咲き綻ぶ幾千の菖蒲の花がいまも東京の風物となっている堀切菖蒲園は江戸時代に百姓伊左衛門が菖蒲の品種を集めて公開したのが始まりです。江戸の成熟が庶民に文化を広げ朝顔や菊は品評会に熱を上げ、煙草も各地の香りを愉しみ、俳句、小唄に精を出す。娯楽の拡大が菖蒲園を江戸の名所に押し上げます。
堀切菖蒲園
巣鴨の名物に挙げられる<とげぬき地蔵>は実は明治に上野から越してきたもの。それまでは庚申塚で名を馳せます。庚申とは人間の体に住まうと言われる虫が帝に諸事の報告に行くのを夜通し見張る行事で、それを長年続けて塔を成したのが庚申塚。行事は古くからあれ塔建立が盛んになるのは江戸時代。
巣鴨庚申塚
猿田彦神社に保管されている明暦3年の庚申塔
巣鴨、染井に多かったのが植木屋です。夢屋伊兵衛、花屋紋三郎、七郎右衛門、次郎兵衛らが軒を並べます。背景にあるのは田沼時代から庶民の娯楽が急成長して、花の需要とともに品種改良が盛んに試みられたこと。朝顔、菊、椿、梅、桜が商品となる。育成と販売を鑑みて彼らの多くが浅草近隣に居を移す。
「江戸名所百人美女 染井」(三代豊国)より
江戸切絵図 染井王子巣鴨邊絵図
飛鳥山は徳川吉宗が王子権現に土地を寄進したのが始まりです。それを王子権現の別当だった金輪寺が幕府に働きかけて開放、こぞって庶民が参っては料理屋が立ち並ぶ盛況となります。いまも残る扇屋の玉子の窯焼きは戯作でも舌鼓を打つ名物。飛鳥山は上野、向島とともに江戸の誇る桜の名所になります。
冨士三十六景 飛鳥山
王子扇谷の窯焼玉子
日本橋から高井戸まで十六里、途中に宿を望む声が高まります。できたのは内藤家の屋敷があったところで内藤新宿、新宿の始まりです。享保の頃私娼が溢れるあまりの放埒に廃止されますが、1772年に再興。目黒が熊野神社をはじめ信仰にひとを集めたとすると、新宿はそもそも享楽を活力に発展します。
江戸切絵図 内藤新宿千駄ヶ谷絵図
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