恋すればやせこそすらめ物のをの
 ゆふがみじかく思ほゆるかな


恋やつれを相手になじる歌で、物の緒が帯、関係の糸、命と多様に織りなして、それが結うのに短くなったというわけです。しかし技巧はそれに留まらず。〈ゆふがみじかく〉に隠された〈ゆふがみ〉は白いたてがみ、更なる哀れを引きます。

 

 

 青柳の緑のいとを繰りおきて
 夏へて秋ははたおりぞなく


糸で辿る縁語のあれこれに季節を巡らし色を散らした言葉の綾錦で、<いと><繰り><へ[綜]><はたおり>が縁語。青柳は季節柄雨に滴る姿が玉を抜くと詠われて細く垂れた枝葉を糸に見立てる習い。<はたおり>にはきりぎりすの意味もあり。

 

 

 うち渡す竹田の原に鳴く田鶴の
 間なし時なしわが恋らくは


私があなたを恋しく思うことは絶え間ないということ。<らく>は動詞に結びついて名詞のように使います。使い勝手がいいようですが、活用形によっては<く>が付くなど文法的には込み入っていてやがて廃れます。いまに残るのは<老いらく>。

どちらもポチっとお願いします♪

  

 

 

前記事 >>>

「 つぶや区:睦月、よっつ 」

 

■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


 

 

 

雑司が谷鬼子母神、江戸時代から参詣の絶えることなく芸能の面々も客を当て込んで集います。どんなことが催されていたかと言いますと、賭的[とてき]、騎射、能、囃子。その他にも薩摩外記が創始した外記節と呼ばれる浄瑠璃の曲が唸られ、放下は古来散楽と呼ばれた曲芸が巷間に生き続けた大道芸です

雑司ヶ谷・鬼子母神

雑司ヶ谷・鬼子母神

 

 

 

筋違橋の両岸は火除地として大きく開けています。八ツ小路をひとつ入った雉子町には風呂屋が立ち並んで、当時世に聞こえた六法組、大小神祇組ら六団体の総称でいわゆる旗本奴、狼藉の数々を働きつつかぶき者を自認して四角四面の世の中を肩で風を切っていきます。そう芝居に知られた水野十郎左衛門。

江戸切絵図より筋違橋

筋違橋

 

水野十郎左衛門

(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分)

水野十郎左衛門(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分、豊原国周、1884年)

 

 

 

1842年水野忠邦の命により芝居小屋は浅草猿若町へ強制移住となります。歌舞伎を牽引する江戸三座とともに人形浄瑠璃の薩摩操座、結城操座も同地にやってきますが、新天地でも客を引き寄せた歌舞伎に比べて人形浄瑠璃の客足はぱったり。1866年結城操座は両国米沢町に移転するもやはり振るわず。

 

猿若町へ三座移転後の図

猿若町へ三座移転後の図

 

 

 

寛永の頃、市中に点在していた歓楽街を一箇所に集めることになって京には島原、江戸は吉原という花街が生まれます。ここはいまの人形町辺りで葦の生い茂る江戸の果て。しかるに明暦の大火で焼亡すると拡大した市中に合わせて新吉原への移転となります。こことて日本堤から続く田んぼの中の不夜城。

新吉原

 

新吉原

 

 

 

吉原の遊女は太夫、格子、さん茶、うめ茶、局... と等級にされ、三角形の頂点へと男たちの欲と金を絞り出させます。大きな傘を後ろに翳させて三つ歯の華魁下駄でしゃなりしゃなりと大路を練り歩くまさしく夢の女。吉原には常時3000人、最盛期では5000人の遊女が二町四方にひさいでいたとか。

歌川広重 『江都名所吉原桜之図』部分

歌川広重 『江都名所吉原桜之図』部分

 

 

 

吉原を通うのに日本堤を歩くか、猪牙舟で川から上がるかどちらにせよ江戸の町人には敷居の高い歓楽の街です。それが田沼時代になると重商主義が町人の経済的地位を引き上げ吉原に町人文化が流れ込みます。そうなると上流は社交場を吉原から移して柳橋、洲崎、深川の町芸者を新たな愉しみにします。

猪牙舟

猪牙舟 Choki_bune

 

 

どちらもポチっとお願いします♪

  

 

 

前記事 >>>

「 つぶや区:睦月、みっつ 」

 

■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


 

 

 

<足の音せず行かむ駒もが>、恋人の許に通うのに足音を立てない馬があったらなあという愛らしい一節ですが、気になるのが<もが>。詠嘆の<も>に疑問の<か>が連なって濁音化したもので事物の所有や事態の到来を願望します。万葉集では<もがも>が一般的ですが、そちらは<もがな>に転じます。

