1954年8月号の雑誌『婦人生活』に高英男と寿美花代の対談が載っています。大人のしかも年頃のエンターテイナーが座持ちのよさとざっくばらんな口ぶりで語らうのもまた華やかで、無骨な男気が跋扈していた歌謡曲全盛の時分にパリ仕込みの男伊達で鼻孔の奥をくすぐるような舶来の色気が寿美には女性的に映えるらしく高のショーは自分たち女性の舞台にも参考になるとうち微笑みます。パリのうらぶれたところも見知った高からするとついついシャンソンの気取った面が取り沙汰されるけれど、大衆歌なのであってだからこそ路地裏の先の先まで歌が流れていって日本ならばさしずめエノケンこそ本当のシャンソン歌手だと宣います。さてこのとき高英男はすでにいくつの映画に出演している模様で、ただそれらはすべて歌う場面だけ(歌に踊りにお芝居にと宝塚の舞台をこなしてきた寿美に照れ笑いを浮かべて)芝居はごめんだと笑います。面白いのは映画よりもテレビの方が断然いい、研究になると意気込んでいることで、実際青山梓が編じた『シャンソンの為に』(創学社 1957年)では高木東六、佐藤美子、芦野宏、深緑夏代、越路吹雪らと共に実践的なシャンソン指南に一筆寄せて「テレビ出演の注意」を書いています(、因みに対になる「ラジオ出演について」は淡谷のり子の筆)。テレビでは一曲のなかでアップとロングがあり、当然表現を変えるべきでそこは演出家とよく話し合うべし。レンズの特性というものを知悉すべし。テレビ用のメイキャップもよく聞いて学ぶのがよろしかろう。全く以て実用的な助言でテレビは研究になると言った言葉を裏打ちしていますが、まあこれほどの伊達男を映画が放っておくはずもありません。因みに高の初舞台は1941年浦和の軍需工場だったそうで三浦環の前座で歌って出演料はコッペパン4個にバナナ2本。フランスに渡った時期は書くものによって若干の異同があるようですが、雑誌『労働文化』1976年5月号に寄せた一文によると昭和25年から27年2月、そして昭和38年から再び8年のフランス滞在。
青山梓編『シャンソンの為に』創学社
ここから高英男が出演した映画を順次見ていくところですが、映画漫談に脱線しますのも先の雑誌『婦人生活』同月に小沢栄太郎夫人の自死が報じられています。長く精神的に疲弊して自宅に閉じこもりがちだったようですが、戦前はコロムビアからレコードも出した華やいだ歌手で精神が大きく膝をつき尽きせぬ天を仰ぐことになったのも小沢が座員の若手と不倫関係になったためです。この関係が小沢の相手役として破格の抜擢となって否が応でも夫人の耳に入ります。勝ち気な夫人は直接その女性堀阿佐子に問い糾すも当然知らぬ存ぜぬで埒が明かず、その後に堀が自殺してしまいそのことの自責の念に夫人は苦しめられます。程なく小沢が山岡久乃と秘密めくと堀の二の舞を避けて夫人はふたりの関係を公認せざるを得ず、山岡は夫人の住まう小沢の自宅に入り浸るありさま、何か岡本かの子の修羅を思い出させます。山岡はしれっとしたもので夫人になついている体ですが、どうあれ家内が収まったことに快くした小沢が新作で迫真の演技を見せると久しぶりに観劇した夫人がかつての夫婦仲を思い出させる熱っぽい口調で自分を讃えるのをこれからは安泰だと小沢が喜んだその夜夫人は自殺を遂げます。自殺する理由がわからないとこの期に言ってのける山岡の心臓にも驚きますが、宝塚から東洋音楽校、そして俳優座に辿り着いた彼女の子供のときからの綽名がその利己的な性格を捻ってリコ、然もありなん。漫談はここで終わらず、高英男の代表曲のひとつが「雪の降る街を」です。雪の降る街を、雪の降る街をと雪風が男の心を通り過ぎていく寂しくも希望を失わない歌曲ですが、もともとはラジオドラマの尺合わせにありあわせに作った曲です(牛山剛『夏がくれば思い出す』新潮社 2009年)。作曲した中田喜直は音楽を担当していた芥川也寸志が降板したことによる新任で、番組に付いて早々思わぬ偶然で自らの代表曲を物にする中田も強運ですが、芥川が番組を退いた理由が主演女優との不倫です。このラジオドラマ「えり子とともに」はいまやアメリカ式民主主義に宗旨替えした敗戦の巷に新時代にふさわしい生き方を探し求める物語で、人気の高さから何度も番組を延長している息の長い番組はタイトルロールの娘と共に大学教授である父を主人公にその父役がまたしても小沢栄太郎。やや穿った見方をするとこのドラマが放送されている最中、同じく新時代の夫のあり方、妻のあり方を探って自由の所在を確かめようという『自由学校』(1951年)を映画化するに際して国粋主義の生き残りで怪しげな詐欺事件を画策しては時代を旧に復させようとする男に小沢を当てるのも渋谷実の皮肉かと。