東映のヌーヴェルヴァーグ : 御墨付

東映のヌーヴェルヴァーグ : 連判状 の続きです。

 

水道橋脇の坂道をけたけたと自分の足音を突くように杖に縋って下りてくる近衛十四郎は何やら(ぶつくさとあれやこれや愚痴るせわしなさ、)目が見えないのらしいと思うところに足を忍ばせて近づくごろつきたちの合間を縫ってひらめく居合で斬り捨てます。言わずもがな座頭市の人気を向こうに張って剣ではまったく引けを取らぬ自信が二番煎じに終わらせぬ言わば真打ちの貫禄で近衛に役を掴ませている『悪坊主侠客伝』(大西秀明監督 1964年)の始まりです。(それにしても座頭にせよ破戒坊主にせよ侍でなければ刀を腰に差すのではないため、逆手に刀を抜いて鞘をもう一方の手に持っている言わばハの字に開いた構えが斬るというより浴びせるように体を翻しては舞って流れる姿形の美しさに盲目の剣客という魅力を改めて感じさせられます。)身なりからして乞食坊主ですが悪党とどっこいどっこいの境遇に落ちる前はれっきとした寺の僧侶で懇意にする組長が妻の法要に読経を頼んだその最中に組長を襲った殺し屋の巻き添えを喰って目を斬られた成れの果てです。頼るは細い仕込杖一本で極道という一寸先は闇を渡っていくのも自分から目を奪った男を探して(親分の仇ともども)恨みを晴らすためですが、彼の転機となるのはやはり斬り合いになった修羅場の終わりにそれを高みに見物する東千代之介に出会ったためで気障ったらしい洋服などめかしこんだ身なりとは裏腹に情け容赦ない殺気が漂っています。元は実直な気質の生一本だったのが恋女房と思った女が留守に小僧と思しき自分の部下を引き込んでいたのを串刺しにして以降女の不実を肝に据えるからこそどこかで身も心も信じ切れる女を求めてもいるなかなかに心を折り畳んだ殺し屋です。近衛には親分に代わって守らねばならない彼のひとり娘がありますがそれが東にはかつての恋女房の瓜二つとあってはのっぴきならない執着が絡みつきます。こんなことを書きますのも近衛は程なく仇のいる九州の炭鉱町に辿り着いてボタ山に溜まった池のほとりに詰め寄ると、斬り合って意趣返しに目を切られた男は不意の無明にさ迷って池の深みに呑まれて没します。しかし近衛が目を斬るのはこれだけではなく大詰めにそれまでの因縁を束にして大立ち廻りに斬り伏せたあと残るは東ひとり。胸のうちを思えばわかり合えぬ仲ではなし、しかし互いに相手を踏み越えてこそ明日があれば悲しくも斬り合って... 自分を失明にした仇の目を斬る理由はわかります。しかし近衛はどうして東の目も斬ったのか。

 

大西秀明 『悪坊主侠客伝』 近衛十四郎 東千代之介

 

