三連休中に読んだ本の一冊。

 諸星大二郎先生の漫画の影響で、最近、古代史好きになってしまいました。

 でも、知識がまったくない。

 昔、習ったなんとかの改新とか、なんとかの乱とか、もう覚えてない。

 

 で、ちょっと勉強しようかなと。

 

 

 本書は西暦500年末から700年初頭までを扱っている。

 そしてクローズアップされるのは、里中先生がお描きになっている「天上の虹」の主人公、持統天皇とその周辺人物。

 

 

 第一章。

 日本が国としてまとまる最初の契機となった出来事は何か?

 白村江の戦い(663年)。

 

 おお、懐かしい。

 私の世代は「はくすきのえのたたかい」と習ったが、今は「はくそんこうのたたかい」だそうな。

 今、「はくそんこう」と打ったのだが、ぱっと「白村江」に変換される!

 

 で、この白村江の戦いの敗戦で、いつ唐・新羅が攻めてくるかわからないという恐怖感の中、急速に内政が固まった(p25)。

 そのために行われたのが、702年、遣唐使が持ち帰った律令制度(刑法、民法、税制などの行政システムのパッケージ)の実施(p45)。

 当時、律令を作ることはできたのは中国だけだったらしい。

 で、なんと当時の日本の朝廷は中国に黙って律令制を始めた。

 大国に近すぎず離れすぎずの島国ならではの図々しさ。

 ちなみに律令を独自に作ったのは日本とベトナム(ただし11世紀)だけだった(p45)。

 

 さて、当時の日本は、まだまとまっていなかった。

 畿内(いわゆる大和朝廷)・吉備(ここが大和朝廷に征服される過程が桃太郎伝説になったと、いつぞやの「ブラタモリ」で知った)連合、九州北部の倭(大宰府は朝廷の支所でなく、もう一つの朝廷だったらしい)、あと蝦夷(p51-54)。

 これらが一つにまとまっていく過程が、ちょうど律令制導入と並行していった。

 

 

 第二章は天皇について。

 天皇制によって権威と権力が別になったというのはよく指摘されるが、この時代からそういうシステムになっていた(p76-77)。

 なので、局地戦はあっても、大きな内戦は日本では起きなかった。

 興味深いのが、武家社会前の日本は招婿婚が一般的だった、つまり皆さん「マスオさん」状態(p91-92)。

 子供は母方で育てる。

 藤原氏や北条氏が台頭した理由は、この独特な婚姻制度が背景にあったということなのだろう。

 この制度だと財産は基本、母方のもの。

 息子も別の家に婿入りするので、財産はすべて娘が相続していたらしい(p93)。

 ちょっとびっくり。

 

 古事記などで、男が女性に「あんた、バカじゃない?」と怒られる逸話が多いそうなのだが(p89)、武家社会、つまり乱暴者の男がでしゃばる世の中になる前の日本は、女性の方が強かったのだろう、てか、今も家の中ではそうか?

 もう一つ記紀で面白いのが、「一番エライ」天照大神は命令も決定もしていないのだそうで、何かあると周りの神様に「皆さん、どうします?」と尋ね、賢い神様の一人が「こうしたら」というと、「あ、じゃ、それで」という感じで物事が決まるのだそう(p101、111-112)。

 こういうゆるい感じ、私はいいなあと思う。

 

 

 

 第三章は政治と権力闘争について。

 大化の改新と壬申の乱が論じられるが、「大化の改新」は正式な学術用語ではない!

 正確には「乙巳(いっし)の変」(p120-121)。

 「大化の改新」はある東大のエライ先生が「蘇我氏は理想国家成立を妨げた悪者」という価値感からつけたので、価値中立的な名前に変更になった(p124)。

 

 この名前が決まった経緯も面白い。

 1968年、京都の学会で明治維新に対する否定的な議論があり、その時に「大化の改新」の名称が再検討されたのだそう(p125)。

 明治維新は薩長のクーデターじゃないのかという本を見かけるが、学会ではもう50年以上前から言われていたのかと驚き。

 

