まだ寒いのでリビング・・・居間にコタツが出ているのですが、コタツ布団をはぐったら飼い猫が両手両足を伸ばして寝ており、暖かい気持ちになったRieruです★
今日はぐったらイルカちゃん♀がいて、目が合ってしまいました。猫の目って、暗いと光るんですよね。綺麗・・・
・・・気が付いたら、コタツ布団で彼女に“いないいないばあ”をしていました。
イテテ
(しかも「ばあ」の部分はデスボイス)
しかし今年の桜の開花は早く、満開になった桜を見ようと、山口市にある木戸神社を訪ねてみることに。
山口駅より湯田温泉駅からの方が近いだろうと、今回は湯田温泉駅で下車しました。
木戸神社に行くまでの間も、じつに多くの桜を見かけて、期待度は上がります。
国道9号線を瑠璃光寺方面に進んで行くと見えてくる『木戸神社』の看板。
そこを左折してさらに進んで行くと、ひときわ桜が燃えている場所があります。
AM 8:22
木戸神社は桜の名所でもあるので人気スポットらしいのですが、この時は私ひとりでした。
桜の咲く頃に訪ねたことがあるのですか、その時は半分ぐらい散っていたので、足元に積もった花びらの方ばかり見ていた記憶があります。
今回は見上げられる・・・
桜だけを愛でに来た訳ではないので、参拝させていただくことに。
じつは4回目の参拝になります。
記事を探してみると行った事はどこかにちょろっと書いていましたが、『山口の神社仏閣シリーズ』にはまだ書いていなかったので、書いてみることに。
質素な神社で、狛犬さんもいらっしゃいません。
木戸神社は名前から分かるように、木戸孝允(桂小五郎)さんを祀った神社です。
病死される前、この地にあった本宅山林を地区民に与えて子弟育英の資とするように言い残されたそうです。
その感謝がこの木戸神社というわけなんですね。
参道の左側には、大きな石碑がありました。
『木戸公恩徳碑』
近くにある説明板には
内大臣従一位公爵三条実美篆額
故内閣顧問木戸(孝允)公は臨終にあたり、吉敷郡糸米村にある旧宅・山林を全て糸米の村民に寄付し、子弟の学資に充てるように遺言しました。嗣子正二郎君は、公の意思をうけて山口県令関口隆吉に寄託してこれを村民に与えました。糸米の村民にそれを公債証書600円に換え、その利子を糸米村の50余戸の子弟の学資としました。糸米村の人たちはこの恩を忘れてはならないと、祠を建て毎年お祭りをし、その経緯を石に刻んで後の人たちに知らせることにしました。
木戸公は明治維新政府の重臣となり、国家の安泰を願っていましたが、明治10年西南戦争が起こるや国の将来を大変心配し、とても糸米の村民の心配をする暇はありませんでした。しかし、木戸公は人や物をいつくしむ心が大変深く、ふるさとの人々のことを片時も忘れるはずはありませんでした。公は臨終にあたり後世のことを考え糸米の人たちのために学資を寄付したのです。これは郷里の人たちを心から愛したからでした。公は人や物を愛しいつくしむことを国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人を愛しいつくしむことを知ったのです。まして況や糸米村の人たちが公の心に親しくふれ、感謝するのは当然のことでした。
さて、この糸米の地は鴻峰の北側に位置し田野が南に開けた所です。土地は熟し、冬は温暖で樹木や竹が群生し、水は清く石を洗い、孤松は形よく野菊が香っています。この風景はかつて公の目を楽しませた所です。しかし、公はひとたび国政にたずさわれば、毅然としてこれに対処しました。
糸米の村民は深く公をしのび、その恩恵を受けたのです。そのため、詩歌をつくって公を祀りました。その言葉は、子弟をおしえ、老父を愛し、酒を酌み、飯を盛る、わずかな物ではあるがその風土は素晴らしく、これをはぐくむ山や水には公がいるようです、糸米の子孫の繁栄はまさに公のもたらしたものです。私たちは木戸公の恩恵を永久に忘れてはなりません。
(原文は漢文、難解なため現代文に書き改めたものです)
明治19年10月
法制官正六位落合済三撰並書
解説 樹下明紀先生
な、なるほど。この石碑は漢文・・・
という経緯で建てられたわけですね。
境内には、こんな可愛い灯篭がありました。
木戸さん︰「○○、いいかげんにせんか!」
・・・やりすぎだよRieruさん。
アイタタタ
(いや、○○さんも頑張ってるんだよ、うん、皆頑張ってる・・・私だけフラフラしてる←よく分かってる)