことをしませんでした。

 

 このようにローマカトリックとコンスタンティノープル教会の争いが顕在化する中、東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも)の皇帝位はレオン4世、コンスタンティノス6世へと引き継がれますが、コンスタンティノス6世に統治能力なしとして廃位し、実母イレーネがローマ帝国史上初の女帝として797年即位します。

 面白いことに、女帝イレーネはイコンを認め、イコン破壊派への弾圧を強化します。これによりローマカトリックは安堵するかと思いきや思い切った行動に出ます。

 

 

 

 

 

 西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン系のフランク王国が樹立され、768年に即位していたカール1世(ドイツ語表記でカール、カール大帝とも。仏語表記はシャルルマーニュ。)に対し、ローマ教皇レオ3世はローマのサンピエトロ大聖堂において「ローマ皇帝」の帝冠を授与してしまうのです。

       

 

 

 

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青色はカール即位(768年)時、赤橙色    東ローマ帝国領。

がカール獲得領、黄橙色が勢力圏。

 

 

 

 

            

 この暴挙に対し、東ローマ帝国は皇帝の称号を名乗るには東ローマ皇帝の承認が必要であることを主張し、東西ローマ分割時代、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合う慣習はあったものの、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習すらなく、権限も有しないとして紛糾します。

 最終的な解決は、カール大帝が商業都市ヴェネツィアと南イタリアの一部を東ローマ帝国に割譲し、東方教会はフランク王国の皇帝(ローマ皇帝ではなく)として認めるとの解決策が812年に成立します。

 しかし、両者の対決は解決したわけではなく、1054年にローマ教会の枢機卿フンベルトが使節として東方教会を訪れた時のコンスタンティノープル総主教ミハイル1世キルラリオスの非礼に怒り、ミハイル1世等に対し天下の宝刀「破門状」を叩きつけます。ミハイル1世も逆にフンベルト御一行様に「破門状」を叩きつけます。

      とても聖職者のすることとは・・・・猿山の喧嘩

 ともあれ、東西カトリック教会はこの「相互破門」で完全に袂を分かち、900年の時を得て1965年に解決の話し合いが持たれます。なにお、現在では東方教会と言う呼称よりも正教会と呼称されているようです。

 

 

カール大帝戴冠の背景

 

 

 

          

 カール大帝は征服者としての面も有するのですが、征服地に修道院を建てたり聖職者を官職に付けるなどキリスト教を保護していました。773年には義理の父親ランゴバルト王デシデリウスがローマに攻め入った際、時のローマ皇帝の援助要請に従い、王妃を追い返してランゴバルト王国を奪い、中部イタリアをローマ教皇に寄進したくらいです。

 さらには、教皇には珍しく貧民階級出のローマ教皇レオ3世が、799年に反対勢力から襲われたときにはカール大帝の元に庇護を求めたと言う経緯があるようです。

 

 

 

 しかし、ローマ教皇レオ3世はこれらの恩を返したとする見方よりも、武力で覇権を握ったヨーロッパ最大のフランク王国を、(西)ローマ帝国と認め、皇帝の正当性を与えた反面、フランク王国の保護下にあることを意味し、ビザンツ帝国の政治的影響力からの独立を果たします。また、隠された一面として教皇が皇帝位を授けた。つまり、教皇の皇帝に対する優位性が示されたと捉えることが出来ます。

 

 

皇帝位授与の権限

 

 

 イエスが復活した時に弟子の一人シモンに「おまえはペテロ()だ。この岩の上、私の教会を建てよう。地獄の門(悪魔)もこれに勝てないであろう。お前に天国の鍵を与えよう。これによって、お前が地上でつなぐものは天国でもつながれ、お前が地上で解くものは天国でも解かれるのだ」(マタイ伝 第16章より)と言ったとされます。

 かっては漁夫であったペテロは、イエスから権能(権利と能力)を預託されたとされます。ペテロは神の地上での代理人と指名されたことになるとか。

 

