絵沢萠子 Moeko_Ezawa
 

いまほど気楽に日活ロマンポルノを見られる年齢でもありませんから彼女の映画人生を潤す前半を欠いたまま、絵沢萠子の名前が渦巻くように私の体の内側を吹き上がっていったのは伊丹十三監督『マルサの女(1987年)です。宮本信子が税務署職員から国税局査察部に転身しながらラブホテルの経営を抜け穴に政界、暴力団とも結びついて組織的な脱税を行う山崎努と渡り合いますが、相手を理解するうちその人間的な輪郭に親密さを感じつつ再び犯罪者という確固とした抽象的存在に差し戻すその狭間にヒロインの葛藤もあります。やがて大掛かりな査察が各所に点在する金の隠し場所、経由先、洗浄者に踏み込むと如何にも色恋の仲はとっくに終わっていて言わばその腐れ縁に欲得の信頼を置いて山崎から金の保管を任されている色年増が絵沢萠子です。抜き打ちでしかも考え抜かれ調べ尽くされた局員の迅速さに為す術もなく黙って身ぐるみ剥がれる口惜しさにひとり大広間に仁王立ちになると服を掻き毟って素っ裸になるやここも調べろ、どうだと大股開きに寝転びます。伊丹十三の映画は(まあ面白いんですが)如何にも80年代ミニコミ誌のカタログ的な映画にあってこの一瞬開けてくる見世物的な高揚感こそ絵沢の真骨頂でありながら、強制捜査に付きものの一挿話に落とし込む伊丹のスタイルの限界も見えてきます。ひゅるひゅると甲高く上がるその声は単純に色気というにはやや皺んだ革袋を思わせる張りの抜け具合でいまさら若い子と張り合ってもと嘯きつつまだまだ女を捨てていない意地を滲ませて、それを疎んじられて男に踵で隅に追いやられる、そういう一切合切を立ち姿に映して絵沢萠子でしょう。足というか意識がもつれる女の生きてきた足どりすら感じさせて、体をちりぢりに振りほどき狂おしく振り立ててはよろけますが、改めてみる絵沢の身体には乱れて尚それを抑制する拍子が息づいています。思い出すのは加東大介や最近では田中泯のような踊りの名手たちの身体で、柔らかく足裏で自分の所在を踏みしめるひと足ひと足から体が立ち上がってきて臍噛み締める女を演じて絵沢もまた見えざる踊りの身体を撓わせます。

 

 

 

芳醇な香りのフィルモグラフィーをざっと紐解いても神代辰巳監督濡れた唇』を皮切りに『官能教室 愛のテクニック』、『(秘)女郎責め地獄』、『昭和おんなみち 裸性門』、『濡れた欲情 特出し21人』、『SEXハイウェイ 女の駐車場』、『主婦体験レポート おんなの四畳半』、『新宿乱れ街 いくまで待って』、『女教師』、『人妻集団暴行致死事件』... 改めてあれにもこれにも絵沢の姿が陽炎のように微笑んでいて、私は映画を突っ走っているつもりでただ絵沢萠子を追いかけていたのではないか、まるでホテルの窓から徒に向けたライフルの照準器に遙か彼方からこちらを見据える絵沢の瞳に射貫かれたかのようにたじろぎます。例えば神代辰巳監督『四畳半襖の裏張り1973年)は待合のひと夜を物語の時間軸にしつつ如何にも世の中の掃き溜めに腰まで沈んで生きている旦那が江角英明、忘れがたい床の仕草が口づてに彼を執心させている枕芸者が宮下順子で望み叶って彼女との夜を写しますが、宮下と合わせ鏡に置かれてお茶を引く毎日を嫉妬とじりじり焼け焦がれる無聊に身を震わせているのが絵沢です。米騒動からシベリア出兵に至る明確な目的もないまま中心へけだるく渦を巻くような大正時代にあって生きあぐねては待合の蚊帳の薄暗さに閉じ籠もった男女の生き様は取り立てた喜劇性もないのに微笑を誘います。とりわけ絵沢はあがけばあがくほど渋皮ばかりになっていく面の皮に旦那どころか内子にまで愛想を尽かされてあとは自分の頭の上の蠅を追うばかりの結末。ロマンポルノに出演したときですでに三十を越えていた以上、若い女優の対角に置かれて何にせよ自分自身を持て余しては駒のように廻って最後はことりと転がる役どころです。小沼勝監督『大江戸(秘)おんな医者あらし(1975年)では御法度の堕胎出術を陰で行う女医者ですが水子の出生を辛くも生き抜けた二枚目の弟子をツバメに大年増の鼻の穴を膨らませています。それが案の定患者でやって来た若い片桐夕子に抑えていた諸々の野心を疼かせると一枚上手の片桐は案外世擦れたところのない絵沢をあっさり出し抜いて二枚目を奪い取ります。裏稼業も露見して江戸所払いになる絵沢が役人と下役に追い立てられていくのを見送る二枚目には(ややげっぷの出る毎日ではあれ)それはそれで中年女の切羽詰まった、それだけ裏表のない情だったことが映ります。

 

 

 

 

今回絵沢の経歴に目を通して虚を突かれたのは彼女がくるみ座に在籍していたことで、名前こそ児童劇団のような丸まり方ですが岸田国士が佐藤春夫の詩から名づけた毛利菊枝主催の京都の劇団です。毛利は東映時代劇では家柄や婦道のような重い大義に畏まって揺るがない陰のような役どころで樫の木のような堅い古風さを思わせますが、くるみ座は不条理劇もこなす関西演劇の雄。もともと岩田豊雄が昭和4年に結成した喜劇座を初舞台に、以降は岸田国士の許で女優を続けますがやむなく京都に移住することになって、やがて戦争。戦後に旧知だった北村英三が復員してきて彼の教え子だった沼田曜一と三人して手探りに始めたのがくるみ座の原型です。(確か丹波哲郎だったか、新東宝随一の芝居に沼田の名前を挙げてしかしあの偏屈さが道を狭めたと呟いていましたが、本人にすれば芸術志向の切り立った志に役者で喰っていく現実を呑み込んだとすればおいそれとは覗いてほしくない胸のうちではありましょう... )新劇の養成所はどこもそうですがくるみ座も毛利の稽古の厳しさが響き渡って、どうあれそれを潜って絵沢萠子ということです。最後に映画をその肌に映して凋落する70年代を叱咤し続けた絵沢萠子の女の花道にピンスポットを当てる思いで私は大和屋竺監督『欲の罠(1973年)を挙げましょう。如何にも具流八郎的な、虚空に吊り上げられた殺し屋の運命を追いながら謎めく(というか一貫性や辻褄を故意に切り落として)絵沢萠子が物語にその裸身を絡ませます。殺し屋は荒戸源次郎、絵沢を愛人になかなか生活感のある所帯を持っていますが、無事に終えたはずの殺しのヤマが何か見えない切迫感で自分を追いかけてきて、絵沢が裏切ったことを悟って射殺しますが死んだはずの彼女を見たことで自分がいまあるところから確かさが奪い去られます。以降荒戸は呑み込めない現実に呑み込まれながら、それが現実である保証は見えざる殺し屋が自分を追い続けていてまるで未来(にこの今が過去となるそ)の痕跡を消すかのように荒戸と関わる女という女を殺していきます。不確定の現在を重ねつつ荒戸が向かっているのはこの物語の始まりであり、それに辿り着くことは未来もなく過去もなくなって名づけようのない一点に立つことであってそんなときに永遠に追憶される女こそ絵沢萠子ということでしょう。

 

 

大和屋竺監督『愛欲の罠』 絵沢萠子

 

 
 

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