仕事と関係ないと思ったら意外に絡んでいたので、備忘録。
マラルメの「イジチュール」。
大学生のころに買って読んだけど、なんだかさっぱり分かりませんでした。
最近、読みなおしたのですが、やっぱり分からない。
で、図書館で見かけた佐々木先生のご著書。
立ち読みしたらあとがきに大変に共感して、借りてきて読みました。
面白かった!
「イジチュール」
鏡の多い城に住むイジチュールが、真夜中、部屋をうろうろしている。
呪文本を取り出し、部屋を出たり、墓を訪れたりして、イジチュールは死ぬ・・・
と、無能な私にはバカっぽい要約しかできません。
ただ、
夜が無であり、かつ無限、混沌である(p35-36)
偶然は無限で、絶対は消える(p50-53)
など面白そうな文章が、良く理解できない表現の中に埋没しています。
夜を不合理や非合理と考える(光lumieres、Auf-Klarung=啓蒙と同じ)と、何となく主張したいことはわかる気がします。
佐々木先生のご著書。
これまでの研究では大前提になっている、草稿発見者のマラルメの娘婿が整理した作品の順番が、そもそも正しいのかという、もっともな疑問から出発します(p19)。
この本が素晴らしいのは、何かの理論に乗っかっていないところ(p399)。
佐々木先生は、あとがきで、それが本書の欠点であるかのようにお書きになっていますが(p400)、そんなことはないと思います。
徹頭徹尾、テクストから離れない。
繰り返される語句や削除された語句、文章、あるいは物語の構造を、章ごとに比較し、マラルメが何を描こうとしたかを浮かび上がらせる。
これは、いわゆる記述現象学と同じではないでしょうか。
患者さんのお話を理論に落とし込まず、そのまま聞き、理解することに近い。
治療者もこのくらいの精度で、患者さんの語りを考えたり、理解したいものです。
あるいはバルトが「サラジーヌ」に対して行った、めちゃくちゃ細かい物語の構造分析にも近い気がします(p104-105の表、p147-156のまとめ、p157の表など。バルトの「S/Z」、私はまともに読めませんでした)。
この物語のおおまかな筋に関する佐々木先生のご意見。
神が創造した偶然に満ちた(不完全な)世界(=光に満ちた世界)を否定し、闇で包まれた真夜中の新たな絶対の世界を創造する<裏返しの「創世記」>(p26-27)。
なるほど!
さて、この物語読解のため、まずマラルメの当時の問題意識を、同時期の書簡などから明らかにします。
一つ目。
マラルメには、私たち人間は「物質の空虚な形態」に過ぎないというニヒリズムがあるのだそうです(p29)。
物質は永遠に変化し、偶然という原理で存在が生成する(p30)。
しかし、マラルメとって重要なのは、言語のもつ創造力。
というのも、言語によって構築される虚構世界で、偶然は無化できるからです(p30)。
現実の世界が変転する物質で構成されて曖昧でも、「言語は(操作できる=創作できるので)偶然を排除できる」ということでしょうか。
二つ目。
マラルメにとって「語る」ことは個人的主体的な「この私」と結びついている。
ところが「書く」ことは、誰が書いたかを匿名にできるし、そもそも書いている本人も「この私が書いている」という企図が曖昧になることがある。
したがって、書いている私は、非人称的で、具体的個人とは結びつかない、精神的存在としかいえない(p36)。
三つ目。
後にオースティンが提唱した、行為遂行的発語と事実確認的発語の区別に近いことが、マラルメによれば書くことにもある。
「私は死んだ」という文章を書くと、それを書いている「私」と、文章の中の「私」は別でないと意味がない(死んだ人は文章を書けないですから)。
つまり、「書く」ことで「私」が分裂する(p37-38、クリステヴァが同じことを述べているそうです p333-334)。
あるいは「語っている(書いている)のは誰か」という問題が出てくる(p38)。
後者二つの問題からマラルメは、「語る・書いている私」と、作品の中の「書かれた私」を、書くことの中で、どう折り合いをつけるか、考えるようになった(p41)。
さらにマラルメは、当時、メンタル的に病んでいた。
平衡保持性失神症という、法悦の感情で感覚や運動が麻痺するという状態(p67)。
このような背景から「イジチュール」が創作され始めた。
以上の問題意識からマラルメのしようとしたことは、書く主体が非人間的なものでなく、肯定的で積極的意味をもつものになるようにすること(p77)。
そして、既存の詩編が「結合の無限の偶然」の産物に過ぎなかったのに対して、厳密に計算して選ばれた語と配置によって、偶然が排除された詩編を作り出すこと(p111)。
さて、「イジチュール」がマラルメの病を癒したか?
