小林恒夫 Tsuneo_Kobayashi

 

昭和の御代に垂れ込めるような夜に重い雪雲が一面帝都の空を覆っていまにも何かが動き出しそうな気配に息を潜めています。特高、憲兵隊共に三月事件この方もはや留まるはずもない国家改造運動がいまも音もなく胎動しているのを察知しつつも全容を掴むには至らずともあれ明日から(いや夜更けてもう今日になった日付けを見上げて)警備を増員するとのことです。この度の選挙の大勝を国民の信認であると確信して岡田啓介首相もこれからの国運が自らの掌に置かれていることをしみじみと感じながら降り出した雪に寝静まる官邸には女中部屋からわらべ唄が小さく聴こえるばかり、霰やこんこん、豆こんこん、ぼたぼた雪ふてたもれ。しかし闇に白く降りしきる雪の道を踏んで現れた男たちがやがて五列横隊に足並みを響かせると一気に官邸正面を取り囲んで小林恒夫監督『二・二六事件 脱出』の始まりです。内大臣、教育総監、大蔵大臣、侍従長ともども首相もまた青年将校の討奸の標的となって官邸を襲撃されますがたまたま居合わせた陸軍歩兵大佐が首相の身代わりに躍り出ると背格好、風貌ともに岡田に似通った彼の遺体を見下ろして将校たちが昭和維新の一里塚と見誤ったのも無理からぬことです。映画はここから事件の報告に混乱する政府の動揺を背景に首相官邸の内情を探ろうと潜入する憲兵隊と同じく隣り合う邸宅から官邸のいまにあらん限りの手を尽くす秘書官たちが辛くも女中部屋の押入れに匿われた首相の風前の運命を救い出すまでを辿っていきますが、私が改めて本作に見るのはこのような密室の緊迫した脱出劇にあって小林恒夫の謹厳な語りです。続々齎される各部隊の戦果に国体を刷新しようと蹶起した自らの義挙が天聴に達するのは間違いなく見ればすっかり明けてしまった朝日が雪に照り返る清々しさ、祝いの酒も振る舞われ警備、巡回は厳重にして官邸は溢れ出る高揚に包まれます。官邸を占拠したまま大望する昭和天皇からの詔を待つ青年将校たちは女中部屋にいるふたりの女性にも退去を命じますが(表向きは亡くなった首相の遺骸を置き去りにしては去りかねると答えて)ふたりして襖ひとつ隔てた首相の命を守り続けます。びっしり埋め尽くす兵士の只中を如何にして首相を首相と知られず況して彼の生存も気取られることなく救出するか、サスペンス映画にあって大切なのは繰り返される緊迫と安堵の波であり、そういう波状の繰り返しが徐々に引き戻せない水位に物語を押し上げていって... そんななか緊張の震える指先がともすると女性へのふしだらな欲望を開けひろげてしまう、まさに語りの常套です。ほろ酔いの兵士たちが鉄の軍規はどこへやら昼でも暗がりなのをいいことに女中部屋に忍び込むと女性たちの口を押さえ掻き乱れる柔肌をまさぐるなんて、映画でもテレビでもどれほど見たか知れません。ハレンチ場面の挿入で劇の中だるみに手っ取り早く観客に気つけ薬をかがせて裾からはだける腿やら押し開いた胸許やら女性が前を隠す寒げな背中やらまあ許されるだけの艶めかしさを画面に散らすと頃よく謹直な首謀者が嗅ぎつけて不届き者たちをさんざっぱら打ちのめして退散させるわけですが、これが本作には全くありません。

 

小林恒夫 二・二六事件脱出 志摩栄 中山昭二 柳永二郎 三国連太郎

 

小林恒夫 二・二六事件脱出 


小林恒夫 二・二六事件脱出 久保菜穂子 中原ひとみ

 

 