 話は戻って、乙巳の変、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺なのは知られているところ。

 本書によれば、これ、蘇我氏を寵愛した大王皇極と、その息子の中大兄皇子の、いわば「母子喧嘩」だったと(p121-122)。 

 そして背景にあったのは、大陸に強大な国家、唐が成立し、このままじゃ唐に征服されるという中大兄皇子の焦りがあったということらしい(p126)。

 ただ、滅ぼしたのは蘇我家の嫡流で、本家ではなかった(p122)。

 というか、系図をみて驚いたのだが、蘇我家の末裔に持統天皇がいる(p123)。

 「蘇我氏全滅」にしないところが日本ぽい。

 いい意味でのんき。

 (3月25日追記:この話を家内にしたら、「天上の虹」読んでいたとのこと。で、「蘇我氏側からみると、本家と分家の親戚争いじゃない?」と言われた。確かに、よく読むと本家が中大兄皇子側につき、分家が大王皇極についたらしいので、何も「のんき」だったので、蘇我氏皆殺しにしなかったわけではないよう。てか、「本家・分家の親戚争い」と「母子の親子喧嘩」って、なんだかスケールが小さいなあ、乙巳の変。)

 

 さて671年、天智天皇が病に倒れる。

 そして弟の大海人皇子と、息子の大友皇子が後継者になるかで内戦が起きる。

 ご存知、壬申の乱。

 

 ところで、禅譲を告げられても一回で即答せず、三回目くらいで「お引き受けします」と返事をするのが美風とされていたそうで、大海人皇子も「その場で返事をすると暗殺されるかもしれないので断って蟄居した」は、この美風に従っただけではないかというのが倉本先生のご意見(p143-145)。

 

 この件で面白かったのが徳川吉宗のエピソード。

 七代将軍死後、尾張藩主徳川継友に次期将軍依頼がくる。

 「習慣通り」まずは断った継友。

 で、おそらく「形式的」に紀州藩主吉宗に話がまわってくる。

 吉宗。

 即答で「お引き受けいたします」・・・・

 以後、尾張から将軍がでることはなかった(p144)。

 さすがは「暴れん坊将軍」。

 

 

 話を戻して壬申の乱だが、147ページに地図を見ると、西は難波(大阪)、東は桑名で、琵琶湖をぐるっと大きく囲むように転々と戦場が変わっている。

 当時としては、広域で戦われた内戦だったのではないだろうか。

 

 ところで、藤原氏や蘇我氏がどうして力を持てたか。

 もちろん娘たちを天皇に嫁がせて、世継ぎを生んだから。

 で、両家に共通していたもの。

 それは当時としては高度な産科技術をもった渡来系の医療官僚をかかえていたからだそうな(p161)。

 なんというか、執念を感じる。

 

  

 最終章は戦争と外交について。

 私は、先の大戦と元寇以外、外国から攻められた経験がほとんどないと思っていたが、ほかにもあったらしい。

 新羅の入寇(8-10世紀)、刀伊の入寇(女真族の襲撃 1019年)、元寇、応永の外寇(李氏朝鮮による襲撃 1419年)(p181)。

 加藤清正が大暴れする前に、朝鮮半島から日本は攻められていたとは。知らなかった。

 ただ、文禄・慶長の役ほどの本格的戦争ではなく、せいぜい海賊の局地的襲来程度だったらしい。

 また、中国は冊封体制(中国皇帝と君臣関係を結ぶ)を敷いていたが、日本はというと、6世紀以後、冊封を受けていなかったという(冊封は中国が命ずるのでなく、受ける側が自発的に手を挙げる制度 p187)。

 琉球でさえ冊封を受けていて、同盟関係が中国を中心として北東アジア全域に結ばれていた中、なんとも不思議な選択。

 きっと周辺国から「あの国、なんで仲間に入らないの?」と不気味がられたのではないだろうか。

 また、冊封を受けないのは<田舎者、野蛮人>を意味していた(p186)とのことなので、当時の日本がどう見られていたか、それが現在にもどう影響しているのか、しばし妄想。

 

 ただ、この選択によって日本は結果として、だいぶ助かることになる・・・・

 

 

  

 本書を読んで、あ、と思ったのが「日本」の正式な呼び方。

 私、お恥ずかしいことに知らなかった。

 「にっぽん」が正式名称(p28-31)。

 でも、「にほん」なんとか大学とか、学術的な研究所だって「にほん」なんとか研究所とか、実際には使われている。

 というか、自分の国の正式名称を、国民が曖昧にしか知らない国って、考えようによっては凄くないだろうか?

 

 

 まま、日本人(あえて「にほんじん」)のこういう「いい加減さ」、私は大好きです。

 

 

 

 

 

里中満智子、倉本一宏「古代史から読み解く「日本」のかたち」

820円+税   248ページ

祥伝社

ISBN 978-4-396-11535-7