フランスの歴史14 三部会と借金踏み倒し | ろくでなしチャンのブログ

フランスの歴史14 三部会と借金踏み倒し

           フランスの歴史14 三部会と借金踏み倒し

 

 

 フィリップ4世 は、絶対王政を目指し王国基本法を策定して中央集権化を進め、1284年にはナバラ女王ジャンヌと婚姻により、直轄領に隣接するシャンパーニュを取得し、王国の直轄領は拡大されます。

 

 

 

 

 

 


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1223年国王直轄領に更にシャンパーニュ領を婚資として取得。 

 

 他方、フランドル、ギイエンヌの領地紛争を抱え、財政が逼迫しており財政再建策の策定が急務とされていました。

 

 

三部会

 

 フィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世との抗争を勝利するため

ナショナリズムを刺激し国内勢力(市民)を味方につけようと図り、1302年4月10日パリのノートルダム大聖堂に、聖職者・貴族と初めて市民代表を迎えて「三部会」を開催します。

 三部会ではローマ教皇の教書を歪曲して発表し、官僚のピエール・フロートに教皇弾劾の熱弁を振るわせ、結果三部会は教会課税を可決し、併せて教皇非難の決議を行なわせることに成功します。この時召集された「三部会」がフランス議会の始まりとされています。


 三部会(エタ・ジェネロー~États généraux)は、従前開かれていた聖職者、貴族のそれぞれの身分制議会を一堂に会したものとなりましたが、第1身分と呼ばれた聖職者、第2身分と呼ばれた貴族、そして新たに第3身分と呼ばれた都市平民が構成員となりましたが、現代の我々が考える議会とは大きく異なるものだったようです。

 

 第1身分の聖職者として選ばれたのは司教や高位聖職者であり、教会組織から選ばれるものではなく、国王に選任権があったのです。例外的に修道院や司教座聖堂参事会からの出席もあったようですが、彼らは立法司祭の修道士に選任されていたようです。

 

 第2身分の貴族は封建領主(第1身分の司教領主に対しての表現。) であり王によって選任されます。

 

 第3身分の平民については、当時のフランスの推定人口2800万人のうち9割を占めたであろう農民はその対象外でした。対象は特権を与えられた優良都市~bonnes villesと呼ばれる都市代表として商人が選ばれるものの代訴士~procureurs~代理人と思われる~として自治都市の役人達が出席することもあったようです。

 後年(16世紀の30年間だけ)、全住民を対象に第3身分の選出が行われたケースもあるようですが選出方法も時代により大きく変化したとされます。

 

 採決方法は各議題ごとにそれぞれの部会で議決を行い、3つの部会の3個の議決の多数決で決せられましたので、第3身分の賛成だけでは議案は通らなかっようであり、3分会出席者総数の多数決で採決されることはなかったとされます。後年圧倒的多数の議員数を誇る第3身分の意見が議決されない事案が多くみられるようになります。

 

 一般に全国三部会を三部会と称することが多いようですが、地方三部会(州三部会~États provinciaux)もあったようです。

 三部会開催の理由として、教会に対する課税権を承認させるためとされており、13世紀末のフランドルとギエンヌをめぐる対イングランド戦の戦費をまかなうためとされています。 15世紀以降、絶対王政の確立により三部会の意義が薄れたため1614年以降開催されなくなりました。ただし、一部の地方の地方三部会だけは存続したとされます。

 

 ところで、絶対王政を確立することとなるフィリップ4世が、何故第3身分の平民を呼び集めて新たに三部会を作ったのか、理由がいまいちピンとこないところです。絶対王政と国民の支持って対局軸にあるように思うのですが。

 国民の支持を得て、絶対王政を確立したら、もう国民の支持なんかいらない、王がなんでも自由に決めてしまう。だから1614年以降三部会も開催されなくなったでしょう。と考えれば・・・・・・。

 私は三部会開催の根底には、フィリップ4世の教会に対する恐怖があったように思うのです。強気一辺倒のフィリップ4世は教会課税を強行した後に

三部会を開催しています。私の主張は正しいと思うでしょう。追認(支持)して下さい、と言うことです。

 消〇税を上げますと決めてから、国民の皆さん正しい判断だったでしょう。認めて私達をもう1回選んでね。とどこか・・・

 神に選ばれし国家の統治者なんぞと思っても、相手が神の代理人を標榜する教会と戦っているが、国民がもしも教会側に付いたら・・・。

 

 ともあれ、三部会(1302年4月開催)の同意を取り付け教会に対

する課税(1296年提案~1303年頃決着)もできるようになり一安心と思いきや、フランドルで市民の反乱(1302年5月)、同年7月金拍車の戦いで市民軍相手にまさかの惨敗。

    フランスの歴史11 金拍車の戦い こちらへ  

 以後常設軍を持つこととなりますが、まだお金が足りない。当時のヨーロッパの3大金持ちの1つ、教会からはお金を取り上げることに成功。次に狙った相手の金持ちとは・・・・。