 

 

<あな恋し今も見てしか>、<てしか>も上代の願望を表す助詞です。見るに付いていることからも動作が成し遂げられることを願って、端的に<したいなあ>。自分の動作における願いですから会話や心中、歌の言葉であって地の文には用いられず。〈しか〉のみで願望を表し、他に〈にしか、てしかも〉。

 

 

 

<まひ>と聞くとすぐに浮かぶのは<舞ひ>でしょう。では<天にます月読壮士まひはせむ>、月読壮士は月のこと。このときの<まひ>は漢字を当てると<>、感謝や願い事に神やひとに捧げものをすることでつまりは贈り物。<今宵の長さ五百夜継ぎこそ>、素晴らしい今夜を五百夜も続けてほしいから。

 

 

 

古語の<むつかし>にむずかしいの意味はありません。赤ん坊が機嫌を損ねたときにいまも使う<むずがる>に名残を残す<むつかる>、不快に思ったり腹を立てることを意味する動詞を形容詞にしたのが<むつかし>です。ですから鬱陶しい、わずらしい、面倒臭い。むずかしいに相当するのは<かたし>。

 

 

<いつしかもこの夜の明けむ>、いつしか夜も明けたかと思うところです。古語の<いつしか>に知らぬ間にという意味はありますが、曲者が<も>。願望を表すこの言葉を伴うと<早く>の意味になって、早く夜が明けてほしい。<わが宿に蒔きしなでしこ いつしかも花に咲かなむ よそへても見む>も同じく。

 

どちらもポチっとお願いします♪

  

 

 

前記事 >>>

「 役者の大福帳 : 高英男 」

 

■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


 

高英男 Hiedeo_Kou

 

1954年8月号の雑誌『婦人生活』に高英男と寿美花代の対談が載っています。大人のしかも年頃のエンターテイナーが座持ちのよさとざっくばらんな口ぶりで語らうのもまた華やかで、無骨な男気が跋扈していた歌謡曲全盛の時分にパリ仕込みの男伊達で鼻孔の奥をくすぐるような舶来の色気が寿美には女性的に映えるらしく高のショーは自分たち女性の舞台にも参考になるとうち微笑みます。パリのうらぶれたところも見知った高からするとついついシャンソンの気取った面が取り沙汰されるけれど、大衆歌なのであってだからこそ路地裏の先の先まで歌が流れていって日本ならばさしずめエノケンこそ本当のシャンソン歌手だと宣います。さてこのとき高英男はすでにいくつの映画に出演している模様で、ただそれらはすべて歌う場面だけ(歌に踊りにお芝居にと宝塚の舞台をこなしてきた寿美に照れ笑いを浮かべて)芝居はごめんだと笑います。面白いのは映画よりもテレビの方が断然いい、研究になると意気込んでいることで、実際青山梓が編じた『シャンソンの為に(創学社 1957年)では高木東六、佐藤美子、芦野宏、深緑夏代、越路吹雪らと共に実践的なシャンソン指南に一筆寄せて「テレビ出演の注意」を書いています(、因みに対になる「ラジオ出演について」は淡谷のり子の筆)。テレビでは一曲のなかでアップとロングがあり、当然表現を変えるべきでそこは演出家とよく話し合うべし。レンズの特性というものを知悉すべし。テレビ用のメイキャップもよく聞いて学ぶのがよろしかろう。全く以て実用的な助言でテレビは研究になると言った言葉を裏打ちしていますが、まあこれほどの伊達男を映画が放っておくはずもありません。因みに高の初舞台は1941年浦和の軍需工場だったそうで三浦環の前座で歌って出演料はコッペパン4個にバナナ2本。フランスに渡った時期は書くものによって若干の異同があるようですが、雑誌『労働文化』1976年5月号に寄せた一文によると昭和25年から27年2月、そして昭和38年から再び8年のフランス滞在。

 

