鎌倉散策 五代執権北条時頼 四、寺社勢力 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 平安末期から相次いで行われる寺社の強訴に対しての問題が浮上していた。平家も南都焼き討ちに対しての世情の批評が滅亡を強めたとも言える。これら強訴は現実的には、南北朝時代まで続く事になり、後には江戸期まで続く一揆にも形態を変えて寺社勢力が存在する諸問題としてあげられる。北条泰時や時頼は、仏教に対し信仰信が強く、この時期には鎌倉新仏教が旺盛していくのであるが、その対応に苦戦しながらも鎮静化をもたらした。

 頼朝の時代から常に寺社仏閣問題が浮上しており、建久二年(1191)に頼朝の父・源義朝の頃から普代の従臣であった佐々木氏と延暦寺との宿命的な紛争が起きている。佐々木信綱の父・兄の定綱・定重親子が佐々木荘で千僧供養の貢納を巡り延暦寺との争いが生じた。延暦寺は配下の日吉社の宮仕え法師を定綱邸に乱入させ、これを次男の定重が刃傷して、神鏡を破損させてしまった。延暦寺は強訴を行い、定綱は薩摩、定重は近江の唐崎で延暦寺の宗徒により梟首せられ、定重の兄弟広綱・(綱広)・定鷹に至るまで隠岐・土佐に遠流となる。延暦寺側は何の咎めもなく、頼朝は、佐々木氏を助けるために定綱の知行所の半分を延暦寺に寄進すると言い、延暦寺の使者に馬ニ疋・染絹三十反を与えて、懐柔しようとしたが失敗に終わった。

 

(奈良 興福寺)

『吾妻鏡』安貞二年(1227)四月二十七日条、に「京都の飛脚が(鎌倉に)到着した。去る十七日に南都(興福寺の宗徒が争うように多武峰(奈良県桜井市にある多武峰寺の事で、現、談山神社。藤原鎌足を祀り、比叡山延暦寺の末寺であった。)を襲撃して合戦・放火に及び、山門(延暦寺)が憤って蜂起し、洛中は静まらなかったと言う。四月二十五日にも(興福寺)の悪僧らが再び多武峰を焼き払い、山門(延暦寺)も蜂起し、朝廷は頻りに(山門を)宥めた。しかし、「先月十七日・同二十五日の二度にわたり、南都(興福寺)の宗徒が多武峰を襲って合戦となり、堂舎塔廊が火災となった事について、朝廷が取り成されましたが、山門(延暦寺)は蜂起してまだ静まっていないので、綸旨が武家に下されました」と、同年五月二十二日条、鎌倉に伝えられたと記している。また、同年十一月、北条泰時は、六波羅に「高野山僧徒の兵仗を禁ず」と命じて使者を派遣し、大塔の庭で兵具を焼却させ、その後も洛中の治安維持のため、寛喜二年(1230)四月二十七日に、京都では「近日法師の兵具禁制」に六波羅探題が悪僧多数を捕らえて、鎌倉に送った。このように兵仗禁止は、しばしば厳命されており、『明月記』にも「悪党の手める者は、兵具を帯じて安堵し、貧しき法師のみ遠行の仁にあたるか」と僧徒を酷評している。

 寛憙元年(1229)三月二十三日、時氏の配下である三善為清(壱岐左衛門尉)が借金の返済を巡って貸主の日吉二宮社の僧侶を殺害する事件が起こった。その際に両者の従者も争いとなり、為清の従者も殺害される。日吉社の本所である延暦寺が時氏に為清の引き渡しを求めるが、六波羅探題方は日吉社に為清従者殺害の下手人の引き渡しを求め、延暦寺側僧兵と六波羅探題の武士との間で衝突する騒ぎとなった。延暦寺の天台座主であった尊性法親王は、事態の収拾に責任が持てないとして座主を辞任する。北条泰時は朝廷に事件にかかわった三善為清の配流を朝廷に申し入れようとするが、時氏はこれに激しく抵抗した。結局為清人同僚一人が日向に配流となり、日吉社の責任は問われなかった。

 

(奈良 春日大社)