 
 
ユダヤ資産没収
 
 1306年、フィリップ4世はフランス国内のユダヤ人を逮捕し、資産没収の上追放します。
 この追放劇を理解するためには歴史を遡る必要があるでしょう。ユダヤ人とは特定の人種を指す言葉ではなく、イスラエルが移民を受け入れる際のユダヤ人の定義として示された「帰還法」によれば、ユダヤ人の子供(孫)又はユダヤ人と結婚した者及びユダヤ教を信仰する者とされます。
 1970年以前は母親がユダヤ人であることとされており、ユダヤ教の信者であることとその母系からの承継が重要視されていた。つまりは人種的な制約がないこととなり信仰が第1となるようです。ユダヤ教徒は厳格な宗教上の行為・行動が重視されますので外部からユダヤ教徒の認識をすることは容易なようです。
 
 ローマ時代のユダヤ人にとっては、職業の自由も、信仰の自由も、軍務や公務や納税の義務もあり、ローマ市民として生活できましたし、何らの差別を受けることもなかったようです。
 ガリア地方(現フランス)に移住してきたユダヤ教徒にとっても、ローマと変わることなく商業だけに従事するということもなく、農民やワイン造りに従事する者もいたようです。
 
 フランク王国では、基本的には農耕牧畜を基盤とする国家です。外交や交易の知識・経験を有する多言語を理解する特殊な能力集団としてユダヤ教徒は、地中海とのネットワーク維持のためには不可欠だったのです。
 ユダヤ人は古くからの流浪の民として新生地で生き抜くためか、教育を重要視してきた歴史があり知識人・技能者等を多く輩出してきた歴史を有するようです。
 ガリアでもユダヤ教徒を積極的に登用(利用)します。彼らは王から様々な特権を得て、地中海ないしオリエントとの交易を行い、国王に特別の税や収入をもたらします。 
 このようなユダヤ教徒の活躍(躍進)に対し、キリスト教会は危機感を抱きます。やがてキリスト教の公会議で反ユダヤ主義的非難を始めます。
『ユダヤ教徒はイエスを救世主として認めないどころか、彼を十字架にかけて殺してしまった故に、神の御わざにより放浪し、哀れな状況に貶められている。』と言う論理を展開し後世まで大きな影響を与えます。
 
 凡そ9世紀末以降、ガリアに急速に勢力を広げ始めたカトリック教会はユダヤ教非難だけに止まらず、ユダヤ人経営の大規模農地を取り上げようと画策し、公会議でユダヤ教徒の奴隷所有を禁止します。奴隷を失い大規模農業経営が困難となった農地は司教領へと変化します。

 789年にはフランク王国分割により、西フランク王国が出来上がりますが
地方諸侯にとっても、司教や大司教の領地においてもユダヤ教徒に対する課税は大きな収入をもたらし、彼らに対する課税律も特別高いものでなく、移動の自由も保障されていました。
 当時のユダヤ人に対するキリスト教への反発や非難の多くは、特権を与えられた上層部のユダヤ教徒に対するものであり、多くのユダヤ教徒は畑や果樹園、ワイン畑や野菜園を営み、水車なども所有していたようです。ワイン栽培はロアール川沿いで多く行われていたようです。
 職業についてもパリでワイン業を営む者も、染色、皮鞣し業などの手工業に就く者や、多くの医者もおりユダヤ教徒の職業は多種多様であったようです。

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ロワール河とライン河。
 
 12世紀頃より、ガリアやライン河沿岸にいたる地域は貨幣経済が発展し、 急速に貨幣経済に取り込まれた教会領主や領主たちは、現金を調達する役割をユダヤ教徒に担わせユダヤ人の社会的役割は増大します。
 ただ、当時金貸し業はユダヤ教徒の独占と言うわけではなく、フランク王国によって滅ぼされた北イタリア「ロンバルド人」等非カトリック教徒によって担われていました。何故なら利息をとることをキリスト教では禁止していたからです。
 
 同時期ローマ教皇の呼びかけによる聖地の奪還を口実とした十字軍の遠征を生み出し、宗教的熱狂心が沸き起こりミラノ公会議(公会議~各国のキリスト教会の司教が集まり審議する最高会議)で異端の(カタリ派~アルビジョア派)の処置を目的として召集され議論されましたが、ユダヤ教徒の扱いについても議論され、規定が定められます。
 
