だいぶ前に読了。

 

 

 「好きと得意の分岐点」を立ち読みして衝動買い。

 ずっと考えていることだった。

 

 「やり甲斐よりも手ごたえが大事」になるほどと思う(p64)

 スーさんの考えでは、「やり甲斐」は苦労した仕事で<人の役に立ったと感じられる>こと。

 「手ごたえ」は、苦労しようがしまいが<仕事内容に満足し、次の仕事をいただく>こと(同頁)

 

 私なりに言い換える。

 やり甲斐は、他人様が「お前の仕事は役に立った」と感じてくださったかどうか、つまり他人様の気持ちが根拠になる。

 しかし、他人様の心はのぞけない。

 実質的には、「他人様は私の仕事を役に立ったと<思ってくれたに違いない>」と推測しているに過ぎない。

 だから、大変にふわふわとした自己査定になる。

 

 一方、手ごたえは他人様の気持ちではなく、自分の仕事に満足できたかという、自分の気持ちが出発点。

 ただ、これだけでは独善的になってしまう。

 大事な点は、次の仕事の依頼の有無。

 依頼があるという事実で、他人様が自分の仕事をどう評価したかが分かる。

 確とした<実感(満足感)>と次の仕事依頼の有無という<事実>での自己評価だから、揺るがないものになる。

 

 

 「成果と結果」も似た話題。

 ある青年が、正解を探るような成果の出し方をするので、結果につながらなかったという(p74 成果と結果の違いの説明はない)

 「他人の目を気に」(同頁)して「指示されたことだけを真面目にやっていたから」(同頁)、そうなったのだろうと。

 

 例にだされた青年は、他人様(上司)の考えが正解と思ったのだろうけれど、他人様の心は分からないので、言語化された指示を一生懸命こなした。

 そのために、のびやかさのようなものが失われて、こじんまりとした結果しか出せなかったということなのだろう。

 

 

 私の場合。

 次の仕事依頼は来るには来るが、今の職場で、ある専門性をもっているのは私だけだから、依頼があるのが特別なことではない。

 また、仕事の性質上、結果が曖昧になることが多く、「この限られた状況では、これが精一杯」という消極的な思いでいることが常なので、「やるだけのことを十分にやった」になりにくい。 

 それから、仕事は他者から査定されるものなのだから他者の目が気になって当然と、個人的には思う。

 さすがに「正解」は厳密すぎるけれど「何を求められているか」と曖昧に言い換えれば、それを探るのが仕事ではないか。

 「何を求められているか」も目に見えない抽象的なことが多いので、「これでいいのか?」と不安を抱え続けることになる。

 

 

 スーさんからの一つの答えかもしれないのが「守るに値するもの」(p95-98)

 ある心理学者を引用しながら、プライドを「他者を養分として上がったり下がったりするもの」で「自分の優位性を高め」るもの(優越感と言い換えられている)、ディグニティ―を「自己をみつめ」て生まれるもので「謙虚さと感謝を含む」とし(自己肯定感と言い換えられている)、後者こそ守るべきものとお書きになっている。

 

 Dignityって尊厳だから、自分にまつわる尊厳なら、普通なら「自尊心」と言われるものだろう。

 これもおっしゃっていることは分かるのだけど・・・・。

 

 

 読んだ時にはピンとこず、考えながらここに書いてみて「なるほど」と思ったことと、読んだ時は「そうだよなあ」と思っていたのに自分で書きなおすとあれ?となることがあった。

 

 自己評価と他者評価のバランスをどうするか。

 永遠の課題だなあ。 

 

 

 

ジェーン・スー:へこたれてなんかいられない. 中央公論新社、東京、2025