500頁になんなんとする近衛十四郎の一代記にあって中途旺盛なその出演作を羅列して読み物としては単調の誹りを受けてでも余すところなくまさしく正史を書き記さんとする谷川建司『近衛十四郎十番勝負』(雄山閣 2021.10)は勿論主軸となって支えた集団抗争時代劇の近衛も描いています。総評してこれらの作品が持っている何ごとかを(賢明に守りつつ守るほどに)喪失していく感覚を60年安保の挫折という時代背景に求めていますが、(それがまあ真っ当なだけに)思い出すのはその60年安保の大詰め、押し寄せるデモ隊に国会を十重二十重に取り囲まれて十万人の苛烈な絶叫を見下ろしながら当の岸信介が漏らしたとかという言葉、<数キロ先の後楽園球場では同じ数の人が野球に興じている>が何とも不気味に立ちのぼってきます。イデオロギーなり戦後の理想なりがまるで戦前から亡霊の如く蘇ってきた男によって奈落に引きずり込まれようとしているというのがこれらデモ諸兄諸姉の切なる思いで、死者まで出して日本の運命を押し合いへし合いしている同じ時間をナイターに明るく照らし出された白球の一挙手一投足に歓声を上げるひとびとがある... 。60年代と言い昭和30年代と言いますが、5年のずれ以上に一方が60年安保に口開けされて何とも<アカシアの雨にうたれて>の垂れ込めた気分を背負っているとすると、もう一方は神武景気に磐戸景気と皇国史観が大太鼓で練り歩くような所得倍増の高笑い、同じ時代が光と影のように相反しながら(勿論高度成長がなければこんな数の学生が生まれるはずもなく)谷川は60年代を吸い上げて集団抗争時代劇だとしますが、私は寧ろ後者の享楽に立ってこそあの底なしのニヒリズムではないかと思うわけです。きっかけは例えば岡本喜八監督『江分利満氏の優雅な生活』1963年)で高度成長に底上げされひとつひとつはささやかながら着実に日本人の新しい生活を手にしつつある主人公がともするとバーに酒を飲んで<何か面白くない>と呟かずにいられない(この明るい前途に向けての)蟠りです。戦争には遅れながらも戦前を確実に歩んだ最後の世代とも言うべき主人公は<私>の外側をぶ厚く(そして高らかに)意義なるものが掲げられた世界を生きてそれに迎合しても反発しても頭上にそれがあることの確かさが自分の確かさも支えてきて、それがいまや給料が上がり月賦で三種の神器が買えることに狂喜している世の中に生きる意義もなく自分もなくなっていく気がする(、勿論戦前になど決して帰りたくはない)そんな<何か面白くない>です。

 

 

 

 

端的なのは昭和30年代を駆け抜ける東宝の喜劇映画、まさしく高度成長の明るい気分にさんざめく例えば古澤憲吾監督『ニッポン無責任野郎』(1962年)。のっけから切符切りの駅員に掛け声よろしくキセル乗車をすり抜ける植木等は四角四面の世の中をくるくると掌で廻しながら口からでまかせの手八丁口八丁で自分を渦に会社ごと、友人ごと巻き込んでいきます。社会を屁とも思わず会社も役職も因習も評判もひとの噂も爪先で蹴飛ばして生きる彼を貫いているのは経済的な合理性で結婚相手に団令子を選んだのも(明るく割り切った美貌も然ることながら)多くはない給料で目を引く貯金を達成しているその堅実さに将来の安心を見たからです。その撮影現場を運動会と言われた古澤憲吾らしくもんどり打った演出は植木に厚顔を涼しい顔をして駆け抜けさせて理屈や納得よりも力で押して呑み込んでいって見終わっても疾走感が延々と心のなかを突き抜けていくようです。そんな昭和30年代的な総天然色の幸福は60年代的なモノクロームの集団抗争時代劇と対極にあるかのようですが、逆に言えば振り向きもせずにただひた走る植木は何からそう逃れようとしているのでしょう。それこそ江分利満氏と世代をともにする彼の心を谺してくる<何か面白くない>という呟きだと見えてくると彼の足の下には国家も大義も使命も身を捨つるほどの何もない、集団抗争時代劇と同じニヒリズムが口に開けていることに気づくはずです。さて最後にひとりの娘を間に挟んで畜生に身を落とすふたりの男が斬り合って盲目の近衛十四郎は斬って(殺さず)東千代之介を失明にする顛末にひとつの結びを入れて終わることに致しましょう。見えにくいのは近衛の実際の年齢が既にそれなりに上のため見た目に役の年齢がわからないこともあって娘との間柄が浮かんできませんが、そこはそれほど明確にする必要はなく目が見えないことで一歩も二歩も引いたところで娘を眩しく見つめていてその崇めるような距離に割り込んでより実際的な男女の関係に(無理矢理でも)開こうとする東を危険と思いつつ何とはなく彼と自分を重ねてもいるということでしょう。そうだけに失明という自分と同じ境遇に東を落とすというのは折り返した自己像ではありますが、見ることのない自分の姿と思えば何かしら(結末にこの亡者がさ迷うようなざらついた乾きに)地獄絵を思わせてさてもそこに映るはこの国のどんな姿か。

 

 

 

古澤憲吾 『ニッポン無責任野郎』 植木等

 

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大西秀明 『悪坊主侠客伝』 近衛十四郎

 

 

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