製作 : 東宝
作年 : 1962年
出演 : 司 葉子 / 宝田 明 / 山崎 努 / 大塚道子 / 水野久美 / 原 知佐子 / 森 光子
ヒロインである司葉子は業界二位という広告代理店に勤める(当時の言葉で言う)OGで、冒頭から男と対等いや下手をすると男たちのキャップをぎゅっと押し下げるように彼らの鼻先をかすめることもできるまさに戦後女性の、花形です。とは言え27歳といういまに思い迷わないわけではありません。そんななか現れた宝田明は斯界随一と言われるライバル会社のこれまたやり手でして、いままさに新薬の広告を巡って熾烈な獲得争いをしている相手です。宝田が会社や業界が理想とする形に自分を徹底して押し込めているからこそやり手であるように自分もまたそう生きるしかないことを勿論司は知っていて、彼を映して見えてくるのは自分のいまでありそのいまの向こうに自分を見つめる勇気を司はまだ持てないでいます。こんな揺らめくような生き方ではない、自分を愛してくれる力強い確かさを女性の、一番可憐な部分で求めているわけです。彼女の同僚三人もそれぞれです。一番の年長で古強者の大塚道子はもはや自分のなかの女を(煙草のように)押し消し言わば男よりも男となって或いはひとりで生き抜く人生の覚悟を決めています。原知佐子は離婚した夫からの慰謝料がいよいよ切れる心許なさから誰かによりかかりたい誘惑にどうしようもない自分を感じています。一番歳の若い水野久美は自分を捨てながら病気になるや舞い戻ってきた男の、嵩むばかりの入院費に自分を見失いかけています。(彼女たちに音楽である池野成の、一歩ごとはかない波紋を広げるようなビブラフォンにまるで緩やかに磔刑へ向かっているそんな運命を縫い取るようなハープシコードの旋律が絡みつきます。)彼女たちばかりではありません、司の姉である森光子は年若い夫を持ったためにろくろく働きもせずに子供のようにふてくされるばかりの夫の顔色を伺う毎日です。一方あやしげな経歴でデザイン部に転がり込んだ女性社員はせいぜい男たちにぶら下がりながら得るものは得ようというさばけた腹づもりですし、若いモデルたちにしてもそれなりのいまを男の腕を伸ばせるだけ伸ばさせてそれを手蔓に少しでも上で行こうと余念がありません。そうです、題名の<女ありて>とは何より<男ありて>という社会の上に漂う言わば水に書いた文字であり、<その場所>とはそのことをもはや怒りへと高めることなく力任せの諦めで見つめる彼女たちの瞳です。しかしヒロインが宝田との間で最後に辿り着くのは幸福でも不幸でもなく<女ありて>という言葉が鏡に自分の顔がふいに映らなくなるその空白であるように或いは<男ありて>も男にとっての、同じ空白を見つめているのかもしれないということでありそれでもやはり女は女であり男は男であるということなのです。
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『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ



