三連休。

 完全に休みと思っていたら、仕事があったことを思い出し、慌てて職場へ。

 なんだか疲れているのかな・・・・

 

 別件で大学の図書館で資料をあさっていたら、「ありゃ、読みたかった本」「あ、これも」とつい大量に借りてしまいました。

 本書もその一冊。

 ちょっと前の本ですが、内容はまったく古びていません。

 

 心理療法業界の「カリスマ」、神田橋先生の対談本。

 滝口先生は、神田橋先生のご著書から、「これは」という部分を抜書きされているそうですが(p97)、私も「神田橋ノート」、作っています。

 このブログもそうするために備忘録。

 

 

 

 精神分析の勉強では何から読めばいいか。

 「精神分析入門」でなく「心理学草稿」がいい(p28)。

 そのこころは?

 ある理論が出来上がった時には、その考えは当人の中では古くなっている。

 なので、その直前の醸成過程を学んだ方いい。

 あるいは、「ある概念がどうして生まれたのかを勉強するのが良い」(p247)。

 

 なるほど。

 私なりの表現だと、いきなり理論自体を学んでも(まねても)、理論はそれを立ち上げた人の経験や個性を色濃く反映しているので、その人のエピゴーネン(や出来のよくない複製・・・)にしかならない。

 まずは理論を立ち上げた人の思考過程を学ぶ。

 その上で自分の経験や個性を考慮に入れて理論を勉強すれば、「エピゴーネン」になることを回避しつつ、一方で「我流にならない」で済むということでしょうか。

 「我流」のカウンセラーさんもいらっしゃるようなので、どのように学ぶかは重要な点ですよね(「新しい考え方だと粗雑」、自己流で型がないと「癖がそのまま」で治療者としてはだめと神田橋先生は戒めています p79-80)。

 

 私は、「草稿」は未読ですが失語症論を、つい先日読んだばかりです。

 面白かったです。

 失語症論は、実は「総説」に過ぎません。

 でも、従来の理論的失語症論を、具体的症例で反論する「方法」は、非常に説得力がありました。

 それにしても、当時のドイツで大学教授の理論にペーペーの若造が反論する本を出すという野心的試み。

 フロイトのキャラクターを考える上でも、興味深かったです。

 

 

 トレーニングについて。

 精神分析では教育分析(自身が分析を受ける)が必要とされていますが、これが「非常に辛い」とされている。

 神田橋先生は?

 イギリス留学で受けた教育分析で、日本で自分なりに学び、一生懸命に考え、実践してきたことが「一気に壊される」ことを体験する。

 精神分析は自分には無理だとまで思い詰められたそうです。自分のやってきたことはガラクタだと(p120-121)。

 壮絶です。

 と同時に、あの神田橋先生でさえそうなのか・・・とちょっと安心・・・・。

 素直に考えると、己の自己愛を自覚させられ、それが破壊される体験なのでしょうが、それだけでなく精神分析が知識として伝達されてきた日本独特の事情もあるのでは・・・・・と思ったりもしますが、どうなのでしょう。

 

 

 武術では「奥義は基本技」であるとされるけれども、精神分析も同様であること(p110)。

 

 私は昔、剣道と居合道を習っていました。

 しかし、居合道、練習がとにかく単調で、「面白くない」。

 当時の私は、この練習には何の意味があるのかと納得できず、居合道の方はやめてしまったのですが、今考えるともったい・・・。

 というのも、あとで自分なりに勉強すると、やはりちゃんと意味があった(当然ですが)。

 

 日本刀は歯が薄いのですぐに刃こぼれし、また切り込む角度が悪いと途中で引っかかってしまうのだそうです。

 なので、力まずに(力むと刀の動きがぶれる。それに消耗して「実戦」では困る)、かつ刀がもつように(引っかかった刀を無理に抜こうとすると折れる)するために、余計な力を使わずにきれいに刀を上から下に垂直に振り下ろす必要がある。水平に切る時も同じ。

 日本刀は模擬刀でも相当に重たいのですが、たとえば、ある構えである時間、じっと刀を持ち続けるという、一見、「無意味」な、しかもかなりきつい練習をさせられます。

 でも、これ、ある方向にぶれずに刀を動かすための筋力と、刀の刃がその向きになるため握り方を体に叩き込んでいたんですね。

 ぼんくら小学生の私には理解できませんでした。

 てか、当時から「理屈がわからないとついていかない」悪癖があったということですね。

 

 また、習ったのはたった2種類の動きでした(立った姿勢で斬ると、座った姿勢から斬る)。

 ある動きを繰り返し注意され、当時は理由がわからなかった(というか、教えてくれなかった)のですが、後で知ったのは、もし実戦なら、私の動きだと室内では刀が鴨居に引っかかる動きだったんです(教えてくれれば、絶対にはまったと思うのですが・・・武術は理屈を言わないんですよね・・・・)。

 

 長くなりましたが、この体験があるので心理療法にも基本的型があり、それを身につけないと危険である(居合道のたとえなら、無駄な力が必要だったり、途中で刃こぼれを起こして逆に斬られてしまったり、相手をきちんと斬れずに要らぬ苦しみを与える・・・など)と理解できます。

 

 

 精神分析の治療目標について。

 「葛藤の解消」ではなく「葛藤をはっきりと意識すること」。

 葛藤をもつことは「豊かさ」で(!!)、「二大政党制のよう」に健全であると(p63)。

 

