映画女優の半生
  作者 : 浦辺粂子

  出版 : 東京演芸通信社
  作年 : 1925年

 

 

浦辺粂子 映画女優の半生

 

この本の綴られた1925年に浦辺粂子が何歳であったかやや目が眩む思いがするのが口絵にもふんだんに映画のスチール写真が使われ(私たちがよく知る(というかそれしか見たことのない)柔らかく絞った手拭いみたいなお婆さんではなく)柔和な愛らしさに面差しのあれこれを浮かべながらそれもそのはず23歳のうら若さです。のちに改めて半生を書き起こした『映画わずらい』(六芸書房 1966年)が女優になってからの月日に重きを移しているとすると本著は映画女優になるまでの、その無名の道のりです。ただ読み合わせたわけではありませんが数年の懸隔を置いた私の『映画わずらい』の記憶とは随分の印象が違っていてそれが戦前と戦後の、そして自分を語って衒いのある年齢の差ということかもしれませんが... 本著では町の旧家のお嬢さんである級友と勇躍して上京すると彼女を導き手にして浅草の歌劇場に入団するのですが確か上京は父の反対の猛烈さに家出同然となるのを母がなけなしの金を握らせて叶えてやりしかも初手から日活の向島撮影所を訪れてけんもほろろ、致し方なく浅草に流れていったはずです、確か。尤も『映画わずらい』の半生記にしたところで更にのちの『映画道中無我夢中』(河出書房新社 1985.8)とはところどころ齟齬を起こしていますから記憶が蘇るまま(文章の流れに棹差すまま)に悪気はなくとも人生を語るなんて自分のことでもそんなものでしょう、ましてややっと名の通るスターになったばかりの若い女優が世に自分のこれまでを披露するわけですから馬鹿正直に書くほど浦辺も初心ではありません。まあそれはそれとしても本著を貫くのは先程のお嬢さんの浦辺の人生に齎す役割の大きさで浅草オペラに入団するのも彼女と一緒ですがそもそも女学校でも一目置かれる才媛にして大正の自由の息吹きを靡かせる美貌の少女で修学旅行の合間に(勿論先生にも同級生にも内緒で)浅草オペラを観劇に行くなどという大胆さ、やがて彼女とはぐれることで歌姫の前途が錐揉みに合う浦辺はドサ廻りに身を落としながら漸く居所の知れた彼女を頼って京都に行くことで日活での映画女優の道が開けるんですからまさにベアトリーチェの如き天上からの美しき導き手なわけです。こんなお嬢さんが浦辺が書くままに実在したのか私にはわかりません。ただ思うのは幼少を語る浦辺の傍らにあった彼女の姉のことで学校の人望を偏に集める優秀さに再三<玉でつくられた>と形容される隔世の美しさにあってまさに少女の際という年齢で病没します。或いはこの亡くなったお姉さんの面影が自分を庇護してくれる旧家のお嬢さんとなって芸能の荒波に揉まれる浦辺の傍らで彼女のはるかな未来を励まし続けたのかも知れません。さて最後にそんな夢多き大正少女たちが巻き起こした大騒動に触れて終わりに致しましょう。生徒がそれぞれ演し物をお披露目する学校の催しにお嬢さんは何と自作のオペラを計画します。学校への申請には無難な題材を偽って当日に切って落とされたのはお嬢さんに浦辺そして3人の同志が教育者が立派なら、良妻賢母が立派なら、女優だって立派なはずだ、乙女の夢に甲乙はつけられないと高らかなに歌い上げるもので(ささやかな場であれ)念願の歌姫となった彼女たちの高揚とは別にただちに青ざめた先生たちの喧喧囂囂たる批難が学校を揺るがすとことは彼女たちの放校まで取り沙汰されるところとなっていよいよその宣告に校長室に呼ばれます。しかるに校長先生は校内の騒動などまるでないかのように彼女たちのオペラが立派なものであったと語ると、ひとの将来は十人十色であり女優もまた天職であると浦辺たちを励まします。自分たちの女学校の自由な校風が誰によって支えられているかを彼女たちは知るわけです、そして大正が終わる年浦辺はいまもそれを思い出します、夢のように儚い大正の面映さに照り返って。

 

 

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