全くそんなことはなく、病は却って悪化し、「イジチュール」創作も滞ってしまう(p118)。
結果として、マラルメは草稿を何度も書き直し、完成を諦めることになった(p227)。
佐々木先生の指摘で重要なのが、マラルメは「イジチュール」を完成できなかったけれど、書き直す過程で、「私」の分裂を維持し、同一性を否定したまま、主体としての「私」を表現することに成功したことだそうです。
しかし、後世の批評家はそれを「物語の仕掛け」と誤読してしまったと(p227-228)。
では、分裂したまま「私」を表現する方法とは?
ある語を肯定と否定する書法で主体の分裂を維持したこと。
語の意味あるいは音から、別の語に横滑りさせること。
最後は語り手と登場人物をずらしたこと(p275-324)。
言い換えると、言語の多声性、主体の複数性、意味の多義性に到達した(p346)。
ただ、そのように工夫しても、結局、物語を完結させるには「私」の分裂に蓋をせざるを得ない、したがって、この試みは失敗に終えざるを得なかった・・・というのが佐々木先生の結論です(p336)。
確かにマラルメのやろうとしたことは、リニアにしか物語形成できない言語芸術では無理なことかもしれない。
しかし、後世に多大な影響を与えたわけです。
私が好きなモーリス・ブランショがそう。
「誰なのか曖昧にする」、「肯定と否定の両立」、「私が複数になったり単数になる」など、文章で形成された空間だからこそ可能な世界を作り出しています。
佐々木先生のご著書で「イジチュール」、また読みたくなりました。
ところで、イジチュールと関係の深い「夜のソネ」という詩の詳細な読解があるのですが、これが素晴らしい(p161-192)。
フランス語詩の授業を受けているみたいです。
なぜある単語が選択されたのか、それにはどのような意味があるのか、語のもともとの意味や音の関係などから解説されます。
たとえば「un or金」という語が繰り返しあらわれるこの詩で「septuor七重奏」が「sept-tu(s)-or(s)七つの沈黙した黄金」という意味をもたせている(p184)、「再びencor」や「全体的にen corps」の中にorが入っていること(ちなみに二つとも発音は同じ<アンコール>)などです(p185)。
あと、イジチュールの原語がコピーで掲載されています(p208と209の間)
なんとお得な一冊!
落ち葉ひろい。
マラルメは言葉verbeを2つに分け、「発語、発声」を物質=「時間」とし、「意味」を「理念」とした(p124-125)。
マラルメの<書物>計画の一つはこの「イジチュール」だったらしいこと(p139)。
清水徹先生が「マラルメの”書物”」という本で、マラルメが計画していた<書物>=「演劇」についてお書きになっていますが、これも面白かったです。
それにしても、外国文学、とりわけ詩を翻訳で読むことは、どういう意味を持つのでしょう。
ステファヌ・マラルメ「イジチュール またはエルベノンの狂気」 秋山澄夫訳
1420円+税 83ページ
思潮社
ISBN 4-7837-2845-3
Mallarme S: Igitur ou la folie d'Elbehnon
佐々木滋子「『イジチュール』あるいは夜の詩学」
7700円+税 402ページ
水声社(1995)
ISBN 489176323X