私の居住する鎌倉の山崎は、この洲崎の一部で、「洲崎古戦場跡碑」まで徒歩で二十分ほどである。現在の台峰緑地や鎌倉中央公園周辺が幕府軍の要衝の跡地だった。今も急斜面やその傾斜の多くで雑木林が立ち並び当時を物語る。第十巻八、鎌倉合戦の事では、新田義貞の鎌倉攻が記載されており、前回に続いて現代訳で記載させていただく。鎌倉幕府最期の執権である赤橋相模守盛時(守時)が洲崎で、切腹してこれを見ていた南条左衛門尉の様子からつづける。
(鎌倉 洲崎古戦場碑 台峰から見た富士山)
「…・南条左衛門尉は、これを見て、『大将すでにご自害ある上は、兵は誰のために命を惜しんで陣を去ることが出来ようか』と言って、続いて腹を切ると、その配下にあった兵たちも次々に着物を肌脱ぎにして上半身裸になり、三百八十余人皆自害して、伏した上に重なる様に臥した。そうして十八日の夜に、洲崎が敗れて源氏の軍勢は山内まで早々に攻め入った。本間山城左衛門は、長年の間、大仏陸奥守貞直の恩顧の者であったが、その頃、勘気に触れて勘当されており、自身の宿所に謹慎していた。十九日の早朝に、極楽寺の切通の戦いが激しく、敵がすでに攻め入ったと鎌倉中に騒ぎが起きる。本間山城左衛門は、身分の低い若い家来と極楽寺坂へ馳せ向かった。敵の大舘次郎宗氏(新田氏の支族)が三百余騎にて控えていた軍勢の中に駆け入り、脇見もせず必死に攻め戦う。前もって覚悟していた捨てる命なら、敵が大軍であっても、どうして少しでもひるむ事があろうか。ただ敵の大将に近づく事が最後の目標にして、敵陣を破っては通り、敵兵を取っては返して駆け入り、ここで最善をつくして戦うと、官軍の寄り手は腰越まで引いていった。この間に大舘次郎宗氏と本間の郎党に組入って戦い刺し違えて海岸の砂の上に臥す。本間は、首を取って太刀の鉾先に差して貞直の陣に駆けつけ、陣幕の前にかしこまって申すには、『多年の奉公の御恩、この一戦を持って報じ奉り候。但し、お怒りを受けたままで死ぬならば、死後迄の妄念となるだろうと思われます。今はお許しを得て、心穏やかにあの世に行きたいと存じます』と申して、流れる涙を袖に押さえ、腹を掻き切って死んでしまった。これを感嘆しない人はいなかった。
(鎌倉稲村ケ崎 夜の長谷寺から見た稲村ケ崎)
極楽寺へ向かった大舘次郎宗氏が討たれて、兵は、肩瀬・腰越まで引き退いたと聞いた新田義貞は二万余騎を率いて、二十一日の夜半に、肩瀬・腰越を討ち廻って、極楽寺坂に打ち臨んだ。開け行く月に、平家の陣を見れば、北は切通で、山高く道が険しく、城柵を結い、垣の様に立てを並べ、数万騎の兵が陣を並べて兵が並び立っていた。南は稲村ケ崎で、道は狭く波打ち際まで棘のある木の枝で作った防御の柵を掛けていた。沖に四・五町の程、大船を並べ、軍船の上に櫓を作り、側面から射る矢を用意していた。いかにもこの陣での合戦には、寄せ手は叶わず、敗退したのも当然であると思った。義貞は午より下りて、甲をぬいで、海上の方を伏し拝み、龍人に向かって髪に誓いを立てて祈った。「伝へ承る、日本の国土創造の主伊勢天照大神は、神の本体を大日如来お姿の中に隠し、変化神を青海原の竜神と現じられた。大神の子孫たる後醍醐天皇が逆心北条氏によって隠岐に流された。義貞は、今は臣として道を尽くさんがために、天子が逆賊の誅伐の将軍に賜うる斧とまさかりを以て敵陣に臨む。その志は、ひとえに王の徳化を助けて、人民を平安ならしめる事である。仰ぎ願わくば、全ての海に住む竜神と仏法守護の八武衆よ、臣の忠誠を鑑みて、朝敵を万里の果てまで退け、道を自軍の三軍に開いていただきたい」と、信心をこらして祈念をして、自ら帯き副えた金細工で作った太刀を解いて、海底に沈められた。
