外出自粛で、休日の2日間は家族全員が自宅にいましたが、特に何もトラブルが無かったRieruです★
そりゃあ、食事以外の時間は、ほぼそれぞれの部屋で過ごしているものでトラブルにはなりませんよね。
イテテ
(リビングは私と猫のもの)
読書や縫い物をして過ごす休日の心地良いことと言ったら!でも、そろそろ図書館に本を返しに行かなくては!と開館状況を知りたくて図書館を検索したら5月10日まで臨時休館になっていました。
『ヴィルヘルム・ハマスホイ』がまだ借りられるなんてラッキーです♪新刊は延長出来ないから有り難い♡
そんな自分のことしか考えていない残念な中年女は、まだ山口県のアレの感染者が一桁台の頃に、山口市を徒歩で巡る旅に出ておりました。
ランチをいただいた後は、ほろ酔い気分で椹野川(ふしのがわ)沿いにある『赤根武人顕彰之碑』・・・つまり赤根武人処刑場に参る予定にしております。(※ 『根』は本来『禰』です)
しかし赤根武人(あかねたけと)・・・赤・・・赤い・・・ああ、あの目の前の『新鰐石橋(しんわにいしばし)』の上に行ってみたい!という欲にかられて寄り道をすることに。
酔っているので、テンション高めですが、足取りはしっかりしています。
だから、巨大なボラギノールを見付けた時の動悸息切れといったら!
イテテ
(巨人用か!←ヤメロ)
美しい春の椹野川・・・しばらく高い場所からの景色に心を奪われました。
小学生の頃に歌った『春の小川』が脳内再生されるも、私が知っている歌は2回改変されたものだそうです。
100年以上も前に歌われていた歌詞は3番まであったのだとか。気になったので後日調べてみました。
一、
春の小川はさらさら流る。
岸のすみれやれんげの花に、
匂いめでたく、色うつくしく
咲けや咲けよと、ささやく如く。
二、
春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日ひなたに出でて
遊べ遊べと、ささやく如く。
三、
春の小川はさらさら流る。
歌の上手よ、いとしき子ども、
声をそろえて小川の歌を
歌え歌えと、ささやく如く。
〜ささやく如く・・・この歌詞で歌うとヤバい奴だ!と思い切り引かれるかもしれないので、私の心の中で歌うだけにしようと思います。
いや、自宅で1人の時に歌えば良いのか。
この椹野川にはまだアユがおり、絶滅危惧種のスナヤツメやアカザ、メダカも生息しているそうです。
県道194号線はそこそこ(時間帯による?)交通量があるので、陸橋を利用する方が安全ですね。
Googleマップを見ずとも、それらしい岩が見えたので近付いてみました。
でも、なぜ注連縄が?嫌な予感・・・
的中!
△ 手前の特徴的な石柱は大正6(1917)年に架けられた『鰐石橋』のもの・・・鰐石橋は萩往還の一部
この岩が、まさに『鰐石』でありました!そして画像左側にある橋が、その名も『鰐石橋』!
あら。『鰐石生雲』・・・『山口十境詩』・・・瑠璃光寺近くや古熊神社にあるアレがこんな場所に!
てか、“山口十境詩”ってナニー?て感じですよね。
簡単に書くと、明の使者である趙秩(ちょうちつ)&朱本が海賊の禁圧を求めて京都に赴く途中で山口に立ち寄りましたが、翌年の応安5(1372)年に大内弘世に呼ばれて再び山口の地へ。
山口の禅僧たちと詩を作りあっている中で、山口の名勝地を詠んだ『山口十境』が生まれたそうです。
その十境のうちの一境(?)である『鰐石生雲』・・・『鰐石に雲を生ず』は、この石(正確にはこの石の下の石?)を含めた一帯の景色を詠まれたものなのだとか。
禹門點額不成龍
禹(う)門の点額、竜と成らず
玉立渓流任激衝
玉石、渓に流れて激衝に任す
自是烟霞釣鰲處
是より煙霞(えんか)、釣鰲(ちょうごう)の処(ところ)
幾重苔蘇白雲封
幾重の苔蘇(たいせん)、白雲封ぜり
・・・なるほど。(←本当に?)
この鰐石の対岸辺りから見える連なった山々を象頭山と呼ぶらしいのですが、『象峰積雪』として詠まれているそうです。
機会があれば、またいつか。
てか、赤根武人サーン!ということで来た道を戻・・・陸橋をまた渡るの面倒くさい(←飽きっぽい)・・・ええい、交通量はあるが、信号機の無い横断歩道があるし、頑張っちゃう?都合よく向こう側にも渡りたい自転車が止まっていて、直ぐにドライバーさんたちが止まってくれたのでした。
しかし、走って渡ったので足にこたえます・・・が、赤根武人憲章之碑は見えてきません。そんなに遠くないはずですが?
