子供を愛せない母親たちについて知りたいと思って関連本を買った時の一冊。

 思っていたのと違い「産まないことにした」女性の思い、戸惑いを記した本だった。

 

 

 月岡さんは、子供が欲しいわけでも欲しくないわけでもないという(p63)

 うちら夫婦も同じだった。

 

 

 途中までは、産む性でなはい男で子持ちの私には引っかかる箇所が多くあった。

 しかし、徐々に納得した。

 月岡さんは「産まないと決めた」というより、「今の社会で、子どもを産み育てることの責任の大きさに戸惑い、迷い続けている」ように私には思えた。

 「時々産んだ方がいいのではと思うことがある」と書いていらっしゃる(p156-157)

 威勢のいい決断より、一見消極的な迷い続けることの方が実は精神力が必要なのはメンタルヘルス業界の常識。

 なので、私は月岡さんがある種の逞しさを持っているように思えた。ご本人は否定するだろうけど。

 

 月岡さんが子供を持たないことにした懸念は、子育て中の私らの現実の心配ときれいに重なっている。

 生まれてくる子供に障害があったらきちんと育てられるだろうかから始まり、学校に適応できるか、これからの社会をうまく生きていけるか etc第1,4章)

 つまり、月岡さんのお考えは”正しい”。

 

 「産まない理由は『理屈』で、産む理由は『感情』だ」としているのも的確だと思う。(p160)

 p167では表にまでなさっているが、「自分の生き方、権利」の記載は半分弱で、大半が旦那さんらへの配慮と産まれる子供への心配で、そのような構えは逆説的だが「産まない子に対する母性」のように私には思える。

 ”母性”とか書くと嫌がられるのだろうけど。

 

 第5章以後は、”産まないことで感じる引け目”について。

私は「子供を産んだ人にしか分からない感情や、見えない景色」(略 が)あると心のどこかで信じている(p184)

 残念ながらその通りだと思う(その一つ、”無秩序に慣れる”ことに月岡さんはお気づきで、卓抜な表現をなさっている p204)

 ただし、当然「子供を産まない選択をした人にしか分からない感情や、見えない景色」もあり、そのことについて私らがあれこれ口を出す権利はない。

 

 以下は大事。

「持たない」勢の中にもさまざまな人がいる。

子供が嫌いで(略)忌避している人(略)私のように嫌いじゃないけど育てるのはなあという人、夫と妻のどちらかは子供が欲しいが、もう一方はそうではない(略)スタンスは多様で(略)コミニュケーションに気を遣う。 (p229)

 

 

 

 一つだけ引っかかった部分。

「母性信仰ってほんとキモい」と日頃思っている私も、しっかり母性信仰めいた考えを持っているのだなあと気づき、恥ずかしくなる(p185)

 「ボセイシンコウ」なんて、私ら男たちが考えた身体性の欠けた理屈の言葉を使うのは、確かに「恥ずかしい」だろう。

 でも違う言葉なら恥ずかしくないのではないか。

 確かに女性=母性、男性=父性などという雑な等号でまとめられない。とはいえ、ある種の感情を人は持つ。

 私はこれを表す言葉や考えを女性に作ってほしいと思っている。

 主義-ismでも、学(=言葉logos)-logyでもないもの。どちらも男たちが作ったもので、女性が何々ismで対抗しようとするのは”男側の土俵”に上がることでない?と私は思う。

 なーんて、いろんな人に喧嘩売っているんだろうなあ。

 

 

 千年前、男が使う漢字ではないalternativeな文字を使って、歴史に大きな痕跡を残した先達がいるではないか。

 

 

 

月岡ツキ:産む気もないのに生理かよ! 飛鳥新社、東京、2025