映画『インターステラー』の冒頭で、地球の寿命が尽きようとしている凄惨な光景が描かれます。
ひどい砂嵐が吹き荒れます。
この世の終わりのように。
いや、地球の寿命が尽きるのではなく、問題は人間の寿命ですね。人間が生存できなくなる環境になってきているという設定です。
これはSFフィクションなのでしょうか?
いや、この地球の状態はかつて起きたことがある既視感のあるものです。
1930年代のアメリカはもっとハードでした。
c.f.映画館へ行こう!〜進撃の巨人とインターテスラー〜 2014年11月27日
c.f.この女はだれの妻なのでしょうか〜死者は死者に葬らせよ〜Do not go gentle... 2014年11月30日
Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.
おとなしく夜を迎えるな
賢人は闇にこそ 奮起するもの
消えゆく光に対して果敢に挑むのだ(映画字幕)
c.f.あの快い夜の中へ、おとなしく流されてはいけない 死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ 2019年07月01日
*メディアによって踊らされて怒るのではなく、必要なときに必要な場所で必要なだけ怒りましょう。次の系へ移動するために。
戦争が始まり、疫病が全世界を席巻し、戒厳令が発令され、国境が封鎖され、様々な業態が破産を余儀なくされています。異常気象のニュースもリアルに増えてきました。
日本は時限爆弾のように大きな地震に備えています。その日が近いのは分かっていても、いつかは分かりません。
繰り返しになりますが、このインターステラーの風景は決してフィクションなのではなく、リアルに存在しました。1930年代に実際に砂漠嵐の年が何年も続きました。
過去を少し振り返ると、世界が少し立体的に見えてきます。
1930年代の光景は、現代の我々からすると地獄絵図ですし、世界の終わりでしょう。
しかし、悲観主義は気分であり、楽観主義は意志によるのです。
我々は強い意志をもって、楽観主義でなくてはいけないのです。
悲観主義は気分によるものであり、楽観主義(オプティミズム)は意志によるものである。(アラン『幸福論』 93 誓わねばならない)
では、1930年代の光景をチラッと見てみましょう。
(引用開始)
一九三三年一一月、冷たい風が太陽に灼(や)かれた西部の山肌から砂塵を激しく巻きあげ、それが黒い雲となって、時速一〇〇キロメートルというすさまじい速度で東のニューヨークまで飛んでいった。(略)砂漠嵐の年が、それから何年も続いた。(略)
砂塵とともにすさまじい猛暑が何年もつづいた。(略)
一九三四年の記録的な猛暑や旱魃でバッタが大発生し、からからに乾いたトウモロコシや小麦を刈り株になるまで食べ尽くした。(略)
一九三〇年代はじめは、不安の時代だっただけではなく、じっさいにおそろしいことが多かった。経済は悪化していた。その時代のもっとも凶悪な犯罪者たちーーアル・カポネ、ジョン・デリンジャー、ベビーフェイス・ネルソンーーを真似たやからが、中西部に殺到し、すでに弱体化していた銀行を襲撃した。親たちは、砂漠嵐で家を失って放浪している人々のことが心配だった。狂犬病が蔓延するおそれがひろまり、子供たちが家のなかに閉じ込められることもあった。ポリオ(小児麻痺)が懸念されて、夏には公共のプールが閉鎖された。それでもネブラスカ人は、苦難には歯を食いしばって楽天的に立ち向かうことを、生まれたときから叩き込まれている。