 まさに逆説的な神田橋節。

 「どっちつかず」(≒葛藤)は辛いけど、ある一方の考え方(生き方)がうまくいかなかった時、もう一方に乗り換えられるという意味で、確かに一種のセイフティーネットという考えもできます。

 なるほどなあ。

 

 

 症例報告を書く際に患者さんの同意を得るべき。

 でもそれは「プライバシーの保護」という「愚かな」点で「倫理的」ということではなく、患者さんに同意を得られるような理解を自分がしているかどうかのチェックになるという意味(p75)。

 

 

 「人事を尽くして天命を待つ」ではなく「天命を信じて人事を尽くす」(p140)

 

 これ、おお!と膝を打ちました。

 私、この言葉にそこはかとない無責任さを感じて嫌だったのですが、「天命を待つ」の部分が「投げ出している」感じがしていたからなのだと、初めて言語化できました。

 神田橋バージョンを愛用したいと思います。

 

 

 患者さんが「母への恨みが消えた」とおっしゃっても、本当に過去の恨みが消えることではない。

 現在が変わることで、「恨みもあったけど、ありがたい部分もあった」と過去がかわるのだ(p169)。

 

 

 自然治癒は体にはあるが、こころに自然治癒はない。  

 治癒は一種の拘束性であり、ある方向へ向かうことなので、元来が自由なこころにはない(p177)。

 

 この言葉は含蓄ありすぎで、ちょっとピンときません。

 少し考えたいです・・・

 

 

 自由を求めてできたのが「こころ」という機能であり、自分が元来もっている資質と喧嘩するものを得てかえって不自由になることを「学習」という(p183)。

 

 出た。神田橋節。

 神田橋先生はお若いころ、臨床では「なぜか」患者さんを悪くしてしまっていたとおっしゃっているのですが、それはそうでしょう。

 鋭くて頭が良い方なので、私のような凡人が常識と思っていることを、説得力をもってひっくり返すのが得意でいらっしゃる。

 しかも、ちょっと底意地の悪さがある(底意地が悪いから常識から外れることができるともいえる)。

 で、このように常識をひっくり返すのが上手な方の前だと、私たちは不安になりますよね。

 だって何を話してもひっくり返されそうですもの。

 この雰囲気丸出しだと、患者さんも安心できなかったのではないでしょうか?

 「治療者が鋭い」という雰囲気は治療にマイナスなのでしょうね。

 

 

 アクティング・アウトはアイデアが出てきてから行動までの時間が短いこと(p200)。

 

 

 「闘病」しないこと。

 闘うと「勝ち負け」になってしまう(p204-206)。

 

 

 患者さんについてのコメントが「深い」が、患者さんが関心をもてない(ような表現しかできない)なら治療者として失格。

 自分だけが深いところに関心をもつのはセラピストのすることではなく、研究者のすること(p222)。

 

 

 フェアバーンは「対象希求的」と理解されているが「対象関係希求的」である(p232-233)。

 

 

 フロイトの概念で最後まで残るのは自由連想法ではないか(p234)。

 

 

 治療構造論は「構造という視点で物事をみる」こと(p142)。

 

 なるほど!

 小此木先生の治療構造論は「治療構造を作ることが大事」ということになっていますが、そうではない(それだけではない)。

 「構造という観点から治療を考えなさい」という「ものの見方」の示唆で、「治療を構造化しなさい」というドグマではなかったのですね。 

 目から鱗です。

 やはり、小此木先生の近くで「考え」が醸成されていく様子をご存じだからこそ、その本質を捉えられるのですね。

 

 

 「大いなるもの」が治療では大事。

 それは「その前で自分が無力になれるもの」(p135)。

 

 ヤスパース業界で「超越」について議論になります。

 「大いなるもの」って、要は「超越」というか「神性」だと思います。

 それにしても神田橋先生らしい、微妙な言い回し。

 「無力に”なる”もの」ではなく「無力に”なれる”もの」。

 ちょっと考えたいです。


 

 最後。

 ちょっと、納得できなかった点(私の悪癖!)。

 「心理臨床家は人を幸せにすることで、その照り返しで幸せそうになる。そうでない(幸せそうではない)治療者はどこか間違っているのではないか」(p105)。

 うーん。

 私のイメージ。

 患者さんから苦しみを吐き出され、それを抱えて何とか持ちこたえる治療者。

 苦しみをある程度吐き出したことで、「少しは」楽になり、かつ苦しみに持ちこたえる治療者から何かを得て、治療を終える患者さん。

 なので、「治療者が幸せそう」って、なんだか胡散臭い感じが・・・・。

  

 エライ人の言葉を素直に呑み込まない(呑み込めない)私。

 きっと居合道の時と同じく、ぼんくら小学生のままのなのでしょうね。

 いつ成長するんだろう・・・・・もう、いい年なんだけど・・・・・

 

 

 

 あ。もう一つ。

 滝口先生の嘆息混じりの言葉。

 「最近の大学院は世話をしすぎ」(p103)。

 その通りだと思うな・・・・・

 

 

 

 

神田橋條治、滝口俊子「不確かさの中を 私の心理療法を求めて」

2000円+税   261ページ

創元社

ISBN 4-422-11291-0