山口市『三文字屋跡』を利用した幕末志士の中に知らない志士がいた件 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




山口市の桜が満開の頃、桜を愛でる旅に出かけたRieruです

とても楽しみにしていた、龍福寺の参道の桜並木・・・


は、早咲きの種類だったのか、一の坂川沿いの桜より早く散っていました。


参道には散りあとが。
 
もしかしたら桜ではないのかも?


落ちる牡丹に、散る桜・・・


少しガッカリしましたが、〆の古熊神社で桜を改めて愛でることにしましょう。

切り替え大事!と奮起しながら歩いていると道中、史跡らしき場所を発見しました。


てかいつも気にはなっていましたが、スルーしていた場所です。

せっかくだから寄ってみることに。


『三文字屋 跡』
『吉田稔麿止宿之地』

場所は十朋亭の横にあります。

十朋亭はご存知、萬代家の離れにあり、幕末志士の宿(住まい)として使われていた建物です。
利用者は桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、周布政之助、井上聞太(馨)、伊藤博文らで、明治時代には吉田松陰先生の兄 杉民治も建物の裏で塾を開いてました。

幕末好きじゃなくても知ってるメンバーばかり・・・に対して、この三文字屋には馴染みの志士は少ないかもしれません。(←コラ!)


説明板『三文字屋』に書かれていた志士(商人含む)の中にも「ん?」と首を傾げる始末。
申し訳無いので、少しずつ覚えていきたいと思います。
説明板にはこのように三文字屋のことが書かれていました。

三文字屋

      元禄元年、三文字屋は 杉山甚右衛門が和紙問屋元締としての初代創業を成した。近世の防長二州は日本一の造紙業を誇り、6代三文字屋大吉は自前の「三大之船」で良質の紙を大量に浪速に移出し、長州和紙は天下の相場をも左右した。
     此の間、天保12(1842)年には萩城修繕に寄与する一方、宝暦元(1751)年大阪米切手訴訟事件では、本藩と共に矢面に立った。
また、天保の混乱期には家財や荷物を龍福寺へ預けるなど多難な局面にも遭遇し、幕末を迎えた。
    藩庁は山口城に移り、三文字屋は政府人宿・客館、政務座御用所として、志士達が来訪・止宿した。特に久保松太郎、吉田稔麿は度々訪れ、国司信濃、玉木文之進、入江九一、白石正一郎、笠間藩士 加藤櫻老、松田正人らも出入りした。
    明治4(1871)年には参議 木戸孝允より「國難之節  隠然力を盡す處多し」として、三条実美公による報奨御品を賜った。
而して300年余に亘りこの地にあった社屋は、昭和52(1977)年、12代杉山義雄により緑町に移された。
(13代主人)


ほぉ〜、大阪米切手訴訟事件・・・そんな事件が。
龍福寺へ家財等を預けたり・・・ふむふむ。
笠間藩は現在の茨城県笠間市に存在していた藩・・・なるほど。
それぞれが興味深いですね。

さらに『三文字屋』というカラーの説明板もありました。


三文字屋跡

     幕末の文久3(1863)年4月16日、藩主 毛利敬親が萩城から山口御茶屋に移り、藩政の中心が山口に代わりました。
    ここにあった杉山家が営む紙問屋三文字屋は、政府人宿とされ、藩の重役をはじめ多くの藩士が訪れたり泊まったりしていました。
    同年5月21日、22歳の国司信濃が領地の万倉から山口に来て、三文字屋に泊まりました。久留米藩への使者の命を受けるためで、国司は聡明なことから若くして家老になりましたが、禁門の変の責任をとって自害しました。
    のち初代萩町長になる中村誠一はこのとき33歳、3月から9月末まで藩官僚の中枢たる政務座に勤めていました。その間、三文字屋で業務を行っていたようで、しばしば記録に名前が出ます。
    6月26日、久保断三は三文字屋を訪れ、中村誠一から明倫館勤務を伝えられました。32歳の久保はこのあと船木代官になり松下村塾出身者をバックアップします。
     7月6日、23歳の吉田稔麿は52歳の白石正一郎とともに三文字屋を訪れ、士分取り立てを伝えられました。
     9月21日、久保断三が三文字屋を訪れると、入江九一や吉田稔麿らがいました。八・一八政変後の混乱した政治情勢のときで、いろいろ話し合ったことでしょう。
    入江九一はこのとき27歳。
    吉田稔麿は翌年池田屋の変で、入江九一は禁門の変で若い命を散らしています。
    元治元(1864)年2月14日、船木宰判(いまの宇部市・山陽小野田市)の代官になっていた久保断三が山田宇右衛門に会いに三文字屋を訪れました。
    山田は当時52歳。藩の重役で、この頃は三文字屋にいたようです。
山田は中立派の仕事師でした。高杉晋作から最も頼られ、木戸孝允からは山田がいてくれたから幕府と戦えたと感謝されている人物です。惜しいことに明治維新直前に病没。墓は市内の古熊神社前にあります。
※ 山口市菜香亭の企画展「幕末の投宿場 ‐堅小路‐」より


黒猫さん︰「中村誠一さんと久保断三さん、山田宇右衛門さんのこと知らニャかった?」


そうそう、恥ずかしながらあんまり・・・検索してどのような人物だったか分かりましたが、今回は割愛。

黒猫さん︰「ニャにー!・・・吉田稔麿さんのことは知っとったんニャ?」

 
ええ、松蔭先生とご近所さんだったようですし、勝手に血縁者だと勘違いしていた時がありました。
高杉晋作さん、久坂玄瑞さん、入江九一さんと共に、『松下村塾の四天王』と呼ばれているので有名ですよね。


黒猫さん︰「アンタ、検索好きニャのよね〜・・・じゃあ、吉田稔麿さんに対する近藤勇さんの評価“長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものあり。”や、入江九一さんの妻の弟 音次郎さんが福井藩士 日下部太郎さんと並んでアメリカニュージャージー州の墓地に埋葬されていることまで突き止めたかニャ?」


さ、さすが三文字屋跡を縄張りにしておられる黒猫さん。物知りでありますね。

黒猫さん︰「じつは猫の姿を借りたタイムトラベラーだニャ!」


アイタタタ


(漫画や小説の読みすぎ〜)



桜 桜咲く西京ひとり旅 桜

(※ 4/2)