まもなく東日本大震災から6年になる。
岩手県陸前高田市で、荒涼とした場所に、ぽつんと一軒だけたたずむ「佐藤たね屋」。
津波で自宅兼店舗を流された佐藤貞一さんは、その跡地に自力でプレハブを建て、
営業を再開した。
手描きの看板、瓦礫で作った苗木のカート、手掘りした井戸・・・すべて手作りだ。
その佐藤さん、英語で震災体験記を綴り、自費出版している。
「What happened after the tsunami-」。
身ぶり手ぶりを交えながら、
活弁士を思わせる朗々としたよく響く声で読み上げられると、迫力がある。
「おしょしい(恥だ)」など方言を解説付きで文中に入れたり、
「奇跡の一本松」の姿を弁慶の仁王立ちに例えるなど陸前高田の文化を伝え、
外国人に興味を持ってもらう工夫を凝らしている。
英語版『The Seed of Hope in the Heart』(心に希望のタネを)は、
伝えたいことが膨らみ、版を重ねるたびに内容を増やし、
38ページだった本は今や144ページになった。
佐藤さんは、45歳で脱サラし、家業の農業を継ぐと同時に種苗店を立ち上げた。
厳しい経営が続いたが、新品種の開発やインターネット販売などで
事業が軌道に乗り始めたころに大津波に襲われ店を失った。
再開のめども立たず不安な日々を過ごす中、
一般社団法人日本種苗協会などの支援を受け、
2011年8月、店舗があった場所にプレハブ店舗を据えた。
店を再開すると種を求めてくる客のほかに、
震災報道に訪れた海外のメディアも取材にやってくるようになった。
これまで英語はほとんど勉強したことがなく、説明する原稿を用意しようと、
インターネットの辞書で単語を引き、例文を見ながら書き上げた。
それが本に結びついた。
「他の言語じゃないと体験は書けなかった。
日本語で書いたら切なすぎて無理だったろう」と振り返る。
その後、触れたこともない中国語で「在心中希望的種子」も製作。
英語版の翻訳ではなく、漢詩をもじるなど中国語圏に思いを伝えるための工夫を満載した。
いま、やはり初めてのスペイン語で執筆中。
「相手の文化を調べて下手な文章でも感謝を込めて書く。
伝えるのに大切なのは強い気持ちだよ」と世界に向けて交流の種をまく。
その佐藤さんの取り組みを描いたドキュメンタリー映画『息の跡』が公開されていると聞き、
観てきた。息を飲みながら観た。
いま、東京のポレポレ東中野で公開中だが、これから全国で公開されていく。
監督は、ボランティアで現地に行き、そのまま移住した小森はるかさん。
カメラは、たね屋に据え置かれ、28歳の彼女に、佐藤さんが語りかける。
それは、観客に対する問いかけでもある。
「気持ちわかる?」「意味わかる?」と問われても、軽々に答えられない。
その問いは、我々が受け止め続けなければならないものだろう。
かさあげ工事が進み、陸前高田に震災前の面影はない。
佐藤たね屋も、自力再建したプレハブを解体し、移転せざるを得ない。
せっかく手作りで再建した店を自らの手で壊す佐藤さんの姿に、
荒涼とした大地の映像に、佐藤さんが本に書き綴ったことばが重なる。
かつて、私は普通の日本のたね屋だった。
しかし、私の人生と周りの状況は、一変した。
私は被災者となった。青天の霹靂だった。
母国語で書くことは出来なかった。日本語だとあまりに悲しみが大きくなるから。
「泣きの涙」「もぞやなぁ」 どの言葉も感情的で曖昧だ。
不得意だったが、私はあえて英語で書くことを選んだ。曖昧な表現をさけるため。
そして、書くことで痛みから逃れるため。
私は、ただ事実だけを書きたかった。
最初は1ページだけで終わらせるつもりだった。
しかし、書き始めると、どんどん筆が進んだ。
そして、英語で書いても痛みは消えないと知った。
だから英語を「伝える」ために使おう。何が起き、どう感じたかを。
震災は、私にとてつもない影響を与えた。
私は必死に這い上がろうとした。
自分の中に大きな力が沸き上がってくるのを感じた。
震災に立ち向かうため、眠っていた力を振り絞った。
津波浸水地の最前線で、私はたね屋を再開した。
亡くなった方々の魂が私に宿り、私を行動に突き動かしたのだ。
そして、この文章を書かせたのだ。