青山梓編『シャンソンの為に』創学社

青山梓編『シャンソンの為に』創学社



当時の男性ですからそう背丈が高いわけでもないのにすらりとした印象なのはやはり着こなしでしょう。中原淳と懇意にしてふたりでパリを語らうも花の都というよりも人生の野菜屑が散らかる路地に住まって労働者が油染みたシャッポを小粋に被るその気っ風を肌で感じます。舞台写真を見ても派手なマンボスタイルでも引けを取らずとにかく絵になる男です。高英男の映画というとまず挙がるのが佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ(1968年)でロジャー・コーマン流のB級ホラーの手法、銀行強盗などのサスペンス映画にそのまま怪奇ホラーを挿し込んで(大体サスペンス自体が文法通りボスと情婦、その情婦の浮気心にちりぢりとなり、仲間割れ、疑心暗鬼など枝葉に分岐させながら一気にそれを魔物が呑み込んでただただ追っ掛け廻されパクパク食べられていって... )今回はハイジャックですがそれを引き起こす国際テロリストが高です。ところがそうそうに空飛ぶ円盤に遭遇するや額から鼻筋を割られて鼻水みたいににゅるにゅると異星物に出たり入ったりされるんですから、折角のパリ仕込みの男ぶりも台無しです。石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ(1969年)は当時東映が好んだ歴史物で歴史とは名ばかりにテレビに慣れてすっかり移り気な観客のために時代を飛び飛びにした体のいい短編映画の3本立て、江戸時代、昭和初期と来て最後の現代が高の出演です。組の若頭である藤木孝を兄貴にそれを林彰太郎と支えながら下剋上の謀略を企む強かな者で、いつもヨーヨーを弄びつつ粛清に詰め寄る艶やかな猟奇が大写しになります。本人が言う通り芝居をするでなし、ブロマイドのような大見得ですが薄っぺらでない、活劇のツンとくるところを抑えたキザが様になります。それは石井輝男監督『ギャング対ギャング1962年)でも同様で、今度は鶴田浩二に組のどてっ腹を喰い破られる丹波哲郎の片腕ですが、サングラスを指の戯れにくるくるとあしらってそれがまるでひとの命であるかのように引き鉄を引くのにためらいがありません。一分の隙のない着こなし、石井輝男監督『暗黒街の顔役 十一人のギャング(1963年)では鮮やかな赤のジャケットを纏って粋がって生きる男の刹那を匂い立てます。最後に紹介するのは映画ではなく高が寄せた『巴里』(ひまわり社 1955年)です。それぞれのパリの思い出を綴って朝吹登水子、石井好子、金子光晴、大岡昇平、高橋豊子ら多彩な筆が踊るなか高は「四十女と少年」という一文に自らのパリを描きます。一世を風靡したルシアン・ボワイエがすっかり落ちぶれて場末のカフェで酔客と寒々とした煙草のけむりを相手に歌っている。戦前歌に魅入られた者の自殺が絶えないと言われたダミアは500人の寄席に(高はホールや小屋を寄席と呼んでそれもまた味わいのある時代の響きですが)20人ばかしの客が在りし日を掻き抱くようにダミアと一緒に声を張り上げる。これがシャンソンであり、これがパリなのだと高は言います、どんな歌手だっていつか落ちぶれて忘れ去られそれでもそういう人生の憂さを歌にする捨てどころがこの花の都にはある、短い文章に哀切とそれに生きる孤独な気高さを滲ませて、まさに雪の降る街を、雪の降る街を。

 

 

 

 

 

 

『巴里 バリで拾った話の花束』ひまわり社 1955

『巴里 バリで拾った話の花束』ひまわり社 1955

 

 

どちらもポチっとお願いします♪

  

 

佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ』

佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ』 高英男

佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ』 高英男

 

石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ』

石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ』 高英男

石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ』 高英男

 

 

前記事 >>>

「 つぶや区:睦月、ふたつ 」

 

■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ


 

本居宣長 Norinaga_Motoori

本居宣長六十一歳自画自賛図

 

 

子安宣邦によると歌の添削を頼んだ賀茂真淵からこんなものは歌ではないと突っ返される本居宣長です。万葉集に還れという真淵の原理主義はわかりますが、いまや町人にまで裾野を広げる地下歌人の盛んなるところに身を置く本居にすれば旦那芸的な遊芸も致し方なし、真淵をやんわりとやり過ごします。

 

 

 

石上私淑言』は本居宣長の歌論、歌は物のあはれから出づるとされます。高まる興趣と感情が言葉となって溢れるとき技巧を呼び起します。技巧が読む者を引き寄せ共感を拡げると読者を視野に入れる曲者ぶり。然るに後半から古語の考証と唐意との対峙に呑み込まれて未完。『古事記伝』へ引き継がれます。

 

 

 

神道は日本書紀を正典としてその解釈を密教と朱子学に依っています。しかし正格漢文体で中国的な正史になぞられた日本書紀に大和言葉はなくつまりは神代の姿もないとしたのが本居宣長です。単に古事記を訓み下すのではなくその中に大和言葉とその意味の広がりを探す方法的な実践と結実が『古事記伝』。

 

 

どちらもポチっとお願いします♪

  

 

 

前記事 >>>

「 映画のひと言:その16 」

 

■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