死んだと思っている首相が生きていて女中部屋の押入れに潜んでいるんですから語りは緊張の糸を手繰って自然この女中部屋を巡ることになります。そこにはうら若い女性たちが女性たちだけでいて、まさにサスペンスとハレンチが好都合に居合わせているにも拘わらず小林恒夫の兵士たちは(物語がこれだけ手招きしていながら)不埒な忍び足で彼女たちの夜陰を襲うことがありません。なければ(<ない>ということを)見過ごしてしまいそうですが、ないというのははただないわけではなく小林恒夫が語りから締め出しているからです。語りのテンションをあたかも調弦でもするように強すぎもせず弱すぎもせず一定の心地よさで映画の90分を張り詰めてみせる小林の自信を思わせます。娯楽映画でしかも東映という会社にありながら(だって70年代になれば銀行に立て混もったりバスジャックした途端に居合わせた女性たちを身ぐるみ剥いではあとはこれがお楽しみとばかりに裸が入り乱れるあの会社にあって)語りで女性たちを弄ばないという小林の姿勢はやはりひと際目を引きます。『高度7000米 恐怖の四時間』(1959年)は高倉健、今井健二を操縦士に定期航路を行き交う民間航空機にあって乗客に逃走中の殺人強盗犯が紛れ込みます。やがて空中に閉じ込められた機内で正体の知られた犯人が拳銃を片手に乗客を人質に取って(まるで機内を自らの手のひらか何かのように全員の生殺与奪を一手に握ると横暴さに開き直って)当然客室乗務員の女性たちを手許に引き寄せますが、ここでも小林は犯人が彼女たちにハレンチな横道に逸れることを許しません。謹直なまでに彼女たちは人質なのであって犯人の(そして映画という尺の)性の玩具にはしないのです。

 

小林恒夫 高度7000米恐怖の四時間 今井俊二 大村文武 小宮光江 高倉健



(まあ題名からはおよそ伺えませんが)『キー・ラーゴ』(ジョン・ヒューストン監督 1948年)を引き写した『野郎ども表へ出ろ』(1956年)でも海辺の閑静なホテルに集った男女がこれまた素性のばれた強盗一味に閉じ込められます。首領である山形勲は(自ら逃走中という危ういいまとともに)人質の命のほむらが揺らいでいるのを楽しむ風でもあり逃げ出すものには容赦なく銃弾を撃ち込みホテルの異変に気づいた者を次々血祭りに上げながら自分の掌中にある高峰三枝子にも星美智子にも禁欲的です(、そこが何か語られぬ山形の同性愛を思わせもするのですが... )。飽くまで冷血な犯罪者として星の顔に熱湯を浴びせるなんてことには躊躇はありません。ふと思うのは小林が描こうとするのは<恐怖>ではなく<緊張>であるということです。<恐怖>とは(もののようにぶちまけられた)残酷さのことであり(だからサスペンス映画は本筋に何ら作用しないまさにおまけのように婦女に無残な仕打ちを合わせるのであって)、それに対して映画に張り詰めたもの、語りが時間に揉み込まれながら高まり沈まりまた高まるその小さくそして大きな様態を取り逃がさないというのが<緊張>であり、何か倫理的と言いたくなるような小林恒夫の折り目です。それを踏まえて『竜虎一代』(1964年)を見てみましょう。九州の陸の果てまで逃げて来ていままた大陸に渡ろうともがく鶴田浩二には明かせぬ理由があるのですが、偶々暴漢に襲われる柳永二郎を助けたことで引くに引けない男の意地に巻き込まれます。助けたとは言え道々で絶命する柳は沈滞する地元の経済に息を吹き込もうと鉄道敷設を立ち上げそれが石炭を運ぶ川船頭たちとそれを束ねる組の怨嗟を一身に受けてのことです。元は地元のために手を携えてきたものが明日を見据えて雌雄に分かれお定まりの妨害工作に、板挟みになっていく若頭、血気にはやる若者が向こう見ずな殴り込みの果てに血みどろで土間に転がされ、惚れた女と一緒になるにはわが身についた渡世の垢、我慢我慢で1日でも1mでも鉄道を敷こうとする努力の端から崩されていって、いよいよ鶴田の男の勝負になるわけですから、おわかりの通りのちの東映任侠映画の形は出来上がっています。ただ本作の延長線にあれら東映任侠映画はきっと生まれなかったでしょう(、殴り込みに斬り合って最後にぶった斬ってもカタルシスは生まれず寧ろ斬った肌の痛みが疼きます)。本作を写し鏡に改めて東映任侠映画たらしめたものを見極めるのは別のお話と致してまして、今日感じるのは本作には余白がないということです。小林の切り立った語りに主人公はもたれることもできず押し出されるまま時間はずっと乾いています。(その意味で如何に東映任侠映画の時間が湿った、ついついひとが<みんな>という言い方で物を見るときの甘い触感に満たされているかということであって... )主人公は世界に突っ立たされていますが、だからこそひとが差し出す手の温かみが(義理だの人情だの言う前に)肌に応えてひとりのやくざ者の成し遂げたものなど所詮ひとり善がりであることとその男の深い満足が見事に釣り合っています。小林恒夫の語りを以てこそなし得ることだと思います。

 

小林恒夫 竜虎一代 藤純子 千葉真一 鶴田浩二

 

小林恒夫 竜虎一代 鶴田浩二 天地茂

 

 

 

 

 

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