花ひとつ。
指先が切れるような美貌の弟を持って兄弟揃って年端のいかぬうち
雪ひとつ。
東宝創立20周年記念映画と銘打たれて題字、そして子守歌のよう
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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ
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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ
咲き綻ぶ幾千の菖蒲の花がいまも東京の風物となっている堀切菖蒲園は江戸時代に百姓伊左衛門が菖蒲の品種を集めて公開したのが始まりです。江戸の成熟が庶民に文化を広げ朝顔や菊は品評会に熱を上げ、煙草も各地の香りを愉しみ、俳句、小唄に精を出す。娯楽の拡大が菖蒲園を江戸の名所に押し上げます。
堀切菖蒲園
巣鴨の名物に挙げられる<とげぬき地蔵>は実は明治に上野から越してきたもの。それまでは庚申塚で名を馳せます。庚申とは人間の体に住まうと言われる虫が帝に諸事の報告に行くのを夜通し見張る行事で、それを長年続けて塔を成したのが庚申塚。行事は古くからあれ塔建立が盛んになるのは江戸時代。
巣鴨庚申塚
猿田彦神社に保管されている明暦3年の庚申塔
巣鴨、染井に多かったのが植木屋です。夢屋伊兵衛、花屋紋三郎、七郎右衛門、次郎兵衛らが軒を並べます。背景にあるのは田沼時代から庶民の娯楽が急成長して、花の需要とともに品種改良が盛んに試みられたこと。朝顔、菊、椿、梅、桜が商品となる。育成と販売を鑑みて彼らの多くが浅草近隣に居を移す。
「江戸名所百人美女 染井」(三代豊国)より
江戸切絵図 染井王子巣鴨邊絵図
飛鳥山は徳川吉宗が王子権現に土地を寄進したのが始まりです。それを王子権現の別当だった金輪寺が幕府に働きかけて開放、こぞって庶民が参っては料理屋が立ち並ぶ盛況となります。いまも残る扇屋の玉子の窯焼きは戯作でも舌鼓を打つ名物。飛鳥山は上野、向島とともに江戸の誇る桜の名所になります。
冨士三十六景 飛鳥山
王子扇谷の窯焼玉子
日本橋から高井戸まで十六里、途中に宿を望む声が高まります。できたのは内藤家の屋敷があったところで内藤新宿、新宿の始まりです。享保の頃私娼が溢れるあまりの放埒に廃止されますが、1772年に再興。目黒が熊野神社をはじめ信仰にひとを集めたとすると、新宿はそもそも享楽を活力に発展します。
江戸切絵図 内藤新宿千駄ヶ谷絵図
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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ
自分すら突き放して見る理知的で冷笑的な素顔に、綺麗では収まり切らない破壊的で愛らしい第二の顔が手に入ったことで、その顔が作る性格へと自分を解き放つ。無類の陽気さ、歯の浮くようなキザ、漫画のような生き様も、この顔ならばできる、しかも最高にカッコいい。
#宍戸錠 #追悼
フーテン、ハイミナール、新宿東口。東京に行けばごきげんに面白いことが待っていると腰から踊り出す大堀早苗に絡みつくのは溶けるように形をなくした東京の夜。気怠い、体から力が抜けていく毎日のなかでそれでも生きていく意味は首筋の柔らかいところをなぞっていく。
#西村昭五郎 #残酷おんな情死
阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカン、歌舞伎をくぐり抜けたスターたちは二役を好む。一方はカツドウの昔から映画もまた二役を好む。両者の欲は重なりつつ互いを使嗾しながら錦之助、橋蔵たちに引き継がれるが、それを女だてに総ざらいに平らげる美空ひばり。
ひと口に二役と言ってもひとりがふたつの役、役はひとつで正体を隠している、様変わりする、年を取る、性別を越える、他人のそら似に、親子、兄弟、似ても似つかぬまで数えきれず。それにしても画面に同じ顔が現れるとき一瞬ざわつく感受性のあの震えは何なのか。
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1600年代の半ばに両国橋が掛かるまで隅田川を渡るのは渡しと決まっています。橋場の渡し、竹屋の渡し、竹丁の渡し、厩の渡し、中洲の渡し、佃の渡しで、うち竹丁は吾妻橋に、厩は厩橋になります。橋場には山谷堀の八百膳、今戸の金波楼と並ぶ柳屋という料理屋があって夜ごと食通を唸らせます。
江戸高名会亭尽 隅田川橋場渡之図 柳屋
永代橋は長さ百十間、江戸随一の橋で1698年に完成します。このような橋を掛けるには三、四千両の資金を必要として、隅田川に掛かる永代橋、大橋、新大橋、大川橋では二文の橋銭を取ります。〈深川の文には二文添えてやり〉のあれ。冨岡八幡の祭礼にひとが押し寄せて正徳、文化の二回、永代橋崩落。
東都名所 永代橋全図
文化四年八月 富岡八幡宮祭礼 永代橋崩壊の図
川開きとは即ち納涼のこと、隅田川の花火がいまも名物ですが、そもそもは庶民は橋や川端をそぞろ歩き、旦那衆は舟を繰り出して川風を楽しんだもの。そこに玉屋、鍵屋が芸妓を連れた旦那の座興に花火を売り込み打ち上げていたのが、嘉永の頃から川開きの日に大花火を打ち上げるようになったのだとか。
東都両国夕凉之図
江戸時代も後半になると遊興の先端を行く柳橋。そこから続いて幕府の御米蔵が立ち並びます。隅田川に出島状に迫り出して一番から八番まで堀を切り込み川から直接運び込みを行います。陸との出入り口は絞って厳重に管理。この前に広がるのが猿屋町、天王町、森田町、元旅籠町などでこれが俗に蔵前。
蔵前
向島には大商人の寮が設けられるとともに料亭の数々も生まれます。大七は鯉料理で名を馳せます。「御府内流行名物案内双六」では山谷の八百善、王子の海老屋と共に駒を占めます。武蔵屋権三郎が切り盛りする武蔵屋もやはり鯉濃を売りにして大広間を開け放つ庭の見事さは錦絵を飾るほど。他にも三紅亭。
新版御府内流行名物案内双六
江戸高名会亭尽 牛嶋 武蔵屋
亀戸天神は太宰府が東都に小さな社を建てたのが始まりです、1661年のこと。そのことに感銘した松平信綱、久世広元の尽力で三千五百坪の土地が寄進され以降江戸庶民の信仰を集めます。亀戸天神の行事にうそかえ神事があってこの一年の嘘を木の鳥に封じ込めると見知らぬ同士交換して厄を落とします。
東都名所亀戸天満宮境内全図
東都名所亀戸天満宮境内全図
江東に亀戸天神と並ぶ吾嬬権現、ここには連理の樟と呼ばれる大木が翻って名物で鳴らします。東征の折、突然の海の荒れ狂いにわが身を捧げて鎮めた弟橘媛を偲びつつこの地に休息をとったヤマトタケルが興隆を言祝いで箸を立てたのが樟となったと伝えられます。いまは枯れて浮世絵にその姿を留めます。
吾嬬権現の連理の樟
「神樟」 社殿右手に連理の樟の根元が残っている
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芳醇な香りのフィルモグラフィーをざっと紐解いても神代辰巳監督
今回絵沢の経歴に目を通して虚を突かれたのは彼女がくるみ座に在
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小沼勝監督『大江戸(秘)おんな医者あらし』
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