雑司が谷鬼子母神、江戸時代から参詣の絶えることなく芸能の面々も客を当て込んで集います。どんなことが催されていたかと言いますと、賭的[とてき]、騎射、能、囃子。その他にも薩摩外記が創始した外記節と呼ばれる浄瑠璃の曲が唸られ、放下は古来散楽と呼ばれた曲芸が巷間に生き続けた大道芸です

雑司ヶ谷・鬼子母神

雑司ヶ谷・鬼子母神

 

 

 

筋違橋の両岸は火除地として大きく開けています。八ツ小路をひとつ入った雉子町には風呂屋が立ち並んで、当時世に聞こえた六法組、大小神祇組ら六団体の総称でいわゆる旗本奴、狼藉の数々を働きつつかぶき者を自認して四角四面の世の中を肩で風を切っていきます。そう芝居に知られた水野十郎左衛門。

江戸切絵図より筋違橋

筋違橋

 

水野十郎左衛門

(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分)

水野十郎左衛門(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分、豊原国周、1884年)

 

 

 

1842年水野忠邦の命により芝居小屋は浅草猿若町へ強制移住となります。歌舞伎を牽引する江戸三座とともに人形浄瑠璃の薩摩操座、結城操座も同地にやってきますが、新天地でも客を引き寄せた歌舞伎に比べて人形浄瑠璃の客足はぱったり。1866年結城操座は両国米沢町に移転するもやはり振るわず。

 

猿若町へ三座移転後の図

猿若町へ三座移転後の図

 

 

 

寛永の頃、市中に点在していた歓楽街を一箇所に集めることになって京には島原、江戸は吉原という花街が生まれます。ここはいまの人形町辺りで葦の生い茂る江戸の果て。しかるに明暦の大火で焼亡すると拡大した市中に合わせて新吉原への移転となります。こことて日本堤から続く田んぼの中の不夜城。

新吉原

 

新吉原

 

 

 

吉原の遊女は太夫、格子、さん茶、うめ茶、局... と等級にされ、三角形の頂点へと男たちの欲と金を絞り出させます。大きな傘を後ろに翳させて三つ歯の華魁下駄でしゃなりしゃなりと大路を練り歩くまさしく夢の女。吉原には常時3000人、最盛期では5000人の遊女が二町四方にひさいでいたとか。

歌川広重 『江都名所吉原桜之図』部分

歌川広重 『江都名所吉原桜之図』部分

 

 

 

吉原を通うのに日本堤を歩くか、猪牙舟で川から上がるかどちらにせよ江戸の町人には敷居の高い歓楽の街です。それが田沼時代になると重商主義が町人の経済的地位を引き上げ吉原に町人文化が流れ込みます。そうなると上流は社交場を吉原から移して柳橋、洲崎、深川の町芸者を新たな愉しみにします。

猪牙舟

猪牙舟 Choki_bune

 

 

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