(引用終了)
砂漠嵐の年が何年も続き、猛暑と旱魃の上、バッタの大量発生して(現代も深刻ですが)、トウモロコシや小麦を食べ尽くすだけではなく、柵や杭や洗濯物もまで食べ、挙句の果てに共食いを。銀行が襲撃され、アル・カポネたちが暗躍し、狂犬病の蔓延やポリオの感染を恐れた時代です。
でも、楽天的でなければいけないのです。
「祖父の家へ行ったとき、貪欲なバッタの羽音がたえず聞こえていた」のを覚えているという少年は空前絶後の大金持ちとなりました。
この少年とは、世界三大投資家の一人と目されるウォーレン・バフェットです。
ちなみにウォーレン・バフェットの資産のほとんどは60代半ば以降に増えたものであることに注意を払う人は多くないとモーガン・ハウセルは言います。
(引用開始)
本書の執筆時点で、バフェットの純資産は845億ドル。だが、そのうち842億ドルは、バフェットが50歳の誕生日を迎えたあとに増えたものであり、さらにそのうち815億ドルは、社会保障の受給資格を得た60代半ば以降に増えたものだ。(引用終了)
気分で考えずに、理知的に現実を観る必要があります。
一貫性が大事です。コンスタントに同じことをやり続けることはかなり大事なのです。
c.f.彼のやることといったら何でも始めの思いつきばかりで、しかもすぐやめたり、また始めたり(アラン) 2022年03月03日
世界は自分たちが見たい顔とは、全く違う相貌を持っています。
それは気分では見えず、ロジックでしか見えません。
ロジックと言っても、吹けば飛ぶようなレゴなロジックではなく、切れば血が吹き出すようなリアルなロゴスです。
事実、真の富の鉱脈は、深紅色であることーーー岩石のなかではなくて、肉体のなかにあることーー(ラスキン『この最後の者にも』)
【映画紹介】
クリストファー・ノーラン監督の作品は一通り観ても良いかもしれません!
こちらは上の予告編ではなく、インタビューを挟んだスペシャル映像!
*Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.
おとなしく夜を迎えるな
賢人は闇にこそ 奮起するもの
消えゆく光に対して果敢に挑むのだ(映画字幕)
あの快い夜のなかへおとなしく流されてはいけない
老齢は日暮れに 燃えさかり荒れ狂うべきだ
死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ(鈴木洋美訳『映画で英詩入門』)
c.f.映画館へ行こう!〜進撃の巨人とインターテスラー〜 2014年11月27日
c.f.この女はだれの妻なのでしょうか〜死者は死者に葬らせよ〜Do not go gentle... 2014年11月30日
c.f.年内に達成したいことは達成しましょう(^^) ♬おとなしく夜を迎えるな 賢人は闇にこそ 2014年12月31日
c.f.あの快い夜の中へ、おとなしく流されてはいけない 死に絶えゆく光に向かって 憤怒せよ 憤怒せよ 2019年07月01日
c.f.おとなしく夜を迎えるな。賢人は闇にこそ奮起するもの。消えゆく光に対して果敢に挑むのだ。 2021年01月01日
【書籍紹介】
お馴染みの著作ですが、アラン『幸福論』、そしてウォーレン・バフェットの自伝である『スノーボール』を紹介します。そして「サイコロジーオブマネー」も。
引用箇所も長めに引きますので、かなり面白いので、是非興味があればご一読を!
そして苫米地手帳2022はマストバイアイテムです!!