 ところが、1司教であったはずのローマの司教が、「イエスから天国への鍵を預かったペテロはローマで死んだ。そのローマの司教(ローマ・カトリック)こそがペテロの最も正当な後継者である」という主張をし始めます。

 ローマカトリック教会は、コンスタンティノープル教会が東ローマ帝国のコンスタンティノス6世皇帝を廃位し、女帝イレーネを戴冠させた行為は認められる行為ではなく、コンスタンティノス6世皇帝を廃位した段階で皇帝位は空位となった。だから、ペテロの後継者たるローマ教皇が戴冠させた。との理屈?になるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以降の問題点

 

 正教会は全ての主教がペトロを受け継ぐものとされます。東ローマ皇帝は、キリスト教ローマ帝国の地上の神の代理人との主張。
 ローマ・カトリックはローマ教皇こそがイエスの正式な代理人であると主張。両者の基本的な違いは、ローマ教会が世俗権力から比較的独立しているのに対して、東方教会は皇帝権(世俗権力)の支配下にあるという点だと思われます。

 宗教的な権限や権利の「教皇権」と世俗的な権利「王権(皇帝権)」は以後永きにわたって争われることとなります。要は、だれが王や教皇を認めるのかということであり、認める者が優越的立場で、認められるものが従う立場。簡単に言えばどっちが命令出来る立場なのということです。具体的には宗教上の裁判権(異端審判等)、異端宗教の追放、司教領地や修道院に対する課税、教皇の任命権(任命権者の複数化)等様々な問題を生み出していくこととなります。


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天国と地獄と地下を支配する象徴としての    信仰のためなら何時でも進んで命を捧げる

三重冠と、天国の鍵を組み合わせた教皇紋章。  決意を表す緋色の枢機卿の聖職者服。

 

附 録

 ローマ司教は特別との意識からか、ギリシャ語のパパスPOPE~父親ラテン語に転用されてパパとなった呼称が、司教や司祭に対して使われていましたが、やがてローマ司教に対してだけ使われるようになり、ローマ教皇と呼ばれるようになったとされます。全キリスト教会の指導者です。

 教皇の名称は何時から使われたかについては、3世紀とも6世紀とも言われ定かではありませんが、西方教会ではパウロまで遡り、パウロを初代としているようです。

 

 前後しましたが、2世紀以降位階制が設けられ、助司祭、司祭、司教の役職が登場します。他に名誉職として大司教、総大司教などと言う呼称もあるようです。  

 修道院長は司教相当であり、枢機卿なるローマ近郊聖職者によって構成される教皇の顧問団もあり、教皇は枢機卿団によって選出されます。

 もっとも、古くはローマ市民によって選ばれていたとされ、現在は「シスチナ礼拝堂」で「コンクラーベ~conclave」という教皇選挙が行われます。
 コンクラーベの語源は、対立候補との争いが繰り広げられる教皇選出に関し、選出されるまでシスチナ礼拝堂の扉は閉ざされたまま缶詰め状態となりますので、年配の枢機卿達の「根比べ」が繰り広げられることに由来するとの話は全くありません。

 

 

溜め息 イスラム教もユダヤ教もキリスト教も同じ神を信じる兄弟宗教です。

 

 イスラム教の聖典は、神がムハンマドに伝えられた言葉を記した「コーラン」です。

 ユダヤ教の聖典は「ヘブライ語聖書」であり、モーゼが書いたとされる律法を中心とする「律法・預言者・諸書」~タナハである。最も重要とされるのが律法であり戒律を厳しく守っていく姿勢が強いようです。

 「ヘブライ語聖書」は旧約聖書と呼ばれることもあるようですが、これはキリスト教の考え方、イエスと神との古い契約の書と新しく取り交わされた神との契約の書とする考え方によるもののようです。

 キリスト教の聖典は、イエスの言動を記した文書や、弟子たちの手紙などから成っている「新約聖書」ですが、旧約聖書もキリスト教の聖書となります。

 

 

 

お詫び  宗教問題に関する個人的解釈・見解を含む記述であり、信者の方々にとって不愉   

     快に思われる記述が御座いましたらお詫び申し上げます。     

 

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