本当に竜神八部衆が納めうけられたように、その日の月の入り方にこれまで決して干上がらなかった稲村ケ崎が、二十四町干上がり、平らな砂浜が広々と広がった。側面から矢を射ようと用意していた数千の兵船も、潮が引くにつれてはるか沖に漂う。『後漢の武帝に仕えた弐師将軍は、城中に水が尽きた時、自ら帯き副えた太刀を抜いて、岩石を刺すと水が湧き出した。我が国の神功皇后は、新羅を攻められた時、自ら干珠(かんじゅ:海中に投げ入れると潮を引かせる霊力を持つと言われる珠)を取って、海に投げ入れられると潮が遠く退き、戦いに勝った。これを皆和漢の良き例として、今回の瑞兆もそれと一致する。進め兵(つわもの)ども』と指図すると、江田、大舘、里見、鳥山の人々を始めとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢どもも、一緒になって稲村ケ崎の遠干潟を一文字に懸け通り、鎌倉中へ乱れ入った。平家数万の兵は挟み撃ちとなり、後ろに回った敵に懸かろうとすると、前からの敵が後に付いて攻め入ろうとした。進みも引くも出来ず、逃げ延びるために東西に心を迷わせた。
(新田義貞像 成就寺から見た由比ヶ浜)
島津四郎は、怪力が有名で、実に能力と風采に優れ、幕府の一大事の時に頼れる者であった。長崎入道(長崎円喜)の烏帽子子にして一人で千人に当たる勇士とされ、鎌倉の出入りする七口に向けられず、相模入道(北条高時)殿の館の辺りに留め置かれた。浜の軍勢が破られ、源氏は、すでに若宮小路まで攻め入ったと聞いて騒いでいると、相模入道は、島津四郎を呼んで自ら酌を取って酒を進められて、既に三度傾けられた時、厩に立てかけられた坂東一の無双の名馬があり、銀で縁取りされた鞍らを置いて引かれて来た。人はこれを見て羨ましいと言わない者はいなかった。門前よりこの馬に乗って、由比の浜ノ浜風に袖につけた大笠しるしの布を吹き流し、周囲を威圧して堂々と向かうと、数万の軍勢がこれを見て、実に一人当千と思えた。この間に長崎入道は厚い恩顧を与えて、傍若無人に振る舞いさせたのは、このように理由であったと思わぬ人はいなかった。源氏の兵は、これを見て、強敵であると思い、栗生、篠塚、畑以下の若者どもがわれ先に組懸かろうとして馬を進めて近づいた。両方名高い怪力の持ち主どもで、一対一の勝負を決しようとするのを見て、敵味方の兵たちはかたずを飲んでこれを見ていると、まじかに寄った島津は馬より下りて、甲をぬいで降人になり源氏の軍に加わった。貴賤上下の人々はこれを見て。憎まぬ者はいなかった。
これを降人の初めとして、長年重恩を受けた家来、あるいは代々仕えてきた家来たち、親を離れ、主を捨てて、降人になり、敵方に加わるのは源平天下の争いごとで、今に見た物ではない。由比ヶ浜に面した民家、稲生川の東西に火を掛けられると、折しも、浜風は激しく吹いて、車の輪のような炎となって黒煙のなかに飛び去り、十町、二十町が外につくと猛火の中に源氏の兵が乱れ入った。逃げ場の亡くなった敵をここかしこに射伏せ、斬り伏せ、炎に迷う女、童が追い立てられて火の中、堀の中とも言わずに、逃げ倒れる有様は、修羅の如く、地獄で天帝に裁きを受けた罪人が牛頭馬頭の鬼に責めさいなまれて、煮えたぎる溶けた鉄の湯に陥るように思われた。燃え広がる炎は四方より吹き掛かり、相模入道の館近くに燃え広がると、相模入道は一千余騎にて葛西谷(かさいやつ:宝戒寺の東南)の東勝寺へ引き籠る。父祖代々の墳墓の地であり、兵どもに防ぎ矢を射させて、心静かに自害の地とした。」。
■ 『太平記』では、後醍醐天皇が正中の変を起こす際に、夢枕にそれを助ける楠木正成が現れ、正成を知った事や、新田義貞の稲村ケ崎での宝剣により回路が開いたと言う神事が入る事が他の戦記物語りには見られない特徴でもある。 ―続くー