 嘉禎元年(1235)五月には、石清水領山城の国薪庄(たきぎのしょう)と興福寺領同国大住庄住人の用水相論が起こる。この時に薪庄の荘民が大住庄の荘民を殺害したため、興福寺衆徒は薪庄を焼き払い石清水の神人を殺害した。翌閏六月に石清水は神輿を奉じて訴え上洛しようとした。朝廷は、伊賀国大内荘・因幡の国を石清水に寄進して、強訴を抑えようとする。幕府はこの対応において石清水の神人を縛め、さらに朝廷に「石清水のように無動の濫訴によって、不当に神領を与えたならば、諸寺の僧兵達も甘く見て濫行が絶えない。今後神輿を動かすような事があれば、石清水の別当を罷免されたい」と奏上した。しかし、この年の十二月に再び石清水の所司が春日神社の神人と衝突する。興福寺・春日大社は藤原氏の氏寺、氏社であり、両者は一体となっていた。石清水側の片野宗成が春日社の神人を殺害する。興福寺の僧兵は、強訴に行う上で春日社の神意である神木を担いで上洛した。その要求事項は、「石清水別当宗清および権別当棟清を遠流に処し,宗成を禁獄し、薪庄を興福寺に寄せられよ」というものであった。これに対し朝廷は六波羅の武士を派遣して鎮静化を計る。宇治川で両者が対峙した。幕府は宗成を禁獄して双方の申し状を糾明し、「石清水の因幡国の知行を停止するように計らが、それでも僧兵達が静まらねば、勅命に背いたのであるから武士を遣わして鎮定する」と興福寺に伝える。そして「一旦命を奉じて出陣した以上、敵を殺し、首を鉾にかけるのが武士の本懐である。然るにせっかく努力して僧兵を討っても、かえって神仏に抵抗したとして咎めを蒙る事が少なくなかった。これでは僧兵は益々勝ちに乗ずるし、武士もやりきれない。故に今後は、武士に過失があっても、罪を問わぬように計らいたい。近年僧兵が蜂起すると、それを鎮める弥縫(びほう)策として、僧兵の要求を容れて色々の人を処罰し、一方蜂起した僧兵の張本人の処罰は何時もいい加減になっている。これでは悪僧の跳梁(ちょうりょう)は止まないし、正しい政治も行えないから、今後は断乎として悪僧を戒めたい」と申し送っている。さらに嘉禎二年二月、評定衆後藤基綱が上洛し、兵を率いて木津河に至り、幕命を僧兵達に伝えると、僧兵も幕府を恐れ、事態は解決した。『明月記』の藤原定家も「喧嘩闘掾ある毎に人領社領となる。末世の習いなり」と、石清水神人を留意するための朝廷の神領寄進を嘆いている。

 

(京都 石清水八幡宮)

 朝廷は興福寺に石清水別当棟清の解任を約束するが、果たされなかったため、同年七月に興福寺僧兵は再び蜂起した。再び、後藤基綱が上洛し、武士達が奈良海道の関を守り、衆徒に備えた。興福寺も武士が乱入すれば一同焼死すべしと築城し、戦備を整えた。これに対して幕府は、従来守護がいなかった大和に初めて守護を置き、幕府に通じていた奈良の僧降円に興福寺の所領を調査させた上、それらの庄園を没収して地頭を設置した。畿内各国の御家人に命じて奈良に通じる道を抑え、諸人の出入りを塞ぎ、糧道を完全に立ってしまった。この処置に対し興福寺側が糧食に窮して、「理訴を以って先とし、問答を以って詮とする」(『中臣祐定記』)として退散した。幕府も守護・地頭を停廃し宗清は軽罪に処するよう朝廷に奏上したため、興福寺側も直ちに張本を召し出すように申し入れ、もし調本が逃走したならば宣旨を下して捉え、張本人の後には地頭を設置することを興福寺に伝えている。また、承久の乱の張本の藤原秀康の子息を匿い、山辺荘を掠領していた東大寺別当頼暁を止めさせ降円を後任とし、諸寺院の動静を監視させ、結束を乱す事が来た。

 この時代の荘園による新しい現象が検出され、僧や神人が荘園預・雑掌なり、地頭と対抗しつつ庄園経営の専従者となる。そして寺社の権威を笠に狼藉を働くのである。彼らの中には農民を支配し、地頭を凌ぐ者も現れ、荘園領主たる寺社から独立して庄園を実力支配する者も現れた。さらに貨幣経済の導入により商業がさらに発達した結果、僧徒人の中に高利貸しとなり、同時にを兼ねて御家人を脅かすものも現れた。なかでも叡山の僧はそれが著しく、幕府が山僧を地頭台や預かりどころに任命するのを禁じている。また泰時は、嘉禎年間に起きた寺社の強訴を受けて、興福寺領に守護・地頭を置き鎮静化させたが、さらなる強訴の拡大を避けるために永続化はしていない。しかしこの寺社の対応が室町期において先例となっている。

 

 北条泰時は、僧侶の生活を保障する代わりに聖職者としての本文を守ることを求めたが、現実の僧の多くは破戒僧であった。承久の乱の結果、院が実質的機能の消失により寺社勢力の断行に成功した。頼朝以降の懸案を解決し、幕府の実権を示したのである。評定により、双方を糾弾し道理の通った解決を貫徹したのである。その評定の基本とされる法的整備が進められ、泰時の貞永の式目(御成敗式目)においても第一条では関東分国及び庄園において、地頭・神主が祭祀の礼奠(れいてん)をつくし社塔の修理を全うすべし、第二条、寺塔の修理・仏事の勤行を勤める。寺社領に対する保護は言うまでもない。しかし泰時の寺社に対する保護は寺社の統制と兵装の禁止を伴った。当時の寺社は荘園領主でありながら、神人・僧兵なる武装組織を持ち、不十分ながら独自の制度を持つ小国家的存在であった。五代執権北条時頼は、養育された祖父泰時の思想を継承し、仏教信仰にも強く帰依していった。鎌倉新仏教創設の過程であったと言える。  ―続く

 

(奈良 東大寺)