それに留まらず久松静児監督『泥にまみれて』(1951年)においては小沢を社会主義演劇の雄にして新人ながら忌憚のない意見を吐く水戸光子に惹かれて結婚するものの、家庭が芸術の縛りになると彼女を家に置き去りにして銀座の女に入れ上げます。そのような愛に向かわせるのも国家の弾圧のためだと宣い、戦争で渡った中国からはかの地の愛人を連れ立って引き揚げて来ては水戸に同居を強いてやがて彼女は自殺を図ります。小沢の実際の夫人が自殺をするのは映画ののちですが、堀阿佐子はすでに命を絶って俳優座での小沢の醜聞を知った上のこのキャスティングでしょうし、俳優もそういう思惑に自分を乗せて受けて立つわけで何にしても因業な職業ではあります。あいや漫談がすっかり長くなってしまって高の話に戻ります。
当時の男性ですからそう背丈が高いわけでもないのにすらりとした印象なのはやはり着こなしでしょう。中原淳と懇意にしてふたりでパリを語らうも花の都というよりも人生の野菜屑が散らかる路地に住まって労働者が油染みたシャッポを小粋に被るその気っ風を肌で感じます。舞台写真を見ても派手なマンボスタイルでも引けを取らずとにかく絵になる男です。高英男の映画というとまず挙がるのが佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)でロジャー・コーマン流のB級ホラーの手法、銀行強盗などのサスペンス映画にそのまま怪奇ホラーを挿し込んで(大体サスペンス自体が文法通りボスと情婦、その情婦の浮気心にちりぢりとなり、仲間割れ、疑心暗鬼など枝葉に分岐させながら一気にそれを魔物が呑み込んでただただ追っ掛け廻されパクパク食べられていって... )今回はハイジャックですがそれを引き起こす国際テロリストが高です。ところがそうそうに空飛ぶ円盤に遭遇するや額から鼻筋を割られて鼻水みたいににゅるにゅると異星物に出たり入ったりされるんですから、折角のパリ仕込みの男ぶりも台無しです。石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ』(1969年)は当時東映が好んだ歴史物で歴史とは名ばかりにテレビに慣れてすっかり移り気な観客のために時代を飛び飛びにした体のいい短編映画の3本立て、江戸時代、昭和初期と来て最後の現代が高の出演です。組の若頭である藤木孝を兄貴にそれを林彰太郎と支えながら下剋上の謀略を企む強かな者で、いつもヨーヨーを弄びつつ粛清に詰め寄る艶やかな猟奇が大写しになります。本人が言う通り芝居をするでなし、ブロマイドのような大見得ですが薄っぺらでない、活劇のツンとくるところを抑えたキザが様になります。それは石井輝男監督『ギャング対ギャング』(1962年)でも同様で、今度は鶴田浩二に組のどてっ腹を喰い破られる丹波哲郎の片腕ですが、サングラスを指の戯れにくるくるとあしらってそれがまるでひとの命であるかのように引き鉄を引くのにためらいがありません。一分の隙のない着こなし、石井輝男監督『暗黒街の顔役 十一人のギャング』(1963年)では鮮やかな赤のジャケットを纏って粋がって生きる男の刹那を匂い立てます。最後に紹介するのは映画ではなく高が寄せた『巴里』(ひまわり社 1955年)です。それぞれのパリの思い出を綴って朝吹登水子、石井好子、金子光晴、大岡昇平、高橋豊子ら多彩な筆が踊るなか高は「四十女と少年」という一文に自らのパリを描きます。一世を風靡したルシアン・ボワイエがすっかり落ちぶれて場末のカフェで酔客と寒々とした煙草のけむりを相手に歌っている。戦前歌に魅入られた者の自殺が絶えないと言われたダミアは500人の寄席に(高はホールや小屋を寄席と呼んでそれもまた味わいのある時代の響きですが)20人ばかしの客が在りし日を掻き抱くようにダミアと一緒に声を張り上げる。これがシャンソンであり、これがパリなのだと高は言います、どんな歌手だっていつか落ちぶれて忘れ去られそれでもそういう人生の憂さを歌にする捨てどころがこの花の都にはある、短い文章に哀切とそれに生きる孤独な気高さを滲ませて、まさに雪の降る街を、雪の降る街を。
『巴里 バリで拾った話の花束』ひまわり社 1955
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佐藤肇監督『吸血鬼ゴケミドロ』
石井輝男監督『やくざ刑罰史 リンチ』
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