椹野川沿いの草花木を眺めながら歩けるのが良いです。意外と車は走っていません。
昔は川の水嵩は高く、さっきの鰐石の半分ぐらいは水に浸かっていたそうです。
その様子が鰐が口を開けているように見えたから、という理由でその名前が付いたのだとか。
今はこんなに長閑な風景が広がる川ですが、氾濫が多かったんだろうな〜と思いながら進みます。
治水対策としてダムが造られた後も、豪雨災害が後を絶たず・・・今年はもう、本当に勘弁でありますよ。
碑は突然、姿を現しました。
川に背を向けています。
裏には『昭和28年1月25日武人命日建立』とあり、白頭山 照圓寺の住職や惣代らの名前が刻まれていました。
照圓寺?現在は照円寺!
後日調べてみると、碑から目と鼻の先にあるお寺さんでした。
昔は境内に『垣之内牢』があったそうです。
岩国の幕末期に活躍された偉人の中のおひとり、赤根武人サン。
岩国でも、瀬戸内海に浮かぶ島『柱島』出身で、医者の家に生まれた松崎家の長男でした。なのでお墓は柱島にあります。(柳井の阿月にもあります)柱島は私の亡くなった祖母(母方)も広島の能美島に嫁いで来るまで住んでいたので、(つまり祖母は柱島出身)私は武人さん贔屓であります。
その後武人さんは島を離れ、柳井の月性アニキの門下に。アニキに大層気に入られて萩の松下村塾でも学び、アニキの計らいで浦家の赤禰忠右衛門の養子になり武士の身分になりました。
アニキ・松蔭先生・梅田雲浜に気に入られるも世は尊皇攘夷の真っ只中。
高杉晋作・久坂玄瑞・井上聞多(井上馨)ら11名と御楯組(おたてぐみ)を結成し、建設中の英国公使館をファイヤー!
その後いろいろあって(割愛)、奇兵隊結成。
第一総督は晋作さんで、第三総督は武人さんです。
そして馬関戦争の敗北、禁門の変(これには参加せず)・・・萩(長州藩)と幕府の交渉に当たるも、筑前に亡命していた晋作さんは密かに下関に戻って一部の諸隊を率いてクーデターを起こされ、武人さんは孤立。筑前に亡命後は京都に出て(大阪の宿?)幕府の役人に捕まります。そこで尋問中に2回目の長州討伐の件を知り、幕府と和解させる旨約束し広島へ。(まだ広島は幕府側)そこで長州藩士に見つかり、柱島に戻ったところで長州藩の役人に捕まります。この時取り調べで自分の意見を話そうと考えていましたが、まさかの取り調べ無しでの即斬首が決定。
処刑の日、庶民は外出を禁じられ誰1人通らないあぜ道を連行されました。
1月25日(新暦3月11日)・・・さぞや寒い日だったことでしょう。
獄衣の背中には
『真似偽 偽似真』
(真実は偽りに似て、偽りは真実に似る)
と文字を書いたそうです。(『真誠似偽 偽似誠真』とも)
処刑場は出合河原とも鰐石河原とも。
まだ28歳の若さでした・・・首は3日間晒される事になっていましたが、処刑された夜に覆面姿の3〜4人の者が持って行ったということです。
奇兵隊時代の仲間だったのか、遺族の者だったのか・・・
翌年、晋作さんも病に伏せた時に
「武人の心事を洞察すること能(あた)わず、其の生命を保たしめざりしは遺憾とするところなり」
と語ったそうです。
・・・と、簡単に武人さんの事を書きましたが、山縣有朋や長府藩主 毛利元周(もとかね)の事等は割愛しました。
てか、この時点で完全に酔いが覚めてしまいました。
鰐岩と顕彰之碑を間違えて無駄に歩いたのが良かったのだと思います。
ということでシラフですから、武人さん!
死を目前に心を入れ替えた?晋作さんでしたが、クーデターを起こす時に「島のドン百姓」と本人が居ない時に諸隊の前で言った(説?)は忘れません。
もし、武人さんが武士の家に生まれていたら結果は違っていたのでしょうか?
・・・回り道になりましたが、迷って良かったのかもしれませんね。
ポジティブに行こう、何事も。←いや、感染予防はテキトーにしないでください。よろしくお願いします。
アイタタタ
(そしてお酒を飲んでも感染予防にはなりませんので、あしからず)
桜咲く西京ひとり旅
木戸神社→山口大神宮(神馬・石敢當・高峯稲荷神社)→山口大神宮(多賀神社・狛犬)→山口大神宮(巨石・巨木・本宮)→山口大神宮(鷲岩・狛犬)→枕流亭→俊龍寺→雲谷庵跡→酒菜いちやなぎ→『十境詩(鰐石生雲)・赤根武人顕彰之碑』→御堀堂本店→野田神社→野田神社(石鳥居・狛犬)→豊榮神社→豊榮神社(狛犬)→今八幡宮(鳥居・楼門・拝殿・本殿)→今八幡宮(狛犬①②)→今八幡宮(八柱神社・狛犬・末社)→八坂神社→八坂神社(狛犬・石灯篭)→三文字屋跡→古熊神社(十境詩(猿林暁月)・控え目な狛犬)→古熊神社(若水碑・眼力さま・句碑)