悲観主義は気分によるものであり、楽観主義(オプティミズム)は意志によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。子どもの遊びを見ればわかる。子どもの遊びは規則がないと、けんかになってしまう。自分自身をさいなむあの無秩序な力以外にここではどんな原因もないのである。ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服によるものである。
一九三三年一一月、冷たい風が太陽に灼(や)かれた西部の山肌から砂塵を激しく巻きあげ、それが黒い雲となって、時速一〇〇キロメートルというすさまじい速度で東のニューヨークまで飛んでいった。《ニューヨーク・タイムズ》はこれをクラカトアの火山噴火になぞらえた。砂漠嵐の年が、それから何年も続いた。
二〇世紀最悪の旱魃(かんばつ)のさなか、リーラは毎朝ポーチの赤茶けた土を掃き出した。ウォーレンの四歳の誕生日には、赤い土がバフェット家のポーチを埋め、パーティーテーブルの紙皿やナプキンが風に吹き飛ばされた。
砂塵とともにすさまじい猛暑が何年もつづいた。一九三四年夏、オマハの気温は摂氏四七度を記録している。ネブラスカのある農民は、自分の牛が遠い刈り株畑の割れ目にはまっているのを見つけた。からからに乾いた大地に亀裂ができ、そこに落ちて出られなくなったのだ。家にいるとオーブンに焼かれているようなので、裏庭で寝たり、セントラル高校の校庭でキャンプしたり、ジョスリン美術館の芝生で夜を過ごしたりするものも多かった。ウォーレンは水浸しにしたシーツをかけて眠ろうとしたが、なにをやっても、二階の部屋に蒸気みたいに立ち込める熱気を冷ますことはできなかった。
一九三四年の記録的な猛暑や旱魃でバッタが大発生し、からからに乾いたトウモロコシや小麦を刈り株になるまで食べ尽くした。リーラの父親ジョン・スタールは、その年に発作を起こした。ウェストポイントの祖父の家へ行ったとき、貪欲なバッタの羽音がたえず聞こえていたのをウォーレンは覚えている。ひどいときには柵の杭や干してある洗濯物まで食べた。最後には共食いをしたり、トラクターのエンジンをだめにしたりした。雲のように群れて、車も見えないくらいだった。一九三〇年代はじめは、不安の時代だっただけではなく、じっさいにおそろしいことが多かった。経済は悪化していた。その時代のもっとも凶悪な犯罪者たちーーアル・カポネ、ジョン・デリンジャー、ベビーフェイス・ネルソンーーを真似たやからが、中西部に殺到し、すでに弱体化していた銀行を襲撃した。親たちは、砂漠嵐で家を失って放浪している人々のことが心配だった。狂犬病が蔓延するおそれがひろまり、子供たちが家のなかに閉じ込められることもあった。ポリオ(小児麻痺)が懸念されて、夏には公共のプールが閉鎖された。それでもネブラスカ人は、苦難には歯を食いしばって楽天的に立ち向かうことを、生まれたときから叩き込まれている。バフェット家の幼い子供たちは、学校にあがり、友達と遊んだ。食べ物を持ち寄って近くにピクニックに行くと、気温三五度以上もあるなかで何十人もの子供たちと走りまわった。父親はみんなスーツを着ていたし、母親はワンピースにストッキングをはいていた。
ウォーレン・バフェットが富を築いた方法をテーマにした本は、これまでに2000冊以上も出版されている。そのなかには優れたものも多いが、バフェットの資産形成に関するごく単純な事実に十分な注意を払っているものは少ない。すなわち、バフェットが莫大な資産を築いたのは、単に彼が優れた投資家であったからではなく、"子どもの頃から優れた投資家であったから”という事実である。本書の執筆時点で、バフェットの純資産は845億ドル。だが、そのうち842億ドルは、バフェットが50歳の誕生日を迎えたあとに増えたものであり、さらにそのうち815億ドルは、社会保障の受給資格を得た60代半ば以降に増えたものだ。
バフェットは類まれなる投資家である。しかし、その成功のすべてを「投資の才覚があったから」という一言で片づけてしまうと、重要なポイントを見逃してしまう。バフェットの成功を読み解く真の鍵は、彼が4分の3世紀にわたって類いまれなる投資家であり続けたことにあるのだ。もしバフェットが30代で投資を始め、60代で止めていたら、その名が世界に知れ渡ることはなかっただろう。
事実、真の富の鉱脈は、深紅色であることーーー岩石のなかではなくて、肉体のなかにあることーーあるいはまたあらゆる富の究極の結果と完成が、できるだけ多くの元気のいい、目の輝いた、心の楽しい人間をつくりだすことにあるということも、おそらくわかるであろう。(ラスキン『この最後の者にも』)
*デラックスセットは売り切れのようで(T_T)