映画とは何か
  作者 : アンドレ・バザン

  出版 : 岩波書店 [岩波文庫]
  作年 : 2015年

  訳者 : 野崎 歓 / 大原宜久 / 谷本道昭

 

 

アンドレ・バザン André Bazin


映画とは何かなんて大きく掲げた題名ですがそれをまるで映画の傍らに咲く野花のようにアンドレ・バザンは小さく小さく咲き綻ばせていきます。そんな一輪を摘んでみましょう。エロティシズムは映画の本質であるとバザンは言います。もともと移動遊園地に夜店、お祭りの片隅で上映されていた映画には見世物のいかがわしさがついて廻っているとはよく言われることで(セシル・B・デミルなんて世界に名だたる監督になってからも見世物に群がるような欲望の眼[まなこ]を掻き立てることに演出の肝を据えて敬虔な聖書物語を描きながらその実一番力が入っているのは戒めのために引かれた背徳のハレンチ場面であるなんて柳下毅一郎の声を大にするところで)ただバザンが引くエロティシズムの原理はそのようなあからさまなものよりもっと映画に寄っています。つまり見世物興行からやがて常設の映画館でしかも物語を基にした長編映画が上映されるようになるとそこでは物語を貫くひとりの主人公に観客は暗闇のなかで自己を投影することになります。この同一化こそエロティシズムを醸し出すというのがバザンの立場でですから逆説的ですが検閲があからさまな描写をあれこれと禁じてきたからこそエロティシズムは洗練されたとします。(検閲というと得てしてそれが切り取ったもの、奪った表現にひとの関心は集まりがちですが大切なことは残されたなかにあるとはいまにも通じる警句でしょう。)さすれば当然映画におけるリアリズムというものも現実をそのまま引き写したとはバザンは見做しません。素晴らしいのは作り手が作品の舞台を現在かそれに近しい時間に設定するとき政治や社会の批判の手段にするためであることをやんわりと諌めて現在がいまここにあるというその事実にまずは向き合うことを(ネオ・リアリズモの精神に)讃えます。リアリズムとはひとつの映った現実なのではなく如何に多くの現実を映画に引き込むか、そういう開かれた姿勢であり複数の複雑ないまに身を晒して立つことだと言うのです。このことをひとつの線にしてバザンは1920年代から40年代に掛ける映画史をサイレントとトーキーの対立で描く下絵を投擲します。そうではない、サイレントとトーキーの映画的な差異よりもはるかに大きな地殻の変動がこの時期起こったのだとして、それを映像を信じる姿勢から現実を信じる姿勢の転換に見ます。D.W.グリフィスが生み出しセルゲイ・エイゼンシュテインが運動に変換したモンタージュは時間と物語そして世界を細分化する手法です。まさに映像の力を信頼した映画作りでありそれが1920年代に完成するとトーキーの出現にも揺るぐことなく30年代にはやや惰性となるも映画の主流であり続けます。しかしそういう大河の底でカメラの長廻しによるワンシーンワンカットという作劇がエーリッヒ・フォン・シュトロハイムからジャン・ルノワールを経て40年代になると新たな作り手のなかに花咲きます。しかもカット割りやモンタージュを否定するのではなく画面の造形にそれらを取り込みながら映画を突き進めて、それもこれも現実を捉えんがためまさに現実を信頼する映画たちです。(他にも西部劇の構造を分析してその土地に稀少であるもの、まずは女性、次に馬、馬を盗むものには極刑で応じますが女に命を賭ける荒くれ者には極刑も無駄とあって女性には家庭的な貞淑さを課します。同時に開拓に日常化した暴力を法で捻じ伏せるためには法の執行者たちは犯罪者以上の屈強さで彼らに挑むことになり、法と倫理はまさにくんずほぐれつしてひとつになりまたふたつになって鬩ぎ合ってこの鬩ぎ合いに悲劇が生まれるのが西部劇であるという鮮やかさ... )とまれかくまれ二十数篇のエセーを束ねて映画の花は本著に咲き綻んでいます。

 

 

 

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