山口の神社仏閣★俊龍寺 足利氏&豊臣氏の供養塔編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



4月の最初の週の平日に、満開の桜を愛でに山口市を訪ねたRieruです★

様々な場所を巡り、着いた先は瑠璃光寺五重塔キラキラ本当に桜の花と五重塔が合うってば桜


しかし、私は焦っていました。美しい桜を見て気持ちは晴れやかなはずなのに、予定していたランチの時間が微妙・・・予約はしていませんが、11時には旭通りにある『酒菜 いちやなぎ』さんに到着していたい!
けどお店に行く前に、五重塔から近い『俊龍寺』に寄りたい!
この時の時刻は10時過ぎで、本当に微妙でした。
・・・所々走ればいいんじゃない?ヨシ、決めた!ラン&ウォークで予定通りに進むぞ!

AM 10:11

道はGoogleに教えてもらい、スパッと到着☆

おおっ、こちらが俊龍寺!


元々は寛正元(1460)年に大内教弘氏が献珠院殿等巌妙倫大姉のために創建した『献珠院』という寺院でしたが、慶長18(1613)年に俊龍寺に改号されました。
豊臣秀吉さんの菩提を弔うために広島に国泰寺が造営されたのは有名な話ですが、その後毛利家は関ヶ原の戦いに敗れて山口に移封され、こちらにも秀吉さんの供養塔を建てたのだとか。
『国泰寺殿雲山俊龍大居士』にちなんで、俊龍寺に。
ここの領地は毛利輝元(輝もっちゃん)の家臣である柳沢元政さんのもので、輝もっちゃんの命で建てられたようです。
秀吉さんの供養塔より先に、足利義輝公とその御母堂、足利義昭公の供養塔も輝もっちゃんの命で建てられていたのだとか。
つまり4基もの供養塔が、こちらのお寺にあるということになります。

柳沢元政さんは足利義晴・義輝・義昭に仕えていましたが、毛利氏の家臣になった方です。しかも秀吉さんに仕えていたこともあったので、豊臣姓を許されたこともあるぐらい信頼されていた方だったのだとか。
元々柳沢家は甲斐武田氏の庶流で、甲斐国北巨摩郡柳沢村を本貫の地とした家で、幕府の老中をつとめた柳沢吉保などがいる名家のひとつです。
山口に来てからは2803石余りの所領を持つ寄組であったとか。
そしてこちらには、元政さんが秀吉さんから拝領した鎧が納められているそうです。

はぁ〜、柳沢さんが輝もっちゃんの命で・・・

お寺の石積みが魅力的☆


ひとつひとつ石を見ていると飽きませんね。

・・・時間!

ハイハイ。


こちらが山門になります。

(左にある説明板は割愛)

山号は豊国山。


神号の豊国大明神によるものだそうです。


静かなお堂。屋根や先程の山門の彫刻には、豊臣家の家紋『五七の桐』があしらわれています。

珍しい魚鼓(ぎょこ)が掲げられ、魚鼓の由来が刻まれていました。


木魚の原型なんですよね。
萩市の東光寺にも、立派な魚板(魚鼓)があったことを思い出しました。


虹梁も素晴らしいですね。

山門近くにある石塔には、『五智如来』と刻まれています。


さぁ、例の供養塔は・・・


あっ、あの辺りですかね。・・・こちらの建物は?

『足王大権現菩薩』

杖やわらじ等が奉納されています。足の病や怪我等にご利益が?私もめっちゃ歩いて今夜は筋肉痛になるだろうから・・・まだ痛くも無いのに参るのはアリでしょうか?

・・・時間!

ハイハイ。


あっ、供養塔!入口にある立て札には、このように記されていました。


右端  法名 国泰寺殿雲山俊龍大居士位
豊太閤御廟 毛利家建之
左   三基足利将軍義輝公・同御母堂・足利義昭公

おお〜。


おお〜!


・・・お静かに。


イテテ


(すみません、すみません、すみません!)


一番右が秀吉さんの供養塔でしたね。


説明板には、このように書かれていました。

慶長3(1598)年 豊臣秀吉の死没に際し、毛利輝元が家臣 柳沢元政に命じて供養塔を建立させたのが、当五重塔といわれる。五輪塔は、平安時代末頃から出現する日本独特の形式をもつ供養塔であり、四個の石を積むのが普通であるが、室町時代中期頃からは一石で造ったものも多くなる。この供養塔は四石で法名、年月なども刻してあり、本格的である。
この豊臣秀吉供養塔は、歴史的著名人の石塔であるばかりでなく、石造美術としても、桃山時代の形式をよく伝えている遺品である。また、秀吉の死没と同時代に建立された供養塔は、おそらくこの外には全国的にも例がなく、貴重である。

はぁ〜、なるほど。
ちなみに墓碑銘には、このように刻まれています。
 
慶長三年戊戌八月十八日
国泰寺殿雲山俊龍大居士
柳沢監物元政建之
防州山口俊龍山献珠禅院

そして裏側には、豊国大明神とありました。


そして真ん中のおふたつの供養塔は、足利義輝公と御母堂・・・墓石にはこのように刻まれています。


永禄八乙丑五月十九日
光源院殿准三宮一品左相府融山道円大居士
慶長二年酉三月十九日為三十三回忌

永禄八乙丑五月十九日
慶寿院殿明室慈昌大姉
慶長二年酉三月十九日為三十三回忌

さらに説明板には

慶長2(1597)年は足利義輝及びその母慶寿院の33回忌であり、室町幕府最後の将軍である足利義昭が没した年でもある。毛利輝元は柳沢元政にこれらの法会の執行を命じており、柳沢はそれぞれの法会の際に供養塔を建立した。
中世には墓標としての石塔の建立はなく、室町時代後期になって、小さい墓標、無縫塔、宝印篋塔、一石五輪塔などに法名を刻したものが墓標として造られはじめた。これら足利氏石塔は、その時流にのって造られたものと考えられる。足利氏関係のもので、法名、年月などを刻して、正確に供養名がわかるものは、おそらく全国的にみてもこの石塔のみであり、重要である。
また、無縫塔の室町時代末の形式を知る上でも貴重な史料である。

なるほど、33回忌に際して・・・現在では大変貴重なものということ。よくぞ建立してくださいました。
室町幕府13代将軍であった足利義輝公のことを調べると、当時の京都では細川晴元・氏綱・六角定頼・畠山政国・三好長慶などの勢力が入り乱れていて、将軍としての地位が安定したのは、永禄2(1559)年頃。
織田信長・上杉謙信に会い、大友宗麟を筑前・豊前守護に、毛利隆元を安芸守護に、元就&隆元を相伴衆に任命しています。
元就と大友義鎮の講和の時の使者が例の柳沢さんでした。
てか、柳沢さん長生き・・・なんと77歳!当時では相当長生きですよね!
(しかも亡くなられた年と俊龍寺と改名された年が偶然にも同じとは)

義輝公は、その後三好長慶の没後実権を握った松永久秀の襲撃に遭い、29歳で自殺してしまいます。
奥さまはいらっしゃったようですが、義輝公のお母さまと姉妹になるようです?どうしてお母さまと供養塔が隣同士?
義輝公が自殺した後、追うようにこの日に自殺されています。なので命日が同じなのですね。

そして義昭公の供養塔は一番左にあり、このように刻まれています。


慶長二丁酉八月二十八日
霊陽院殿贈一品左相府昌山道桂大禅定門
慶長三戊戌為一周忌建之

これらは後に資料を見て書いたものですが、なんと刻まれているのか確認しようと、失礼が無い程度に供養塔に顔を近付け、ねぶるように見・・・

キャー!不審者ー!


アイタタタ


(価値のある供養塔なので、平成15年に山口指定有形文化財に指定されています)