 ユダヤ教徒の官職からの追放、「法外な」利息の禁止、キリスト教徒と区別するための服装や『ユダヤの黄色い環』~後に帽子の着用、標識着用の義務、タルムード(ユダヤ教の聖典)の没収・焼却などが規定されます。
 さらには、これらの政策の容易化のために、ユダヤ教徒達は都市や市場町に集められ、町の一部に専用の居住地区を定められ、ゲットーまがいの地区が成立します。結果、ユダヤ教徒は土地を失い、遠隔地貿易も行えなくなります。これは第2次世界大戦におけるゲットー(ユダヤ人強制居住区域)の話ではなく、13世紀のフランスに於けるお話しです。
 公会議の規定の実行は、国王直轄領や王の親族領に於いて厳しい取り扱いがなされたようです。最終的には、ユダヤ人から国王が借りたお金は踏み倒し、彼らを国外追放までしてしまいます。歴史的に見ると、
 

〇 789年、フランク王国カール大帝は、「万民への訓諭勅令」に

  より、利付きの貸金を禁止し、君主たちに対して融資してきた  

  「両替商」(つまりダヤ人のこと)を国外追放します。

〇 1182年3月、フィリップ2世は、ユダヤ人の財産を没収し、

  国外追放しす。もっとも資金不足から6年後にユダヤ人を受け

  入れています。理由は借金の為。

 1223年ルイ8世はユダヤ人を追放し、財産を没収した。

 1230年と1234年に、ルイ9世はユダヤ人を国外追放、財

  産を没収。

〇 1306年、フィリップ4世はフランス国内のユダヤ人を逮捕
  し、資産没収の上5万人のユダヤ人を追放し、20万ルーブルを
  没収したとされます。
〇 1315年、ルイ10世は滞在期間12年間とする一時滞在権を
  与えた。一時帰国したユダヤ人達は、未回収債権の回収作業に入
  るが、返済金3分の2はフランス王室に収めなければならなか
  った。
 
 フィリップ4世(在位1285年~1314年)は、王の権限を強化し中央集権的行政制度を整備するものの、上記フィリップ2世が1182年にユダヤ財産を没収したように、この時代から国家の経済状況は逼迫しており、財政基盤を確立する必要に迫られていました。
 フィリップ4世は、追放ユダヤ教徒から接収した財産の売却により財政を賄っていたものの、ユダヤ教徒の不在による収入の損失は大きく、国王は追放者の一部の帰還を許し、彼らの債権を回収させ、その一部を国庫に払い込ませた。この政策を引き継いだフィリップ4世の後継者ルイ10世は、さらに12年の期限付きでユダヤ教徒の帰還を許し、金融業を許可し、シナゴーグ(ユダヤ教の集会所)や墓地の建設を許したが、その都度金銭を要求した。
 
 この後の情勢を若干補足すると、ユダヤ教徒の持つ債権を国王のものとしたり、百年戦争の際ジョン2世がイングランドに捕虜となった際は、身代金調達のため1359年にユダヤ教徒に対し高額の移入税納付を条件に20年間に渡る一時居住権を与えた。
 最後に残されたユダや人がフランスから追放されたのは、シャルル6世によるものであり、1394年の追放劇では僅か200人から300人と言われます。以降、フランスからユダヤ人は一掃され、フランス革命までフランスの地を踏む事が出来ませんでした。
 このようなユダヤ人追放は、フランスだけの特殊事情ではなく、イングランドは1290年に、スペインは1492年に、ドイツは1550年にそれぞれ追放令を発しています。これら追放により多くのユダや人が東ヨーロッパに流れ込みます。ロシアも15世紀から何度か追放令を発しているものの、ポーランド分割により100万人以上のユダヤ人が国民となったため、「定住区域」を設けています。ポーランドは歴史的に宗教的寛容政策をとっていたため300万ともいわれるユダヤ人が集まります。
 
 ヨーロッパに於けるユダヤ人はローマの発展にも、ガリアの経済発展の基盤作りにも大きく貢献し、差別化されることもありませんでした。しかし、初期の十字軍の聖地奪還を機にキリスト教会はユダヤ教の脅威を感じ、ユダヤ人を被差別者をすることにより民衆の腐敗したキリスト教会への批判を躱します。
 国王もユダヤ教徒差別を利用し、債務帳消しと資産没収を行い短期的な債務は解消されたものの、フランスの金融制度確立を大きく遅らせてしまったと考えます。
 

フィリップ2世~尊厳王        

  (在位1180年~1223年)                                              

ルイ8世~獅子王           

  (在位1223年~1226年)      

ルイ9世~聖王ルイ

  (在位1226年~1270年) 

フィリップ3世~大胆王          

  (在位1270年~1285年)       

フィリップ4世~端麗王            

  (在位1285年~1314年)            

フィリップ5世~長躯王

  (在位1316年~1322年)

シャルル4世

  (在位1322年~1328年) 

  (カール4世~神聖コーマ皇帝)

フィリップ6世                

  (在位1328年~1350年)             

ジャン2世~善良王                

  (在位1350年~1364年)            

シャルル5世~賢明王                                   

  (在位1377年~1399年) 

シャルル6世~狂気王

  (在位1380年~1422年)

 

 

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